(財)日本鯨類研究所が行っている調査研究が、それ自身利潤のあるものかどうかを
検討する前に、単なる金銭勘定とは別のもっと洗練されたかたちの攻撃を詳しく
検討してみよう。
この主張はつまり、調査捕獲の真の目的が、今後の捕鯨再開を見越した市場・装備・
熟練技能の維持にあるといっているのである。
この議論はあっさり一蹴できないが、これを証拠づける事実といえば偶発的なもの
ばかりで絶対的な証拠は何ひとつない。
少なくとも表面的には、共同船舶(株)の事業は船舶と乗組員を貸し出すこと
であり、したがってこの事業から同社はふたつの明白な利益を得る。
それは仕事を提供し、料金収入を得ることである。
しかし、(財)日本鯨類研究所の存在理由とされる少人数の捕鯨者への短期的利益は
明白であるから、この議論はとりあえずあとまわしにする。
よく考えてみなくてはならないのは、日本が南氷洋での商業捕鯨再開を許された
場合、その実をつみとるのは共同船舶(株)(もしくはその後身)であるという事実
である。
ここで問うべきことは、現在稼働中の装備および人的資源が、将来捕鯨再開となった
時に現実的基盤となりうるのかということ、そして現在の事業形態で、この会社は
果たして採算を取りながらやっていけるのかということである。
逆に、共同船舶(株)がなかったら、つまりまったくのゼロから捕鯨をはじめると
したら、仮に10年後に商業捕鯨を再開するとして捕鯨操業がそれだけ困難になるのか
どうか、を問うことができる。
共同船舶(株)が生き残ることの有形かつ直接的な利益とは何か、またこれを
成就するための水産庁の役割とは何かをまず検討してみよう。
共同船舶(株)は、管理者および船員を含む約 320名のスタッフを抱え、これらの
人々の給与は、直接あるいは間接的に、(財)日本鯨類研究所および水産庁の傭船料に
その給与を依存している。
1987年以後、(財)日本鯨類研究所は、IWC/IDCR航海に年間二隻の転用
キャッチャーボートを傭船し、また自らの研究計画にキャッチャーボートを年間
二、三隻、そして母船一隻を傭船している。
1990〜91年の IWC/IDCR航海は 34名の乗組員に仕事を提供し、また(財)
日本鯨類研究所の調査計画では 173名の乗組員に仕事を提供した。
これに続く調査では、母船はそれまでのよりは少し小さい船舶に置き換えられ、
乗員数は 150名に減った。
共同船舶(株)の乗組員の大半はなんらかのかたちで鯨類研究にかかわっているが、
この仕事は季節的なものだけである。
したがって、南極から戻れば、ある者は水産庁が傭船した船舶に乗り込む。
1991年、この方法で、6隻の船舶が傭船され、各船舶に約 17名が乗り組んだ。
一年のこの時期は仕事数より船員の数の方が多く、中には職にあぶれる者も当然
でてくる。
彼らにも給与は支給されるが、航海中の船員に慣習的に与えられる賞与を逃すことに
なる。
明らかに、調査期間外のこうした水産庁の後援は共同船舶(株)の存続に欠かせぬ
ものであり、そしてまさにこのためにこの制度が設けられたのではないかとの憶測は
避けられない。
だが、これは完全な人工的雇用創出とはいえない。
南氷洋の捕鯨漁期は半年を越えたことは一度もなく、母船式捕鯨船は他の用途のために
借りることはいつでもできたし、政府は捕鯨者がまだ裕福で慈善の必要などなかった
195O年からずっと、様々な目的に傭船してきた。
今日ほど多くの船舶を傭船することはなかったが、これがまったく新しい雇用形態
というわけでない。
では、水産庁が不完全就労状態にある捕鯨者たちに仕事を提供する動機は何なのか。
研究に批判的な人々の間での最も一般的な憶測は、政府が商業捕鯨再開を見越して
乗組員を保持しているというものである。
これを論破するのもまた最も簡単である。
共同船舶(株)の会社規定では、船員は 55才、幹部船員は 58才で定年退職しなければ
