日本の鯨類捕獲調査

(日本鯨類研究所 1993年発行「捕鯨問題と日本の鯨類調査」より)

小島 敏男
フリー・ジャーナリスト、元ロイター記者



衝突進路

 1991年11月14日、日本の第5次鯨類捕獲調査船団が南極海に向かって出港した。 新しく調査母船となった日新丸(7,198トン)が横須賀から、また今は目視・採集船 として機能するキャッチャー・ボートの第1京丸(812トン)、第25利丸(739トン)と 第18利丸(758トン)の3隻は下関から5カ月間、無寄港の途についた。

 当日シンガポールにいた国際環境保護団体グリーンピースの日本事務所所属の 舟橋直子はこのニュースを見てそれまでの楽観的気分は消えた。 グリーンピースの反捕鯨キャンペーン・コーディネータとして彼女は、シンガポールの ドックで修理中のグリーンピース号(905トン)を使って、日本の捕獲調査を妨害 するため出港準備中だった。 この日彼女そして彼女の仲間は、母船が以前の第3日新丸(22,814トン)でないことを 初めて知った。

 第3日新丸は、商業捕鯨時代活躍した母船で既に建造後43年経って老朽化していた。 捕獲調査時代になって第1次から第4次調査まで母船として使用したものの、修理代、 燃料費等の維持費がかかりすぎ、また現在の調査規模には大きすぎるため、スクラップ として中国に売却された。 そして1987年に日本水産が建造した最新鋭トロール船筑前丸を購入、改造して 新しい調査母船が誕生した。

1992年4月14日私の帰国後のインタビューで彼女が語ったところによれば、今回の 彼女等の妨害計画は第3日新丸の能力に合わせて立てられていた。 最高速力10ノット程度で巨大な船体は小回りが効かないことは、第2次(1988−89)、 第4次(1990−91)での妨害活動の経験からよくわかっていた。 以前の妨害では、南半球の夏期にグリーンピースの持ち船であるタグボート改造船 ゴンドワナ号が、彼らの南極基地への補給へ行くついでに、搭載したヘリコプターと ゾディアック(船外機付ゴムボート)を使い、短期的にちょっかいをしていた。 それはキャッチャー・ボートの前に出たり、キャッチャー・ボートから鯨を母船に 引き渡す際に、母船船尾に着いてスリップウェーを塞ぐことで、渡鯨の邪魔をし、 マスコミ受けのする、スタントマン的場面の写真を報道機関に流した。

 舟橋は今回ヘリコプター搭載を要求したが認められなかった。 反捕鯨用専門船を初めから仕立て、ぴったりと母船をマークすればゾディアック 5隻で、調査船団の活動を頓挫させることができるのではないかと思われた。 彼女等は最大スピード14ノットを出せるグリーンピース号で行けば、ひょっとしたら、 それほど日数もかからず目的を達成できるのではないかとの期待もあった。 しかし新母船の性能がわからないまま、それまでの楽観気分は消えた。

 舟橋は以前から日本の捕獲調査の妨害活動のための専門船を仕立てたいと 考えていた。

 世界各地のグリーンピースの反捕鯨メンバーに話をすると、グリーンピース・ インターナショナル本部のプロジェクトとして認められることになった。 燃料代、乗員の給料と食料の人件費等は約2,000万円位で収まると見積もった。

 そして11月18日9カ国からなる男女28名の乗組員を乗せてシンガポールを離れ、 一路東経100度付近の氷縁つまりパックアイス際で日本の船団を待ち受けるため 南下した。

 一方調査船団内部ではグリーンピースのゴンドワナ号との遭遇の可能性を全く排除は しなかったものの、以前グリーンピースの妨害活動に会った海域とは別の調査海区に いくため妨害は無いだろうとの楽観ムードが支配的だった。 今回は第1次(1987−88)、第3次(1989−90)と同じ海区の調査だった。 しかし日本の調査計画者、実行者は、第3次調査の際もグリーンピースが妨害活動 のため、ゴンドワナ号で今回と同じ海域に出向いたが、船団を発見できなかったことを 知らなかったのだ。 ましてグリーンピース号が捕獲調査開始海域に先行していることなど知る由も 無かった。

 この2つのプロジェクトの関係者が、危機管理の要諦の一つである、情報収集を おろそかにし、またプロジェクト実行段階に想定される困難な問題を明確にせず、 その解決法の準備がなされえなかったため、それぞれの目的達成に損失を被ることに なった。

 調査団側をみれば、計画の一部変更を余儀なくされ、当初の目的を十分に達成 できなかった。

 一方グリーンピース側を観察すれば、彼らの仰々しい自画自賛的戦果宜伝とは 裏腹に、さほど効果的活動もせず、2カ月間も南極海に漂う結果になった。 日新丸から私が見ている限り、多くの場合、彼らは5隻のゾディアックから黒々とした 排煙を出し、静かな南極海で誰に邪魔されることなく、右往左往と船団を追いかけて いただけだ。 舟橋によれば、はっきり分からないが、予算は2倍以上使っただろうとのことだった。


商業捕鯨の一時停止と捕獲調査の開始

1972年ストックホルムの国連人間環境会議以来、反捕鯨運動が高まる中で、1982年 国際捕鯨委員会(IWC)は1986年までに大型鯨種の商業捕鯨を全面一時停止すること (いわゆるモラトリアム)を採択した。 採択に当たって、IWCは1990年までに資源の包括的評価を行い、将来の商業捕鯨再開に 向けてゼロ以外の捕獲枠の勧告をつけて、モラトリアムを再検討するという条項を 付け加えた。

 このモラトリアム採択は、IWC内の科学委員会がミンククジラの資源は豊かで 禁漁の必要なしとの勧告を無視した政治決定だった。 日本を含む4カ国は異議申し立てをした。 1986年7月1日にこれを撤回し、日本も南極海では1986−87年、北太平洋の 日本沿岸大型捕鯨は1987−88年の漁期をもって商業捕鯨を中断した。 (ペルーは撤回、ソ連、ノルウェーは撤回せず、捕鯨中断。)

 日本が異議申し立てを不本意ながら撤回し商業捕鯨を中断した理由は、アメリカ政府 の圧力が有ったからだ。 アメリカはその200マイル経済水域での日本漁船の操業許可を取り消すと脅した。 日本はクジラの生産高とアメリカ経済水域での漁獲高を秤にかけ、金額で生産性の より高い漁業を守ることにした。 しかしそれにもかかわらず、アメリカ政府は後にその200カイリからも日本漁船を 追い出してしまった。 アメリカの経済水域でのトロール操業に期待をかけて新造された筑前丸は、無用の 長物となった。 日本の捕鯨再開を願って鯨類捕獲調査母船日新丸に生まれ変わったことは、歴史の 皮肉としか言い様がない。

