ゲームの名は捕鯨問題

(日本鯨類研究所 1994年発行「捕鯨と世論」より)

三崎 滋子
日本鯨類研究所
国際関係担当



序章

 日本が西欧と駆け引きをする場合、しばしば交渉 が暗礁に乗り上げる。ある人は、その原因を「野 球」と「ベースボール」の違いであると揶揄する が、実際根本的に何かが食い違っているにもかかわ らず双方とも同じルールでプレーしていると錯覚し ているところがあるのかも知れない。

 捕鯨間題がそんなゲームであるとすれば、この ゲームは今9回の表で、日本が攻めに回っている。 どの塁にもランナーはいない。相手チームは10点 をあげているが、「日本チーム」はわずか1点であ る。日本はまたファウルを高く打ち上げたが、ボー ルは一塁の先の壁にはじけて、相手はキャッチする 意志さえ見せない。球場には、白けムードがただ よっている。それでも、日本チームは驚異的ねばり をもって、この「捕鯨間題」ゲームを永遠に続けよ うとしているようである。

 このゲームはストックホルムで1972年に開始 された。そこで行われた国連人間環境会議で商業捕 鯨十年モラトリアム決議が採択されたのである。 キーワードは「鯨を救おう」であった。このゲーム はその後、会場を国際捕鯨委員会(IWC)に移した。 アメリカを先頭に捕鯨反対のチームの応援団は西欧 社会の隅々まで猛烈な勢いで増えて行った。

 一方捕鯨国チームヘの応援は、減る一方であっ た。このゲームの欠点は、基本のルール(国際捕鯨 取締条約ICRW)があるにもかかわらず、実践ルール は勝者側で都合に合わせて決定していく事である。 負け側が懸命になって、基本ルールの国際捕鯨取締 条約(ICRW)に沿ったプレーを申し入れても、勝ち 側は耳を貸さない。

 ゲームの第一部は、ルールが「絶滅」というルー ルでプレーされた。このルールでは、鯨の生物学的 な種や系統群によって異なる状況は、無視される。 確かに多くの大型鯨種が過去の乱獲によって、枯渇 していたのは事実であったが、その他に乱獲されな かったり、全く捕獲されなかったりしたので、か えって増加を示している鯨種もあったのである。こ のルールはもう一つの細則を伴っており、それは、 「不確実性」というルールであった。この第一ルー ルが約十年間続き、やがてその決着として、1982年 にIWCが「全商業捕鯨モラトリアム」を採択し た。

 モラトリアム決定以降、ルールは「倫理」のルー ルに切り替えられた。しかし、「倫理」といって も、このルールでは倫理とは鯨に対する倫理に限定 されており、人間が人間に村して何をするかを律す るものではない。今や、捕鯨問題はこういう片寄っ た「倫理」のルールでプレーされている。それは、 捕鯨が悪であるという倫理であり、ライクマイン デッド(反捕鯨同心派)の国々は、どんな鯨でも、 種類とか系統群の差は無視して、一頭たりとも人間 の食用に利用してはならないと主張している。

 「倫理」というものが今のルールならば、われわ れ捕鯨国側も、「倫理」に従って相手がどんな行動 をとってきたのかを検討しようではないか。私が、 IWC日本代表団の中から眺めてきた歴史を語ろうでは ないか。反捕鯨同心派は果たして、常に清廉潔白で あったのか? 悪役に回された日本は本当に何か致命 的な誤りを犯したのであろうか?

 このゲームを17年前に遡って現在に至る経緯を 考えようと思う。17年前と言うのは、私が初めて このゲームに参加した年なのである。


第一章

1985−1986年の捕鯨裁判

IWCが1982年に異なる鯨種がそれぞれ異なる 状態にあるという事実を無視して、全商業捕鯨停止 (モラトリアム)を採択した時、日本、ソ連、ノル ウェー、アイスランド、韓国の五ケ国が捕鯨条約第五 条(3)に定められたところに従って異議申し立てを 行った。条約第五条(3)には、IWCの決定した事項 に対して、その決定の通達から90日以内にIWCに異 議を申し立てた国はその決定に従わなくてもよい、と いう規定が明記されている。この第五条は元々1946年に アメリカが提唱して採択された規定である。異 議申し立てを行った日本は、このような無差別モラト リアムは、IWCの科学小委員会も勧告しておらず、科 学的な根拠がないと考えていた。これが異議申し立て の理由であった。モラトリアムが採択される前に、既 に、少しでも枯渇の兆しが見えた鯨種は、保護鯨種 (PS)と判別され、IWCが当時採用していた新管理方 式(NMP)によって、完全な禁漁が実施されていたか らである。当時日本が捕獲していた唯一の大規模な捕 鯨対象の鯨種は、南氷洋のミンク鯨であったが、この 鯨種はIWCの科学小委員会が、頑健な資源であると評 価していた。その科学小委員会は、モラトリアム採択 の年にIWC本委員会に対して、南氷洋ミンク鯨の捕 獲枠は科学的に見て年間 9,867頭から2,467頭 の間という勧告を行っていた。

 アメリカ政府は、日本が異議申し立てを行った事は 挑発的な行為であるとして、米国の国内法であるパッ クウッド/マグナソン漁業保護法の修正版(いわゆる P/M法)を適用し、日本に経済制裁を課するという脅 しをかけた。

 その脅しによれば、日本はIWC異議申し立てを撤回 しなければ、当時日米間で合意の上日本が操業してい た米国沿岸200海里内での底魚漁業を禁止するとい うものであった。日本がこの脅しに屈服するか否かに ついて日米間の交渉が何回も行われた結果、日本と米 国政府間での妥協の産物として、いわゆる村住/ボル ドリッジ書簡と呼ばれる書簡が米国商務長官マルコ ム・ボルドリッジと日本の在米大使館の村住臨時大使 の間で取り交された。この書簡には、日本が異議申し 立てを撤回し、2年間の猶予期間をおいて、商業捕鯨 を停止すれば、米国はP/M法による経済制裁を課さな いであろうという合意が二国間で達成された旨の記載 があった。

 この日米合意は米国内の反捕鯨団体を驚愕させたか のようであった。米国の反捕鯨団体は多数あるが、そ れらが合同で、この政府間協定無効を求め、直ちに日 本に村する経済制裁を求める訴訟を起こした。

 先ず、この訴訟はコロンビア特別区(首都ワシン トンを指す)の地方裁判所に提訴された。この訴訟 がいわゆる捕鯨裁判である。日本捕鯨協会はこの訴 訟に米国政府側即ち被告側の介入者として参加し た。この最初の裁判は1985年3月5日に判決が 下され、米国政府が敗訴した。

 捕鯨訴訟はその後上級裁判所へ控訴された上で、 遂に米国最高裁に上告され、そこで1986年6月30日、 一票の差をもって米国政府側が勝訴した。 このような経緯で、前記の日米合意は有効と認めら れたのである。

 この捕鯨訴訟は、今振り返れば米国の反捕鯨団体 と行政府との間で事前に了解されていた一種の芝居 であったとも推察できる。判決がどうであっても、 日本の立場は国際法に準拠したものであった。しか し、米政府が最終的に勝訴したから、日米合意を 守って日本はIWCから異議申し立てを撤回し、約束 通り2年後に商業捕鯨を停止した。にも拘わらず、 米国政府の方は、日米合意に従って日本に制裁はか けなかったが、実質的に制裁と同じ処置をとった。 即ち、2年後には、米国沿岸200海里内での日本 の漁業を締め出したのである。かくして、日本は、 米国沿岸での底魚漁業も商業捕鯨も共に失ったので ある。捕鯨間題というゲームが一方的なルールでプ レーされた事を示すよい例である。

1985年3月5日米国ワシントンDC地裁のいわ ゆる捕鯨裁判第一審判決で、リッチー裁判長は、論 告と共に次の様な発言を行った。「当裁判の続いて いる今でさえ、尊い鯨の命が失われている。」良識 の代表であるはずの裁判官としてのその言葉を私は 不思議な感慨をもって開いた。この一節の中の 「鯨」という言葉を「人」に置き換えたならば、道 理にかなった説得力があったであろう。しかし、そ れが「鯨」であるが故に、当時の日米間の意識の断 層の深さと、善悪の基準の差に私は驚かずにはいら れなかった。

