捕鯨が嫌いだから誰にもさせたくない

(HNA(ハイ・ノース・アライアンス)発行 "The International Harpoon"(2000年7月)からの訳。 15-May-2002。
原題:"I Don't Want It Because I Don't Like It")




オーストラリアは菜食主義者の国というわけではない。 彼らはたいていの国よりも多くの肉を食べたり輸出している。

オーストラリア人は野生動物を殺さないというわけでもない。 毎年300万頭以上のカンガルーが害獣扱いされて殺されている。 オーストラリアは多大な力を注いで、この駆除を企業活動に変え、カンガルー製品を輸出する許可を得るためにアメリカと戦っている。

オーストラリアが動物福祉の先端を行く国というわけでもないのは、中東への生きた羊の輸送の件や、羊のミュールズ手術の非人道的な実態からも明らかである。

このような事情のもと、オーストラリア政府が設置した捕鯨政策についての特別チームは、オーストラリアの二重基準を非難されないようにするという困難な仕事に直面した。 結果は失敗に終わったようである。


子羊の脚肉もダメ

特別チームの報告書(*1)における最初の大風呂敷は、『動物権と動物の開放の動きは ・・・ 数百万の人々の倫理観を変える兆候が見られ ・・・ 』というくだりである。 この一文は、我々の道徳観は進化しつつあり、常に新しい高みに向かっているという一節で終わる。 これは、最新の倫理的立場は常に過去のものより優れているという意味である。

特別チームは、動物福祉のイデオロギーの事は知っているだろう。 となると、動物福祉という「新しくて優れた」倫理的概念は、今後、人間という動物とその他の動物の関係を支配すべきだということになる。

オーストラリア人が、この特別チームの勧告を適用するなら、すべての動物が神のもとに平等である以上、子羊の脚肉の料理、ペット、乗馬、害獣の駆除などがオーストラリアから消えねばならなくなるが、それだけの覚悟が彼らにあるのだろうか?


私の場合は特別である

この質問に対する彼らの答えは、もちろん「ノー」であろう。 そして、このような疑問が起こるのを避けるために、特別チームは捕鯨だけを特別扱いせざるをえない。

報告書では、『鯨の知能は、今日なお広範に議論されており ・・・』と但し書きをつけたうえで、予防原則を濫用して『別の結論が出るまでは(ありそうもないが)、鯨の特別な知能を示唆する証拠を受け入れるべきである』と結論づける。

報告書において鯨の知能を支持する「証拠」は主観的で多岐にわたる。

彼らは「鯨」という言葉で単一の種であるかのように扱っているが、実際には70以上の種がある。 たとえば、イルカの行動特性は知能の兆候であると解釈する人もいるが、そういう特徴はミンククジラの行動には見られないのである。

また、『母鯨と子鯨のきずな』、『社会形態』、『生活を楽しむことができるかのように見える』などを挙げて鯨が特別であるとしているが、同様のことは、羊の群れの中で子羊が戯れている様子にも観察されることである。

一方的に鯨を『ユニークな』動物として扱うに際して、特別チームは、ECサミットの海生哺乳類に関する報告書における、「鯨類はそのユニークさのために捕獲されてはならないという議論がある。 だが、自然界ではすべての生物種がユニークであり、ある動物が他のものよりもユニークであると主張して特別な扱いをすることは困難であろう」という声明を無視してのけたようである。


大型類人猿プロジェクト

ある種の動物が『特別』であり、それゆえ特別な倫理的考慮の対象となるという考えが強引でないことを示すために、特別チームは『道徳社会を拡張』し、国連に「猿権」(猿の権利)を認識させるために行われた「大型類人猿プロジェクト」について指摘する。 『この提案が大型類人猿に与える最も重要なことは、殺されない権利である』と特別チームは述べる。

この言い分は明らかに、大型類人猿プロジェクト発足の背景にいたオーストラリア人哲学者ピーター・シンガー(Peter Singer)が、「ある動物は特別な存在であり、他の動物が殺されたり食べられたりしているなかで、生きる権利を与えられるべきだ」という考えではなかったことを知らないようである。 シンガーは、そういう考えを「動物種差別(スピーシーイズム)」として見ていた。 彼にとっての猿権の主張の位置づけは、「種の障壁」と彼が呼ぶものを乗り越え、やがては、すべての動物が平等であると認めさせるための戦術なのである。

特別チームは、シンガーと大型類人猿プロジェクトの関連にはふれていないが、彼を「我々は鯨を資源と見なさないから、という理由で捕鯨に反対していた」と、報告書の他の箇所で引用している。 知における誠実さという点から言えば、特別チームはシンガーが動物を資源として扱う考え全般を受け入れていなかったことにも言及すべきではなかっただろうか?


