鯨の人道的捕殺と野生動物の持続的利用

(日本鯨類研究所 1996年発行「捕鯨と21世紀」より)

林 良博
東京大学 教授



1. はじめに

 現在、南氷洋には76万頭のミンク鯨が生息すると推定されている。 この推定数は、モラトリアムが始まる以前に欧米の研究者が推定した数(6万頭) を大幅に上回ることはもちろんのこと、日本の研究者のそれ(40万頭)をも上回るもの である。 従って、鯨の人道的捕殺の論議を開始する前に、以下のことを確認すべきである。 すなわち、科学的に根拠のある捕獲枠を遵守するかぎり、捕鯨がミンク鯨を絶滅させる という主張がいまや正当性をもたない、ということである。 このような確認を踏まえていなければ、いまなぜ人道的捕殺の論議が必要なのか、 不明確になる恐れがある。 この議論は、いままさに再開されるための科学的条件が整った捕鯨を、いかにより良い 条件の下で再開させるか実質的に検討するために必要なのであり、様々な世界観、 価値観を冗漫に述べ合うこと、いわば議論のための議論を行うことが目的ではない のであるから。



2. 野生動物の持続的利用

− 21世紀は野生動物の持続的利用の時代である

 鯨の人道的捕殺を検討する前に、その前提として確認しておきたいことがもう一つ ある。 それは、環境保全を重視する世界的な潮流のなかで、「野生動物を持続的に利用しよう とする考え」が過去10年間にわたって強まっていることである。 このことは、単に野生動物と家畜の垣根を取り払うだけに留まらず、ある面では 野生動物の利用が家畜の利用よりも優れていることを意味している。 ここで簡単にその内容を紹介しよう。

 大型のウシ科動物をもつアフリカ諸国においては、 Sustainable Wildlife Utilisation(野生動物の持続的利用)に対する具体的実践が 行われており、それに対する理解が高まってきている。 実際に、1990年にはアフリカ 7 カ国の参加のもとに「野生生物の持続的利用に関する 会議」がケニアで開催された。 この会議の主旨は、多様な野生動物、とくにアフリカに固有な動物が、地域の エコシステムを維持するために本質的に必要な存在であると同時に、家畜よりも 生産性および適応性の高い動物である点に注目し、持続的に利用しようというもの である。

 この主張の要点は以下の通りである。 (1)新たな地域で牧畜を始める場合、まず薬剤散布等によるツェツェバエの駆除が 必要である(薬剤による環境汚染)。 (2)ついで、放牧の邪魔になる森林や薮地が伐採される(伐採による環境破壊)。 (3)その後も放牧牛の維持管理のため、殺ダニ剤の散布、牛の薬浴、ワクチンの 接種等が必要とされる。 (4)また牛は植物の成長点の下まで食べるため、しばしば植物被覆が失われる危険 性がある(砂漠化)。これを野生動物に置き換えると、 (5)進化の過程で病原体にたいする抵抗性が獲得されているため、薬剤散布等による ツェツェバエの駆除や、ワクチンの接種が基本的に不要である。 (6)また様々な種に分化した野生動物は、その土地の植生をもっとも有効に利用する ための食い分けが発達し、森林、薮地、草地等それぞれの植生タイプに応じて 採食できる。 その結果、野生動物のトータルのバイオマスは、単一または数種の家畜の組み合わせの それらを上回る。

 このような主張は参加国の大勢を占めたため、1977年に狩猟および野生生物製品取 り引きの全面禁止を打ち出し、現在も頑なに観光以外の野生動物の利用を封じている ケニアは、一人孤立している印象をあたえた。 そのためケニア野生生物公社のリーキー総裁は、「この会議の結果を参考にはするが、 直ちにケニアが Wildlife Utilisation の政策を選択すると考えてほしくない」 と抵抗すると同時に、「しかし今後、Wildlife Utilisation に関するなんらかの 政策を確立したいと考えている」と表明せざるをえなかった。