 「動物愛護もこうなれば、ヒューマニアック だ。」と日本側の米人弁護士の一人が絶句した。 ヒューマニズムとマニアックを組み合わせた新語で あるが、反捕鯨の思想を言い得て妙である。

 ヒューマニアックに凝り固まった反捕鯨運動に よって、商業捕鯨が停止されるに至ったのは、科学 の問題ではなくて、米国や英国を中心とした反捕鯨 運動の巧みな広報宣伝の技術に負けたのである。

「人」と「鯨」を同一線上に置く「鯨危機信仰」 は、巧みなPRによって創造され、大衆を踊らせ、浄 財を吸収し、その結果政治家を動かし、行政府をあ やつり、理性ある筈の学者さえも偏向させた。

 今や30年以上となる反捕鯨運動は1982年に IWCが商業捕鯨一時停止モラトリアムを決定した後で さえも、政治の駆け引きの道具となって、マスコミ や大衆を尖兵として、日本、ノルウェー、アイスラ ンド、フェロー島を抱えるデンマークなどの捕鯨国 への圧力をゆるめようとしない。

 このような反捕鯨運動によって、利益を得るのは 誰か?果たして大衆は真の受益者なのか? いや、私 は大衆は単に踊らされただけなのではないかと思 う。 日本で報道され、憤慨の種になったIWC会議での 反捕鯨活動家による「血の染料」ぶっかけ事件や、 「唾ひっかけ」事件は、巨大な氷山の一角にしか過 ぎない。

 私自身真紅の染料を浴び、街頭で罵られ唾をかけ られたが、そんな時きまって不思議に思ったのは、 一体何が彼等活動家をここまで過激にするのだろう という動機であった。 私が被害にあうと、きまっ て、反捕鯨のIWC代表達は、慰めの手紙や花束を私の もとに届けてくれるのである。こんな矛盾には、カ ラクリがあるとしか思えない。 という事は、血のり をぶっかける程度の反捕鯨運動家は、何も鯨につい ての真実を知らずに踊らされている人々であって、 彼等を扇動している上層部は、大衆とは別の所に居 て、紳士淑女の表面の陰で、利益を得ているのであ る。 米国を中心に、全世界で反捕鯨運動に費やされ る宣伝費は優に年間百億円に上ると推定される。そ の大半は大衆よりの浄財である。

 不思議な事に、鯨を愛する反捕鯨派の人々に「鯨 資源は回復しつつあり、中には増えている系統群も ある」と言うと、決まって猛烈な反撃にあう。 愛す る動物がよい状態にあるというのを開くと何故彼等 は憤慨するのであろうか? それは、彼等の宣伝が、 全ての鯨が絶滅寸前であることに基礎を置いている からである。 ミンク鯨などが健全な資源であると発 表されると、彼等は、「科学の不確実性」へと戦略 の転換を行うのである。


第二章

鯨はどうして象徴にされたのか?

 今を去る30年も前に禁漁となっている地上最大 の哺乳動物シロナガス鯨も、はたまた現在のIWC科学 委員会が客観的な目視調査のデータに基づいて、推 定したところ極く控えめに見ても、76万頭は生息 するという小さいミンク鯨に至るまで、鯨は絶滅に 瀕していると大衆が誤信している限り、反捕鯨運動 には浄財が集まってくる。 つぎに有力な宣伝材料 は、鯨が苦痛を感じて死ぬというものである。 哺乳 類であっても、海中に住んでいる鯨の苦痛について の感受性は、未だ生理学者にとっても、未知の部分 が多い。 しかし、生理学がどうであろうと、ヒトと 鯨が、同格であると信じている大衆にとっては、鯨 を殺すことは殺人と同格である。

 この私でさえも、愚かにも「鯨を救おう」という 運動に1ドルを投じたことがある。それは、私が オーストラリアに住んで9年目の1977年のこと であった。 当時私は、西欧的な博愛主義に憧れてい たのかも知れない。 西欧的博愛主義は、今考える と、動物の福祉を人間のそれよりも優先する傾向が ある。

 6月のとある土曜日、シドニーのショッピングセ ンターは、週末の買い物客で賑わっていた。爽やか な日差しの中庭に、置かれた「鯨を救おう」大看 板、美しい海面に尾ヒレを躍らせて潜水せんとする 巨大な鯨の写真、「知能の高い、人類の平和な友、 鯨!」と書かれた垂れ幕、デスクの上にある募金箱 に1ドルを投じると、バッジを胸につけて貰えるの だ。もし、もう1ドルを払えば、車のステッカー 「SAVE THE WHALES」も貰える。

 その朝のテレビで、私はこの「鯨を救おう」とい う運動が、オーストラリアに上陸した事を知った。 この運動の代表者がテレビの番組を通じて、大衆に 訴えていた。 「世界中で自然を愛する人々がそろっ て鯨を救おうという崇高な運動に身を呈していま す。 鯨は人類の飽くなき利潤追及の犠牲となって、 今や絶滅寸前にあります。 自然と環境を守るの意識 を持つ人々は皆鯨を救わなければ地球は滅びると感 じています。」

 キリストを彷彿とさせる風貌の髭の男がテレビの 画面で深いゆっくりとした声で語っていた。 「鯨は 進化の途中で陸から海へと移住した哺乳類の仲間で す。 もしも、鯨が陸上に留まっていたとしたら、恐 らく人類と同じような進化をとげていたであろうと いう証拠を示す素晴しい脳を持っています。 あらゆ る動物の中で鯨ほど平和的なものはありません。 人 類は鯨からとれる油や髭板を利用して、進歩してき ました。 このような製品を得る為に、我々は、鯨を 乱獲し、遂に、絶滅に追い込んでしまいました。 この貴い人類の友である鯨を救わなくてはなりません。 地球上から、捕鯨という恥ずべき行為を抹殺し なくてはなりません。」 彼の話には、人の心をゆさ ぶるカリスマがあった。若い女性レポーターの表情 には、思い詰めた使命感と、説得力があった。

 このテレビを見て町に出た多くの人々は、町角の 「鯨を救おう」という募金箱に何ドルかを投じ、心 のどこかに崇高な自然保護運動に寄付したという満 足感を味わい、車にはSAVE THE WHALESのステッカーを 貼って、環境保護運動の仲間入りをしたとい う使命感を表明したのであった。

 「鯨信仰」の裏付けとなるもの、それは、大衆の 中に罪の意識をよび起こし、懺悔させるものでなく てはならない。 と同時に自国の利害に一致した、自 国が何も損をしないものでなくてはならない。

 歴史を知る者は、米国の発展が18世紀から19 世紀の後半にかけて、ヤンキーホエラーズと呼ばれ て世界の七つの海を席巻した捕鯨業に負うところが 大である事を忘れることは出来ない。 鯨油とヒゲを 求めて、最盛期には700隻を超えるヤンキーホエ ラーの捕鯨船が、遠くインド洋、南太平洋、さら に、北洋や日本近海にまで進出し、1853年の 「黒船」艦隊を率いるペリー総督の浦賀来航のきっ かけとなった。 日本が鎖国から解放されたきっかけ が、ヤンキー捕鯨業のために補給を求めて開港を 迫った米国政府であったというのは、歴史の皮肉で あろう。

 国内で石油が発見されるまで、アメリカにとって 鯨油はエネルギー源としてなくてはならないもので あった。夜を明るくするろうそくはもとより、ランプ の油、機械油等々鯨油なくては初期のアメリカ文化 は語れない。 さらに、髭鯨のヒゲ板は、高価な資源 であり、用途は多岐にわたり、中でも貴婦人のス カートのはりを出す芯として、「風と共に去りぬ」の スカーレットのような女性に愛用された。 20世紀 に入っても、鯨油はマーガリンや化粧品の成分とし てなめらかな特色を出していたが、一番忘れてはな らないのは、その信頼性の高い機械油としての役目 であった。 鯨油は天然のなめらかさで、マイナス40 度にも変化しないという貴重な物質であった。 もし 鯨油がなかったら、潜水艦も動かなかったかもしれ ないし、飛行機も飛ばなかったかもしれない。 ゼネ ラルモータースでさえも、1950年代に至っても、 鯨油をクランクオイルとして必要としていた。

