スーパー・ホエール − 環境保護運動における作り話とシンボルの利用

(HNA(ハイ・ノース・アライアンス)発行 "11 Essays on Whales and Man"(1994年9 月)所収の記事からの訳。 20-Apr-2002。
原題:"Super Whale: The Use of Myths and Symbols in Environmentalism")

アルネ・カラン

(著者のアルネ・カラン(Arne Kalland)はオスロ大学の文化人類学部の教授であり、オスロ大学の環境開発センターの上級研究員でもある。)



過去数十年の間、自然と環境に対する一般大衆の関心の増大に基づく2つの強力な運動が発展した。 それらは自然保護と動物福祉であるが、それらを明確に定義してみる必要があろう。

保護主義者は、生物多様性に第一の関心がある。 彼らは自然資源のバランスのとれた持続的な利用を促進する。 言い換えると、保護主義者は未来の世代のためにエコロジーを保とうとする。 動物福祉運動は第一義的には個々の動物の命運に関心がある。 そこでは、動物の扱い方や殺し方に人道性を求める者から、いかなる状況でも動物を利用すべきでないという急進的な者まで様々である。 この急進的な人々は動物権運動を推進しているが、その最も急進的な例が暴力的な動物開放戦線(Animal Liberation Front)で、動物権の名のもとに数多くの爆弾事件を起こしている。

どのグループの主張にも、環境主義の幅広い方向の中で何を目ざしているかがハッキリ見てとれる。 環境と生物多様性に焦点を定めた団体は、自然における生息域の悪化、非効率的で過剰なエネルギー消費、多くの生物種の減少などを問題にする。 動物の人道的な殺し方や、動物を殺すことの倫理的疑問に焦点を当てる団体は、動物福祉のカテゴリーに属する。 しかし実際には、2つの運動の違いはしばしば不明確である。 動物福祉団体は動物の生命の基礎を守るために、だんだんとエコロジーに関心を寄せてきている。 また、保護団体の一部は動物世界との象徴的な結びつきを作り上げた。 我々がここで調べるのは、この後者のプロセスである。

環境保護主義というのは政治的運動であり、他のすべての政治運動と同様にレトリックというものが重要である。 政治的メッセージを単純化して要約するのが重要であり、それはしばしばシンボルを用いて行なわれる。 典型的には、それらのシンボルは自然界から採用される。 これは、技術的に発展していない社会においては特にあてはまる。 自然のシンボルは、社会が人間と自然の関係を説明したり、理解を共有するために使用される象徴となる。 ある集団の人々は特定の動物や、自然現象、時には非生物を特別のものとして扱う。 これらの人々にとって、彼らの象徴は彼らの独自性や正統性を与える存在である。 これらの人々の間の関係は、彼らの象徴との関係に関わっている。 彼らの象徴との関係には宗教的な質が仮定されており、これら象徴社会のほとんどにおいては、彼らの象徴を守ることが最大の責務となる。

環境運動において、鯨やアザラシはシー・シェパード(Sea Shepherd)や国際動物福祉基金(International Fund for Animal Welfare − IFAW)といった動物福祉団体や、グリーンピースやWWF(World Wide Fund for Nature − 世界自然保護基金)といった保護団体にとって象徴的存在となった。 象徴動物の扱いにおいて、保護団体であるグリーンピースやWWFは動物福祉の領域へ重大な一歩を踏み入れた。


なぜ鯨やアザラシなのか?

エコロジー面の理由だけでは、なぜ多くの環境保護団体が鯨やアザラシに彼らの社会イメージを結びつけたのかを説明できないのは明らかである。 多くの環境運動のリーダー達は、彼らが鯨やアザラシを保護するのは主に倫理や道徳面の理由からだと述べている。 CSI(Cetacean Society International)のリーダーであるロビン・バーストウ(Robbin Barstow)は過去何度もこの立場を表明し、捕鯨に対して道徳や倫理面から反対してきた。 WWFは近年になって「世界中の多くの人々が鯨のすばらしい価値に気付いている」と訴え始めている。 そして、WWFは捕鯨が持続的な形で可能であることが確かになったにもかかわらず、捕鯨のモラトリアムを支持し続けている。 国際捕鯨委員会(IWC)への各国代表の多くが、今では倫理的原則という点からモラトリアムの継続を擁護しているが、これはアメリカの代表が言ったように、モラトリアムを科学的見地から擁護するのがもはや可能ではないからである(*1)。

もしも、アザラシや鯨のある種が絶滅の危機になく、限定された捕獲のもとで生存し続けるなら、なぜ、動物福祉団体ではない保護団体であるグリーンピースやWWFはアザラシ猟や捕鯨に反対し続けるのだろうか?