− 野生動物の持続的利用は環境保全と共存する

 アフリカにおける野生動物に関する新しい流れは、捕鯨の将来と無関係ではない。 第一に、アフリカの「国立公園像」は、ある意味では先進諸国のエゴの押し付けであ り、アフリカに生活する人々のためとは言い難い。 先進国から訪れる観光客は、自分たちが見ている野生動物が、利用されるとは 思いたくないかもしれない。 しかしその思いは、観光が国家収入の第一位に躍り出たケニアならともかく、 全てのアフリカ諸国に押し付けられるものではない。

 途上国には、世界の家畜の約 70% が飼養されているにもかかわらず、生産量は世界 の 30% であり、その生産性は先進国の 5分の1 以下に過ぎない。 この理由は、ウイルスから寄生虫にいたる寄生生物の病害による損失にくわえ、 途上国の在来家畜は抗病性、環境適応性に優れているものの、生産性の面からの改良が 進んでいないことによる。 しかし先進国で改良された生産性の高い改良種を導入しても、途上国に多い疾病 のため、十分な能力を発揮し得ない。 ここに今日、野生動物の持続的利用を積極的に進める意義がある。

 また現在世界の食糧は、マクロな視点でみると需要と供給が均衡している。 しかしこれは先進国における技術進歩にともなう増収と、途上国における森林伐採 による耕地の拡大によって維持されてきたものである。 地球規模の環境保全を考えるとこれ以上の耕地の拡大を抑制する必要があるが、 たとえ途上国における人口増加が抑制されたとしても、より多くの動物性タンパク質を 摂取したいという「生活水準の向上に対する要求」を押さえることはできない。 事実、過去10年間の主要穀物の消費の伸びは、年率で小麦が 0.1%、米が 0.5% であるのに対し、飼料穀物の伸びは 1.5% と目を見張るものがある。 この傾向が今後も続くとするならば、森林のより一層の破壊が避けられないことを 意味する。

 鯨をふくむ野生動物の利用は、地球環境をあるがままの状態で保全しながらそこか らの余剰分を利用するという、生物という再生産が可能なシステムを最大限生かした ものである。 したがって、野生動物の利用を拒むことは、地球環境保全の流れに 逆行すると言っても、言い過ぎではない。



3. 鯨の人道的捕殺

− 動物は人類の友である

 野生動物を利用することは意義深いことではあるけれども、だからといってそれを なぶり殺しにしたり、苦しめたりして良いものではあるまい。 Charles R.Darwinのいうように、「動物は、痛み、病気、死、苦しみ、 飢えにおいては人間の兄弟」であろう。 確かに、今はほとんど見られなくなった光景ではあるが、疲れて倒れた馬を激し く殴り続ける農夫をみて、嫌悪の念をもたなかった人はいない。

 このように動物に対して深い同情心をもつことは、動物と人間が進化的に親族関係に あるという認識が基本にある。 さらに、痛みや苦しみを嫌う気持ちが多くの人々の中で強まっていることも、 大きな要因の一つである。 暴力は、痛みや苦しみを生み出す。 平和や安らぎを求める人々が、そうした残酷な仕打ちを許すことができないのは 当然なことである。

 動物が痛みを感じる能力をもっているか。 少なくともほ乳類のように、高度に発達した神経系をもった動物では、人間と完全に 同一か否かは明らかではないにしろ、十分に痛みを感じる能力をもっていると考える のが自然である。 動物愛護者の中には、迷った動物たちを動物収容所(シェルター)で殺すのも やむを得ないと考える人がいる。 それは、そうした動物たちを精神的・肉体的苦痛から開放するために必要だ と考えるからである。

