このレポートの目的は、次の質問に対して情報に基づいた答えを提供すること
である。
(財)日本鯨類研究所の調査活動は偽装した商業捕鯨であるのか。
調査活動は人員・装備の稼働状態を保持する手段であるのか。
調査活動は失職した捕鯨者たちに仕事を提供する手段なのか。
調査活動は上記の要素を合わせ持ったものか、それともそのいずれでもないのか。
序文で述べた通り、この問題に係わる科学を学ばずして明確な結論は出せない。
しかし、少なくとも批判のいくつかは振り払えるだろう。
換言すれば、本書で提供する証拠からこの調査が「何であるのか」結論することは
困難だが、「何でないのか」、あるいは「何になることはありえないのか」を結論する
ことは可能である。
商業活動とは、その定義からいえば、現在あるいは将来において利益を得るための
活動である。
そして現在南氷洋で行われている調査研究は利益を出していない。
ある程度の損失が出ていると(財)日本鯨類研究所は主張はしているが、やっと
必要経費がでる程度のものでしかないことはほぼ間違いない。
水産庁が資金援助している他の非致死的プロジェクトと(財)日本鯨類研究所の
一年間の管理費用を見較べてみれば、同研究所が金食い虫であるとはとてもいえない
ことがわかる。
共同船舶(株)はサービス提供の代価を受け取る民間企業である。
しかし、同社は単にその前身の商業捕鯨会社「共同捕鯨(株)」を改組しただけのもの
だろうか。
一見確かにそう見える。
しかし、1987年以降、従業員数はほんの少し減っただけであるのに、所得は74%も
低下しているのだ。
ビッグ・ビジネスでないことだけは確かである。
この現状は調査計画立案者の当初の意図ではなかったのかもしれないと想像できる
理由がある。
1987年 3月の最初の提案書には年間 825頭のミンククジラと最大 50頭までの
マッコウクジラの捕獲を求めていた。
その後マッコウクジラの捕獲計画はとりやめられ、ミンククジラの捕獲頭数も半分に
減らされたが、この計画が認められていたら、利益・損失欄は全く違ったものに
なっていただろう。
実際の展開がこうであったら、副産物はまさしく「産物」であり、それこそが
調査研究の存在理由であると断言することができただろう。
一応は、(財)日本鯨類研究所は標本数削減にも動揺しておらず、方法論の洗練と
調査期間の延長でそれを補ってきたと主張する。
科学者のほうは個人的な感想として仕事がやりにくくなったと愚痴をこほすが、彼らの
不服は金銭勘定とは何の関係もない。
現在この調査を部分的に資金援助している水産庁はどうだろう。
副産物の販売で調査費用を全てまかない、政府の補助金をなくすことが当初の思い入れ
だったのだろうか。
また共同船舶(株)を設立した水産会社三社はどうか。
収益率のあがる調査活動をあてにしていたのか。
こうしたことが実際どうだったかについては推測の域をでない。
関係者の中で個人的に今の標本数に満足している者はだれもいないが、水産庁と
共同船舶(株)は今のこの形の長期調査計画を進める決意をしたのである。
これこそ私たちが取り上げるべきことである。
現行の調査研究は赤字操業なのである。
さらに検討すべき議論は中期的な事業見通しに関わるものである。
日本は商業捕鯨再開の希望を隠しておらず、この調査研究が、将来のある時点で
商業捕鯨を再開すべく、産業の基盤構造の保持を企てたのだと考えられないことも
ない。
その証拠は決定的ではさらにないが、一蹴することもできない。
しかし、また最も現実的な第三の選択肢がある。
それは、誠実善意な調査研究が小規模の商業活動と調和しながら進むことである。
その存在理由は科学であるが、商業的要素があることで調査の資金調達が図られ、その
調査によって対象とする産業が保持できる。
商業的要素を含める意味はここにあるのだ。
(財)日本鯨類研究所で働く科学者は、純粋に科学に関心を抱いている。
鯨をめぐる政治の駆け引きには何の興味もない。
権力者が彼らに圧力を及ぼし捕鯨業界に都合よく調査結果を改竄するよう迫られても
そんなことに組みする人達ではない。
客観的証明ができる性質の問題ではないので証明はできないが、私はそれが真実である
ことを知っている。
だが、科学者の仕事は究極的には末端作業である。
鯨を捕獲するかどうか、また何頭捕獲するかを決めるのは彼らではない。
与えられた道具で精一杯の仕事をするのが彼らなのだ。
さらに検討すべきことは、調査研究実施に関わる現実であり、水産庁および共同船舶
(株)の姿勢である。