この質問に対する一つの答えは、これらの団体には反対キャンペーンを続ける実用的な理由があるというものである。 保護主義者と動物福祉グループは容易に勝利を得られそうな問題を取り上げる傾向がある。 成果を上げたり、少なくともマスメディアをフルに活用してそのような印象を与えるには、団体の活動が効果的で正統性があるという一般大衆の信頼を確立するのが重要となる。 この正統性が、環境的価値の擁護者としての団体を宣言をする機会を与えてくれるのである。 またそれは、企業や政治家にとって、団体への寄付やその他の形の支持によって「良い環境イメージ」を得るのを容易にする。 この種の支持は、当然のこととして特定のビジネス上の利害や国家に直接影響しないキャンペーンに向けられる。 ほとんど多国籍企業や国にとって、野生動物の保護はコストのかからないキャンペーンである。 これは、1988年に2頭のコククジラがアラスカ沖で氷に閉じ込められた際の出来事で明らかに見られる。 鯨を開放する作業には数万ドルかかったが、アメリカとソビエト政府、それに多くの石油会社は安価に良いイメージを得たのに気付いた。 反面、アイスランドは水産輸出品へのボイコットが強まることによって、大きな損を受けた。

最も知られた反捕鯨論者の一人であるシドニー・ホルト(Sidney Holt)は、鯨がきわめて魅力的な動物であり、捕鯨は経済的には重要ではないため、鯨を保護するのは比較的容易であると述べている。 これはアザラシとアザラシ猟にも当てはまる。 「私たちは戦略的に日和見主義者なのです。」とグリーンピース・ドイツ支部長のヘラルト・ツィントラー(Herald Zindler)は言う。 この見解はおそらく、グリーンピースの国際部長であるスティーブ・ソーヤー(Steve Sawyer)の「我々が問題を取り上げる際の方針は異常なまでに実利的です。 我々は勝つ見込みのありそうな問題を取り上げます。」という言葉に最も明らかである。 鯨やアザラシの場合のように、グリーンピースはしばしば、他の団体が既に行なっているキャンペーンを行なう。 グリーンピースは、自分達に都合の良い大義を世間に広めるために首尾よくマスコミを動員する。 テレビの視聴者は、理想主義的なメンバーが自身の命を危険にさらして巨大企業と戦う姿に、聖書サムエル記のダビデと巨人ゴリアテの戦いのイメージを見せられることになる。 だが真実はしばしば全く違っており、漁師やハンターがダビデでグリーンピースが巨大なゴリアテであったりする。

アザラシ猟や捕鯨はほんの数カ国で行なわれており、資本投下も少ないので、これらに対する反対キャンペーンは特に魅力的である。 巨大な多国籍企業も先進国のほとんども、捕鯨やアザラシ猟に関わっていない。 これらは、辺境の地で行なわれている細々とした活動である。 それゆえ、汚染を引き起こす産業や多くの政府にとってこれらのキャンペーンが魅力があるのは理解しやすいが、それにしても、なぜこんなに多くの個人が反アザラシ猟や反捕鯨キャンペーンに興味を持つのだろうか?

グリーンピースのドイツ支部は、反アザラシ猟キャンペーンに関わったことについて、資金を得るための手段であったと正当化している。 「我々には組織を大きくする必要があったのです。」と、ドイツ支部の反アザラシ猟キャンペーン担当者だったウォルフガング・フィッシャー(Wolfgang Fischer)は、1990年1月15日のバイエル放送のTV番組で語った。 彼は続けて「そこで私は、大きな目を持つ可愛らしい動物を使うのが適当だと思ったわけです」と述べた。 白くて「無垢な」アザラシの子供やイルカは、一般大衆に非常に強くアピールする。 だが、これだけで反対キャンペーンを始めたわけではない。 グリーンピースは1970年代初めの設立以降、捕鯨やアザラシ猟の禁止を道徳的理由から支持してきた。 初期のリーダーの多くが、鯨との特別な関係を主張した。 グリーンピースが1974から1975年ころに崩壊しそうになったのを救ったポール・スポング(Paul Spong)やロバート・ハンター(Robert Hunter)は、「鯨を呼ぶ」というイベントを、何百人もの人々が集まるカリフォルニアの浜辺で行い、テレパシーで世界中の鯨を聖域へ集めようとした。 科学的なバックグラウンドのあるエコロジー学者のパトリック・ムーア(Patrick Moore)もこのイベントに付け加えて、捕鯨の議論は鯨の数が減っているかどうかに限定すべきではなく、一般向けの情報キャンペーンによって人々に「鯨はすばらしい生き物である」と信じさせるようにすべきだと主張した。