 動物に対するこのような感情移入を、感傷的であるとか、または擬人的であるとか いって、冷笑することができるであろうか。 否である。James Turnerが「Reckoning with the Beast」で述べているように、ビ クトリア時代に育まれた動物への同情心は、虐げられてきた子供や精神障害者への 同情と結合し、彼らの地位向上に貢献した。 さらに痛みや苦しみに対する嫌悪の気持ちが、国内では福祉国家を発展させ、国外では 国際的な救済計画を活気づける大きな原動力となっている。

 しかしながら、動物に対する感情移入だけに流されて、持続的利用、あるいは利用 すること自体を否定してしまっては本末転倒である。 大切なのは、如何にそういった感情を、客観的、科学的に持続的利用というものの中に 組み込んでいくかであり、捕鯨に関して、人道的捕殺が検討されるべき所以も そこにあるのである。


− 捕鯨は、非人道的か?

 「捕鯨は人道的ではない」として捕鯨に反対する人には、その根拠は何かを是非と もお聞きしたい。 よくある答えとしては、 (1)対象が家畜ではなく、野生動物であるため特別な配慮が必要である、という主 張にがある。 また、(2)「捕殺に時間がかかりすぎる」と主張して、反対する人もいるだろうし、 (3)捕鯨が「残酷である」からと言う人もいるであろう。 以下、これら3点を検討していきたいが、利用することすら否定する単なる動物愛護論 の土壌ではなく、利用を前提とした論議である限りにおいて、建設的な議論が 期待できるものと考える。


(1)野生動物は特別か?
 鯨は家畜ではなく、野生動物であるがゆえに特別扱いすべきだという主張につい て、多くの日本人は疑問に感じている。もちろん絶滅に瀕した種(endangered species)に対しては特別な配慮が必要だ。 私たちには天然痘のような人類に大きな打撃を与えるようなウイルス、細菌、寄生虫 を撲滅することは許されても、地球が生み出した多様な生物種をこの地球から抹殺す ることは許されない。

 私は、東南アジアという、家畜化の生じた地域を数多く訪れて家畜とその野生 原種の関係を調査してきたが、この両者は限りなく連続的な存在であることがあ きらかとなった。 また、日本や欧米を含む多くの地域においても、家畜の神経系が野生動物よりも 未発達だという証拠は何もない。 かつて豚の脳から猪のそれよりも形態学的に単純だという報告があったが、それは単に 幼児化(ネオテニー)を意味しているにすぎない。 もし幼児化している動物を殺しても良いなら、野生動物でも幼児ならば殺しても良い という不思議な理屈になる。 これは恐ろしいことに、健常者な生存が許され、障害者は抹殺されても良いという 差別思想につながる。

 少なくとも東洋には、野生動物と家畜を差別化するような思想や宗教はなく、両者 を同一線上でとらえている。 これはより科学的であろう。 私たちは増えすぎた野生動物を押さえることも、時と場合によってはやむを得ないと 考えるし、また個体数が少なくなった家畜の品種を、遺伝子資源の保全の立場から 残そうとすることも必要と考えている。

 こうした考えは、1980年にスミソニアン研究所で開催された IWC 後援の 「捕鯨の倫理シンポジウム」で述べた。(“Ethics Of Killing Whales”)      

(2)捕殺に時間がかかりすぎるのか?
 生命を慈しむことは自明の理である。 1分1秒でも早く、鯨を死に至らしめることが「人道的捕殺」にとって大切であろう。 日本は、1980年代に新型爆発銛(ペンスライト)を開発し、人道的捕殺にむけて 最大限の努力をおこなってきた。 この方法が、第35回 IWC(1983年)において高く評価されたことはよく知られた 事実である。 ペンスライト爆発鈷を用いたミンク鯨の捕殺時間は、南氷洋において平均 2分24秒、 また沿岸において平均 1分14秒という結果が得られている。