ならない。
1990、91年の航海では、出航時点の乗組員の平均年齢は 47才強であった(表 3)。
うち 36名は 5年以内に退職、そして 13名はこの航海を最後に定年退職した。
明らかに、捕鯨の将来を担うのは「これらの」捕鯨者ではないのだ。
表3 1990〜91年の航海における乗組員年齢構成
注:
水産庁が職を提供する動機の三つ目としてもうひとつ考えられるが、これは
捕鯨産業の将来とは何の関係もなく、従って支持する証拠に欠ける。
しかし、二次的な考察として、政府がその政策の結果、余剰となってしまった捕鯨者を
何とか支援したいと思っている可能性も皆無ではないことは注意する価値がある。
日本の捕鯨地域はほとんど例外なく孤立しており、その生存を大きく海に依存して
いた。
商業捕鯨は幕を閉じたがその代替雇用がないため、捕鯨者は皆経済的困窮をなめて
きた。
これらの捕鯨地域の人々の意見では、この状態を招いたのははっきりと政府の責任
なのである。
1984年、米国の貿易制裁の威嚇の前に、日本がモラトリアムヘの異議申し立てを
引きさげる可能性をはじめて交渉台にのせたのは彼らの総理大臣であった。
そして1987年、水産庁が科学的調査計画の開始を提案した後、米国の圧力に屈したのも
彼らの総理大臣であった。
当初の研究提案は漁期ごとにミンククジラ 825頭、そして最大 50頭までの
マッコウクジラの捕獲を求めていた。
この明確な標本数がなぜ必要かの厳密な説明もなされていた。
しかし時の総理は米国の反応を恐れ、同計画の立案者に相談もしないうちに、その
標本数の半分でも多すぎると思うと公的な場で発言したのである。
総理府はその後、水産庁に計画を変更するよう「要請」し、その結果、マッコウクジラ
の捕獲は見送られ、ミンククジラの標本数は 300頭に削られた。
捕鯨の将来はまさに科学にかかっていたのであるから、科学の利益へのむやみな干渉は
捕鯨地域には傷口に塩を擦り込まれるようなものだった。
またも、彼らの利益は、日本の国際イメージを上げる必要性の前にあとに追いやられた
のだ。
政府がその行為の結果に村して責任を感じているどんな兆候があるだろうか。
水産庁は傭船する船舶上でわずかの仕事を提供している。
しかしこれはもっと大きな構図のなかでみなくてはならない。
そしてその大きな構図からは、自責の念などまったくないこと、そしてただでさえ
皆無に近い支援をさらにもっと減らそうとしていることがわかってくるのだ。
高位にある人の数人は、捕鯨者のことを真剣に気にかけている人もいる。
水産庁の官僚と選挙区に捕鯨地域をもつ政治家である。
しかし広範な支援は明らかに欠落している。
これは中枢ともいえる部分で特にそれがいえるのだ。
例えば外務省では、日本がきっぱりと捕鯨をやめれば狂喜する官僚は少なからずいる
だろう。
彼らの思考形態は、名前は出せないが 1980年代のある総理大臣に劣らず自己中心的
である。
それは鯨類資源の状態に憂慮するしないの問題ではない。
単に、反対者の直接攻撃を受けるのは海外の日本大使館であるという、ただそれだけの
ことなのだ。
こうした情況の中で捕鯨地域は窮地に立ったが中央政府からほとんど何の援助も
なかった。
研究調査船上での仕事が福祉の一形態であるにしてもその数はあまりに少なく、
いままで捕鯨で生計をたててきた町全体の崩壊を食い止められるようなものでは
なかった。
つまり、政府が罪悪感から一握りの仕事を創出したとするには証拠があまりにも希薄
なのである。
水産庁が高齢化する捕鯨者に仕事を提供するもっと納得のいく動機として、これらの
捕鯨者が技能を新しい世代に伝えられるようにというのがある。
技術を教える者がなく、例えばいまから 10年後にまったくのゼロから捕鯨活動を始める
のは確かに難しいだろう。