鯨、そしてある程度はアザラシも、環境運動の多くにおいて独特の価値がある。 彼らは豚や鹿などの他の動物と違う種類の階級にいる特別な動物なわけである。 この点において、グリーンピースやWWFは、すべての動物には本源的に価値があると信じる他の動物福祉の主流とは一線を画す。 ある特定の動物種を選んで特別な性格付けをすることによって、これらの団体はそれらの動物種を象徴動物に仕立て上げるのである。 特に鯨とアザラシは象徴動物の役割に適している。 まず第一に、双方とも海の生き物である。 我々は海の中で何が起きているかあまり知らないから、情報を操作して神話を作り出すのが簡単である。 第二に、海は生命のシンボルであり人間の手があまり入っていない自然である。 第三に、我々から離れた世界に住む野生動物は、我々の多くがあこがれる自由の象徴へと変えられる。 最後に、アザラシや鯨は、4本の手足を持つ哺乳類が陸上を歩き、エラやヒレを持つ魚が水中を泳ぐという基本図式から離れた存在であることが挙げられよう。


「スーパー・ホエール」 − 海に住む我々の親類

環境保護や動物保護の活動家はしばしば「鯨は」という言葉で単一種のように語る。 我々は「鯨は世界最大の動物である」、「鯨はこの世で最大の脳を持つ」、「鯨の脳は体重との比でも大きい」、「鯨は社会的であり、友好的である」、「鯨は歌う」、「鯨の社会には子供の面倒を見るシステムがある」、「鯨は危機に瀕している」などの主張を耳にする。 確かにシロナガスクジラは世界最大であるし、マッコウクジラの脳は世界最大であるが(体のサイズと比較すると小さいが)、しかし他の点のほとんどについては証明するのは困難である。 世界中に75種類以上いる鯨の中で、上の中のある言説がある程度当てはまるのは1つか2つである。 だが、人が鯨について話す時、これら様々な鯨種の特徴すべてを持つ単一の「鯨」がいるかのごとく語っている。 しかし、実際にはそんな鯨などは存在せず、それは架空の動物「スーパー・ホエール」なのであり、しかも擬人化された存在である。 ニュージーランドのIWCコミッショナーにとって、鯨はもはや海に住む我々の同類になってしまっているのであり、グリーンピースのデンマーク支部長だったミカエル・ギリング・ニールセン(Mikael Gylling-Nielsen)にとっては「海に住む人間」となってしまっている。 鯨やイルカはニューエイジ運動にのめり込んだグループにとってはカルト的崇拝の対象になってしまった。

鯨を神話化する際、2つの状況に比重が置かれる。 まず、鯨が何百万年も存在してきた生き物であることが特に強調される。 ある人々は、鯨の長い歴史という理由だけでも、彼らに海における特権が与えられると主張する。 鯨は一種の「海の原住民」だというのである。 もう一つの主張は鯨は長い歴史の中で知性を発達させる時間が人間よりあった、というものである。 鯨は、人間の祖先がまだ夜行性動物であった時代に、すでに高度な知能を持っていたとミカエル・ギリング・ニールセンは言う。 長い歴史のゆえに鯨は人間の上位にあり、人間の教師だというのである。

さらに我々は、鯨は人間が失った価値観を守っているという印象を与えられている。 ある人々によると、鯨は知能だけでなく社会的にも優れているのだという。 西側世界では人々は疎外感に悩まされている。 我々は商業主義の増加、連帯の低下、そして犯罪の増加を目の当たりにしている。 我々の社会的意識に疑いが向けられる中、鯨が持つとされる諸々の資質はまさに人間が失ってしまったものである。 鯨は病気になったり死にかかった仲間の面倒を見るというが、人間の場合にはお金を払って(スカンジナビア半島では税金でまかなわれるが)施設に送り込む。 鯨は無償で仲間の子供の面倒を見るというが、人間は保育園やベビーシッターにお金を払う。 人間はある程度までは立派に振舞ってきたのだろうけど、それもお金と商業主義が社会に根付く前の遠い昔の話である。 今日では、我々は老人の面倒を見なかったり、子供達に必要な注意を払わなかったりして、後ろめたさに悩まされている。