 しかし、1960年代に国内で石油が開発され始 め、鯨油に匹敵する人工油が開発されると、アメリ カは、もはや鯨油を必要としなくなったのであった。 アメリカの捕鯨の衰退は、他の西欧の捕鯨業の 衰退と同様に、あくなき鯨油とヒゲ板の収穫を追及 し、鯨肉を破棄するという乱獲から、鯨資源が枯渇 してきた事、その為、捕鯨が経済的に採算がとれな くなった事が理由であり、人工油の開発も、これら を見据えたアメリカの英知であった。 南氷洋捕鯨か ら続々と西欧の捕鯨が脱落していった1960年代 なかばに、日本とその日本に鯨肉を輸出し、鯨油を 先端技術の必需品として使用していたソ連のみが、 肉を利用していたから採算がとれ、生き残ったので あった。

 こういう過去の歴史を振り返れば、鯨がアメリカ 人やヨーロッパ人にとって、過去の繁栄をもたらし た動物であり、また、自分たちの心ない乱獲から枯渇 を招いた動物であるという、因縁が浮き上がってくる。 西欧人の多くにとって、鯨油は代替品のある、 もはや不要となった資源であると同時に、罪の 意識をかきたてられる対象であった。

 折しも、1970年初頭は、米国がベトナム戦争 に介入し、若者の中に絶望感とかってない反戦思想 が広がっている時期であった。ベトナムで明日の命 も分からない泥沼を戦いながら、ジャングルを枯葉 弾で焼き払いつつ進撃していくアメリカ軍があった 一方、自国内で反戦運動する若者たちが理想を求め たとすれば、それは自然環境保護のシンボルとなっ た鯨であったとしても、不思議ではない。 反捕鯨運 動が反戦運動と呼吸をあわせて発展することは、ア メリカの体制側にも好都合であったろう。 反戦運動 は国策に反するが、そのエネルギーが反捕鯨運動に 転換されれば、体制側との折り合いもよくなるから である。 こうして、反捕鯨運動の活動家たちが次々 と政治や行政の体制の中にとりこまれていった。 反核運動で発足したグリーンピースが、1972年の ストックホルム国連人間環境会議での捕鯨反対運動 の高まりを追って、遅れて反捕鯨活動をとりあげた のも、このような経緯を示すよい例である。

 急進的な反捕鯨運動の若者たちと、従来からあっ た西欧の動物愛護ヒューマニアックの大人たちが ぴったりと息を併せて「鯨危機信仰」を世界に広め ていった。

 テレビには、反捕鯨団体がスポンサーする番組や CMが溢れ、イルカが主人公となったドラマや、人気 スターの鯨賛歌が歌われる。 毎日毎日学校で先生が 生徒たちにいかに鯨が利口かを教え、日本の大使に 「日本人が鯨を殺さないようにして下さい」という 手紙を書くよう指導する。 恐らく教師でさえも、鯨 はどの種類も全部一様に絶滅に瀕していると誤信し ているのであろう。 鯨が絶滅するという危機感をあ おっている限り、金持ちも、老いも若きも、インテ リもブルーカラーも皆寄付金を出す。 かくして、数 え切れない数の反捕鯨団体が生まれ、「鯨危機信 仰」はますますエスカレートしていった。

 こうやって、体制内に根を降ろした反捕鯨運動 は、1972年のストックホルム国連人間環境会議 に先立ち米議会で捕鯨停止モラトリアムを決議、以 来国策として、捕鯨反対の姿勢を崩さない。体制を 味方とした反捕鯨団体は、1982年には、米国、 英国籍の活動家をカリブ海諸国の代表として、IWCに 多数送りこみ、四分の三を必要とする本会議の決定 を獲得、遂に商業捕鯨モラトリアムを通過させた。

 この目的に向いプロ化した反捕鯨活動家や、彼等 を支える鯨の実態を知らぬ一般大衆、動物愛護のお 金持ち、反捕鯨団体からの研究基金を受ける科学者 などが、オーケストラのように各持ち場を持って、捕 鯨国をやっつける運動に精を出した。こんな背景の もとに、1979年米国議会は、明らかに日本の捕鯨 と漁業を制裁する目的を持つパックウッド/マグナ ソン漁業保護管理法の修正法(P/M法)を立法した。


第三章

IWCの新管理方式時代(1986年まで)

 今までに述べた反捕鯨運動の高まりの間、鯨資源 の管理を担う国際捕鯨委員会(IWC)は何をしていたの であろうか? 1970年代の半ばに、IWCの科学小委 員会は、鯨類を保護しつつ利用出来る方式を科学的 に開発している。それは、新管理方式(NMP)と呼ば れるもので、当時盛んとなりつつあった最適資源水 準MSY理論に基づいて、コンピュータでモデルを走ら せて、それぞれ異なる鯨種の系統群の異なる状態を 考慮しつつ捕獲枠を設定し、あるいは保護を与える という方式であった。

 もしも、このNMPが、生物学者の知識を尊重して、 客観的な運用をされていたならば、鯨の持続的な資 源利用は成功していたかもしれない。しかし、不幸 なことにIWC科学委員会では、反捕鯨の数学者が偏向 した解釈を行い、モデルの客観的な運用を阻止する 結果、意見の分裂がはなはだしく、遂には、「科学 の不確実性」を理由に、IWC本委員会への勧告を混乱 させるばかりとなった。このような状況をつくり、 IWC自体にモラトリアムを採択させるのが、反捕鯨運 動の目的であった。

 私自身が初めてIWCの科学小委員会の通訳として オーストラリアのキャンベラでの会議で見聞した事 をここで記述し、いかにして、NMPが不成功におわっ たのかの一例を説明したい。

1977年6月南半球の初冬であった。 キャンベラの 連邦科学産業研究所の会議室でIWCの科学小委員 会のメンバー35名が13ケ国とFAOなどの国際機構 を代表して集まった。 議長はオーストラリアのアレ ン博士で、NMPをIWCに発案した学者である。

 日本からは、5人の代表が出席し、私ははじめて の鯨の科学会議での通訳という困難な仕事に、夢中 で毎日を過ごす内に、おほろげながら、この会議で の力関係が解ってきた。

 まず気がついた事は、当時商業捕鯨をしていた捕 鯨国は皆英語国ではないという事、(例外はその年 まだ捕鯨をしていたオーストラリア一ケ国であっ た)。 そして、代表人数の多少にかかわらず、捕鯨 国は国単位で扱われ、反捕鯨側に立つ科学者はそれ ぞれの国単位でなくて、個々の意見が取り上げられ るという事であった。 従って、何人日本が代表を送 ろうとも、ここでは少数派以外にはなれない。英語 を使用する会議であるから、非英語国の代表には初 めから言語のハンディがあるが、反捕鯨派の学者は 英語が母国語であり、捕鯨国の意見にはことごとく 反論し、論議はねばり強く深夜にまで及ぶのも普通 である。

 中でも、特に能弁であったのは、ある英国の学者 であり、彼は私に「自分にとっては、鯨は単なるXで しかない、私は数学者であり、鯨が産卵しうるの か、出産するのかも意識しない。」と語った。 彼が いかに資源が枯渇しているかを述べる様は、あたか も、法廷で弁論を行う検事のようであった。

 日本の学者たちは、英語のハンディを背負いなが ら、捕鯨国側では最もよく発言し、多くの論文を発 表し、議論の元となるほとんど全てのデータを提出 していた。

 会議は、全体の集まりから分科会に別れる。異な る鯨種と系統群毎に、集まりそれぞれの資源量を推 定し、それに応じて、保護を与えたり、捕獲枠を設 定したりする。 一口に鯨といっても、多数の種と系 統群(ストック)に別れている事が素人の私にも少 しずつ分かってきた。 まず大きくわけて、歯鯨と髭 鯨に分けられる。 前者は判明しているだけでも、80種あり、 後者には10種あると開いた。 大型鯨と いうのは、歯鯨であるマッコウ鯨一種を除いて、あ とは皆髭鯨であるという。 IWCが管理の責任をもつの は、これらの大型鯨であり、それも、加盟国のみに 限って、規制が行われる。 科学委員会では、捕鯨の 対象となってさた大型鯨についての、研究と資源堆 定が行われるが、当時対象となり得るとされていた のは、マッコウ鯨を筆頭に、北大西洋のナガス鯨、 南氷洋のイワシ鯨、ミンク鯨などであった。これら のほかの大型鯨であるシロナガスやコク鯨、セミ鯨、 ホッキョクセミ鯨、ザトウ鯨などは、すでにNMP の管理下にあって、保護されていた。