しかしそうは思うものの、世代の均衡をとるため、つまり若い捕鯨者のなり手を募集
するための活動は、どの方面からも切迫感が感じられない。
日本の捕鯨産業への見習い船員の流入は、国際捕鯨委員会がモラトリアムを採択した
1982年に急激にあるいは完全に停止し、そしてそれ以後新たに加わったものはひとりも
いない。
これは商業捕鯨の将来(ひいては、後述するように熟練捕鯨者なしには研究そのものが
できない(財)日本鯨類研究所)にとって真の脅威であるが、調査計画が開始されて
からの 5年間、水産庁にも同研究所にも、そしてまた共同船舶にもこの問題を軽減
しようとする動きは皆無であった。
これはなにも彼らがこの差し迫った人員面での危機に気づいていなかった訳ではない。
政府はこれは共同船舶(株)が解決すべきことだと思っていたのであり、共同船舶
(株)は共同船舶(株)で行動することにためらいがあった。
この逡巡の理由は、未来を志向した体勢を整えてもその未来は存在しないかもしれぬ
との危惧があったためである。
日本の労働市場は近年になって以前より流動的になったとはいうものの、
単一企業での終身雇用は依然標準的であり、そしてこの制度は、相互の合意によって
被雇用者に対すると同様に雇用者側にも同程度の義務を課するのである。
当然のことだが、共同船舶(株)は維持できぬかもしれぬ保証を与えることに迷いが
あったのである。
その後、1992年に、共同船舶(株)はもうこれ以上待つことはできないとして、
大学卒業生 2名と高校卒業生 16名を雇い入れた。
捕鯨の未来を志向したこの募集の重要性は無視できない。
しかし、政府の意図から言えば共同船舶(株)が全責任を負うべきことであったという
ことに注意する必要がある。
捕鯨技能の保持が水産庁の最優先事項であったのなら、(財)日本鯨類研究所に募集の
圧カをかけ、共同船舶(株)に研修生を送ることぐらいはしたかもしれない。
しかし事実はそうなっていないのだ。
漁業監視船上での捕鯨者たちの仕事がほんとうに人工的な雇用創出であるなら、
水産庁のこの寛大さの理由は、たぶん次のようなものであろう。
水産庁は(財)日本鯨類研究所に対して、国際捕鯨委員会がモラトリアム取り下げに
応じるような証拠の提供をその任務として課したのである。
それが数年でできることであるなら人的資源の状況にそれほどの配慮は払われなかった
だろう。
最も重要なことは、(財)日本鯨類研究所がその調査を遂行する能力をもつこと
であり、そしてこのためには共同船舶(株)の存続を確実にする必要があろう。
つまり、捕鯨産業の将来は、直接的に(財)日本鯨類研究所の存続にかかっており、
ひいては共同船舶(株)にもかかっているのである。
共同船舶(株)が何故それほど(財)日本鯨類研究所の調査に重要なのか、ここで
問う必要があろう。
調査に従事する人の大半が元捕鯨者であるという事実から随分と憶測が生じた。
この点に関するあらゆる疑いを全て解消するような説明は存在しない。
だが、捕鯨者が余所では得られないその技術によって鯨類研究の多くの側面で貴重な
貢献ができることは特筆できるし、またこの事実に注目することが重要である。
そして研究計画が標本採取を必要とする場合、彼らの存在は事実上不可欠である。
調査船に乗り込む大型船員から話をはじめよう。
彼らは確かに不可欠ではないだろうがその仕事の一番の適任者であることに
変わりない。
これら大型船員が保持する免許は、トロール船や貨物船などに乗船する高級船員の
ものと同じであるが、実際の作業内容に違いがあるため、同じ免許をもっていても
簡単に入れ替えはきかない。
キャッチャーボートは広範囲に展開している上、捕獲した鯨を母船に届けたり、食料の
母船からの積み込みなど、母船はキャッチャーボートとのドッキングに頻繁に移動
しなければならない。
貨物船の船長にはそうした要求は課せられず、単に A点からB点に向けて一直線上を
