鯨に権利はあるか?

(HNA(ハイ・ノース・アライアンス)発行 "11 Essays on Whales and Man"(1994年9 月)所収の記事からの訳。 09-Mar-2002。
原題:"Do Whales Have Rights?")

ピーター・サンド

(著者のピーター・サンド(Peter Sandoe)はコペンハーゲン大学の哲学科の生物倫理研究グループの長であり、デンマークの動物倫理審議会の議長でもある。)



捕鯨の管理というのは捕鯨で生計を立てる人々の活動への干渉である。 今日では、鯨を捕ることに関心があるのは、人口密度の少ない沿岸地域にいる小さな集団が主である。 彼らは今、EU、アメリカ、オーストラリアといった、捕鯨の完全な禁止を求める勢力の圧力にさらされている。 一見すると、捕鯨者側が正しく、反捕鯨側は文化帝国主義的な伝統に従って自分達の個人的理想を全世界に強要しているように見える。 たぶん、一部にはこういう理由のために、捕鯨に反対する人々は彼らの大義を倫理的側面から主張しようとしているのであろう。 彼らは適法性の点で問題を抱えている。

もし、捕鯨の支持者がこれら倫理面の議論に応じないなら、彼らは物事の善悪を気にかけていないと見られるかもしれない。 それゆえ、捕鯨問題という国際問題に関わる人々は、どちらの側も倫理面の議論を避けては通れないのである。 以下の論文で私は捕鯨への反対論で最も影響が大きい倫理問題、すなわち、鯨には権利があるから彼らを殺すのは悪であるという主張について論じる。 他の点については、この論文の基礎となった、より長い論文(1993年)で議論してある。


鯨の権利
反捕鯨論者の何人かによると、鯨には人権に匹敵する権利があり、だから捕鯨は禁止されねばならないのだと言う。

鯨の権利という観点から捕鯨の禁止を論じた最も強硬な例はアメリカ人哲学者のトム・リーガン(Tom Regan)によるものである(Regan 1982, Regan 1984 and Jamieson & Regan,1985)。 この主張の重要な点は、著書「動物の開放(Animal Liberation)」によって近年の動物権運動に最も影響を与えた人物であるオーストラリア人哲学者ピーター・シンガー(Peter Singer)にも影響を受けている。

また、この主張は2人のアメリカ人法律家アンソニー・ダマト(Anthony D'Amato)とサディール・チョプラ(Sudhir K. Chopra)の論文(1991)でも重要な役割を果たす。 彼らの論文における考えは、鯨の権利が国際法で認められるべきだという点にある。 彼らの思考の流れはとても明晰とは言いがたいが、明らかな解釈に従えば彼らの法的結論は以下に述べる倫理的主張に拠っている。


「鯨の権利」に基づいて捕鯨の禁止を主張するケース
このケースは人間には苦痛を受けたり殺されたりしない権利がある、という考えに基づいている。

「鯨は明らかに人間ではないが、いろいろな点で人間同様である。 彼らは痛みやその他の苦痛を感ずることのできる意識を持った存在であり、また、殺されることを避けようとする。 もしある人が、鯨には前述のような2つの権利がないと主張するならば、このケースの論理においては人間と鯨の違いを説明できねばならない。 これは、女性や有色人種の権利における議論の場合と全く同じである。 一部の社会では性や人種による差別があるが、もし、人種や性の違いに起因する違いを説明できないならば、この種の差別は倫理的に正当化できない。

むろん、鯨は人間に比べてはるかに知能が低いという反論はあるだろうが、もしこれを論拠にして鯨の権利を否定すると、通常の鯨よりも知能が低いと考えられる精神障害者、まだ知能が十分に発達していない幼児、ボケ老人などの権利も否定せざるをえなくなる。 もし、知能の低い人間も他の人間と同様の権利があると主張するならば、鯨の権利を否定する根拠として「知能」を基準にすることができなくなる。 人間と鯨の違いを示せないのだから、鯨に苦痛を逃れて生きる権利を与えねばならない。 権利を持つということは、義務を負うということと一体である。 自分が生きる権利を持つということは、他人があなたを殺さない義務を負うということであり、これは苦痛を受けない権利についても同様である。 捕鯨は、鯨の生きる権利や苦痛を受けない権利に反するものであり、それゆえ禁止されねばならない。 我々は人権というものを、他の国に受け容れる事を強要できる普遍的なものと考えるので、鯨の権利を支持する国は捕鯨をしたがる国に圧力をかける自由がある。」