 鯨というのは、渡り鳥のように、群れをつくっ て、南北に移動し、季節によって、餌の豊富な海域 で索餌し、また暖かい繁殖水域に戻って生殖活動を するが、その集団内において繁殖するので、ほかの 集団との交流はあまりない。 この集団を系統群とい うそうで、これは、あたかも人種の中に民族が存在 するようである。 また、移動は赤道を帯としてこれ を縦断することはないという。従って、南半球の鯨 は北半球の鯨と赤道で出会うことはない。

1977年の会議では、NMPによって、11種82 群の異なる鯨系統群が研究された。 これらの鯨の中 で、さらに雄と雌に分けて、研究推定されるのが、 マッコウ鯨であった。 マッコウはハーレムを作って 一頭の雄に多数の雌が共に暮らすという複雑な社会 構造を持っているからである。また、9才位に なった雄は、別の集団を組んだり、一頭で行動した りするという。この年の会議では、大型鯨82群の 中で、全面捕獲禁止処置がとられていたのは、55 群に上り、残る27群中の13群はマッコウ鯨で あった。しかも、そのマッコウ鯨の中でも、4群は 雄雌別に捕獲ゼロという保護処置が与えられていた ので、捕獲枠を設定され得るマッコウ鯨群はいずれ も繁殖力のある豊かな資源であった。

 鯨は放置すれば無限に増えるものではなく、むし ろ増えていくと餌などの限界があって、棲む環境の 満杯状態に達すると、生殖に減退が生じ、減ってい くという。 繁殖するための活力を得る最適の条件が 得られる水準をMSY水準といい、これは、人間がタッ チしなかった頃の初期資源状態を100とすれば、 その60%であるというのがNMPの考え方であった。

 会議の進行につれて、少しずつこんな情報が得ら れるようになった私は、この会議にくる数週間前、 シドニーで「鯨を危機から救済」しようと1ドルを 投じ、いい気持ちになっていた自分を恥じるように なった。 何故ならば、科学者の討論からも、絶滅し た鯨種は皆無であり、また、もしも絶滅の危険があ れば、そのような鯨種には、すでに、保護が与えら れていたからである。

 しかし、危機は鯨の方にではなくて、日本の捕鯨 の方にあった。 反捕鯨の学者たちは、その頃わずか に残っていた捕獲可能な鯨の系統群を全部捕獲禁止 にしようと目論んで、会議に乗り込んできていたの である。 その年の会議で捕獲枠を設定可能とされた のは、5鯨種に過ぎなかったが、これらを極端に枯渇 しているような計算方法を主張して、捕鯨禁止に 持ち込むのが彼等の戦略であった。 彼等にとって の、最大の武器は皮肉にも、鯨を系統群毎に分けて 保護し、同時に捕獲可能な系統群は資源として少々 利用しながら、増やしていこうという目的を以っ て、開発されたNMP自体であった。 この武器は利用の 方法次第で、どうにでもなるという恐ろしさをもっ ていた。 偉大なるブラックボックス、コンピュータ を利用して、数学モデルの補正値をほんの少々変え るだけでも、目視などで豊富な事が判明している資 源でさえ、ひどい場合には、マイナスの資源量と なって、現われ出るのであった。

 この年の会議では、北太平洋西部のマッコウ鯨系 統群が反捕鯨の学者の最も標的とするところのよう であった。しかし、この系統群はなかなか豊富で、 枯渇の兆しがない。 当時米国の首席代表であった、 ウイリアム・アロン博士が述べたように、「西部太 平洋のマッコウ鯨は11才以上の鯨だけでも、 61,000頭おり、その中から500頭以下の雄 のみを捕獲すると日本は希望していた」のである。 アロン博士は後日また次のように述べている「この ような低捕獲水準が資源に悪い影響を与え得るか は、はなはだ疑わしい。」

 そこで、反捕鯨派の学者が考えたのが、探鯨機 (ASDIC)という設備を装備した捕鯨船を利用する事 であった。このASDICという装備は、1960年代か ら使用されていたもので、特に目新らしい装備では ないが、反捕鯨にとっては、格好の攻撃材料であっ た。というのは、このASDICの使用によって、著しく 捕鯨の効率が上がるとすれば、数学モデルの中に高 い補正値を組み入れる事によって、資源量の計算が 事実よりも低く出るからであった。ASDICというもの は、音の反響を用いて、鯨の所在を約800メート ル先程度で知らせるもので、このような性能しかな い為に、捕鯨船では、一旦肉眼で発見した鯨が潜水 した場合にその位置を知るという用途にしか使用し ていない。しかし、狙いをASDICに定めた反捕鯨の学 者たちは、これをレーダーの如く12キロも離れた 所から鯨の所在を知らせる探鯨機であると主張して やまない。 これを多数の意見として、遂に、12キ ロの距離から使用可能であるという補正値即ち効率 の上昇率40%とする補正値をモデルに組み入れて コンピュータを走らせたのである。 日本の科学者 は、綿密にASDICを導入していない時代のデータを調 べ、導入した後の効率と比較した所、効率の上昇は 最高の場合でもわずか18%であった。

 反捕鯨派の主張をいれて、40%の効率上昇を組 み入れたモデルによる計算の結果、このマッコウ鯨 資源量は雄69,000頭、雌127,000頭と 出た。 これを人間のタッチしていなかったと推定さ れる初期資源量と比較すると、(1947年の資源 量を、初期資源として雄170,000頭、雌 160,000頭)この年の堆走資源量は初期資源 の雄は41%、雌は78%となる。使用した数学モ デルは、CH POPというものであったが、このモデル の要求する最適持続水準MSYLは、初期資源の46% であったので、雄はこれを下回る。日本の捕鯨で は、雄でハーレムを離れて単独行動をしているいわ ば生殖活動に関与していない雄のみを捕獲する操業 であったので、このマッコウ鯨への捕獲枠は完全保 護のゼロとなった。 ちなみに、現実のASDIC使用によ る効率上昇率の18%を組み入れて同じモデルを走 らせた結果は、雄の資源量は132,000頭、雌 では、243,600頭という結果となり、初期資 源に比較しても全く枯渇の兆しはない。

 このような、多数派による補正値の操作は、それ から何年もの間続いたNMPの信頼性を「不確実性」の 高いものと見なす方向へと誘導する戦略の有力な一 部となった。

 この北西太平洋のマッコウ鯨系統群については、 その後何度も特別会議が開かれて、日本の科学者の 開発したモデルと反捕鯨派の科学者の開発したモデ ルとの争いとなったが、常に多数派である反捕鯨派 の勝利となっていった。 その間、日本のデータがIWC のファイルから反捕鯨派によって、ハッキングされ ているという公然の秘密まで噂されたが、遂に、資 源状態はどんなものであろうとも、マッコウ鯨を母 船式捕鯨で捕獲してはならぬという母船式マッコウ 漁モラトリアムが1978年にIWCで採択されて、東 側の系統群からの捕獲は禁止となってしまった。


第四章

日本から金を絞りとれ!