航海するだけである。
共同船舶(株)は南氷洋捕鯨の経験をもつ高級船員を独占しているため、(財)
日本鯨類研究所がこれらの乗組員なしに船舶を傭船し、高級船員をどこか余所で
雇おうとすることはまったく無意味だろう。
その次にコストの問題がある。
共同船舶(株)は市場でもっとも安価である。
1970年頃まで、捕鯨船乗組員は高給を得ていたが、捕獲割当ての低下に伴い、彼らの
生活は急速に落ち込み、まもなく最貧階層へと転落した。
鯨産物の市場価格の高騰により、共同捕鯨(株)のもとでは、それ以上の給与削減は
回避されたが、共同船舶(株)が 1987年に創設された時、この新会社に加わる道を
選んだ者は基本給をさらに 20%削減された。
次に共同船舶(株)の船員とその管理者たちの仕事についてである。
まず鯨の目視と頭数勘定から話をはじめよう。
(財)日本鯨類研究所の調査計画には事前に定めた航路から発見される鯨の頭数を
数えることが必要である。
この頭数から所定海域の全個体数が推定される。
頭数勘定だけだから簡単そうに聞こえるが、やってみるとそうはいかない。
3海里(航路の幅)の距離から砕け散る波間に鯨を発見するには、両眼とも 2.0以上の
視力を必要とする。
探鯨する者は、探すべきものを熟知していなければならず、また鯨の一団を発見
すれば、鯨の頭数を数え(同時に水面に現れないことから複雑な作業となる)、鯨種を
判定しなくてはならない。
これがどれほど困難かを説明するために、東京水産大学の船舶による 1980〜81年の
南氷洋航海の例を挙げよう。
作業は目視確認と鯨種の判別であり、これらを舵手一名、未経験の練習生二名、そして
共同捕鯨の社員で捕鯨船乗船の何十年もの経験をもつ田中省吾を乗船させた。
田中は彼のレポート(1)の中でそのときのことをこう述懐している。
「調査を開始するまえに、できるだけ信頼性の高い記録を得るため、全乗組員および
生徒とのミーティングをもち、目視方法、鯨種の判別、鯨の行動パターンなど詳細に
論じた。」
だが終わってみれば、ミンククジラ全目視発見数の73%以上が田中の目視によるもの
であった。
田中は、彼がいなくても、彼の目視成果の幾分かは他の者もできていたであろうとは
認めたが、鯨種の判別については素人には事実上「不可能に近い」と結論した。
各発見者の効率に影響を与えた大きな要素は、小さな鯨種の潮吹き(気)を発見する
能力であったらしい。
田中の目視効率が船から約 1.5海里のところで最高に達したが、他の者には 0.5から
1.0海里の距離であったことからもこれは容易に想像でき、練習生たちが探鯨に鯨体の
出現を待つ傾向があることを示している。
南極に 3カ月間滞在したおかげで、私は、マッコウクジラについてはそのユニークな
気のかたちからほとんどの状況下で識別できるようになった。
しかし他の鯨種については間違えることはしょっちゅうで、特にミンククジラと、
それより少し小型で南氷洋の特定地域に数多いツチクジラとの判別になるとほぼ
お手上げであった。
だが捕鯨者たちは一瞬で言い当てることができた。
だが、捕鯨者の本領がでるのは何といってもやはり鯨の捕獲作業である。
銛打ち(砲撃)は高度に洗練された技能であり、鯨の遊泳パターン、間一髪の
タイミング、そして完全な照準が要求される。
しかも船は揺れているから当然砲台もじっとしていない。
砲手がいなければ標本採取は不可能である。
生物学者に銛を渡そうものなら、きっと自分の足を撃ち抜いてしまうに違いない。
また母船には解剖員がおり、鯨に包丁をいれ鯨肉を冷凍係員にまわす。
鯨肉生産は科学とは何の関係もないが、解剖長は鯨類研究所の科学者にとっては解剖の
専門家であり、さまざまな生物学的標本を探し摘出してくれる。
これは、単に、入手可能な人的資源を利用するしないといった問題ではない。