 毎年アメリカ大統領が一部のアメリカ市民に対して、最も生存が危険視されている 鯨種のホッキョククジラを捕獲し食べることを許可している。 いわゆる原住民生存のための捕鯨だ。 もしこれを禁止するなら、日本その他の国に捕鯨を諦めさせるのに大きな圧力に なるはずだ。 しかし現実はそうはなっていない。

 商業捕鯨の再開を諦めない伝統的捕鯨国日本は、その説得の根拠を科学的実証に 置くことを戦略の中心にすえ、1987年から南極海で捕獲調査を開始した。 目的は信頼性の高いデータを収集し、鯨類資源の利用に当たり科学的保存、管理方式の 確立に貢献することだ。

 国際捕鯨取締条約は第8条で、加盟国が国家主権の行使として科学的研究のため鯨を 捕獲することを許可し、それによって得られた鯨肉などの副産物は浪費することなく 利用することを義務づけている。

 日本の調査の主体は南極海で16年以上に亘り、毎夏10%の上下幅をもたせ300頭の ミンククジラを捕獲することと、目視による鯨資源のモニタリング調査から なっている。 IWCの調査によれば現在ミンククジラの生息頭数は南極海では少なくとも76万頭だ。

 南極大陸周辺の海に張りつめたパックアイスと呼ばれる氷原の至る所にできる 開口部分で索餌しているミンククジラは計算に入ってないので、それも入れると この頭数はさらに大きくなる。 過去の経験から、そのような場所の生息密度は濃いことはよく知られている。

 IWC科学委員会招待科学者ダグラス・バターワースによれば、商業捕鯨時代の 資源管理方式(新管理方式 NMP)では、76万頭の内毎年 10,000頭から 15,000頭まで 獲れる計算だ。 しかしIWCが新しく採用した資源管理方式(改定管理方式 RMP)での試算では 4,000頭獲っても、資源に悪影響はないとしている。 また最も厳しく見た場合は2,500から3,000頭だ。 彼は南アフリカ・ケープタウン大学応用数学助教授で、改定管理方式開発で主要な 役割を果たした。

 日本の調査の特徴は、資源動向の将来予測を可能にする専門的知識を蓄積する ことにある。 これは資源管理にとって最も重要な要素である。 つまりミンククジラの性成熟度を調べ、また年齢構成を把握し、年齢別自然死亡率 を算出し、加入率を推定することだ。 これらの情報はクジラを捕殺しないと得られない。 年齢は耳垢栓を取り出し、縦に切り、明暗の縞を数えて査定する。 樹木の年齢を年輪から割り出すのと同じだ。

 人間で言えば、現在の年齢構成に基づき人口動態を予測する人口統計学を、 ミンククジラにも応用しようとしているのが捕獲調査だ。

 捕獲調査計画のために広大な海域から出来るだけ偏らずに、資源を代表する サンプルを採集するため、高度なランダム選出法が開発された。 商業捕鯨時代はパックアイス際に密集する大きく成長したミンククジラを効率よく 捕獲したので、そこから得られたデータにはおのずから偏りがあった。

 調査の第2の目的は南極海の生態系のなかでミンククジラを中心として鯨類のはたす 役割をあきらかにすることだ。 捕獲したミンククジラの生物学的調査の他、それ以外の鯨類 − 例えば、 シロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ、セミクジラ、イワシクジラ、 ニタリクジラ、マッコウクジラ、シャチ等 − の目視による資源量の調査も行なう。 地球上で最大の動物シロナガスクジラは商業捕鯨時代に南極海で集中的に各船団に捕獲 され、資源の減少が激しく、IWCは1964年から捕獲を禁止した。 国際捕鯨統計によれば、合計201,013頭がノルウェー、イギリス、日本、ソ連、 オランダ、南アフリカ、パナマ、ドイツ、米国、デンマークによって捕獲された。 現在IWCの調査で推定されているシロナガスクジラの生息頭数は最低700頭だ。

 シロナガスクジラ等の大型鯨が捕獲された結果、その分余剰になった餌のオキアミ を食べてミンククジラは繁殖力をつけ初期資源量を上回り、その結果ミンククジラの オキアミの摂取のシェアが増え、シロナガスクジラ等の大型ヒゲ鯨類のシェアーを 圧迫して繁殖を押さえているという説がある。 この説を唱える研究者はシロナガスクジラ等、減った鯨類を復元させるには、 ミンククジラを適当に間引く必要があるという。 ミンククジラは小型のため現代捕鯨の対象となったのはさほど昔ではない。 南極海のミンククジラはこれまで100,000頭しか捕獲されておらず、ほぼ処女資源に 近い鯨種と言われている。

 1987年に調査の実施機関として、財団法人・日本鯨類研究所が農林水産省の指令で 設立され、調査船団の母船、キャッチャー・ボートのリース会社として、 商業捕鯨時代の日本共同捕鯨会社が解散して、共同船舶株式会社が設立された。

 調査時期は、12月から3月にかけて、南半球のクジラが冬の間赤道近くの暖かい海で 過ごした後、夏期に南極海に豊富に発生するオキアミを食べるために南下する時期だ。

 調査海域はIWCが6区域に分割している内の2つの区域を選んだ。 IV区(東経70−130度)とV区(東経130度−西経170度)だ。 日本から最も近い区域で、商業捕鯨時代のミンククジラの主漁場であり、同時に当時の 調査資料が豊富に有るからだ。 調査はIV区とV区を毎年交互に行う。 IV区での第1次、V区での第2次予備調査の後、第3次から本格調査に入った。

 グリーンピースはこのV区に有るロス海に面した大陸に南極基地をもっていた。 彼らはこの基地にゴンドワナ号を使って毎夏補給を行っており、第2次、 第4次捕獲調査がこの海域で行われた際に、妨害活動を行った。 第3次がIV区で行われた際も、ゴンドワナ号は基地での補給終了後出向いたが 日本船団を発見出来なかったのは、基地から遠かったからだ。

 今回の第5次調査はIV区だ。 グリーンピースはこの夏ゴンドワナ号を使って南極基地を撤去するという情報が あったこと、また以前このIV区でグリーンピースとの遭遇が無かったこともあり、 日新丸船団では、グリーンピースの妨害無しとする気分が支配的だった。 そしてゴンドワナ号の動きの情報に気を取られていた。

 グリーンピースは前4回の調査報告,第5次調査計画の概要もIWCから入手しており、 どこから開始し、どのような航跡パターンをとって海区を回るか事前に分かっていた。 しかし正確な開始起点は知らなかった。 開始起点は船団が出港してかなりたってから、調査団長がランダム要素をいれて コンピュータで選出する方法が取られたからである。

 捕獲調査ではIV区全域は北部、中部、南部の3層に分けられている。 中部及び南部海域はさらに東経100度線を境に東海域と西海域に分割されている。 北部海域は往復航を利用し2回の調査が行われ、中部、南部の海域はクジラの分布や 豊度の季節変動を見るため前期後期に分けて合計2回の調査が行われる。 また真夏になる後期にプライズ湾の氷が開口した時にこの調査も行う。