 前章で述べた北西太平洋のマッコウ鯨漁は、反捕 鯨側の開発したモデルの中に、エラーがあるまま走 らせていたり、また、雄がベーリング海まで、回遊 する事実が分かっていながらこれを無視したりと、 散々な目にあって、最後には、全商業捕鯨モラトリ アムの対象となって、捕鯨産業が閉鎖した。 この捕 鯨について、喚起したいのは、それが日本の沿岸 200海里内で行われていたものであるという点で ある。

 1984年11月、日米捕鯨協定(序章参照)に 関する外国通信社の報道の中に奇妙な誤報が見られ た。「日本の沿岸200海里」とすべきところを、 「米国沿岸200海里」と報じたのである。それは 次のような記事であった。「アメリカの沿岸200 海里内で行われる日本のマッコウ捕鯨を制裁するた め、アメリカは国内法パックウッド/マグナソン修 正法による発動を検討」と言うのである。

 日本にある英字新開もみんなこの表現をそのまま 報道した。捕鯨の実情を知らない人が読めば、何と 思うであろう。「日本人というのは、魚だけでなく て鯨までアメリカの200海里まで出かけて獲って いるのか? これでは、海産哺乳動物保護法のあるア メリカが怒るのも無理はない」とある西洋人が私に 言った。 「そうじゃない、日本の沿岸200海里と いうべきところを誤ってアメリカの沿岸と報道した のだ」と私がいうと、この西洋人は、納得しないで こう言うのである。 「いや、通信社が誤る筈はな い。 日本がアメリカの沿岸で鯨をとるなんて、それ は泥棒行為だから、アメリカが怒るのも無理はな い。」 私は日本の有名な英字新開に電話をしてこの 誤りを指摘したが、全く反応はなく、さらに投書し て見たが、無視された。

 こんな誤解は、こと鯨に関する限り西洋人の中に 広く存在する。 無理もない、日本の立場が正確に伝 えらていない上に、一方的に鯨は尊い、絶滅に瀕し ていると宣伝する反捕鯨運動に子供の時から洗脳さ れているからである。 彼等にとって、捕鯨をする日 本は常に悪の象徴である。「捕鯨をするから日本が 嫌い」という言葉を私は何度も開いた。

 しかし、本当に日本は反捕鯨運動に対立している のであろうか? いや、むしろ日本があるからこそ、 反捕鯨運動が成立してきた面があるのである。 反捕 鯨運動は人種差別だと言う日本人がいるが、このよう な見方では、反捕鯨の状況を単純に見過ぎている。 もしも、人種差別がその理由であるとすれば、多くの 問題を抱えたエスキモーの捕鯨を是認するのは何故 か? それとも、人種差別による哀れみの表現から マイノリティであるイニュイットに捕鯨を許すのか?

 いや、確かに人種的な偏見は存在してはいる、そ の証拠に、ノルウェー人が捕鯨をしても、アメリカ は制裁しないではないか? この微妙な点について は、様々な見方があるが、私は反捕鯨はそもそも日 本という経済的競合相手を敵役としたシナリオが あったのだと考えている。 反捕鯨運動によって、武 力を持たない日本を卑怯な闇撃ちによってでなく、 堂々と傷つけられる。 日本が第二次世界大戦に負け たにも拘わらず、不敵にも果敢な経済成長をとげた からこそ、反捕鯨運動によって、イメージを傷つけ るのである。 おまけに、日本の企業は脅せば外国か らの圧力に弱い。 ニュージーランドで、日本の企業 がその現地法人を通じて、反捕鯨のスポンサーと なっていることは有名である。 企業の名は、トヨタ という。 おどろおどろしい鯨の殺りくをテレビのCM に流す反捕鯨運動の最大スポンサーである。 反捕鯨 の先頭に立つWWFも日本のそれには、大企業がこぞっ て参加を希望する経団連とか、日商の役員が理事と なって金が出されている。 日本が国際捕鯨取締条約 第八条に則って、ミンク鯨の調査捕獲を初めた1989年に、 英国では、グリーンピースから在英の日 本企業にやんわりとした脅迫がとどけられた。 「貴企業は日本政府の行う調査捕鯨に賛成ですか? 調査 の基金に応募していますか? しているならば、貴社 の製品の不買運動をしますよ」というものである。 こんなお知らせが金融業にまでもとどけられた。 金を融資してもらうのをどうやって「不買運動」する のかは、かなり高度の技術を要するとは思うが、嫌 味たっぷりではある。

 鯨の会議の前になると、きまって日本車が路上で 炎上するという国もある。 この奇怪な現象は、情熱 的な愛鯨家の仕業であるという説になっているが、実 はディーラーへの恐喝である。 売る車が片っ端から 燃えるのではかなわないと、反捕鯨運動への寄付を 気前よく行う。 このような例は枚挙にいとまがない が、日本は「経済大国」だから、皮肉にも反日運動で もある反捕鯨運動の資金源をなしているのである。

 ベトナム戦争の頃、笑えないジョークを聞いたこ とがある。「アメリカはベトコンを撃ちにいった が、日本はPXに電気製品を売りにいった。 どっちが 強かったか? 勿論日本。 何故?だって、日本はベト コンにまで売りまくって儲けたのだから。」 手を汚 さずに金儲けするという日本のイメージ躍如たる言 い草ではないか。 その頃私はオーストラリアに住ん でいて、奇妙な徴兵制度(誕生日の数字でくじ運悪 く兵隊にとられる)のお陰で、嫌々ながら、ベトナ ムへと刈り出される青年たちを涙で見送る家族や恋 人たちの姿を見かけたものであった。 これらの兵士 達が派遣される先はベトナムだけではなかった。 日本に石油を運ぶのに欠かす事のできない通過点であ るマラッカ海峡の警備にも出ていったのである。 タンカーからの汚染や、危険が報じられる度に、オー ストラリアの新聞には、「我々の若者をどうして、 日本の犠牲にしなくてはならないのか?」という親 からの投書が見られたものであった。

 このようにして、日本に届けられた石油は、その 頃急速に経済成長を進める日本の原動力となった。 「フジヤマ、芸者」にとって代わった新日本のイ メージは、巨大な造船所やコンビナートの果てしな く続く臨海工業地帯であり、止めどなく輸出される 自動車であり、そして、それらを支える疲れを知ら ぬ優秀な労働力であった。 日本人の勤勉さを「仕事 中毒ワーカホーリック」と見、企業集団の規律を 「個性不在の非人間性」と見る西欧の人々にとっ て、報道される日本は人間の住む空間でさえも犠牲 にして、小さい家に住む経済成長第一の恐るべき民 族であった。 この日本のイメージこそ、「環境の 敵」のイメージであった。

 自らの国の姿は日本の中にいては見えて来ない。 私がこんな日本のイメージに気がついたのは、1973年 シドニーの名門男子高校バーカーカレッジか ら社会科の講義をしてほしいと言われて訪れた時で あった。 日本の話をしてほしいと言われ、スライド を持って出向くと、200人ほどの礼儀正しい高校 生が待っている講堂に案内された。 話の糸口とし て、先ずこちらから質問を出した。「連想という言 葉のゲームを知っていますね。 私の言う言葉を聞いて 直ぐに思いつく言葉を言ってください。いいですか? ではまず、昔の日本」。 これには予想通り、 「将軍」とか、「さむらい」という返事が返ってきた。 次に、「現代の日本」と私がいうと、一斉に手 が上がる。次々と返って来た言葉は、「公害」「自 然破壊」「水俣病」「新幹線」などという言葉で あった。

 これが、将来を嘱望されるエリート高校の生徒た ちが抱く日本のイメージであった。 この年代の少年 がその後十年たって、20才代となった時、私は日 本に帰国していた。 1983年東京に住んでいる私 の所に、日豪交流基金から援助を費けて、来日取材 をする地方新開の若手記者がやってきた。 この青年 に日本の初印象を聞いてみた。 彼は言った、「びっ くりしました、日本が余りにも緑なのでね。 成田空 港に着陸する時、空から見ていたら、随分地上は緑 ですよね。 それに、東京の町も車の多い割には、排 気ガスがなくて、意外でした。」 彼は続けた。「僕 はね、高校のころから日本という国は、環境を犠牲 にして、経済を優先し、金持ちになった国だと教 わってきました。 そこで、別に何の証拠もなく、日 本は灰色で、緑のない国だと信じてきたのです。」

 それからまた十年が過ぎた。日本の中でも環境問 題に敏感な人々が出てきたが、それは、一種のコ マーシャル的環境保護ムードではないかと思われる 節もある。 シャンプーを毎朝するのが流行ったと思 うと次の年には、それは、環境に悪いからやめると いう風なムードである。 反捕鯨に賛成する日本人も 増えている。 鯨を愛するのがナウいのであろうか? しかし、日本人の祖先はずーっとと鯨を愛し、利用し てきた。 西洋人の祖先が羊や牛を愛し、利用してき たように。 「メリーちゃんのひつじ、羊、羊、真っ 白な子羊」「可愛い可愛い子鹿のバンビ」と歌って 愛してきたが、彼等が、羊や鹿を食べるからといっ て、日本人が彼等を環境の敵にしたという話は開い たことがない。