鯨の解剖は実験室のネズミの解剖とはわけがちがうのである。
これらの解剖員はまさに専門家と呼ぶにふさわしい技量の持ち主なのだ。
鯨の解剖に使用する包丁は外科用メスのように鋭く、しかしその長さと重さに格段の
相違があるため、まったく違った技量を必要とする。
ひとつ間違えば手を切るどころか体を断つことになる。
解剖長は、日本の美食家が珍重するさまざまな内臓をみつける仕事に長年従事している
ため、鯨の解剖学的構造には専門知識を有し、研究を補佐する技術者としてまさに
うってつけなのである。
要するに、(財)日本鯨類研究所が経験豊富な捕鯨者の手助けなしにいまの研究を
継続することは困難であろう。
どんな会社であれ、企業としての健全さをはかる尺度はその資産状況である。
これには人的資源も含まれ、さきに述べたように従業員年齢の高度化にともない
共同船舶(株)の健康度は将来にむけて危ういものになってきている。
しかし、捕鯨者のユニークな技能もさることながら、船団の管理者にとって最も重要な
資産は船舶である。
そのあまりにも大きな重要性を考えるとき、日本の母船式捕鯨の将来への鍵は
共同船舶(株)の船団にあるといえるだろう。
(財)日本鯨類研究所のために働くことが赤字操業であるにしても、船団を操業可能な
状態に維持するという観点からは継続する価値があるだろう。
したがって、短期的利益はともかく、現在の船団の維持という中期的意味を考えて
みることにする。
船舶の耐用年数は、自動車その他の機械のそれと大差はない。
ある一定期間は順調に稼働し、費用効果は最大となる。
その後問題が起きはじめ、修理が必要となり、エンジンの燃費が悪くなり、部品交換も
必要となる。
メンテナンスおよび操業経費が一定レベルを越えると、新しい船を買い入れたほうが
経済的になる。
また、造船会社は、常に商品のグレードアップを図り、早めに船を買うほうが得だと
管理者に勧める。
従って、自由市場で競争的であるためには、船舶の定期的交換が必要である。
しかし、商業捕鯨が行われた過去 20年間、競争市場は存在しなかったし、さらに、
利益の縮小から管理者たちは新船舶の購入には気乗りしなくなった。
1990〜91年に航海した船団が 43年前に建造された母船と 19年ないし 32年前に建造
された捕鯨船で構成されていたのはこのためである。
普通の水産業にみられるような自由競争環境のなかでは、こうした船団の事業的意味は
無きに等しいだろう。
しかし、南氷洋商業捕鯨の再開があるとして、一国以上がそれに参加を希望しても、
ジャングルの掟てが支配することはないだろう。
モラトリアム以前のように、捕獲割当て量が定められ貿易も行われるようになるかも
しれないが、さらにそれ以前の時期に見られたような野放し状態が許されることは
ありえない。
こうした環境のもとで私たちが注意を向けるべき問題は、自由市場というものが
そもそも存在しない以上、現在の船団が自由市場で競争的であるかどうかではなく、
もっと単純に、商業捕鯨が再開された場合に共同船舶(株)が旧船団を新しい船団に
置き換えるのかどうか、ということであろう。
答が「ノー」であれば、現在の調査研究は船団の稼働状態を維持するための偽装で
あろう。
そして「イエス」であれば、このレポートは人の注意をそらすための新たな手段と
なる。
共同船舶(株)が新しい母船を買い入れ、第 3日新丸を上海のスクラップヤードに
送ったことから、1991年以来、この問題はいろいろと論議を呼んできた。
この老朽船は将来のために整備・保存するなどとてもできるしろものではなかった。
1947年建造のこの船は、紛うかたなきオンボロ船であり、どこから見てもとっくに
廃棄処分されるべきものであった。
新規導入されたのは 7060トンの大型トロール船「筑前丸」を母船に転用した船で、
日水から中古で買いうけたものである。