北部海域 −
南緯55度−60度までの海域
中部海域 −
南部海域の北限から南緯60度までの海域
(但し前期西海域は夏がまだ浅くパックアイスの解け具合が遅く、広く張り出している 場合は北限は南緯58度)
南部海域 −
パックアイスより北45マイルまでの海域
プライズ湾海域 −
東経70度から80度で南緯66度以南

 北部海域を通過後の調査は南部西海域を東経100度線上の或る位置から西に向かって 開始する。 或る位置は定められた無作為方式で抽出される。 南部西海域の西端、東経70度から中部西海域を東経100度線に至り、南部東海域を 東に進み、東端の東経130度から中部東海域を西に進み東経100度で前期を終わる。 後期もおなじパターンで動くが南部西海域のあとプライズ湾を調査する。       

 グリーンピースとしては東経100度線上で網を張れば調査船団を捕らえるチャンスは かなり高い。


調査船団の組織と仕事

1.調査員

 今回の調査船団の乗員は合計158名だ。 藤瀬良弘水産学博士が団長として調査活動の総括を行い、母船での生物調査の指揮、 標本採集船への指揮を行う。 調査依頼側の水産庁を代表して酒井照雄監督官も同乗している。 藤瀬は大阪の高校時代ワンダーフォーゲル部で山歩きをし、将来自然を相手に学問を したいと思うようになった。 沖縄の琉球大学理工学部の海洋学科に進み、愛媛大学の農学部で修士を取った。 北海道大学水産学部で博士の学位を取得した。 イルカを使った、環境汚染分野のなかでの重金属類の化学分析が専門。 日鯨研に入所、第2次までは調査員として、第3次では副団長として参加した。 今回初めて団長に昇格。

 生物調査部には他に石川創と斎野重夫が日鯨研から、捕助員として3人共同船舶から 参加している。

 神奈川県の高校時代石川も山岳部で山を愛し、将来お天道様の下で働けるような 仕事につきたいと思っていた。 一浪した後日本獣医畜産大学に進んだ。 卒論の研究分野は解剖学教室でミンククジラの胎児の雌雄鑑別だった。 卒業後鳥羽水族館て獣医として5年スナメリというイルカを含む海獣類の世話をした。 もっとクジラ、イルカの研究をしたいと思い、1989年に日鯨研に入所、南極調査に 第3次から続けて参加している。

 斎野も1989年から日鯨研で働いている。 東京で生まれ育った彼は小学生時代から高校時代まで水棲動物、特に川魚、熱帯魚に 取りつかれた日々を送った。 家庭の事情で東京を離れることが出来ず水産大学進学を諦め、日本動物植物専門学院 で動物飼育の専門家になる道を選んだ。 日鯨研に来る迄は千葉県の鴨川シーワールドでシャチやイルカの飼育係をやっていた。 シャチは白黒のパンダ模様の歯クジラだ。 今回が南極は初めてだ。

 3人の調査補助員は若いうちに捕鯨業に入り、母船で解剖といわれるクジラの解体 の他肉類製品製造に関するあらゆる仕事に携わり、彼らの技術と協力は生物調査標本 の摘出、計量、計測、サンプル冷凍保存に欠くことは出来ない。

 中でも田端茂夫は1987年迄の商業捕鯨最後の12年間は共同捕鯨株式会社で調査係 として今の生物調査と類似した仕事をやっていた。

 現場での指揮は首席部員の石川がとる。


2.標本採集

 このほか3人が採集船調査員として、各キャッチャー・ボートに配属され、調査団長 の指揮の下、標本採取対象のランダム選出、記録、写共撮影等を担当する。 彼らは日鯨研の研究員長野正嗣、大学生の川口創と石井健太だ。

 日本を出港して単独航行していた4隻はインドネシアのバリ島沖ロンボック海峡を 通過してインド洋に出た後、11月25日初めて会合。 母船が採集船に補給中、3人の調査員が採集船に移り、調査団長が採集船幹部(船長、 機関長、通信長)を母船に集め複雑な調査手順の最終確認を行った。

 捕獲調査ではクジラの発見と捕獲は20年、30年と南極海や太平洋で活躍した現在の キャッチャー・ボートのベテラン乗組員の協力なくして成り立たない。

 しかし調査のトラックライン(航路)のとりかた、発見後ランダム方式で捕獲対象の クジラの選び方、捕獲後および追尾で見失った後のトラックラインの調査復帰点に戻る 方法や、こまごました記録の責任は商業捕鯨時代には必要なかったことだ。 捕獲調査が始まった当時は皆戸惑ったのは当然だ。 毎年調査方法が改良されるので、完全に把握しないと、広大な調査海域で船団の統一 した行動を乱すのみならず、調査に支障を来すことになる。

 形の上では各採集船船長、昔流に言えば捕鯨船船長、が南極海は初めての自分等の 息子のような年代の調査員の補助員として協力する体制になっている。 誇り高い鯨捕りの男達が耐え難きを耐えられるのは、調査活動が捕鯨再開につながる 道と確信しているからだ。

 ごく単純に標本採集方法を説明すれば、3隻は定められたコースをメイン・コースと その外側それぞれ9マイル離れた並行線上の2本のサブ・コースに調査日毎に輪番で 配置される。 それぞれの船はコース上左右3マイルの幅が調査範囲となる。 1コースは6マイル幅の帯と同じだ。 そしてそれぞれ3本の帯の間には3マイルの非緩衝帯が設けられる。 南部海域とプライズ湾ではメイン・コースに当たった船は目視専門船で捕獲は やらない。 中部海域ではクジラの生息密度が低いので、3隻すべてが捕獲をする。

 原則として採集船どうしの連絡は禁じられている。 商業捕鯨時代の競争心が調査に悪影響を及ぼす恐れがあるからだ。

 マストの上にあるトップと呼ばれる見張り台に甲板長など3人の乗組員が入り込み、 アッパー・デッキに調査員、船長、砲手、舵取りが肉眼、双眼鏡をつかって ミンククジラの探鯨を行う。 発見すると接近し、例えば、2頭もしくはそれ以上の場合、トップマンは群れの 構成頭数、個体の位置関係、体長を推定、マイクで報告する。

 船長はその情報をもとに個体の位置関係をスケッチし、調査員は乱数表を引き、 どのクジラを捕るか選出し、調査団長に捕獲してよいかどうか指示を仰ぐ。 そのとき調査団長はノーと言う場合もある。 高密度海域にいて船団として捕獲対象群を1群ずつ飛ばして捕らせる時とか、その日の 捕獲合計が十分でそれ以上捕っても、解剖を同日中に終了できそうもない時などだ。