 これらの値は、他の野生動物における捕殺時間と比べて長いとは思えない。 日本で捕獲されている大型哺乳動物としては、シカとイノシシが挙げられる。 これらの動物の捕殺時間について正確な統計はないが、何度か害獣駆除 (Pest Control)としてのイノシシ猟に参加した私自身の経験からすると、 最初の射撃から致死に至るまでの捕殺時間は、平均10分を大幅に超えている。 見通しの悪い森林内では、この捕殺時間がより長くなる。 一方、サバンナのように見通しのよい地域でも、完全な致死に至るまでの時間が 平均 5分 以内であれば、かなり効率がよいと言えるだろう。

 このような害獣駆除の現状にあって、日本、または他の国において、致死時間が長 すぎると問題になったという話は、特別な例を除いてほとんど聞いたことがない。 それは捕殺時間が、当該動物の行動、それらが生息する地域の特殊性の中で、精一杯の 努力をした結果として与えられるものであることを多くの人々が了解しているからで ある。 特別な例というのは、ゲームハンティングで動物を遊びとしてなぶり殺しに した場合であり、これは責められてしかるべきであろう。

 また、家畜の屠殺と捕鯨とを安易に比較することは意味がない。 確かに、家畜の最良の屠殺法に比べて、捕鯨の致死時間は長い。 しかし多くの人々が知っているように、鯨は捕鯨が開始されるまでは自由の身である。 一方家畜は、生まれてから死ぬまで囚われの身である。 劣悪な環境で飼育された場合、その間に受ける精神的・肉体的な苦痛は計り知れない。 また飼い主から引き離されて屠場へ移される迄の苦痛も少なくない。 しかし私たちは、だからといって家畜の飼育禁止を求めたりしない。 人道的立場から、より良い飼育環境と移送方法を求めるだけである。

 日本の研究者の一人として、ペンスライト爆発鈷の開発にみられるような、 捕鯨をよりよい条件で進めるための日本の同僚たちの努力を誇りに思うと同時に、 今後ともこのような努力が継続されることを強く希望する。 もちろん日本が開発したペンスライト爆発銛による捕鯨法は、 「完全」なものではない。 そもそも技術において完全なものは存在しない。 どんな技術でも未完成であり、常により完全なものを目指している。 但し、ミンク鯨の致死時間をより短縮するためにいま必要なことは、爆発銛自身 の改良よりも、むしろそれを用いる砲手の技術の向上であるが、商業捕鯨の禁止はそ れを拒んでいるというのが実状である。

(3)残酷とはなにか
 最近の IWC においては、捕鯨が残酷であるとの訴えが、電気ランスとの絡みで 語られている。 果たしてこれは正当なことであろうか?

 動物たちに対する残酷な仕打ちを嫌悪することには正当性がある。 それは人間が人間らしく生きることを保証するものだ。 しかし、ここで「残酷」とはなにか、もう一度考えてみる必要がある。

 残酷とは、不必要な痛みを意図的に与えること、と定義できるだろう。 疲れ果てて倒れた馬をムチ打つのと、乗馬の馬にムチを入れるのとでは、 行為が似ているとしても、意味がまるで異なる。 前者は、馬にもう休ませてあげたいと願う人々の気持ちを逆撫でする不必要で、 無慈悲な行為である。 一方、後者は馬を進ませようとするごく自然な、必要な行為であると多くの人々 に納得されている。 前者は、馬にとってもずいぶん辛い仕打ちであろう。 自分でも動きたいのだが、疲れ果てて動けないのだから。 一方、後者の馬は、騎手の合図であるムチを待っている場合が多い。

 同じムチ打つという行為が、その状況次第で残酷な行為にもなり、また逆に必要な 行為にもなりうる。


− 電気ランスは、現時点で最良の人道的な二次的捕鯨法の一つである

 電気ランスは、捕鯨の二次的手段として本当に残酷な方法であるか、考えてみたい。 現在使用されている主要な捕鯨の方法としては、先に述べた ペンスライト爆発鈷がある。

 不幸にして、一番モリが鯨を即死させることが出来なかった場合、人道的見地から みても二次的手段を講じることは理にかなっている。 二次的手段として必要なことは、(1)鯨を一秒でも早く死にいたらしめること、 (2)死にいたるまでの苦しみがなるべく少ないこと、 また(3)乗組員の安全性が高いことである。