 こんなことをとりとめもなく考えていると、私 は、IWCの科学小委員会で冷静な意見を述べるある ニュージーランドの科学者の言葉を思い起こす。

 彼は言う、「私は一般に信じられているように、 日本が世界で最も悪名高い環境破壊の国であるとは 思わない。 今ニュージーランドは世界で最も自然保 護の盛んな国であると思われているが、実はその歴 史の中では、大規模な自然破壊を行った。 牧場を作 り、羊を飼う為に、国土を覆っていた森林の70% もを犠牲にしたという歴史がある。 しかし、われわ れの国の今のイメージは美しい自然の国である。 日本は国土の三分の二に上る土地が山岳と森林である と開いているが、それをいうと日本人自身が驚くの でかえって、こちらがびっくりする」。 ニュージー ランドの森林破壊などという経験は歴史の奥にひっ そりと隠されてしまい、日本の方は、情報の偏向も 手伝って今だに環境保護に無関心な国というイメー ジで見られている。

 国土の三分の二が山岳や森林であったため、日本 人の祖先が沿岸地方に多く住み、古くから、海の幸 を求めて漁業に出かけて行ったのは、必然であり、 生活の知恵であった。 今、米さえも輸入が始まり、 穀類は世界最大の輸入国であるし、魚や肉まで輸入 に依存しているのが、日本人の食生活である。 そん な時代に、鯨肉は、自給出来る貴重な蛋白源である。 乱獲は論外としても、資源が健全であれば、少 しずつ利用すべきではないのか?

 ミンク鯨は小型ながら、一頭につき牛の食肉生産 の約16倍の鯨肉を生産する。 陸上動物には四つ足 とか太い首とかが肉の生産量を制約するのである。

 おまけに、牧畜の為に森林を伐採する必要もあ る。牛の放牧には、一頭あたり半エーカー(約 1500m2)もの土地が必要である。

 南氷洋のミンク鯨は、IWCの科学小委員会でも頑健 な資源であることを認めた鯨系統群である。 この飽 食の時代に何も南氷洋まで出かけてミンク鯨を捕獲 してまで、鯨を食べる必要はないという人もいるか もしれないが、それは、地球的視野を有さない意見 である。 地球上に今すでに飢餓に悩まされている民 族もいるのである。 問題は食糧不足というよりは、 食糧の偏在である。 日本ばかりがこんなに食べ物を 買い付けてよいのであろうか? 牛や豚や鶏の餌ま で、輸入しているというではないか? 世界の人口は 現在この瞬間にも増加を続けており、21世紀に は、今の5倍の食料でも足りなくなるという。 広い 海で、ほぼ無限に生まれてくるプランクトンを餌と している鯨を人類共有の食資源として、尊重すべき ではないのか?


第五章

豊かさと食

 日本は経済大国であり、食料があり余っているか ら、何も鯨肉まで「グルメ」のために食べなくても 構わない、いや、むしろ食べてはならない、と考え る人が世界にも日本にも多数いる。 この論旨は、私 が考えると非常に一方的なものである。 例えば、私 にとっては、西欧のある地方で好まれる食物、七面 鳥、きじ、水鳥、鷲鳥の喉に詰め込んで作るフォア グラ、タルタルステーキ、牛の胎児、カリブなど は、「グルメ」としか考えられないが、それでも、 私は彼等にそれらを食べないでほしいとは言わな い。 ましてや、ある英国の下院議員のように、「ノ ルウェー人や日本人が鯨肉のような風変わりなものを 食べたいのならば、共食いをすればよい。」と大衆 に訴えたという報道を読めば、それはとても大人気 ない発言だと思う。 ある時私は米国の上院議員ボ ブ・パックウッド氏の通訳をする光栄に浴した。

 彼はかの有名な米国の漁業制裁法であるパック ウッド/マグナソン修正法の起案者であり、捕鯨反 対の日本叩きのリーダーでもある。そのパックウッ ド上院議員に、ある日本の報道記者がこんな質問を した。「アメリカ人は豊かでありますが、それでも 牛肉を食べ、日本人は豊かであるから、鯨肉を食べ るなというのは、どうしてですか?」この質問に パックウッド議員はにこやかに答えた。「ねえ、君 判り切ったことを聞くんじゃないよ。牛は人間が食 ベる為に生産しているのだから、食べるのは当然だ ろう。 それに比べれば、鯨は絶滅しかけている貴重 な野性生物だ。 鯨を食べるくらいなら、ほかに食べ るものはいくらもある筈だ。」このパックウッド議 員の答えは、多くの人々にとって、いかにも理にか なった応答に思われるであろう。 しかし、ちょっと 待ってほしい。 絶滅の恐れがないミンク鯨はどうな るのか? 食用の牛を放牧する為に伐採される森林や 原野はどうするのか? この日本人記者は決してパッ クウッド議員をからかっていたのではなかった。 彼は、この高名な日本叩きの政治家がどの位一方的な 論旨をもっている人かを知りたかったのであろう。

 もし貴方が豊かであれば、民族はその食生活を転 換出来ると安易に考えているのならば、私は北米大 陸の北端にあるアラスカ州のバーロウの町を訪れる ことをお勧めしたい。 バーロウでは、世界でも最も 枯渇の水準が心配されている鯨種である北極セミ鯨 (英語で Bowheadと呼ぶ)を住民が捕獲することを IWCが許可しており、それは、これらの住民が豊かで ないからではない。 いや、むしろ豊かであるからこ そ、捕鯨が催事として許可されているのである。町の 公共施設は完備し、住民の多くはセントラルヒーティ ングのある広い住宅に住む。町のスーパーマーケッ トには、牛肉から日本の白菜まで、あらゆる食品が 揃っている。 ビデオショップには、最新のハリウッ ド映画のビデオが揃っており、明け方まで、暴走族 めいたスノーモービルやバギーカーの騒音でゆっく りと眠る時間もない。 若者達は、私の訪問した9月 の末の長い日照時間をフルにエンジョイしていた。

 バーロウで捕鯨のキャプテンの地位を保持するの は、単に人望があるだけではなく、資産が必要であ ると私は何度も聞かされた。 なぜならば、ここの捕 鯨は原住民/生存捕鯨としてIWCが認定しており、そ の為には、金銀による鯨肉の取り引きが出来ないか らである。

 捕鯨を続ける為には、近代化されたモーターボート (秋に氷が接岸していない時期に行う捕鯨には、 非伝統的なモーターボートが必需品である)をはじ めとし、ガソリン代、気象状況モニターの為に欠か す事の出来ないコンピュターや、高性能の無線機、 モリ撃ちの銃、一隻に五人は要するクルーの日当、 (時には、一ケ月もの日数がかかる)など莫大な経 費が必要であるからである。 町は石油や天然ガスな どの資源開発に伴って、財政が豊かであり、財テク の専門家も郡役所に配置されている。 この豊かさを もって、住民は、米国本土から野性生物研究の科学 者を雇用し、ワシントンには弁護士を置き、連邦政 府の内務省に人権問題であると訴え、その結果枯渇 した北極セミ鯨の捕獲をIWCに認めさせたのである。 IWCの科学小委員会は、今でも、この北極セミ鯨の 系統群が十分な資源状態にあるという意見はもって はいない。 バーロウの町の統計には、鯨肉は住民の 蛋白源のわずか8%程度であり、主食としての役割 を果たしてはいないことが判る。

 アラスカ原住民捕鯨の文化人類学的意義を研究し てきた学者は世界に多数いるが、彼等の多くは日本 の沿岸小型捕鯨には、アラスカと同様の文化的役割 が存在していると、すでに、1988年以来30余 りに上る研究論文をIWCに提出してきた。

 バーロウの町の豊かさに比較すれば、日本の沿岸 小型捕鯨の町、鮎川の住民の生活はモラトリアムに よって、捕鯨が停止してから、決して楽なものでは ない。確かにバーロウよりは、暖かいかも知れない が、零下5度になる冬でも、バーロウの住宅にある ようなセントラルヒーティングのある家はないし、 広大なスーパーはおろか、肉屋にもステーキなどは 売っていない。鯨肉は水産品であり、かっては魚屋 で売られていたが、今は魚屋の店頭を飾るものは、 地先で漁獲された少々の魚だけである。捕鯨に代わ る産業として、試みたサケの養殖も、北米産のサケ に市場を席巻されて、あえなく失敗してしまった。 若者や働き盛りの男たちは職を求めて他所の町へと 出稼ぎに出てしまい、町には、老人と女、子供しか 残っていない。だから、一年中夜は死んだような静 寂が町を覆い、バーロウのように暴走族めいた騒ぎ はない。