 そのようなとき、乗組員の落胆は大きい。 猟犬が獲物に飛びかかる寸前にストップをされるようなものだ。 調査団長を恨みたくなる気持ちは当然だ。 永い船内生活ではそのようなときの事を何度となく話題にし酒を飲む。

 第5次調査中一日の最高捕獲数は12頭だった。 それ以上捕っても母船の人的資源数からみてそれ以上は標本の調査は無理だ。 この状態が数日続くと皆の体力が持たない。

 クジラを砲で撃つにも、砲手は商業捕鯨時代とは違った、苦労がある。 標本として、特に年齢査定に使う頭部にある耳垢栓を破壊しないようにしなければ ならない。 背中から尾の部分を撃てば大事な副産物としての肉が破損される。 心臓部を当てて即死させるのが一番良い。 しかし乱数表で小さなクジラが引かれることはよくある。 捕獲のゴーが出た後、原則的に一時間以内で捕れなければ追尾をあきらめ、 トラック・ラインに出来るだけ早く復帰しなければならない。

 商業捕鯨時代のテッポーの名人と言われた砲手は速力のある大形鯨にせよ小型で すばしこいミンククジラにせよ、シーズン中は1人多数の捕る機会がありそれだけ 実地訓練ができた。

 今、日本に現役の正砲手は3人、訓練砲手3人しかいない。 彼らが300頭を平均して分けたら、1人50頭だ。 撃つチャンスが少なく、調査用標本の破壊を少なく、大小取り混ぜて、指示された ものだけをターゲットとして追わなければならない。 条件は厳しい。


3.生物調査

 生物部員の仕事場は甲板、右舷甲板脇にしつらえられた2階建の研究室、士官居住区 にある事務室で行われる。

 データとサンプル収集は大まかに4分野に分類される。

 第1に、この調査でもっとも重要な任務は系統群(遺伝集団群)の年齢形質に関する 情報収集と、成長度と再生産能力を知るためだ。 そのため体長、プロポーション、体重の測定や耳垢栓、ヒゲ板、第6胸椎、第5腰椎 の採取。 睾丸、副睾丸、精子、乳腺、卵巣、子宮内精子、胎児の採取等を行う。 (ヒゲ板とは口中に海水ごと飲み込んだオキアミを捕らえるフィルターの役目を するもの。 上顎に櫛の様に生えそろった、細長い3角形をした角質の板で内側は長い毛が のびている。年齢査定用)(胸椎、腰椎は肉体的成熟度判定)

 第2はミンククジラの系統群の判定と回遊パターンを知るため、形態観察に計測や 寄生虫、皮膚に茶褐色に付着したケイ藻、胎児、鯨体の各組織の採集等を行う。 (ケイ藻の違いが回遊場所の違い、系統群の違いを示唆する)

 第3は生態系関係の調査でミンククジラが南極海の食物連鎖で果たしている役割を 知るため、脂皮厚の計測(エネルギー代謝)、食物連鎖で摂取・蓄積される重金属類 の分析用各組織の採取、胃内容物の量、種類の記録と採取などを含む。

 第4その他の分野では寄生虫、ダイアトルム、発生学、環境化学等を含む。

 解剖デッキと研究室での通常の仕事は、ミンククジラ1頭あたり45項目に亘り 約1時間をかけて行われる。 1項目でも、例えば胃内容物の計量でも胃袋は第4胃まであるし、脂皮厚計測でも 18カ所をはかるので仕事量はかなりになった。 扱ったクジラのデータはその日の内に事務室でコンピュータに記憶される。 集められたデータやサンプルは帰国後解析のため研究機関、研究者に送られる。 もちろん藤瀬も石川も参加する。

 悪天侯で調査が行われない日とか、調査点への船団移動日とか、クジラの発見捕獲 がない日は当然生物調査は行われない。 しかし捕獲が午後にかたまり、母船に一挙に渡されると石川、斎野は夜中の2時頃迄は ベッドに入れない日がよくあった。 (第5次調査中で1日の最高捕獲/処理数は12頭だった。) 翌朝は6時から採集活動が始まる。 母船へのクジラの引き渡しは朝8時から開始だ。 もしクジラが揚がっても、調査が行われなければ解体処理は始められないので彼らは たたき起きれることになる。

 商業捕鯨時代の調査はミンククジラの解剖(捕鯨産業では解体処理を解剖という) に合わせて行われた。 皮を剥いだり、肉の荒解剖にウインチを使い、大包丁、小包丁を扱って事業員は 15分で解剖を終わらせた。 共同捕鯨株式会社当時は調査担当は2人いて、それぞれ8時間のワッチ(勤務時間帯) を1人でカバーした。

 田端はその内の1人だった。 ミンククジラが揚がってくると、すぐ尺をとる。 つまり体長の計測をする。 待った無しで、尾羽(しっぽ)が切られると、解剖はすぐに終わってしまう。 彼は尺取りの後、性別判定、処理開始時間を記入し、解剖の流れに合わせて皮厚計測、 肉と皮のサンプル取り、肝臓、心臓、じん臓のサンプル取りをする。 オスならば、睾丸の重量計測とサンプル取り。 胃内容物の種類と重量計測。 オキアミならば体長を計る。 大事なのは耳垢栓を採取してホルマリンに浸ける。 これをすべて1人で解剖処理に合わせてやった。 取ったサンプルは密封して冷凍庫に保存する。 1ワッチ中10頭も20頭も揚がってくることがあり、息をつく暇がなかった。 調査の仕事が一段落すると、他の仕事も手伝った。

 今、彼は本格的調査に補助員として参加して思うのは、昔と根本的に違うという ことだ。 今は専門に勉強した学者や研究員が現場に来て調査をしている。 また今は調査に合わせて解剖をする。 調査にたっぷり時間をつかい、事業員によって解体処理が完了するまで、1頭あたり 1時間20分はかかる。 大きく、重い物体を扱うので、事業員も計測やサンプル採取の折り調査に欠かせない 協力をする。

 捕獲調査が始まって2、3年間は、若い学者や研究者のマイノリティのグループと 長年捕鯨で生きてきた、学校は中学か高校しか出ていないがクジラに関しては ベテランという自負がある年配の男達との間でぎくしゃくした関係があったことを、 田端は両者の間にあって身をもって経験した。 しかし事業員の間で調査が、資源保護と有効利用にとっていかに大切なことなのか、 理解が深まるにつれ、また若い調査員が解剖や船内生活のあり方を理解するにつれ、 徐々に両者の間に協力体制が出来上がってきたことを田端は嬉しく思っている。


