序文

1982年、国際捕鯨委員会(IWC)は、商業捕鯨の一時的全面禁止(モラトリアム)を 採択した。 この多数決による決定は、充分な科学的証拠を根拠としたものではなく、様々な 鯨類資源の状態に関して不確実性があるとの認識に基づいたものであった。

 日本は国際捕鯨取締条約のもとで保証された権利に基づいて異議申し立てを行い、 この決定の受諾を拒否した。 その論拠は、南氷洋ミンククジラの棲息個体数は非常に多く、モラトリアムに含める 意味はないことであった。 しかし、1986年 7月、米国が P/M法(パックウッド・マグナソン漁業保護法修正により 米国 200海里内の外国漁業入漁規則及び禁止措置)制裁措置を加えるとの威嚇の前に、 日本は受け入れを余儀なくされ、1987年 5月以降、南氷洋をはじめ全ての捕鯨を 一時的に停止すると発表した。

 最後の商業捕鯨船団が南極から帰還した時、私は日本第二の新聞、朝日新聞社の ビルで記者として働いていた。 この大新聞社の一階ロビーは絵画や写真などの展示品で常ににぎわっていた。 たいていの場合、これらの展示物は単に彼らの審美的表現に過ぎないものであったが、 時には政治的意見を表しているものもあった。 折しもこの時の展示品は後者のもののようであり、私はその政治的意見が気に入ら なかった。

 ある写真家が捕鯨者たちの最後となるかもしれぬ航海に加わり、レンズ越しに 作業中の捕鯨者たちの切々たる様子をとらえていた。 おそらく一つの時代が終わったとの思いからであろう、朝日新聞社はその作品の展示を 決めたようである。 (意図的であるのかどうか調べたわけではないが)私が解釈した限りの作品の 雰囲気は、生活の拠り所を失った者に村する同情と嘆きが入り混じったものであった。

 世間の大半の人と同様に、私も社会に対して高い理想をもつことはあっても行動に 表すことはまずないエゴイストであった。 この展示があった時、私も31年間生きてきてはいたが、デモに参加した経験も なければ、政治家に手紙を書いたこともなく、慈善事業に寄付した総額は硬貨数枚で あった。 それも、募金箱を顔の前でわざとらしくじゃらじゃらされたものだからやっと払った 金であった。

 私はその朝、写真の展示場を通り抜けながら、行動の時は今をおいて他にないと 悟った。 また同時に止めるなら今をおいて他になかった。 何かもっともな言い訳はないものかと頭をひねってはみたが、なにもみつから なかった。 例え行動に出したところで、労力を必要とするわけでも、スケジュール調整を迫られる わけでもなく、また金も時間もかからない。 私は意を決した。 私は紙とペンをつかむと、「血生臭い捕鯨はやめろ。」と殴り書きした。 (私がその時、展示品の題材となっているこの捕鯨が実はもうとっくに終わっていた などということは思いもしなかった。) 私は会社の複写機で(出費はもちろんゼロ)コピーを 10部ほど取り、本件に関する私の 使命感溢れる感想文をロビーの各所に張り出した。

 この最も充実した時間が崩れ落ち、人生のまぼろしとなったのはその時であった。 カナダ人の同僚が私の行動をながめていた。 そして軽蔑の表情を隠そうともせず私の方に歩み寄った。

彼女は私に訊いた。
「あなた、日本がどんな鯨を捕獲したがっているか知ってるの。」
「手当たり次第さ。」
私は淀みなく答えた。
「捕獲したあとその鯨はどうするの。」
私はペット・フードと化粧品がどうだこうだと呟いた。
「じゃあ、あなたはなぜ捕鯨は止めるべきだと思うの。」
「それは、絶滅しかかっているからにきまっているじゃないか。」
「あなた、鯨や捕鯨のことは何もわかってないのね。余計な口出しはしない方が いいわ。」
彼女はきめつけるようにそう言うと、私のポスターをはがしにかかった。

 頭をごつんとやられ、叩かれた理由がわからない飼い犬のような気持ちで、私は その場をはなれ、考え込んだ。 怠惰でわがままだが基本的には善人である世間の人同様に、私は何か価値的なことが したかったのである。 何でもよかったのだ。 しかし私がこの行動によって得たものはただの酷評だけだった。

 自分の殻に閉じこもり、価値的な大儀名分など生涯捨て去ることもできた。 しかし私は決めたのである。 どこが誤っていたかをみつけ、次回は万全の準備を整えようと。 そして、準備というのは正確な知識をもつことであると痛感した。

