鮎川の悪漢ども

(「勇魚」第 6号、1992より)

ジェイ・ヘイスティングス
米国ワシントン州弁護士
(大日本水産会コンサルタント)



 私と日本の漁業との職業上のかかわり合いは、1976年11月に始まりました。 その頃米国は沿海200海里の漁業保護領域を設定したばかりであり、この法律により日本の主要な漁業が、突然、全面的に米国の関係当局の管理下に置かれることになりました。 そこで私の役目は、日本の漁師達がこの新しく複雑な漁業管理制度を理解し、それに対処する手助けをすることでした。

 この仕事は困難ながらやり甲斐のあるものでした。 日本のトロール網および延縄による漁業が米国沿岸海域からの段階的撤退をさせられるのは、避けられない運命でした。 米国の管理当局に対する我々の成功の度合は、日本の漁師達のために200海里設定前の漁獲高をどの程度維持できるかにかかっていました。 新たに獲得できるものなど、皆無でした。

 そして私は、日本の漁師達が尊敬すべき人々であり、彼らの漁業上の立場も、私が代理人を務めるにあたって充分信頼できるものであることを身をもって知りました。 何といっても、これらの日本人漁師達は捕鯨に徒事していなかったのですから。 これは私にとって大事な点でした。 というのは私の頭の中には、どん欲な日本の捕鯨者達が勝手放題に鯨を殺りくしている生々しい映像が、環境保護主義者達によって巧みに植え付けられていたからです。 鯨のような巨大で素晴らしい生き物とその環境に少しも考慮しない捕鯨者とは、何とひどい連中だろう。 私は日本の捕鯨とのかかわり合いを一切もたぬよう慎重になりました。

 1980年代の半ば頃には、米国海域内での日本の漁業を救おうと奮闘していた私にとって、捕鯨問題は日々の頭痛の種になっていました。 今にも実現しそうな世界的な商業捕鯨のモラトリアムに対して、日本は抵抗していました。 さらに、米国沿岸海域における日本の漁業割当を大幅に削減するという米国の脅しにより、日米関係は緊張の度合を増していました。 捕鯨問題が私の仕事をこれほどやりにくくしている事実を、私は迷惑千万と思っていました。

 捕鯨をめぐる緊迫状態は、1988年の秋にやま場を迎えました。 私は日本に出張することになっていました。 米国政府関係の3人の友人達も、時を同じくして東京で国際的な漁業会議に出席する予定でした。 日本の漁港を訪ねる気があるか、私は彼らに聞きました。 大いに興味があるとの答えでした。 彼らは何と、沿岸捕鯨の村を訪問したいと頼んできたのです。

 私は驚くと同時に困惑しました。 捕鯨に関することは、一切彼らの目に触れさせたくありませんでした。 でも断わるわけにはいきません。 私は必死で日本の捕鯨に関する勉強をはじめ、興味津々の友人達を案内するのにふさわしい漁村を探しました。 日本の捕鯨の歴史と文化に関する文献類が、読まれることなく多年にわたり私の本棚でほこりをかぶっていました。 私は早速ほこりをはらって仕事にとりかかりました。

 細心の検討の結果、私は最終的に鮎川を選び、自己紹介を兼ねて下見を計画しました。 公式の訪問中に友人達が、不快感を起こすような捕鯨の側面を絶対に目にしないように、私は手段を講じるつもりでした。 1976年に私が初めて日本を訪れた際には、水産庁捕鯨班の岡本純一郎班長が面倒をみてくれました。 そして12年後の今、彼が私を鮎川に案内してくれることになりました。

 日本の東北海岸の牡鹿半島に位置する鮎川は、旅行時間からいっても、文化の上でも、東京から遠く離れています。 石巻から鮎川へ行くバスは、牡鹿半島の僻地におけるスクールバスの役目も果たしています。 でこぼこの海岸線をたどる見事な景色の山地の道路に沿って、バスは何度も停車しました。 幼い学童達のおしゃべりやじっと見つめる視線により、私は今までこの地域を訪問した外国人がほとんどいなかったことを確認しました。

 我々は鮎川の大通りでバスを降りました。 かつては賑やかだったと思われる町も、今やさびれています。 我々は寂しい通りを歩いて町役場に着き、安住重彦町長と役場の職員達、そして町の捕鯨者の長老である鳥羽洋次郎氏と阿部敏彦氏の出迎えを受けました。 我々は、私が下見のために来た公式の視察について打ち合わせをしました。 まず鳥羽家を訪問し短い会合をもち、それからお寺の僧侶と町の博物館を訪ねる計画を立てました。 私は、鳥羽氏の家を鯨の強奪から得た財産により建てられた大邸宅と想像していたので、その家を訪れることにより米国人の友人達の受ける印象を懸念しました。 しかし、心配には及ばないと誰もが保証してくれました。

 鳥羽家の簡素な畳敷きの部屋が、日本の捕鯨を学ぶための私の最初の教室になりました。 町の捕鯨者達が自分達の職業について誇らしげに話してくれるにつれて、私には日本の沿岸捕鯨の歴史が段々わかってきました。 訪問前に資料を読んだ際には、私はこの歴史の重要性を見過ごしていたようです。 続いて地元のお寺の僧侶を訪れるに及んで、食糧として人間に生命を与えてくれる鯨という存在に、日本人がいかに深遠な文化的・倫理的価値を見いだしているかを、私はさらによく理解することができました。 一時の感情に駆られて捕鯨の研究書を読む中で、私はこうした価値観が日本人にとっていかに大切であるかも、見過ごしていたのです。 その日の夕方に気乗りのしないまま見学した小さな鯨の解体作業も、結果的には、米国で見かける週末だけのスポーツ・ハンターが、不器用な手付きでナイフで鹿の下ごしらえをしている姿に比べると、はるかに穏やかなものでした。

 その夜私は、2つの相反する立場を理解しようとするいかなる努力も放棄して特定の問題について早まった判断を下していた自分の怠慢を深く反省しました。 私は米国の歴史と、米国への入植者に対する英国王による道徳的価値観の押し付けに敢然と反抗して革命を起こした私の祖先達を、誇りをもって思い出しました。 その時私は、米国人達が今では自分達の価値観を異文化の人々に押し付けようとしていることに気づきました。 日本人は米国人の圧力に屈服すべきなのでしょうか? もちろん、そうではありません。

 翌朝我々は、公式訪問のスケジュールを確定させるために町役場に戻りました。 東京に発つ我々を前にして、安住町長は7−8年前に米国のある環境保護主義者達の団体が鮎川を訪ねてきた際の話をしました。 彼らは町を歩き回り、捕鯨に関連したものを手当り次第写真に撮りました。 町の人々は彼らに対して、昔ながらの心のこもったもてなしをし、自分達の生活様式を誇らかに説明しました。 ところが米国人達は、自分達は捕鯨に反対していると繰り返すばかりでした。

 その後安住町長は、米国人達が帰国後にある報告書を出版したことを耳にしました。 環境保護主義者達は、鮎川に住んでいる人々を、捕鯨に従事しているがゆえに悪漢であると書いていたのです。 町長は一瞬間を置いて、鮎川には悪漢など一人も住んでいないと私に請け合いました。 私も全くその通りだと答えました。 そして私は安住町長に、私の鮎川での体験を、そして可能であれば日本の捕鯨に対して深まった私の理解をも、共有させる助けとして、他の米国人を伴って必ずこの町に戻ってくると約束したのです。

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