準備

 一方事業員は南極海への往路で捕鯨母船として最後の改良をした。 トロール船から捕獲調査母船へは基本的な部分はドック・ヤードて行われたが、時間と コストを考慮して、残りは事業員が行うことになっていた。 甲板では、栽割小屋、ウインチ小屋が新たに鉄骨鉄板で建てられ、第3日新丸から 運ばれたベルトコンべヤーや皮の裁断機が設置された。 甲板の鉄板の上は木板で覆われている。 解剖で甲板は鯨油ですべりやすくなる。 調査期間中甲板に出るものは、かかとにスパイクの付いた長靴を履くこと、 へルメットを被ることを義務付けられている。 甲板は常にエンジンの冷却水が流され、脂を洗い流し、解剖台としてのデッキを 清潔に保ち、凍結をふせぐ。 歩く通路などはゴム板が、さらに張られる。 デッキ・フェンスはキャンバス・シートで覆われた。 南極海で仕事は特に天候が悪くない限り行われる。 風の中、雪の中、夜間になれば照明燈のしたでやる。 風の無い時でも、船が走行していれば風を受ける。

 甲板での準備作業は暴風圏に入る前に完了した。 灼熱の赤道帯を南下すると南緯40度から50度にかけて一年中時化ている。

 甲板下ではパン立て工場が設置された。 この工場は甲板で栽割された肉、脂皮、内蔵等製品を種別ごと品質別に15キロ入りの 長方形をした鉄板の容器につめ、ベルト・コンベヤーで急速冷凍室に送り込む。 急冷後製品は鉄板の容器から取り出し、カード・ボードの箱に梱包され、冷凍貯蔵庫 に送られる。 製品は47種に分類される。

 事業員は解剖、パン立て、冷凍貯蔵庫の仕事が専門だが、工場労働者がやる溶接、 キャンバスの縫製などの技術を持っている。

 出港した翌日、ムクドリの密航者が見つかった。 甲板のあちこちを飛び回り、スコールでたまった水を飲んだり、水浴びをしていた。 どこで何を食べているのかわからない。 だんだんやせていった。 それぞれ乗組員が甲板にコメを撒いたり、研究室脇のウインチ台に釘を立て、ミカンや カキやリンゴ等をさして置いておいた。 熟れたカキを好んで食べた。 だんだんと甲板で働く者達を警戒しないようになった。

 暴風圏に入る前に、田端は鳥小屋を作り、餌でつってムクドリを捕獲した。 以後航海中ずっと研究室の2階に居住、研究員のマスコットとなり、部屋中を 我が物顔で飛び回っていた。 そしてデスクの上、椅子、ペーパーと所構わず糞をした。 多分、南極を旅行したムクドリはこの1羽だけではないのか。


グリーンピースとの遭遇

 12月4日:グリーンピース号は東経100度線のパックアイス際に到者した。

 船団は12月5日、6日と北部海域の調査のため無作為に選ばれた東経94度58分線上の コースを南緯55度から60度まで南下した。 その後南部西海域の調査を開始するために進路を南東に取り東経100度線に向けた。 北部ではミンククジラ2頭を追尾したが逃げられた。

 第25利丸だけは北部海域調査に参加せず、先に南下して東経90度周辺の パックアイス・ラインの調査に当てられていた。 南部海域ではパックアイス調査は採集船の重要な仕事だ。 調査海域の南限つまりパックアイスの北限の情報をもとにトラック・ラインを決定 していく。 南極大陸沿岸水域は沖に向かって何10マイル、何百マイルも氷の海に囲まれている。 冬には沖に成長し、夏場に減衰する。 夏場に氷原は緩み、また海流、低気圧や高気圧の影響による風や波により パックアイス・ラインは刻々と変化する。

 12月7日:第18利丸は東経100度線のパックアイス・ラインの調査を行っていた。 調査開始点を決める情報を得るためだ。

 開始点の決め方は、最初に東経100度と東経96度の間から無作為に1本の経度を選ぶ。 今回藤瀬調査団長は東経99度22分を基準経度線として選んだ。 この調査全体のトラック・ライン設定はこの基準経度が基本となる。 この基準線のパックアイス際の緯度から算出された方角、やや北東、に向けた線が 東経100度線上に交差した点が開始点となる。

 南部海域のトラック・ラインは鋸の歯の波型をとる。 1枚の波型の間隔は経度4度差だ。 この1つの4度差を1レッグという。 グリーンピースの妨害が無ければ、母船と3隻の採集船がここに集合、開始点から 南西方向に下って進み東経99度22分の基準経度線上のパックアイスにぶつかった箇所で 反転し、東北に上り45マイル行ったところ(45マイル点と呼ぶ)で、次のレッグの端の 東経95度22分のアイスパック際に下って行くはずだった。 そしてその先は東経70度まで同じパターンをくり返すことになっていた。

 第18利丸が東経100度線のパックアイス状況を確認し終わった時、東方に 見慣れぬ船を発見した。 3日間待ちぶせして待っていたグリーンピース号側も霧の立ちこめる洋上で氷山の陰 から姿を現したキャッチャー・ボートを発見した。 54日間にわたる洋上ゲームの始まりだった。

 報告を受けた日新丸では東京と連絡を取り、母船発見をできるだけ遅らせる ことにした。 以前のゴンドワナ号の時とは違い、今回は長期にわたる妨害を受けることを覚悟した。 グリーンピースに遭遇した場合、彼らが以前の様に海上交通ルールを犯して危険な 行為を取ることが危倶されるので、人命の安全確保をプライオリティの第1に置いて 対処することにした。 採集任務に付いた調査船がグリーンピースにまとわりつかれたら目視活動に 切り替えることにした。

 彼らの危険行為に関しては、例えば第2次調査中1989年に、第1京丸と母船の 渡鯨作業場にゴンドワナ号が割り込みをやり、ゴンドワナ号の船首右舷が第1京丸の 左舷船尾に接触し、第1京丸のフェンダー取りつけ金具を破損させたことがある。

 通常の船舶レーダーは海況が良好ならば半径約60マイル先まで有効だ。 近くにいる船舶どうしの電波交信は傍受可能だ。 船団は船団間の電話交信を最小限にし、各船の位置等の情報は暗号電信に切り替えた。 しかし母船に積んだ国際船舶衛星電話回線インマルサットが傍受される可能性があると 気がついたのは、かなり経ってからだ。 東京との電話連絡はすべてファックスに切り替えられた。

 舟橋が帰国後語ったところによると、第2次と第4次の妨害活動中日本船団の会話は よく傍受しており、彼らの考えていることはよく知っていたとのことだ。 今回ももちろん傍受していたが、或る時点から傍受量は急に減少し、船団の行動が 予測できなくなったと感想を述べた。

 第18利丸からの情報では、グリーンピース号にヘリ甲板、格納庫らしきものがあるが ヘリコプターを搭載しているかどうかは、確認できていなかった。 第18利丸をグリーンピース号の監視に残して、船団は北上 第1京丸と第25利丸を 引き連れ大きく迂回して、基準経度線から2レッグ西の東経91度22分のパックアイス から調査を開始した。 キャッチャー1隻を捕獲船とし、他の1隻を目視専門船とした、片肺操業だ。