確信

特別チームは、自分達の議論がそれほど説得力がないことは認識していたようである。 鯨が特別であるとあれこれ証明しようとした議論のあと、『つまるところ、鯨が特別だという広い確信があるのだから、何が鯨を特別な存在にしているかを明確にするのは重要ではない』と締めくくっている。

おっと、彼らは何と言ったっけ? 彼らは「確信」と言ったが、信じたからといって、それがすぐ権利につながるのだろうか? 「確信」が誤解や盲信に基づいているか、それとも事実に基づいているのか、彼らにはどうでも良いようである。 これでは、理性的な議論など望むべきもない。


捕獲に対する非難

報告書はさらに、鯨の人道捕殺の問題を利用しようとするが、どういう捕殺法が人道的なのかという基準については何も定義していない。

鯨の致死時間や傷を負った鯨の割合の調査を引用した後、報告書は『鯨のいかなる捕殺方法にも受け入れがたい残酷さと野蛮さがある』と結論づける。

もし特別チームが捕鯨を狩猟一般と比較したなら、捕鯨以外の狩猟については、同様のことか、もっと厳しい結論を言う羽目になったろう。 ノルウェーのミンククジラ漁やフェロー諸島のゴンドウクジラ漁よりも良い記録を見せてくれる狩猟はほとんど存在しない。


豚肉は道徳的な肉か?

もし特別チームが捕鯨の動物福祉的側面の包括的議論に本当に興味があるなら、野生動物から肉を得ることと家畜から肉を得ることの福祉的側面を比較することになったろう。 デンマーク政府の動物倫理審議の議長を務めたピーター・サンド(Peter Sande)の次の言葉は、このような議論が的を得ていることを示している。

「当然のことながら、鯨が受ける短いが強い苦痛を、家畜が受け続ける弱い不快と比較するのはかなり難しい。 個人的には、こういう比較は簡単だ。 私としてはミンククジラになって数分の苦痛を味わうまで自由に生きる方が、豚や鶏の不自由な生涯より良い。」

動物問題で知られるイギリスの主教ジョン・ベーカー(John Baker)もサンドと同じ意見だ。 彼は狩猟には反対するが、集約的な家畜の現場で動物が受け続ける苦痛の規模はもっと大きいと信じている。


「人間にふさわしい態度」

特別チームはニュージーランドの獣医学者デビッド・ブラックモア(David Blackmore)の「鯨を殺す方法のどれも人道的とは考えられない」という言葉を引用するが、彼の「人道的」という言葉の定義は彼の判定の問題点を示す。 彼は著書の『家畜の屠殺(Slaughter of Stocks)』において「人道的」という言葉を「他者に対する人間にふさわしい態度」と定義している。 この定義に従って彼は「厳格な宗教的教えにのっとって行なわれる宗教的な屠殺は、この宗教の信仰者にとっては妥当であり、この宗教の社会においては人道的と考えられねばならない」と結論する。

オーストラリアでは、細菌を使ってウサギを駆除することは「人間にふさわしい」ようであり(*2)、これは細菌兵器の使用を正当化してしまうが、これらは控えめに言っても苦痛を最小にする殺し方ではない。


「試す前に実行するな」

IWC科学委員会とIWCは共に、新しい捕獲枠算定方式であるRMP(Revised Management Procedure、改定管理方式)が系統群の減少への安全措置を内蔵していることに満足している。 だが、特別チームはそうではない。 『実地で証明されていない』と彼らは言うが、まるで「実地で証明されていないから実施すべきでない」と言っているかのようである。

こういう行き詰まり状態の明確な解決法は実際に試してみることであり、我々としては実際にどうなっているかを特別チームに教えてあげたいものである。 ノルウェーはすでに、ミンククジラ漁においてRMPに基づいた捕獲枠を採用しているからである。


「原則」の原則的適用

特別チームは「予防原則」というものをIWCの管理下での商業捕鯨を拒否する理由に挙げている。 だが、人間の活動の中で自然へのリスクのないものなどほとんど無いし、車の運転やゴルフ場の開発のように、自然へのダメージを知っていながら行っていることもある。

捕鯨というのは持続的に行なうかぎり、環境への負荷が少ない食肉生産法であり、(陸上の自然環境に影響する)農業で編み出された手法と比べれば、それはなおさらのことである。