 ジャーナリストにとって事実の検証は第二の天性であると思う人もあるだろう。 私も勤務中はそれを金科玉条としていた。 だが、仕事の大半は経済、貿易、その他退屈なものばかりであった。 生活の糧を得るためにだけしていたこれらのことよりも、もっと身近な問題には かえって無知であった自分を不思議に思った。

 大目玉を食って数年後、最初は可能な範囲で捕鯨問題に関することなら何でも 調べることが私の日課となった。 この経験はまさに目から鱗が落ちる思いであった。 捕鯨を別の角度からとらえられるようになっただけでなく、私達が環境について 日常耳にすることのほとんどは疑惑をもって見るべきものであることを発見した。 何にでも表裏はつきものであるが、環境問題に限っていえば、これは不変的真実と いえそうだ。

 捕鯨問題が日本のモラトリアム受諾後も終わらなかったお陰で、この問題の本質を 知ることが容易になった。 1987年、政府は、一定数の鯨を標本として捕獲する南氷洋ミンククジラ調査への 資金援助を発表した。 加盟国政府のこうした研究への許可証の発給は、国際捕鯨委員会(IWC)の規約で 認められており、「商業」捕鯨に関するモラトリアムに違反するものではない。 これは日本が前例を設けるものではなかった。 反捕鯨運動の旗手米国でさえ、科学許可証のもとで鯨を捕獲したことがあったのである。

 しかし、その合法性にもかかわらず、日本の調査計画は各所から批判を招いた。 調査をなぜ行うかの理由を考えれば理解できないことでもない。 この調査計画は純粋に鯨類個体数に関する人々の知見を高めるために設けられたのでは ない。 期待されていることはむしろ、科学的情報をもとに、国際捕鯨委員会に商業捕鯨 一時的全面禁止の解除を迫ることにある。 要するに、純粋科学への興味がその動機ではなく、目的のための手段であるのだ。  科学許可証発行に関する論争は、二つの理由で、捕鯨問題を理解しようとする人々には 非常に有効だった。 ひとつは、これによって論争が今後も継続するからである。 そして次に、捕鯨問題に反対する諸勢力の区別が明確になったからである。 これらの各団体を区別する線は、正真正銘の鯨愛好家と、論争から利益を得る ペテン師達の間に引くことができる。 1970年代は、鯨類個体数の状態に関する知識が今日よりずっと乏しく、捕鯨反対者全員 が、「鯨を救え!」の合言葉のもとで容易に運動を進めることができた。 博愛主義的動機と利己的動機の区別はその当時ほとんど不可能であり、また誰もそれを 気にとめなかった。 いくつかの鯨類系統群の状態に関する憂慮からでた純粋な運動もあったが、反対運動 により巨額の資金をあつめ、それによって生活を成りたたせている者もいた。

 しかし、IWCのモラトリアム採択、そしてその後の日本のモラトリアム受諾によって、 活動家の多くは闘争の場を離れた。 彼らの勝利の意味は、鯨の種としての存続が確実になったことであり、鯨一頭一頭の 生存を確実にすることではなかった。 現在、商業捕獲割当てがふたたび議論されているが、彼らは闘争を再開しようとして いない。 何故か。それは、捕獲が慎重な管理の下で行われれば、南氷洋ミンククジラの存続に 脅威とはならないという科学的意見を全員が支持しているからである。 捕鯨反対組織で働く科学者でさえこの意見を支持している。 一方、他の活動家たちはこの闘争の場を離れ、さらに緊迫した問題にほこ先を向けた。 鯨を救うことは 1970年代の環境保護運動であったが、1980年代中頃になると降雨林を 護る闘いが完全に主流となっていた。

 したがって、今もなお闘いを継続している人々の素性を確認することは非常に 簡単である。 まず第一に、鯨のために断固闘い抜くという鯨愛好家であり、鯨が知性と感性において 人間と比肩しうると宗教的熱情を込めて信じている人たちである。 こういう人々にとっては、あらゆる捕鯨を永遠に禁止する国際協定が結ばれないかぎり 闘いは終わらないだろう。 これらの人々はどんな人たちなのか。 たいていの場合、自分が信じたいことを信じ、誠心誠意、反捕鯨組織に寄付をする 一般大衆である。 こういう人たちはまた、これらの組織の下部の運動家の中にもみられる。