 12月11日:初漁があった。 写真撮影、ケイ藻や寄生虫観察、体重と体長計測、プロポーション計測等の初期的調査 が終わった後、初漁祝いを行った。 天の恵みに感謝し、調査の成功を祈願した。 伝統的な儀式にのっとり、樽酒が割られ、調査団、乗組員幹部が勺でミンククジラの 体全体に酒を振りかけ、天の恵みに感謝し、調査が成功するよう祈願した。

 12月12日:グリーンピース号は東経100度付近に5日間彷徨したあと西進をはじめた。

 12月13日:第18利丸は追尾したが翌日、調査団長は東経100度線にもどらせた。 飛ばして未消化の部分を目視調査させるためだ。 ここで両者がお互いの消息を失った。

 12月15日:南部西海城の調査も後1日で終了という日、目視船として先行していた 第1京丸は大きく北に張り出したパックアイス・ラインを調べながら航行中 グリーンピース号に出会った。 グリーンピース号から発進されたゾディアック1隻が接近してきたが第1京丸が パックアイスの中に入ると帰っていった。 当日クジラの発見が多く捕獲船だった第25利丸と母船ははるか90マイルも後方にいた。 当日の捕獲数7頭 合計21頭になった。

 第1京丸は残された部分の目視調査をするとともに、グリーンピース号の見張りに 当てられた。 母船と第25利丸は中部西海域開始に入るため東経70度線の開始点に向かった。 この海域は本来なら3隻とも捕獲専門船だ。

 前期におけるこの海域の北限は南緯58度線で南限は南部海域の鋸の歯状の突端 (45マイル点)を直線でむすんだ線ときめられている。 無作為方式で決められた開始点から経度15度の間隔でジグザグの線を東経70度から 100度まで引いて得られたトラック・ラインがメイン・コースになる。

 12月16日:ゾディアック4隻が接近し「STOP]「NO WHALING」 と書いた旗を掲げ写真撮影をしながら、第1京丸の前方を横切るなど航行妨害をした。 グリーンピース号はゾディアックを収納後キャッチャー・ボートに接近、その回りを 旋回した後距離を置いて漂泊した。

 12月17、18日:グリーンピース号は母船を発見できず東進を始めた。

 12月18日:母船、第18、25利丸は中部海域調査を開始した。 この日迄に、グリーンピース号にはヘリコプターが無いことが確認されていた。

 12月19日:グリーンピース号がシンガポールを出てから1カ月たった。 オランダの首都アムステルダムに本部を置くグリーンピース・インターナショナルは 12月16日の抗議行動についてのプレス・リリースを行った。

 12月20日:この調査の計画、実施責任者の日本鯨類研究所理事長、長崎福三博士は 東京からグリーンピース・インターナショナル本部に手紙で、厳しい南極海での 危険な航行妨害に対し抗議し、船団からグリーンピース号を撤退させるよう要求した。 また理事長は1989年ゴンドワナ号で第1京丸に衝突したと同じような行為を、 グリーンピース号でくり返すのではないかと懸念した。

 (グリーンピース側と日本鯨類研究所ならびに日本政府の水産庁の間で グリーンピース号がオーストラリアのフリーマントルに2月7日に帰投するまで 手紙のやり取りと、それぞれ両者のプレス・リリースの応酬が行われた。 これら全て合わせると、1冊の本になるような量であり、すでに公表されたことなので、 ここに再現することは見合わせる。 しかし要約すれば、グリーンピース側の主張は、1)クジラは殺すな、2)調査捕鯨は 調査を隠れみのとした商業捕鯨ということになる。 鯨研と水産庁の言い分は、1)捕獲調査はIWCの規約のルールに基づいて行っており、 調査で得られた肉類は有効利用する事が義務づけられている、2)豊富な ミンククジラ資源の保存と持続的有効利用のため、より精度の高い管理方式を確立 するには、致死的方法は不可避、3)グリーンピース号とそのゾディアックは 海上航行のルールを違反した、危険な妨害航行は止めよ、と言うことになる。)

 12月21日:船団は早朝中部海域のトラック・ラインを南東に下がっていた。 南部海域で捕獲調査の未消化の部分に接近したので調査を中断して南西に向け、 未消化部分の調査を行った。 またこの日グリーンピース号の舟橋および乗組員一同の名で、藤瀬調査団長あてに ファックスが届き、日新丸が調査海域を離れるならば、グリーンピース号も一緒に 離れるといってきた。 互いに都合の良い時、南緯62度、東経100度で落ち合おうとのことだった。 丁度日新丸が西海域の西端にあり、グリーンピース号が東端、つまり東経100度に 近づいていたころだ。

 12月22日:船団は中部海域調査中断点に復帰。 グリーンピース号は東経100度方向へ東進を続け、船団との距離が大きく開いたので、 第1京丸はグリーンピースの監視を離れ、船団復帰に向かった。 この海域を終わると、東経100度から南部東海域をパックアイスに沿って行う ことになる。 彼らがここで待ち構えていることは間違い無かった。 船団は予定を変更、前期東海域は中部から始めることにした。

 12月23日:第1京丸船団復帰。 第25利丸は東経100度から東のパックアイス・ラインの調査に向かった。

 12月31日:中部西海域の調査終了。 捕獲頭数26頭合計47頭。

 1992年1月1日:正月を祝った後、中部東海域の調査を開始した。 第25利丸がパックアイス調査から帰り全船団がそろった。

 1月5日:ガスのため船団は漂泊していた。 濃霧、雪ガスで視界が悪かったり、波が高く白波でクジラの噴気が見にくい時は 漂泊して、調査を中断する。 11時41分日新丸のレーダが本船に向かって直進して来る船影1つを捕捉した。 12時30分グリーンピース号を確認、船は左舷前方0.9マイルで止まった。 遭遇位置南緯61度10分東経114度43分。 やや天候が回復調査開始。 グリーンピースのゾディアック2隻が母船の周辺を伴走しグリーンピース号に 帰っていった。