以上が彼らの論旨である。


反論
上に示した論証は捕鯨支持者への返答である。 捕鯨者側が自身の信用を保つには、上の論旨における欠陥を一つ以上は示す事ができねばならない。

その最も簡単で明らかな方法は、鯨が人間と同様な権利を持たないことを正当化できるような、人間と鯨の違いを示すことである。

深く考えれば、上のような主張は、問題を考える方法にしてはあまりにも単純であることは多くの人々が認めるであろう。 鯨に人間と同様に生きる権利をを与えるのは極端にすぎる。 一方、鯨に無用な苦痛を与えるのも受け入れ難い。

そこで問題になるのは、鯨はある意味で苦痛を受けない権利はあるが、人間とは違って殺されない権利は持たないと主張する、中間的な主張は成り立つかどうかである。

このような中間的意見は、鯨には人間と同様に痛みを感じたり苦しんだりするという決定的な類似点に根拠をおくといえるだろう。 それゆえ、我々にはできるだけ鯨に苦痛を与えない義務があることになる。

一方、鯨には通常の人間と同レベルの自己意識が存在しない点で、人とは異なる。 彼らは、生活を計画したりせず、ある意味、単に今を生きるだけである。 誰かが鯨を殺したとしても、鯨が残りの生涯に計画していた事をダメにするわけではない。

もう一つの違いは、人間を殺す場合と違い、鯨を殺しても残された鯨には影響しないという点である。 鯨と違って、人間は死んだ者を想って長い間嘆き悲しむ。 その上、人が殺された場合には社会に不安や不安定を起こしうるが、鯨にはいつか殺されるかもしれないと心配する様子は見られない。

この論点の問題は、高度の自己意識を持たない人間や、死を恐れない人間など極度に精神的な障害を持つ人間を殺してはいけない事を説明できない点にある。 この疑問に対する答えの一つは、精神障害者を殺すのは普通の人間にも良くないから、というものである。 家族や親族へ配慮や、人間の生命への堅い尊重が世の中が手に負えなくのを防ぐのに必要だというのが理由である。 大多数の人は、こういう理由で生存権を知能が優れた人間だけでなくすべての人間に適用するのを不適当と感じるだろう。 だが、私の見る限り、これは鯨と人間における倫理的な違いを示す、知的に満足のいく答えを提示するための代価である。


中間的意見
この中間意見は、我々は鯨が必要以上に苦痛を受けないようにする義務はあるが、人間と違って殺されない権利はないというものである。 このような扱いの理由は、鯨には人間と同レベルの自己意識がなく、人間のような発達した感情豊かな生活がない、ということにある。

もし、そうだとしても、反捕鯨論者の何人かはこれを批判するだろう。 彼らは、鯨は知能が高く、自己意識があり、感情豊かな生活を送っており、社会的絆で互いに結びついている、と主張するであろう。 この点で鯨はチンパンジー、ゴリラ、その他の大型類人猿と同列だということになる。

いくつかの国では、大型類人猿は実際に他の動物とは違う扱いを受けている。 例えば実験動物として使われるチンパンジーを例にとろう。 アメリカのある研究所は実験に使われるチンパンジーのために、一種の年金基金を設けた。 基金のお金は、もはや実験で使われなくなった動物が自然死するまでに快適な生活を送れるように使われる。 数多くの、これら「年金生活」チンパンジーが無人島に送られ、生活に困らない食べ物を与えられている。 一方、実験に使われる他の種類の動物は、用が済むと捨てられる。


特別な動物
この考えは、鯨はチンパンジーなどと同様に優れた動物であり、それゆえ特別な権利を持つというものである。 これら特別な権利の一つが生存権ということなのだろう。 これらは人間同様に発達した自己意識を持つ優れた動物であるので、ある程度は生活を楽しむことができると思われる。 他の動物は生き物としての同様の自覚が無く、それゆえに生きる権利を持たない。 もし動物に苦痛を起こさずにできるのなら、これら劣等動物は食料や衣類に利用するために殺してよい。

鯨が高度に発達した存在であるという考えを正当化すために、鯨は良く発達した大きな脳を持ち、時には人間に匹敵する高度な思考がうかがえたり、言語を思わせる音声コミュニケーションをしていることが引き合いにされる。