 そしてその次が抗議によって自らを太らせる人たちである。 彼らの多くは1970年代の大きな環境保護団体にいた者で、鯨(およびアザラシ)を 救うことに事業的可能性を見いだし、そして自ら、「大きな寄付を引き付けるもの (l)」なら何でも「救う」事業に乗り出した訳である。 商業捕鯨の終了とともに他の大義名分が登場しその間隙をうめた。 そのひとつが流し網漁反対運動である。 これはチラシを「笑みをたたえた」イルカの写真で飾れるという、募金には うってつけの要素を含んでいた。 しかしやはり、鯨ほど人の関心をひきつけるものは他になかった。 日和見な募金活動者の中には、科学捕鯨によってこの問題が論議の対象であり続ける ことに陰で感謝を惜しまぬ者もいるのだ。 かつてより勢いは衰えたものの、かつての募金のドル箱がまだ生きていたのである。

 しかし、自由競争とはそういうものであるが、環境団体は小さくなった 「鯨のパイ」を分けあうことを嫌い、つかめるものは何でもつかめという姿勢を 取り始めた。 その最も多くをつかみ取った組織、つまり、その認識が正しいかどうかは別として 人々が鯨を救うための組織とみなしている組織がグリーンピースである。 彼らはただ誰よりも高らかにラッパを吹き、誰よりも大声でわめきちらすことによって 今日の名を揚げたのである。 しかし、真実を述べることには悲しいほどに興味を示さなかったようである。

 南氷洋ミンククジラは慎重な規制を行えば捕獲を維持するのに充分な個体数がある (最新の予想個体数は 76万頭)という科学的証拠は現在も強力である (その証拠は圧倒的という者もある)。 その結果、グリーンピースやその種の団体は、近年その戦略を変え、動物の生存権の 方向で運動を進めている。 要するに彼らは、捕鯨は非人道的であるから禁止されるべきだと言っているのである。

 いままでの約 20年間の抗議運動がそうであったように、多面的攻撃が時代の風潮に なっている。 環境保護運動の活動家たちはこのやり方でできるかぎり多くの階層の人々の同情を かおうとするのである。 ある人はひとつの理由で反対し、またある人は全く違う何かで反対してくれるからで ある。 ある人は人道的捕殺という問題のために資金提供しようと思うかもしれず、また ある人は鯨の絶滅を恐れるあまり寄付するかもしれない。 日本に何か恨みを抱いているから寄付をする人もあるかもしれないのだ。

 日本の調査研究計画に対する攻撃は、現在まで実質的にはふたつの方向からなされて きた。 ひとつは科学の価値そのものに疑いを投げかけること。 そしてもうひとつは調査そのものの目的を否定することであった。 具体的には、これらの非難は次のように定義することができる。

科学について

a)調査から得られた結果は、国際捕鯨委員会の科学委員会が近年開発した 鯨類資源管理方式と無関係なものである。 したがって、この調査は不要である。

そして(あるいは)

b)調査内容の設定が悪く、また調査自体がずさんである。その結果、この調査から 得られる報告書は国際的科学団体の中で評判が非常に悪い。

動機について

a)年間300頭あまりのミンククジラを捕獲する真の動機は科学でなく利益である。 この推論を支持する主な証拠は、標本からとった鯨肉が日本国内の消費用に販売されて いることである。

あるいは、

b)調査活動から得られる副産物の販売が儲かっているかどうかはともかくとしても、 その真の動機は長期的なものである。 それは商業捕鯨の再開を見越した捕鯨船団の保持である。 この考えを支持する主な証拠は、調査活動に用いられる船舶はかつての捕鯨船であり、 その乗組員はかつての捕鯨者たちであることだ。

 このレポートの主な目的は、後者の非難の支持に利用されうる証拠を検証することに ある。 このレポートは、日本が自己防衛のために、あるいは用いるべきであるかもしれない 反論を扱うことではない。 その理由は、それを取り扱おうとすれば、科学的価値および科学的目的と手段について 非常に綿密な調査が必要となるからである。 従って、このレポートが導く結論には限界があり、すべての問いに答えるものでは ない。 捕鯨問題は、日本の調査活動が実は表面を取り繕っただけの商業捕鯨であるか否か ということだけで成り立っているのではない。 この側面はさらにもっと大きな構図の中の一部分であるにすぎない。 しかしこの一部分は、いままで事実の提示がほとんどなかった構図の一部であるから こそ、このレポートはその意味で重要な研究となるかもしれない。

                                 1992年 6月




(1) 「アウトサイド」紙、1990年 9月

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