「スーパー・ホエール」は動物の間における階級という考えに基づいたシンボルである。 これらの考えを材料にして、異なる鯨種の特徴を混ぜ合わせ、鯨の知能や社会的良心に関する神話を加えて強固にする。 この結果、大きく増大するマーケットに見合うシンボルができたわけである。


商業製品としての「スーパー・ホエール」

今日、我々は様々な状況で鯨に接し、鯨の非消費型利用は毎年数十億クローネに及ぶ(*2)。 ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の「白鯨」が1851年に出版されて以来、鯨を扱った数多くの本が書かれた。 ロイド・アビー(Lloyd Abbey)の「最後の鯨」では全ての登場キャラクターが鯨であるという新ジャンルが生まれた。 この小説の世界では、様々な種類の鯨が互いに交流し、人間とシャチさえいなければ万事平穏である。 鯨はまた、他のタイプの本にも登場する。 自然界における鯨の歴史を扱った上製本は増え、SFの分野でも多くの作家が鯨に関心を示した。 例えばデイヴィッド・ブリン(David Brin)の「スタータイド・ライジング(Startide Rising)」では、ストリーカーという名の宇宙船に遺伝子操作によって高い知能を得たイルカが乗り組んでいる。 最近では多くの本が「イルカ・カルト」に分類されるべきものとなっている。 例えば、「イルカの夢時間」、「イルカが微笑む日」、「イルカの歌で踊る」、「イルカの心象風景」、「イルカとヒーリングの力」、「イルカのマジック」などである。

他の芸術分野でも、広い客層を得るために鯨を扱うようになった。 「鯨アーティスト」が鯨やイルカの絵画を描き、写真家や映画製作者が鯨の生態についてのドキュメンタリーやビデオを制作する。 ザトウクジラやシャチの「歌声」を収めたCDは多くの店で見かけるし、ステッカーやTシャツ、バッジなども同様である。 また、「エコ・クエスト1 − 鯨座を探して」というゲームによって、鯨はコンピューター・ゲームの世界にも登場した。

鯨ツアーというものも年間十億クローネの産業に成長した。 1991年には400万人以上の人が鯨を見るために旅行し、今日では行き先は南極を含めて地球上の広範囲に広がっている。 北米だけでも、200ほどの業者が250種以上のツアーを提供している。 何人かの科学者によると、いくつかの地域ではボートが鯨に近づきすぎるために、鯨が行動様式や回遊ルートを変えているという。

だが、多くの人は単にデッキの上から鯨を見るだけでは飽き足らず、鯨と一緒に泳ぎたがっている。 否定的な人もいるものの、何人かの人々は、イルカと一緒に泳ぐ事は鬱病の人や自閉症の子供に効果があると主張している。 イルカ・セラピーの指導的人物であるホラス・ドブス(Horace Dobbs)はイルカに対する彼の患者の反応を説明している。 彼らはイルカがいるとリラックスし、自然に振舞う事ができ、不安やイライラから開放されるという。 彼の患者の一人は、体験を以下のような興味深い言葉で説明する。

「イルカは、最初のうちはゆっくりと動き、それから我々が水中をコンコルドのように速く泳ぐまでスピードを増していった。 私は王子様に導かれて他の国へ連れて行かれる王女になったような気がした。 我々は一体、つまり私が彼で、彼が私であった。 完璧な調和と愛がそこにあった。 イルカは私の心のゆえに私を愛した。 私が若いか年老いているか、やせているか太っているかは関係なかった。 私は、試験結果で彼を感心させる必要もなかった。 彼は私そのものを受け入れ、愛したのだ。」

似たようなメンバーから成る少人数グループからの情緒的な支持を得られる証言というのは、多くの新興宗教団体の典型的特徴である。 このような宗教的体験に参加する人々は、感受性が強く他人への思いやりや愛情への志向がある人々であると言われている。 ドブスの著書「イルカの歌で踊る」では、イルカと泳ぐことに精神的な体験を感じなかった人間は否定的に描かれている。 彼女は「とても太った、金持ちのアメリカ女性」で、自分自身にしか興味がなかった。