だが、ある動物が高度に進歩したものであるということが現実にはどういうことなのかという疑問は、解明されたとは程遠い状態にある。 更に、鯨と他の動物の脳の研究や、社会的な振る舞いやコミュニケーションの能力の研究は、まだ確定的なことを言えるレベルには達していない。 そのために、推論や大それた仮説が起こることになる。 しかし、この問題に関する既存の科学的な文献に基づくならば、鯨が豚や牛よりも高度に発達していることを示す確たる証拠は何も無い。

もし、反捕鯨論者が鯨には生きる権利があると主張し続けるならば、彼らは自身の論点の帰結を受け容れ、鯨だけでなく豚や牛など他の動物も生きる権利があることを認識しなければならない。 だが、そうする者はごく少数だろう。 そのような少数の人々のうちには、動物権で影響力の大きい2人の哲学者、ピーター・シンガーとトム・リーガンがいる。 彼らは2人とも菜食主義者であり、先進国の人間は生活スタイルを完全に変えて、動物と人間を対等に考えるという要求に応えるべきだと主張する。

しかしながら、大多数の人々は、豚や牛が妥当な状態で生かされてきたのなら殺しても良いという、前述した中間的意見を受け容れるだろう。 我々には動物に必要以上の苦痛を与えない義務があるが、殺すことを止めるほどの義務はない。 多くの反捕鯨論者は動物権に関するこの中間的意見を受け容れ、捕鯨は鯨を殺すにあたって強い苦痛を与えるのだから豚や牛の場合とは違うと主張している。 鯨と対照的に、豚などの家畜は「人道的な」方法で素早く苦痛なしに殺されているというわけである。


捕殺法
屠殺される前に、豚や牛は家畜銃や二酸化炭素で気絶させられる。 これらの方法は、いかなる苦痛もなく短時間に動物の意識を失わせると信じるに足る理由はある。 これに対して鯨の場合は違う。 だが、過去十年ほどの間、鯨の捕殺法の改善には多大な努力が注がれてきた。 爆発銛(penthrite grenade)が開発されたが、これは鯨の体内で爆発し、衝撃波で短時間に鯨を殺す。 だが、瞬間的に殺すには銛が正確に命中せねばならず、いつもうまくいくわけではない。 爆発銛が使われたノルウェーのミンク鯨漁について1984年から1986年におこなわれた調査では、大多数の場合には鯨の致死時間は2分以下だった。 だが平均時間となると、命中箇所がはずれる場合があるために、6分以上に伸びている 。 最大の時間では、一度は逃げて再度見つかって殺された鯨の例を含めて、1時間に達した。

たとえ鯨の捕殺方法が更に改善されても、豚や他の家畜の場合のような素早い効果的な方法は達成されないであろう。 この点に立って言えば、家畜の屠殺と捕鯨には倫理的に明らかな違いがある。 だが、捕鯨の支持者は単に致死時間のみをもって比較するのは間違いであり、死ぬ以前の生涯で経験した苦痛も考慮に入れなければならないと指摘する。 豚や牛などの家畜は丸一日や半日もかかる輸送や、屠殺場での扱いにおいて多大なストレスを受けることは留意に値する。 屠殺場では、動物は大きな囲いの中にこれまで会ったこともない他者と一緒にされる。 この場所から、彼らは実際の屠場へと追いたてられる。

さらに、鯨は捕獲される前には自由で自然な生活を送るが、例えば、ほとんどの豚は動物の行動の自由が極めて限られた畜舎で過ごすことも指摘できよう。 例えば、多くの国では雌豚はほとんどの時間は小屋に繋がれたり綱を付けられた状態にあり、坐ったり立ったりするしかできない。

最後に、捕鯨を反捕鯨国における狩猟と比べてみるのも意味がある。 鳥や狩猟対象の動物は散弾銃やライフル銃で撃たれる。 撃たれた動物の大半は傷を負っただけであり、それらの大半は二度と見かけない。 彼らの多くはゆっくりとした苦痛に満ちた死の過程を耐えることになる。 これを見れば、陸上の狩猟における効果的とはほど遠い捕殺法を受け入れながら、致死時間のみに基づいて捕鯨を拒否するのは理解に苦しむ。