 1月6日:朝から濃霧で漂泊中2隻のゾディアックが母船にやってきた。 1隻が「STOP]「STOP]「NO WHALING」を掲げ走るところを他の 1隻から写真、ビデオをとったり、日本人男性がマイクで「捕獲調査を止めて帰れ」 など示威活動を50分やって帰っていった。 母船乗員の気分は重くなった。 12時視界が回復し、調査が開始された。 15時31分前方に展開していた第18利丸がミンククジラを1頭発見追尾に入る。 14分後捕獲した。 グリーンピース号は母船後方2マイル。 母船はクジラを受け取るため速力を14ノットにあげた。 グリーンピース号を懸命に追いかけるが12.5ノットが精一杯。 距離がだんだん離れていく。 グリーンピースがロッキーと名づけた大型高速ゾディアック1隻が発進し、 母船船尾につく。 母船はクジラを受け取るため 6ノットにスピードを落とす。 第18利丸は左舷船外にクジラを抱えて母船右舷船尾ぎりぎりに付く。 クジラは尾の付け根をロープ、(尾羽ワイヤー)で縛られ、吊られている。 母船ヘクジラを渡すことを渡鯨と言う。 その方法は、母船船尾から先端に浮きの付いた受取用投げ網(ヒーブス・ライン)が 海中に投げられる。 キャッチャー・ボートから四つ手フックの付いた細いロープ(スマル)を投げこれを 拾いあげ、手繰りよせ、鋼鉄の渡鯨ワイヤを引き寄せ、クジラを結びつける。 母船はウインチで巻き上げ、スリップウェーから甲板に引き上げる。 今ヒーブス・ラインをロッキーの前の海中に投げればグリーンピースがこれを拾い、 渡鯨は妨害される。 キャッチャーの砲台にたった甲板員に竹竿を出させた。 ヒーブス・ラインはこれに向かって投げられ、渡鯨ワイヤーが渡り、尾羽ワイヤーに 繋がれ、ウインチが巻かれ、クジラはロッキーの側を掠めするするとスリップウェーを 上がった。 このときスリップウェーにいた乗員が指でVサインを出した。 ゾディアックは帰っていった。 この作業が完了した時、グリーンピース号は母船の2マイル後方までどうにか距離を 縮められた。 朝から沈滞していた母船の乗員の気分は、一転して明るくなった。 自信をもった。 その後1月7日、8日と21日にゾディアックによる渡鯨の妨害を試みたが成功しなかった。

 1月7日:7頭捕獲。 第25利丸が1群を追跡中ゾディアックに妨害され捕獲を断念した。

 1月8日:午後第25利丸が1頭捕獲、渡鯨妨害にかけつけた3隻のゾディアックは 間に合わず。 スリップウェーを上がるクジラを追いかけた1隻のゾディアックは半分スリップウェー に乗り上げる。 このビデオと写真をとってグリーンピース号に帰っていった。

 1月9日:中部東海域最後の日船団はグリーンピース号を振り切る。 この海域捕獲14頭合計61頭。 多分彼らは南部海域開始点の東経130度上のパックアイス際で待つことは間違い なかった。

 1月10日/12日:3隻のキャッチャー・ボートと母船はタンカーから補給を受け、 2カ月振りに内地の家族、友人から送られた手紙、贈り物を手にした。

 1月14日:南部海域の調査開始。 グリーンピースの影は見えない。

 1月17日:目視専門船として先行していた第18利丸がグリーンピース号に遭遇。 グリーンピース号はシンガポールを出て既に2カ月、喫水線は高く上がって、燃料、 水、食料が底を付き始めているのは明らかだ。 母船後方から追って来たが、第25利丸の渡鯨に対し何のアクションも行わない。

 1月18日:グリーンピース号消息をたつ。

 1月19日:採集船の調査員乗組員がブイを使って距離角度推定実験を行う。 海上でクジラを発見した場合トラックラインから何度の方角で、何マイル離れているか 判定するのに個人の感覚で行う。 実験は感覚に誤差があれば直すためだ。 距離角度推定実験の結果は目視調査で得られる発見時の距離と角度の精度を確認する、 重要な目的がある。

 1月20日:グリーンピース号出現する。 2頭の渡鯨は何の妨害もなく無事終了。 ロッキーと1隻のゾディアックが母船にやってきて伴走をはじめる。 ゾディアックが帰ると別な1隻がやってきた。 その間残ったロッキーはスリップウェーに先端を乗せるなど、船尾を調べている ようだった。 舳先に長いロープのスマルがとぐろ巻に置いてあった。 母船がパックアイスの中に入ると、グリーンピース号に戻っていった。 スマルを見て、母船ではグリーンピースの連中が何かやらかすかもしれないとの 警戒心が高まった。 スリップウェー・デッキに散水ノズルを取りつけることにした。

 1月21日:第18利丸が2頭捕獲、妨害も無く渡鯨した。 ゾディアック2隻が母船の船尾にやってきた。 母船船尾で散水を始めた。 第25利丸が渡鯨に接近してきた。 3人が乗ったロッキーが、スリップウェー内両壁下方にあるリングにロープを張り、 ロープ中央に自分のモヤイ綱をかけスリップウェーを塞いだ。 彼らはボートで来る時はいつもオレンジ色、クロ色等のイマージョン・スーツを 着ている。 これを着ていれば南極海、北極海の凍りそうな海水に落ちても9時間は生き延びられる とされている。 右舷スリップウェー・デッキからスマルでロープを吊り上げ切断した。 2人乗りのゾディアックが前に出て、右舷リングに自分等のロープを掛け、ロッキー から左舷側に付いているロープをとり、再びスリップウェーを塞ぎにかかった。 母船からスマルでロープを引き上げ切断した。

 2隻のボートは後退した。 グリーンピース号はやや後方にいる。 第25利丸が渡鯨のポジションに入った。 キャッチャーがヒーブス・ラインを取り、渡鯨ロープを引き寄せ、尾羽ワイヤーに 接続した。 キャッチャーのキャプテンから準備完了の合図。 と同時にスリップウェー・デッキの首席一等航海士から「ハイ。レッコ」の声が マイクを通して海上一面に響いた。 (「レッコ」とは英語の「Let it go.放せ」という日本語化された船員用語)。 渡鯨ロープが水を切り裂いて水面にピーンと張った。 スルスルとクジラは母船に引き寄せられていった。 その時ロッキーは前進、これに向かってスマルのついたロープを投げた。 このロープには日新丸船長宛の手紙を付けた浮き輪が結んであった。 手紙には彼らの言い分がくり返されてあった。 キャッチャー・ボートは、すぐその場から調査トラック・ラインに戻りクジラを 捕らえて2時間後に妨害もなく渡鯨を終えた。

 この事件以降グリーンピースの連中は1月29日に船団の周辺から離れる迄の9日間は、 母船に近づく事はなかった。 ほとんど船団の船のレーダーの外にあって、ときおり姿を現し、4回だけ キャッチャー・ボートの捕獲妨害をしただけだ。 長い間、キャッチャー・ボートとゾディアックが伴走しているうちに、お互いに ある種の親近感が生まれるのかもしれない。 あるとき、ゾディアックの西洋人の女性が、第18利丸の乗組員が差し出した キャンデイをもらおうとして立ち上がり、バランスを失って海中に落ちた。 もちろんゾディアックの他の仲間にすぐ拾いあげられた。