RMPというのは、「これまで開発された自然資源の管理方式の中では、最も厳しくテストされた手法なのであり、 海や他の生物資源の管理手法の標準を模範であり、過去のどの手法よりも控えめに捕獲枠を算定する」とIWCで科学文書の編集を担当するグレッグ・ドノヴァン(Greg Donovan)は言う。 この手法はIWCの管理下で実施するのが最良である。 だがオーストラリアにおいては、こと鯨に関することとなると、最良の方法ですら「まだ十分でない」ことになり、そのくせ鯨以外の自然資源では、より劣った管理手法でもOKなのである。

特別チームは漁業における管理の状態がいかに劣悪かを多くの論文を引用し、漁業一般が適切に管理できないなら捕鯨もきちんと管理できないという論法へもっていこうとする。 こういう捕鯨政策と矛盾しないためには、オーストラリアは自分自身の商業漁業の崩壊を立て直すことを真っ先にやらねばならない。

それをやるのは簡単である。 RMPと同様の手法を適用し、すべての漁船に最低一名の監視員を乗せる制度を採用することである。 さもないと、彼らの漁船団は、財政的に生き残るために操業をやめるか、あるいは、残りわずかな魚を採りつくして、それらを食べることもできなくなるだろう。


実行可能ではあるが

『このように、ある事が可能だからやらねばならない、という考えは広く否定され ・・・』と特別チームは主張する。 健全な心をもつ捕鯨者は、これには全面的に同意する。

我々も含め、IWCの参加者はモナコのモンテカルロの砂浜で首から下を砂に埋めて楽しんでいるが、これをしなければならない理由などあるのだろうか?(*3)

ノルウェーでは、少なくとも人々の活動はある動機によって行なわれる。 捕鯨の場合には、それは生計のためである。 生計をたてるというのは毎朝起きるためのありふれた動機であり、動物の肉を生産してお金を得るのは広く認められたことである。

いったい特別チームは我々に何を言いたいのだろう? 「予防原則」とやらに従って、答えが見つかるまでは砂浜で遊ぶのをやめておこうか?


「何が必要か我々が決めてやる」

『食料目的で鯨を捕る必要性などあるのだろうか?』と特別チームは疑問を投げかけ、『必要性があるという根拠はなく、逆に必要性がない理由は山ほどある』と自答する。 当然ながら、鯨肉の替わりに馬肉やカンガルー肉、鶏肉、牛肉や豚肉で置き換えることはできる。 だが、これらにしたって、それを食べなければならない理由などなく、他の肉で代用できるし、菜食主義者になる道だってある。

西欧社会で食べられている物で、「それを食べなければならない」という物はほとんどない。 オーストラリア人はアイスランド人に対して、何を食べるべきか決めてやろうとでも言うつもりだろうか?

特別チームは捕鯨に使われているお金を農業開発に使うべきだとアドバイスするが、気でも狂ったのだろうか? 彼らは陸上の未開地の自然を単一栽培のために変えろというつもりだろうか? それとも、もっと肥料や農薬を使ったり、遺伝子操作をした作物や家畜に金を使えとでも言うのだろうか? だが今日では、農業においても環境への悪影響を減らさねばならないというのが世間一般の見解ではないのか? だとしたら、収穫量を犠牲にしても、食料生産はもっと環境への負荷が少ない方法に頼らざるをえないが、野生の動物から肉を得る以上に環境への負担が少ない食肉生産法があるだろうか?


裏返しの人種差別

オーストラリアは、自身の先住民族(アボリジニ)に対する取り扱いに対する批判に敏感なため、IWCが設けた原住民生存捕鯨に対して特別チームが直接攻撃しないのは驚くにあたらない。 だが、捕鯨に対する糾弾において、彼らには「例外」はないのだ。 例えば、特別チームは『全ての形式の捕鯨は受け入れがたい残酷性と野蛮さがある』と述べる。

この主張から簡単にわかるのは、「グリーンランドの先住民(イヌイット)に受け容れられる行動はノルウェーのような進んだ経済の国では受け容れられない」という類の考えである。 これはグリーンランドのKNAPK(漁師やハンターの団体)が「裏返しの人種差別」と呼ぶものに他ならない。




訳注1: 報告書のタイトルは"A Universal Metaphor: Australia's Opposition to Commercial Whaling"(1997年5月)で、 ネット上でも公開されている

訳注2: オーストラリアでは増えすぎたアナウサギを駆除するため、1950年代にウィルス病のミクサマトーシス(myxomatosis)に感染したウサギを集団中に放って駆除を試みた。 当初は大成功したかに見えたが、ミクサマ・ウィルス(myxoma virus)に耐性を持つ個体の子孫が繁栄して、結局失敗に終わった。

訳注3: 一見意味不明だが、前後の文面から見て、この記事は1997年にモナコのモンテカルロで開催されたIWCの会期中に書かれたようである。

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