必要性がない
捕鯨禁止を支持する理由のもう一つの代表的理由は、捕鯨は必要ないというものである。 鯨を元にした製品は、すべて他のもので代用でき、経済的には捕鯨は重要でないというのである。 もし、ミンク鯨の管理された捕鯨が再開しても、ノルウェーの国家経済にとっては微々たる規模であろう。 しかし、この議論には重要な倫理的欠陥がある。 捕鯨が国家経済に何ら影響を与えないという事実は、我々が貿易量が小さいことを問題にしているからである。 だが一方、小さな捕鯨コミュニティーにとっては、捕鯨は大きな経済的な重要性があるかもしれない。 例えば、ノルウェー北部に存在する、漁業と捕鯨の両方を行なうコミュニティーのいくつかにとって、捕鯨は彼らの存続の可能性に決定的な影響をもつ。 ある社会の規模が小さいからといって、無視して良いわけではない。


人権
人権宣言における重要な倫理上の考えの一つは、正確に言えば、権利というものは個々の人間が持つものであり、その人が所属する社会が小さかったり弱いからといって権利が小さくなるわけではない、ということである。

むろん、利害の対立が生じて少数者が多数者に譲歩する場合はありうる。 例えば、道路や埠頭や発電所などを建設する際には、立ち退いたり生活を変えざるをえない人々が出てくるかもしれない。

反捕鯨論者は捕鯨の場合も同様であると主張する。 もし捕鯨が再開されたらヨーロッパと北アメリカで何百万もの人々の感情を刺激する。 一方、捕鯨で利益を得るのはたかだか数千人にすぎない。 だから、少数者の利益は多数者のために譲歩すべきである。 その場合、公共事業における土地収用のように補償が支払われることになるかもしれない。 多くの反捕鯨論者の感情を考えるならば、捕鯨者は鯨をそっとしておく見返りを支払われ、それで豚肉や鶏肉を買うべきだというのである。

だが、この主張にはいくつかの重大な問題点がある。 我々は通常、少数者の行動が大多数の者にとって不快だからといって、彼らの権利を侵害することは認められていない。 例えば、同性愛者の行為をそうでない嗜好の人が不快に思うからといって、それを禁止するのは受け容れられていない。 イスラム教への冒涜ということで話題になった、サルマン・ラシュディー(Salman Rushdie)の「悪魔の詩(The Satanic Verse)」の場合を考えてみよう。 この作品が大多数のイスラム教徒に不快感を与えたのは疑いない。 だが、大多数のイスラム教徒に不快感を感じ、作者に復讐したがっているからといって、彼の生命や自由が脅かされるのは受け容れられないことである。


結論
何人かの反捕鯨論者は捕鯨が鯨の権利を侵害するから悪であるという。 彼らの主張における弁明は、人間が同様の扱いを受けるのは受け容れられず、また、人間と鯨に意味のある違いは見当たらないというものである。

この主張に対する最良の答えは、殺すという行為に関して言えば、人間と鯨の間には、それを可能にするだけの違いがある、というものである。 人間には高度の自己意識があり、人間を殺すと残された者に深刻な結果をもたらす。 もっとも、自己意識が無い人間もいるが、彼らに生きる権利を与えないことは深刻な結果をもたらす。

不要に苦痛を受けない権利については、人間と鯨の間に違いはない。 だから、捕鯨を擁護する人々は鯨になるべく苦痛を与えないように捕殺しなければならない。




参考文献

* Jamieson, Dale & Regan, Tom, 1985, "Whales are not cetacean resources'; in Michael W. Fox & Linda D.

* Mickley (eds.), Advances in Animal Welfare Science 1984 (Boston: Martinus Nijhof), pp. 101-111.

* D'Amato, Anthony & Chopra, Sudhir K., 1991, "Whales: Their Emerging Right to Life", American Journal of International Law, Vol.85, No. 1, January 1991.

* Regan, Tom, 1982, "Why whaling is wrong", in All that Dwell Therein, Animal Rights and Environmental Ethics (Berkley: University of California Press), pp. 102-112.

* Regan, Tom, 1984, The Case for Animal Rights (London: Routledge).

* Sandoe, Peter, 1993, "Etikk og hvalfangst" in Nils Chr. Stenseth et al./eds/ Vagehvalen Barekraftig forvaltning av en biologisk felles ressurs, (Oslo: Ad Notam / Gyldendal, 1993)

* Singer, Peter, 1975 & 1990, Animal Liberation (London: Thorsons).

* Singer Peter, 1978, "Why the Whale Should Live'", (Habitat, Australian Conservation Foundation, 6:3 June 1978), pp. 8-9.

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