連続性を保つため「日新丸」と改名された。
この船は 1986年に建造され、当時の価格は 70億円であったが、破格の 15億 5000万円
で契約が成立した。
その後、改装に約 4億 5000万円を費やした。
この船は、少なくとも当面は専ら研究用にのみ利用されるのであるから、日水の太っ腹
に驚嘆する人もあるかもしれない。
共同船舶(株)の株主として商業捕鯨の再開と短期的利益を見込んでのことだろうか。
事実はまったくその逆である。
「筑前丸」は米国領海への出漁を目的として 1986年に建造されたのだが、米国が
外国船団への割当てを撤回したため、この船は、日水や他の日本の漁業会社所有の
他のトロール船同様、その直後に余計なものになってしまった。
余計なトロール船は、当然、企業にとっては資産でなく負担である。
近年の中古トロール船市場の不況状態からすれば、値がたたかれても買い手がついた
こと自体が好運であった。
したがって、この船舶の購入が捕鯨の将来的投資などと思うのは真実からほど遠いの
である。
「筑前丸」を売り払ったことは、日水にしてみれば損益削減策以外の何物でもなかった
のだ。
しかし共同船舶(株)にとっては、この新船舶はほほ確実に将来的投資である。
しかしここで忘れてはならないのは、最初の 4期の調査航海にでた母船が将来計画の
なかに組み込まれていなかったことである。
船団保持だとの非難がこの母船の置き換え「以前に」始まっていることからみても、
この非難は見当ちがいである訳である。
キャッチャーボートについては事情がまったく異なる。
(財)日本鯨類研究所が現在使用している 3隻のキャッチャーボートはそれぞれ、
1958年、1962年、1971年に建造されたものであり、捕鯨最盛期の 1960年代であれば
とっくに新しい船に入れ換っているべきものである。
しかし、代わりの船が当面望むべくもないのはもちろん、商業捕鯨再開まではまず
無理であろう。
その理由はコストが出ないからである。
キャッチャーボートは高度に特殊装備を施した船舶であり、こうした船の中古市場は
存在しない。
母船のように単に他の目的のために建造された船舶を転用することはできない。
故に代わりの船は新規に建造したものでなければならないが、共同船舶(株)は
新規建造はおろか計画を進める資金も、またその見通しさえもないのが現状である。
商業捕鯨が確実にならないうちは新しい船を注文するなど到底無理である。
こうしてみると、数年後に商業捕鯨が再開されれば、この「新しい」母船をもつ
現在の船団は稼働状態にあるだろうが、このさき 10年間再開しないとすれば、この母船
一隻とたぶんキャッチャーボート一隻だけしか生き残ることはできないだろう。
これらのキャッチャーボートに未来はあっても、その未来は長くないのだ。
したがって、研究調査活動が船団を稼働状態に保つための口実だと決めつけることは
できない。
この母船はすでに交換されたが、キャッチャーボートは交換されていない。
その理由のひとつは交換できないからなのである。
_
雇用の創出か?
乗組員数
年齢
平均年齢
20−30歳
31−40歳
41−50歳
51歳以上
第 3日新丸
115
1
4
72
38名
48.48
第 1京丸
19
1
4
6
8名
45.68
第 25利丸
21
3
1
13
4名
45.14
第 18利丸
18
−
4
7
7名
46.55
合計
173
5
13
98
57名
47.57
1)二名を除く全乗組員は共同船舶(株)に属している。(大洋からの融通派遣 1名と
医者 1名)
2)研究者、研究アシスタント、および水産庁の監督官は乗組員数に含まれていない。
3)上記年齢は出航時点のものである。
なぜ捕鯨者が重要なのか?
船団
(1) 田中省吾 「海産哺乳動物の目視調査」東京水産大学論集、第5巻、
213−224ページ、1982年 3月