 本年の日本政府の調査報告書は、以下のことを明確に示している。 それは、(1)モリがぬける恐れがある場合、(2)一番モリが鯨体の尾部に命中し、 船首に鯨を引き寄せた時、身体の大部分が海中に没して、電極を有効な位置に 差し込めない場合には、どうしても二番モリを使用しなければならない。 しかしそうした場合を除くと、電気ランスの方が、二番モリを使用するよりも 致死時間を短縮する上で優れている。 電気ランスはまた、乗組員の安全性という点からみても優れた方法である。

 一番モリによって即死しなかった鯨を、すべて瞬間的に殺すことができないという 点では、電気ランスは「完全な方法」ではない。 将来にむけて改良の余地は残されている。 しかしそうだからといって、電気ランスに使用を禁止するというのは、科学技術の 進歩を妨げるものである。 そもそもあらゆる技術は、現時点で完全なものはない。 すべての技術は、将来に向けて改良の余地が残されている。 そうだとしたら、人道的であるか否かは、現時点で最良の方法を用いているか否かで 測られるべきである。


− 電気ランスの改良の方向

 電気ランスの改良のために、検討しなければならないことが 2 点あると考えられる。  第一点は、電極の位置の検討である。1995年の IWC に提出された日本政府の報告書 に示されたように、電流の強さと致死時間との間にまったく相関がみられない。 これは弱い電流でも致死時間が短い個体がいた反面、強い電流でも致死時間が長かった 個体がいたことを意味する。

 その理由として考えられるのは、(1)一番モリによるダメージが個体によって 相当異なっているため、その影響が大きく、電気ランスの効果の違いが隠れてしまった こと。 電気ランスがあくまで二次的手投であることを考えると、十分有り得ることである。 また、(2)電気ランスの電極の位置が個体によって異なっている。 その違いによる効果の差があまりにも大きく、電流の違いによる差が 隠れてしまったこと、の 2点である。 このどちらなのか。またもし(2)だとすれば、最良の電極の位置はどこなのか、 をさらに検討する必要がある。

 第二点は、はたして電気ランスの通電中に鯨は意識があるのだろうか。 もし意識があるとすれば、苦痛はどの程度か。 これらを測定するのは大変困難である。 そもそも鯨の苦痛の程度を測定する指標が今のところまったく存在しない。 しかし、日本鯨類研究所の石川創らが昨年より血清成分の生化学的検討を開始した。 こうした努力が、将来実を結ぶことを期待したい。



4. 人道的捕殺の意味するもの

 「人道的」であるか否かは、与えられた条件の中で最大限の努力をしているか否か で測られるものであり、画一的な単位で測られるものではない。 また与えられた条件に満足するのではなく、その条件を改善するために常に最大限の 努力することが、「人道的」であることである。

 石器時代人が石斧と石槍で野生動物を殺していたからといって、どこの誰が非難で きようか。 炭酸ガス麻酔法が完備していない途上国では即刻家畜の屠殺を中止すべきである、 と誰が主張できようか。 同じように、南氷洋に壮大な屠殺揚が用意できないからといって捕鯨に反対するのは、 「人道的」ということの意味を理解していない人のすることである。

 最後に、「人道的」な捕鯨法は、ミンク鯨に対して「人道的」であると同時に、 捕鯨に携わる人々に対する「安全性」、また鯨肉を食する人々に対する「安全性」が 計られなければ片手落ちである。 家畜屠殺法および実験動物の取扱指針は、このように総合的な観点から動物福祉を 考えており、捕鯨の倫理がこれらを無視するならば、きわめて特異なものに なってしまうであろう。

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