これらの集いにおいては連帯感が重要視されるが、これはホエール・ウォッチングでも同様である。 いくつかのホエール・ウォッチング・ツアーは宗教的ないしはカルト的な様相を呈している。 時おり、鯨が海に潜る直前にサヨナラをするかのように尾ビレを振るのを見た一群のツーリストが一斉に「オーッ」と叫ぶ時、船上に強い仲間意識が起こることがある。 ハワイのあるツアー業者はこの連帯意識を利用し、ある歌を学ぶ者は誰でもクルーの名誉ある仲間として受け入れられると宣伝している。


善人と悪人

シンボルというのは、我々に自分と他人の違いを明かにさせる。 ある人々にとっては海洋哺乳類に対する態度が、善人か悪人かを決めるための決定的基準となる。 「象徴」は、世の中を2つの人間に分類させるのである。

「スーパー・ホエール」を象徴動物としている人々は、環境活動家や動物保護主義者から善人として好意的に評価され、そうでない人々は低い評価となる。 貨幣を捕鯨者の象徴とすることによって、動物保護主義者は「善良な人々が、時には命を危険をさらして、平和的な生き物である鯨を邪悪な捕鯨者から救うために戦っている」という印象を植え付けようとしている。 捕鯨者は、貪欲に利益を得るために最後の鯨まで地球上から消し去ろうとしている死刑執行人として表現される。 下に示すような世界の2分化が、実世界のこのような概念化から生まれる。

善                 悪
鯨やアザラシの保護者        捕鯨者やアザラシ猟者
象徴: 鯨、アザラシ        象徴: お金
生きるための経済          資本主義的企業
団結、共有             利潤拡大
文明的               野蛮人
清潔                汚染

このような世界観を作り出す試みで使われるレトリックの例をいくつか示してみよう。 多くの募金活動において、鯨を救うという大義のもとに善良な市民の心を開き、財布を開けさせるために様々なアピールがなされている。 捕鯨に対してノーと言うのは文明人であることと同義となる。 「鯨に関心をいだくのが人格的ならびに社会的成熟度の証である」と、アメリカの海洋哺乳動物委員会の前メンバーだったビクター・シェファー(Victor Scheffer)は説く。 ノルウェー国内でも、グリーンピースのペール・ブッゲ(Pal Bugge)は1990年8月11日付けのArbeiderbladet紙において、「捕鯨者はいまだに、四方八方に血みどろの攻撃をしまくるという、バイキング時代の伝統を続けている」と述べている。

このような考えにはある種の帝国主義が内在している。 職業を持たない原住民は、生存や物々交換の一環として鯨やアザラシを捕ることが許される。 だが、彼らの狩猟が商業目的だと、このような2分化された世界観を乱すこととなる。 そこで結論として、原住民は「未開の原住民」に留まる限りにおいて、商業的活動とは一線を画した狩猟を続けることが認められる。 かくして先進国に住む我々は、原住民という、我々自身の発展を遍歴できるような生きた博物館を与えられ、同時に彼らを政治的にコントロールする手段をも得る。

白人の先進国において、アザラシ猟や捕鯨は、このような世界観への脅威であり、それゆえ、反対するか、あるいは関わりを持たないようにする対象となる。 捕鯨者は野蛮人と見なされる。 IFAWのリーダーであるブライアン・デイビス(Brian Davies)を例にとると、彼は友人宛ての手紙でフェロー諸島のゴンドウ鯨漁について次のように書いている。

「... 未開人の漁 ...、想像しうる限り最も野蛮な祭り。 平和なゴンドウ鯨は浜へと追い込まれたり、既に捕われた仲間への義理から浜へ向かう。 そして、彼らはいとも単純に切り刻まれる。 文明国の人間にはゴンドウ鯨をサディストたちから救う義務がある」

捕鯨者を悪魔呼ばわりするのは学術誌にすら見られる。 「The American Journal of lnternational Law」誌においては、2人の法律家が「鯨を殺すのを認める心情というのは、劣等な人々を虐殺するのを認めるのに等しい」と書いた。 さらに、鯨肉を食べるのは事実上は食人行為の一種ということになる。 タブロイド紙のデイリー・スターは1991年5月11日付けの2ページにわたる記事において、「貪欲なジャップが、血の宴会における病的なごちそうで、山盛りの鯨肉をむさぼり食う」と報じている。