管理者が直視すべき現実のひとつは、科学的重要性があるからこそ標本採取するので
あるが、にもかかわらず調査研究が副産物の販売収益なしには継続困難であることで
ある。
もうひとつの現実は、科学者を南氷洋に運び彼らを補佐する人員が必要なことであり、
最もこの仕事に適した者が捕鯨者であることだ。
他にもいろいろあるが、時には科学の利益と捕鯨産業の利益がわずかながら重なり
あっているのがわかる。
一方、共同船舶(株)の観点からは、捕鯨が例えば10年間停止されることになれば、
再開は困難であろうとの見解がある。
したがって調査捕鯨は最小限の基盤構造と産物の流れを維持する利点がある。
調査活動はまたそれ以外のそしてそれ以上の意味をもっている。
それは、国際捕鯨委員会に対して商業捕鯨全面禁止措置の取り下げを納得させられる
科学的証拠を探索することである。
ふたつの意味で、捕鯨産業の未来は科学にかかっているのだ。
また、産業の将来が科学に依存しているからこそ、水産庁は(財)日本鯨類研究所に
資金援助し、共同船舶(株)が存続できるよう援助しているのである。
水産庁は、科学のための科学に資金援助しているのではない。
日本の産業と国民に利益をもたらす科学に資金援助しているのだ。
(財)日本鯨類研究所の調査研究が商業捕鯨の一時的全面禁止に終止符を打つことに
なっても、鯨を捕獲する者が誰も残っていなければ、資金がただ浪費されたことに
なってしまう。
このことは、科学者に「科学」と「捕鯨産業」というこ人の神に仕えることを
要求するものだと解釈されることもあろう。
そしてその議論には幾分かの真実が含まれている。
(財)日本鯨類研究所は、いわゆる「純粋科学」というものに携わっていないと。
仮にそうであるにしても、それで社会の利益が損なわれるのだろうか。
答はその逆である。
事業を継続するための資金調達に係わったことのない一般の人々には、性質を異にする
これらのこ者が手を結んだと罵るのは簡単である。
特殊利益団体が政治キャンペーンに寄付した資金は賄賂だと言われることはあるが、
だからといって政治家が皆魂を売り渡している訳ではない。
帳尻あわせの書類操作が政治家の必須作業であるなら、政治家を志す者はなくなる
だろう。
科学者は、世界中どこでも、どうやって資金を調達するかで頭を悩ませており、絶え間
ないジレンマにおう脳している。
しかし、彼らが民間企業から研究資金を受け取れば、それが即、科学は後援者の利益に
偏向していることになるのだろうか。
そうだとしたら、よき科学とは、事業的利益とのすべての接触から遮断されない限り
得られないものとなろうし、すべての科学がそうしたものであるなら、科学そのものの
存在が危うくなるだろう。
問題は資金である。
科学は多額の資金を必要とし、政府の資金援助が期待できない時は、他の方法で調達
せざるを得ないのだ。
鯨類研究もその例外ではない。
調査研究における商業的要素を理由に反対者たち、特にグリーンピースが
でっちあげたイメージは実像と速く懸け離れたものとなっている。
この団体の攻撃の真の意味は、直接的にも間接的にも私たちが愚弄されているという
ことなのだ。
「日本人はこのまびきを調査目的で行っていると主張するが、グリーンピースは、
東京ではキロ当たリ 50ドルで坂売される鯨ステーキを当て込んだ 1000万ドルの収穫を
やめさせることを決意した。」(1990年 12月 13日、MVゴンドワナ号から
マーク・スコットが送付した記事)
「調査研究とは、日本がスーパーの在庫維持のために演じる茶番劇である。」
(1990年 12月 23日ウェリントンにてロイターが引用した活動家ヴィッキー・ゲッツの
言葉)
だまされることは誰しもいやだから、これは特に効果的なアプローチである。
だがこれは人間の知性を侮辱するものである。
故に、私達は極めて当然で人間的反応、つまり怒りを示すべきなのである。
この調査研究がごまかしであることがそれほど明白であるなら、グリーンピースは
なぜ現在にいたるまで数字によって彼らの主張を証明しようとしなかったのか。
その理由は、数字がかれらの非難を支持しないからである。
「1000万ドルの収穫」ときけば、誰の耳にも強烈にひびくが、経費がいくらかかった
のかの検討を欠いたこうした議論はまったく無意味である。
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本書に著す意見はすべて筆者個人のものであり、(財)日本鯨類研究所の見解と
必ずしも一致するものではない。