 公共施設の面で、鮎川がバーロウと太刀打ち出来 るのは、失礼かも知れないが、前近代的なトイレ施 設だけであろう。どちらも、個別のタンクでお茶を にごしている。

 それでも、鮎川の人々はミンク鯨の捕鯨がかって 住民の活動の中心であったことを忘れることは出来 ない。 だから、地先の沖合いでミンク鯨がとれた日 に、町の病院の窓からでさえも患者たちの歓声が上 がったものだと、オーストラリアからこの町の捕鯨 を研究しに来ていたマンダーソン教授は語る。

 鮎川のような沿岸小型捕鯨の町の人々のために、 日本政府はIWCに暫定捕獲枠50頭を毎年要求してい るが、米国を中心とした環境保護団体の圧力によ り、受け入れられた試しがない。米国は、日本の小 型捕鯨は商業捕鯨であり、アラスカやロシア、 グリーンランドなどの原住民生存捕鯨と同等には扱え ぬというのが理由である。 そこで、日本では、万一 IWCがミンク鯨50頭の捕獲を暫定枠として認める ならば、沿岸小型捕鯨をする市町村は鯨肉を売り買 いしないで、その地域内で消費するという約束まで しているのである。 豊かで、捕鯨に経済的な依存を しないですむバーロウの捕鯨者が、捕鯨を催事であ るからと認められ、経済的に捕鯨に依存して暮らし てきた日本の沿岸小型捕鯨者は、ひたすら文化的理 由のみの目的で捕鯨再開を望んでいる。

 グリーンランドの原住民生存捕鯨では、ミンク鯨 だけではなくて、ナガス鯨も捕獲をIWCは認めている。 グリーンランドの原住民生存捕鯨では、小規模 ながら鯨肉の売買も認められているのである。 ロシアの場合は、毎年200頭近い大型のコク鯨を地方 政府がチャーターした捕鯨船でプロの捕鯨者が捕鯨 を行っているのである。自分が豊かだからといって、 我々は僻地の少数の人々に向かって、彼等が地 域の伝統として、あらゆる犠牲を払ってもミンク鯨 を食べたいと言っている時、彼等は少数者だから我慢 せよと、言う神経を持つことができるのであろうか? アメリカでは、少数者の権利が彼等が豊かである から認められたというのに、一体どこでこんな矛盾が 生じたのであろうか? 答えは簡単である。捕鯨は政治 的駆け引きの道具となってしまったからである。

 反捕鯨を看板にする国に限って、国内に他の環境 問題が山積している。 これらから大衆の気をそらせ るには、自国が何も失うもののない捕鯨問題は格好 の目隠しなのである。


第六章

科学への冒涜?

 南氷洋で日本が行っているミンク鯨の捕獲を伴う 科学調査を評価するメディアの姿勢には、たとえそ れが日本のマスコミであっても科学調査というもの に対する基本的な巨視観に欠けた傾向が見られる。 それは、ミンク鯨と言う資源が人類に与えられた豊 かな食資源であり、その研究は、人類のためという 観点の欠如である。

 日本が商業捕鯨停止の後、科学調査の為に捕獲を 伴う調査を南氷洋で行うと発表した時、マスコミの 報道ぶりは、あたかもそれが商業捕鯨の代りとなる ものであるかのような報道ぶりであった。

 日本でさえも、この調子であったのだから、西欧 のメディアの姿勢は当然ひどいものであった。そし て非難の嵐がまき起こり、日本は科学者の当初の意 図を再三まげて、標本として採集するミンク鯨の頭 数を半分以下にまで削減することを余儀なくされた のであった。 統計的に有効である為のギリギリの頭 数にまで減らした結果、さまざまな不都合が生じて いる。 その一つは、調査の正確な結果を得る為に要 する年数が余計かかるという事である。

 そもそも国際捕鯨取締条約には、加盟国が鯨類の 科学調査を行う権利が明記されている。 条約第八条 がそれであり、そこには、調査研究の為に捕獲され た鯨は、標本として使用するのみでなく、調査を行う 政府の決定により有効に使用すべしと指定さえさ れているのである。調査の標本として捕獲されたミ ンク鯨の生物学的あるいは統計学的な研究に要する 部分を採取した後、貴重な鯨肉を破棄する事は条約 の基本である鯨の有効利用の精神にも反するもので ある。わざわざ南氷洋まで調査に船団をくり出すの は、莫大な費用がかかり、その調査が16年もかけ なければ結果が出ないという事になるのでは、調査 費用捻出の一助として、鯨肉を販売するのは条約の 基本からして当然である。

 反捕鯨国が日本叩さの材料に、理不尽な調査再考 決議を毎年IWCで採択し、彼等の国の反捕鯨組織をな だめる手段としても役立っていると言えば、余りに も皮肉に聞こえるであろうか? 日本やノルウェー が行っている調査は、反捕鯨の組織が一番恐れてい る事、即ち、鯨が生態系にどんな関わりを持ってい るかを明らかにする真面目なものであるだけに、IWC で毎年まるで儀式の如く持ち出される「科学調査へ の再考決議」は国際法的にも、拘束力のないお経の ようなものである。それは、反捕鯨国の代表が国に 帰って報告するための全く政治的なパフォーマンス なのである。

 日本の調査はすでに7年の実績を持ち、当初散々 に反対していた反捕鯨派の科学者でさえもが、日本 の調査で得られたデータを使用して論文を書くに 至っている。

 日本が独自の調査に乗り出す前に、IWCは1978年 以来毎年ずーっとと南氷洋ミンク鯨資源について の鯨類資源目視調査を行って来た。これはIWC/IDCR 調査というプログラムであり、南氷洋のミンク鯨の 資源がいかに変化し豊富なものであるかを知る貴重 な研究である。ここから得られたデータやその解析 は、非常に洗練された水準に達しており、その科学 的価値を否定する科学者はIWCの科学小委員会は基よ り一般の野性生物研究者の中いないであろう。 世界 8ケ国の鯨研究者が協力して実施しているこのIDCR 調査には、年間5億円以上の経費が必要であるが、 それを日本が負担していることは、さすがの反捕鯨 学者でも非難することがない。 米国、英国、南ア、 旧ソ連、豪州、ニュージーランドなどの科学者が計 画に参加し、調査員として日本の提供する目視船に 乗船して毎年南氷洋に出かけているのである。 この ような規模で広大な南氷洋を緯度と経度10度区画 に細分して目視を行うという事は、海洋資源調査の 分野でも画期的なものであり、IWCが世界に誇る科学 的資産でもある。

 現在反捕鯨運動が究極の目的としているものは、 南半球の鯨サンクチュアリー(聖域)化である。 これは、IWC科学委員会の専門家が6年の歳月を費やし て、数十万回のコンピューターシュミレーションを 重ねた末やっと安全第一の捕獲枠設定の方式を開発 したが、その努力の賜である改訂管理方式(RMP)の 実施を妨げるものであり、科学的な意味がない政治 的な提案である。 サンクチュアリーを設定する場合 には、科学的に他の海域との資源状態などの比較を モニター出来る設定方法でなくてはならず、また、 鯨群の繁殖域と索餌域双方をモニター出来なくては 意味がない。 ただ単に鯨だけを保護するのではなく て、他の人為的な活動全てを一定期間停止して、そ れ以前の状態との比較研究がなされるべきものであ る。 しかし、今IWCに提案されている聖域提案は、 鯨だけを完全に保護するが、他の人為的活動は停止し ないという半端なものである。 即ち、提案国である フランスの代表が、自らこれは政治的な提案である と発表しているものなのである。 ある著名な鯨の数 学者は、「このようなサンクチュアリーはモラトリ アムと同意語に過ぎない」と語っている。

 もし、サンクチェアリーが科学に寄与するもので あるならば、聖域化した広大な海域をすっかりカ バーするような一大スケールのモニターが必要であ ろう。(北半球での範囲を比較して挙げるならば、 フランス提案は南緯40度以南というので、その広 さは北半球ならば、マドリッドから北極に至る全域 に相当する)このような広大なスケールのモニタリ ングには、沿岸国の全ての協力も必要となろうし、 中にはIWCの加盟国でない国さえあるのでは、誠に非 現実的である。

 サンクチュアリー提案の真意は、要するに、一頭た りとも鯨を獲らせないようにするということだけで ある。 これは、いわばIWCの自殺行為ではないだろうか? そもそもIWCは条約の前文に次の様に謳っている。

 「鯨族が捕獲を適当に取り締まれば繁殖が可能で あること及び鯨族が繁殖すればこの天然資源をそこ なわないで捕獲できる鯨の数を増加することができ ることを認め、・・・」

 もしも、永遠にミンク鯨が繁殖するに任せておけ ば、一体南氷洋の生態系にどんなことがおきるのか を捕獲禁止の聖域内でどうやって調査するのであろうか? このような聖域の設定はIWC自身の自殺行為であろう。


第七章

誰が倫理の基準を定めるのか?