環境アリバイを売る

この論文で私は、アザラシや鯨がなぜ良いシンボルになるのか、動物保護主義者がどのようにして「スーパー・ホエール」の概念を作りだしたか、そしてこのシンボルがどのようにして貴重なマーケットに出会ったかについて、いくつかの主な理由を述べた。 さらに我々は、ホエール・ウォッチングや鯨と泳ぐといった事業が、いかにして人々に結束や、シンボルを通して表されたも同然な自己認識を提供してきたのかも見てきた。 そこにおいては、象徴に対して最も強く要請された義務は、それを守ることであった。

世界には様々な「聖なる動物」がおり、我々はそれらと共存しなければならない。 だが、活動家が作り上げた象徴のシステムと他のシステムでは、2つの点で異なる。 第一に、活動家には狂信的な姿勢がある。 ヒンズー教徒はアメリカ人が牛を食べるのを許容できるが、活動家は日本人が鯨肉を食べるのを許容できない。 このようにして、西欧の文化帝国主義的伝統は行われていく。 第二に、転向者の一群に仲間入りすれば良い思いをすることができる、という点である。 象徴は金で手に入り、それは環境面での正当性や利用価値のある地位をもたらしてくれる。 恐らくこれは、このように世界というものを認識することにおける、最も危ない点であろう。

多くの人々が「環境アリバイ」とでも呼ぶべきものを求めている。 ある人々はシンボルや象徴エンブレムとでも呼ぶべきものを買い、ジャケットや車のガラスに貼って環境志向であることを他人に見せる。 他の人々は、スタットオイル社がデンマークでやったように、環境保護団体のキャンペーン用のロゴを宣伝用に買う。 スタットオイル社はWWFデンマーク支部に百万クローネを払い、石油の売り上げを増やすためにWWFのロゴを使うことを許可された。 WWFはまた、評判を高めたい人々のために、鯨を売るということもやっている。 WWFデンマーク支部は産業界向けに始めた「鯨を養子にしよう」というキャンペーンにおいて、「スポンサーになれば、貴社の活動を良い方向でWWFに結び付けます。 スポンサーになれば、貴社のビジネスが環境に注意を払っているということを社会に示す機会になるでしょう。 貴社がこの機会を活用することを願っています」と書いている。 ブロステ・ケミカル社は鯨を養子にし、WWFに協力した環境志向の会社として名を売ったが、この行為が本当に地球環境に貢献したのかといえば疑わしい。

環境保護や動物保護運動は、自身を政治的に表明することによって大きく成功した。 彼らは、「容易に勝て」、ほんの数カ国だけが敗者になる一方で大多数の人間が自国内で簡単に点数稼ぎをできる問題を選び、効果的なシンボルを作り出し、マスメディアを通してホエール・ウォッチングやイルカ・セラピーなどを売り込み、良い環境イメージを与えることで企業や政府の関心を効果的に開拓することによって、自身を効果的に売り込んだ。

世界は積極的な環境保護を必要としている。 とりわけ海産資源の利用のためにクリーンな海洋環境への依存度が高い沿岸域の人々はなおさらである。我々は一方では漁師やハンター、もう一方では環境保護運動という両サイドの協調の強化を必要としているが、今日では残念なことに両者の間には相互不信があるだけである。 その原因は環境活動家の一部が(全員ではないものの)方策をごちゃまぜにしていることにある。 グリーンピースやWWFのように環境保護と動物保護を混ぜることによって、反対運動が人為的に作られる。 これは、自身の活動をシンボル的世界観から一線を画そうとしている他の団体にとっても状況を困難なものにしている。 つまり、グリーンピースとWWFは効果的な沿岸の環境保護にとって重要な協調を損なっているわけである。 これ自身は沿岸地域の人々対する脅威となる。 グリーンピースやWWFの手法は地球環境にとって本当に重要な問題から人々の注意をそらすことになる。 焦点は環境に対する真の脅威からそらされ、ときには環境への脅威者と環境団体が互いに認めあっている状況が見られる。 このような状況は、アメリカやイギリスなどの反捕鯨国政府が環境アリバイや環境免罪符を買っているIWCにおいて容易に見受けられる。 この見返りとして政治的正当性がグリーンピースをはじめ他の反捕鯨団体に与えられる。 このような構図には、沿岸地域の人々だけでなく、環境一般に対する最大の脅威が存在している。




参考文献

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訳注1: モラトリアム採択当時、科学委員会はミンククジラの資源量が頑健であると認めていたにもかかわらず、「科学的知見に不確実性がある」という口実でモラトリアムが支持されたことを思い起こしていただきたい。

訳注2: 「クローネ」はノルウェー、デンマーク、スウェーデンの通貨単位

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