https://hosyusokuhou.jp/archives/48918313.html
うわー、ポプラ社がこんなものを・・・(;゚Д゚)
朝鮮に徴用が適用されたのは、昭和19年9月ですから、佐渡金山で徴用された朝鮮人が働いていたのは1年もありません。
衣食住も配慮しましたし、給与の未払いというのも清算が終わる前に帰国したからでしょう。
また、総連の前身組織が我々が代理になると、日本企業から未払い給与を預かって着服したことも忘れてはなりません。
> 被殺傷者数200人という事案がありますが、群衆の乱闘に巻き込まれたものです。
「大島町付近人民カ鮮人ヨリ危害ヲ受ケントスル際救援隊トシテ野重一(野戦重砲兵第一連隊)ノニI少尉来着シ騎十四ノM少尉ト遇々会合シ共ニ朝鮮人ヲ包囲セントスルニ群衆及警官四五十名約二百名の鮮人団を率ヰ来リ其ノ始末協議中騎兵卒三名カ鮮人首領三名を銃把ヲ以テ殴打セルヲ動機トシ鮮人ハ群衆及警官ト争闘ヲ起シ軍隊ハ之ヲ防止セントシカ鮮人ハ全部殺害セラレタリ」
「野重一ノニ将校以下六十九名ハ兵器ヲ携帯せス」
理系は理系で問題があり、文系は文系で問題があり・・・困った。(^▽^;)
韓国人があさってのことばかりいうのは、理系の素養が無い人が多いからでしょうな。
ぎよみどんさんが、理系エリートがオウム真理教に取り込まれたりアポロ月面着陸捏造論を言い立てたりするのに対して文系脳での監視が必要と言っていたのと逆方向の話になりますが、物を論じるには観察事実に基づいて論立てしろという、理系なら基本であるそれだけの事が分からない海外反日左翼のなんと多い事かと感じたり…
日本の人文社会系もそこまで酷いからおかしな奴が沢山いる感じになるのかなあとか…って、文系学者がみんなそんな感じというには、まともな感じの人もネットでそれなりに見る訳ですけど。
>二之葉 @ninoalc
>若い頃、人文社会系に大学院に行った友人知人から「理系は実験結果とかで先生に反論出来るだけ良いよ、文系だとヒエラルキーだけで議論進むから辛い。」と時々言われた。
>
>オープンレター騒ぎ見てると、ホンマその通りだなぁと思う。
>午前8:18 ? 2022年1月22日
>https://twitter.com/ninoalc/status/1484666733122420742
第一師団隷下の騎兵第二旅団は、騎兵第十五連隊主力は当初東京南部に出動した後、翌三日に神奈川警備隊(歩兵第五七連隊基幹)へ編入されて横浜市に進出しており(九日、一個中隊を藤沢方面に派遣)、青山に本部を置くとしたら騎兵第十六連隊であり、当初亀戸に出動した騎兵第十四連隊でないことは明らかである。
仮に騎兵第十六連隊の所属だとしても、同連隊の主力は横浜・藤沢方面へは派遣されていない。
更に、神奈川県相模川より西の国府津、小田原を含む地域を受け持ったのは小田原警備隊(野戦重砲第一旅団の一個連隊)であり、上級部隊は第三師団であり、近衛師団でも第一師団でもない。
越中谷の所属先がどこか、本文からは不明であるが、彼の著述には、複数の部隊の行動が並列して記述されている。この著述内容全体が創作ではないかという疑念が生じる。
「列車改め」や「朝鮮人狩り」も信用できるか分からない。
『歴史の真実―関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、一九七五年)に越中谷利一(本名か筆名か不明)が「関東大震災の思い出」を書いている。
当時、習志野の騎兵部隊に所属していたと称する越中谷は「体験」を記している。
「・・・千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ飛ばしにぶっ飛ばしたのである。亀戸に到着したのが午後の二時頃だった・・・連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車内外を調べて回った。・・・その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れて行った。・・・ぼくたちの連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。・・・連隊はその後、青山の陸軍大学に本部を置いて、昼夜の別なき戒厳令勤務に服すこととなった。行動地域は、玉川、六郷、横浜から藤沢、国府津、小田原まで及んだ」
亀戸駅に騎兵第十四連隊が出動したのは、史実のようである。だが、越中谷の連隊は、本部を青山の陸大に置いたとされている。一日付の衛戍司令官から発せられた非常警備に関する命令による境界は甲武線、新宿―四谷見附―赤坂見附―虎ノ門―日比谷公園―永代橋―両国橋―両国停車場―総武本線であり、三日午後四時における戒北命第一号東京北部警備命令でも、亀戸以東総武本線―本所緑町―両国橋ー本石町―東京駅―日比谷公園北端―宮城―麹町通―塩道通―新宿駅―甲武及青梅線及び以北の東京府は近衛師団(東京北警備隊)の、それより南が騎兵第一六連隊を含む第一師団(東京南警備隊)の担当区域である。青山は第一師団の担当区域である。
同地点にいた歩兵部隊は近衛歩兵第一連隊である。
筆者(安江)が震災時に四ツ木橋付近で任務に従事していた近衛歩兵第一連隊の伍長勤務上等兵(当時)増間八十太郎に問い合わせ、次のような回答を得た。
「連隊の中に機関銃中隊があり外に各中隊に軽機関銃(十一式軽機関銃)が配置 私は其の係りでした
震災当時特別に機関銃の配置はなし 四ツ木橋附近には騎兵隊憲兵等はみた
朝鮮人が井戸や飲料水に毒を流したとかの流言が専らでした(現地人から)
実包の使用なし
銃剣従来のままで特に別加工はなかった
四ツ木橋西詰には震災警備所が設けられ 私は其処の警備勤務に従事した 通行人の警戒監視
四ツ木橋西詰へは撲殺された朝鮮人の遺体が遺棄せられ眼球の抉り出された者睾丸の踏みつぶされた者等実に悲惨であった 朝鮮人が飲水に毒を流す等流言ひ語が一杯で住民はせんせん恐々であった(以下略)」
四ツ木橋事案の真相を明らかにするには、現場付近の荒川河川敷に埋められたとする朝鮮人の遺骨が発見されなければならない。だが関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、実際に現地での遺骨の発掘を試みたものの、全く発見できなかった。
四ツ木橋で機関銃が使用されたという目撃談には反証があり、遺骨という物的証拠も発見されていないので、四ツ木橋事案が史実だと信ずるに足る材料は、現在のところ存在しない。
「目撃談」もいいかげんです。
「四ツ木橋じゃ習志野の騎兵でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血で真っ黒になっていました」(高田〈仮名〉)
「二二、三人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ツ木橋の下流の土手だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。一丁か二丁の機関銃であっというまに殺した」(大川〈仮名〉)
1992年発行の『風よ、鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』に、なんで仮名を使う必要があるのか。
同地点に入った騎兵部隊は騎兵第十三連隊だが、徒歩編成である。騎兵部隊が装備していたのは三年式機関銃だが、55.4㎏あり、通常は駄載で運搬する。震災時に人力で搬送するだろうか。
> それにしても、合計254人というのは、単発的な兵士の犯罪が積み重なった感じの数字ですね。
関与者の人数のほとんどが1~5人で、被殺傷者数も似たようなものです。
行動不審な朝鮮人が「橋梁爆破を企てるものなりと推測される」ので発砲したとか、朝鮮人を旅団司令部に引き渡すための道中で、銃を奪われそうになり、発砲したといったものです。
被殺傷者数200人という事案がありますが、群衆の乱闘に巻き込まれたものです。