 日本が関知する限りにおいて、捕鯨に関連する行 動は、全て国際捕鯨取締条約を遵守して行ってきた。 ところが、反捕鯨は今や「倫理」に基づく制約 を言い立てている。しかし、世界にはいろいろな民 族が存在し、それぞれが、異なる習慣や文化を持っ て生活している。 であるから、一元的な倫理観で全 ての民族の行動を規制することは出来ない。 そんな 状況でああるから、もし、捕鯨問題に普遍的なルール を設定するとしたら、それは科学に基礎をおいたもの でしかあり得ない。 IWCがそもそも捕鯨のルール決定 に関して、「科学的認定に基づくもの」でなければな らないと条約で謳っているのは、腎明な事である。

 世界は現在多文化の時代に入りつつあり、多くの民 族がお互いの異文化を認めあって暮らす必要が生れ ている。これに失敗すれば、中東や旧共産圏で発生し ているような血なまぐさい争いが生まれてしまう。

 異文化を認めあうことにより我々の視野は広が り、我々自身の「文化」が洗練され、そして、思い やりと平和が心に宿るであろう。

 私はここで、故ケネディ米国大統領が死の年に演 説した言葉を想起したい。 彼はその演説で、捕鯨論 争ゲームについて言及していた訳ではないが、(捕 鯨論争は彼の亡くなった後に盛んとなった)1963年6月 ワシントンのアメリカン大学での卒業式に際し、 次のような永遠のメッセージを若者たちに残してくれた。

 「我々が違いを持つ者であることに目を閉じるの は辞めよう。 そして、また我々がこれらの違いを克 服できる道を探し出すことにも注意を向けようでは ないか? もしも我々が違いを今片付けることが出来 ないのならば、少なくとも、我々は世界が多様で あっても、安全なところになるように努力をするこ とができる。」


終章

文化論争 捕鯨問題の示唆するもの

 日本には、鯨肉を食する習慣が古くからあった。 萬葉集(360−759)の和歌の中にも鯨を示唆する枕詞 「いさなとり」という枕詞がある。 平安時代(794− 1185)には鯨が食品のリストに含まれていたし、室町 時代(1392−1570)には食礼式のメニュー の中に鯨肉が含まれており、調理法も記載されてい る。 しかし、捕鯨が産業として発達したのは、江戸 時代(1600−1867)であった。 捕鯨は主と して、日本列島の南から西の部分で行われていた 為、江戸(今の東京)など関東地方では、一般の 人々の食卓に鯨肉が上ったのは、戦後の食料難時代 に南氷洋捕鯨が大量の鯨肉を供給する様になってか らである。 従って、西欧の反捕鯨を信奉するマスコ ミ等が、「捕鯨は日本の文化ではない、大都市で町 行く人に開いてみれば判るように、日本人は鯨など 食べたいとは思っていない。」と言う時、それは、 これらのマスコミによる取材が極く皮相的なもので あり、日本の中に存在するローカル色豊かな食生活 の多様性についての無知を露呈している。

 鯨が全部絶滅に瀕する野性動物とは限らないとい う事が、IWCの科学小委員会の水産資源学の専門家に よって証明された以上、鯨、特に絶滅の危険がない 南氷洋などのミンク鯨を食する事を道徳的に許され ないと言うのは、全くの文化的差別行為である。

 これを差別でなくて、倫理として正当化する為に は、IWCでモラトリアムを保持してもらうか、そうで なければ鯨の聖域をIWCの正式なお墨付きを得て設定 しなくてはならないだろう。

 一方反捕鯨という観念もまた、ある種の文化であ ると言えよう。これは、動物権を人権と同様に認め ようとする風潮が今風な文化であるのと根源を一に するものである。

 人間は誰でも生存していく為には、他の生物種を 食せざるを得ない。 たとえ菜食主義者であっても、 野菜は生物種である事を考慮すれば、問題は、我々 が生存する為の食において利用するさまざまな生物 種のどれを食し、どれを食さないという選択をする こと、要するにどこで線を引くかの問題であって、 その線引きの限界については、民族や地域に違いが あって当然であり、これを一つにまとめてしまおう とすれば、差別となってしまうのである。

 私がオーストラリアの大学で日本の捕鯨について の立場を講演した時聴衆の中に動物権主義者の女性 がいて、次のような質問をした、「日本はミンク鯨 が絶滅の危険にないから食料としてもよいという立 場にあると貴女は言っているが、それなら、どんど ん増えている人類は絶滅の危機にないので、日本人 は食べてもいいと考えているのか?」

 また、日本のテレビで捕鯨反対の人々と対談した 際に、「捕鯨賛成という人は、何でも食べてよい、 鯨食も文化だというが、それならば、パンダも食べ ていいのか? 人間も食べていいというのか?」と迫 られた事があった。

 いずれの質問者の場合にも、私は彼女たちの心理 の中に極端な人間蔑視の精神を感じた。 彼等は、 我々が共食いをする者であるという極限の思想を抱 いているし、また野性のパンダが絶滅に瀕する野性 動物であるという知識を持たない者であると考えて いるかのようである。

 シュワイツアー博士の言われたように、「人間は 虫を殺し、耕作の為には土壌を堀り返して、そこに 生息する微生物を殺す」のであり、耕作して得た穀 物を家畜に与え、その家畜を食べるのである。 要す るに、「生命というものは、他の生命を奪う事に よって成立している」のである。(シュワイツアー 1950)

 鯨を食するのが文化ならば、捕鯨を倫理的に許さ れないという反捕鯨も文化であろう。片方が一方的 にもう一方を屈服させようと果てしない論争を続け るのも、一種の文化であるかもしれないが、それは 余り建設的ではない。特に、世界が文化の多様性を 許容する時代に逆行するものであろう。

 我々は、鯨を特に他の動物よりも人間に近い特別 な「海の人類」であるという思想はもってはいない。 しかし、もし資源として、健全な利用に耐える ものであれば、利用して何故悪いのか? それが、日 本人であり、ノルウェー人であれ、ある民族の食生 活に根ざした文化が許容するものであるならば、一 方的に禁止という「道徳」を押し付けて、食習慣を 曲げるという独善を許してはならないと考えている だけである。

 ノルウェーで調査の副産物である鯨肉が少々オス ローの肉屋の店頭に現われた1992年、開店を待 つ長蛇の列ができたという話を聞いて、私はノル ウェーの人々の鯨肉に村する愛着と、そして、心意 気を感じたものであった。

 日本が捕鯨にこだわるのは、単に政府の面子の間 題だなどとたわ言を言う人はこのノルウェーの人々 の行動をどう説明するのであろうか? 日本人はノ ルウェー人よりも動物権に基づく擬人倫理に従順で あるとでも言うのであろうか?

 日本が捕鯨をすっかり諦めたなら、次の標的は、 反捕鯨でなくて反漁業であろう。 この傾向はすでに、 英国のタブロイド新開が「魚を食べない日」を 作ろうと提唱している事実からも明らかである。 そうならない為にも、我々は日本の食文化を守るとい う大義の為に捕鯨にこだわり続けるであろう。

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