 母船の連中は本当にグリーンピースの連中は活動をやる気があって来ているの だろうかと疑った。

 私が母船で観察し、キャッチャー・ボートの乗組員に聞いた印象では、ほとんどの 場合ゾディアックを交代で乗り回して遊んでいるだけの様に見えた。 お弁当を食べたり、コーヒーを飲んだり、ピクニックをやっている。 彼らが世界にプレスを通して公表した活動目的とは別に、南極海でゾディアックを つかってスピードを楽しむ、マリン・スポーツをやりに来ているのではないかと 思えた。 黒煙をはき、騒音をまき散らし、誰に咎められること無く、神秘的な氷山をバックに 暴走族ゴッコをやっている様にしか思えない。 3カ月の若い男女の南極海クルージングの出費を正当化するため、3枚か4枚の 調査活動妨害の写真を、ロイター、AP、AFPを使って世界のメディアに流し、 グリーンピースヘの献金奉納者を納得させているのではないかと、疑いをもつ。 例えば、旅行会社が行っている南極海のクルージングに日本から参加するとすれば、 船室の等級によって格差があるが、普通のレベルで100万円はかかるだろう。 給料をもらい、食事も支給され、美しい南極を3カ月もクルージングができ、悪くない 話だと思えた。

 さらにスピード・ボートを心行くまですっとばせるとは、悪くない話だと思えた。

 国際環境保護団体が組織運営を一般企業経営と変わらない方法で取る様に なってきた。 初期段階でのボランティアー活動も、組織を拡大し、活動を継続維持していく ためには、専従のメンバーを雇い、給料をはらい、運動資金の財源を確保し 続けなければならない。 一般企業と違うのは、財源の大きな部分が、資金カンパによることになる。 西洋ではこれは税の対象にはならない。 組織のリーダーの中には、堕落も起こらないとはかぎらない。 歴史的に見れば、革命当初の真摯なソ連共産党幹部も後年腐敗した。 中世カトリック教会の坊主も、敬虔な信者のお布施にあぐらをかき、自堕落な生活を 送った。

 私が南極海に来ていたグリーンピースの連中を見ていると、自然と、彼らの組織の イメージが私の頭の中で、ソ連共産党と中世カトリック教会の組織とオーバーラップ した。

 1月26日:前期調査が完了。 全捕獲頭数82。

 1月27日から後期調査が始まり、南部西海域、プライズ湾、中部西海域と進み、 南部東海域を3月11日総捕獲トータル287頭で終わった。

 2月7日:GPフリーマントル帰港。

 3月12日:後期中部東海域が始まった。 いままで各海域を300の捕獲枠をバランスよく配分して捕獲してきた。 以前この海域で同じ時期ミンククジラの密度が濃かったので、30頭前後は獲れると 期待された。 しかし13日間発見はゼロのまま、3月23日にこの海域の調査は終わった。

 3月24/25日:復航路を利用した北部調査中、最後の1頭が捕獲され、トータル288頭で 全調査は終わった。 総調査日数112日、総探索距離18,204.5マイル、ミンククジラ総発見群頭数 1,094群 3,729頭。

 グリーンピース号の広報担当キーラン・マルバニーがイギリスの放送局 BBCの 出版物「ワイルドライフ」に寄稿した、日新丸船団に対する妨害活動の手記を次の文で 締めくくっている。 「日新丸は4月14日東京に帰港した。 捕獲頭数は288頭であった。 日本の報道機関関係によるとグリーンピース号と我々乗組員の活動により、日本船団は 目標捕獲頭数を達成することができなかったという」私は日本の報道機関がそのように 言ったり、書いたりしたと言うのを知らない。 私の見落としだろうか。 しかし事実は、天候不順で最後の後期中部東海域の13日間に発見が1頭も無かった ためだ。 藤瀬調査団長のIWC科学委員会への航海報告によれば、「ミンククジラの 分布密度は、西側特にプライズ湾及びその周辺海域で高く、第1回目の本格調査 (第3次調査)でみられた東側海域で密度が高かったことと反対の傾向を示し、 ミンククジラの調査海域での分布の年変動が大きいことが判明した」

 3月29日:帰路にあった母船は北半球の春風のように暖かい海域を北上していた。 研究室2階に放されていたムクドリは人の間をすり抜けて、1階に降り、開いていた 扉から甲板にでた。 ミンククジラの生肉がことの外大好きで、調査期間中良く食べた。 体は良く肥えて、みすぼらしかった羽もつやつやしていた。

 ムクドリは飛び立ち 1、2回船上を旋回して遠くへ飛び去った。 オーストラリア遥か西を航行中だった。

 4月14日:日新丸は東京に帰港した。

 4月15日:第1京丸、第18利丸、第25利丸が横須賀に帰港した。


第6次調査 − 1992/93 V区

 1992年11月7日:日新丸船団が第6次調査のため南極海区に向け日本を出る。 日新丸は横須賀港を出港、第1京丸、第18利丸、第25利丸のキャッチャー・ボートは 下関から出港。 藤瀬調査団長の指揮下、162名を乗せた船団は1993年4月中旬に帰国予定。

 11月21日:グリーンピース号はヘリコプター1機、ゾディアック3隻を装備して オーストラリアのフリーマントルを出港。

 11月29日:グリーンピース号タスマニアのホバート入港。

 11月30日:グリーンピースは日本の船団を妨害するため、1週間以内に3ケ月の 航海に出ると、スポークスマン・キーラン・マルバニーはグリーンピース号から、 ロイターを通じて、発表。

 12月8日:グリーンピース号は日本、米国、英国、カナダ、オーストラリア、 オランダ、デンマーク、アルゼンチン、スイス、ドイツ、から参加した30人の 乗組員を乗せホバートを出港、5区に向かった。

 1993年2月18日:出港後72日目に初めて、グリーンピース号は日新丸を発見。 ロス海西側のパックアイス・ライン沿いに南下中だった日新丸は進路を北に転じた。 グリーンピース号は速度を6.5ノットから、3.5ノット、2.0ノットと落とし 追跡を締めた。 なぜグリーンピースはヘリコプターを飛ばすとか、ゾディアックを発進させなかったの だろうか? グリーンピースはAFP香港アジア総局を通じて、日新丸の追跡に失敗したと語った。 グリーンピース号は日新丸を見失った。

 2月24日:グリーンピース号は日新丸船団と対決の可能性のある方向に 向かっている、とマルバニーは衛星電話でAFP香港に語った。 一方東京で、水産庁は「グリーンピース側はマスメディアを通じて自分たちは鯨を 守ってるという宣伝効果を期待していると思われるが、かかる行為は単なる売名行為に 過ぎない。」と声明を出した。

 2月25日午前0時30分第25利丸がロス海東側をこの日の調査開始点に向かって 南東に移動中、無灯火で漂泊中のグリーンピース号と遭遇。 無灯火は国際航行法違反だ。 グリーンピースのメンバーを2人乗せたゴム・ボートがやってきて、船名を確認後 グリーンピース号に帰る。 その後、グリーンピース号は北上し、4時10分第25利丸のレーダーから姿を消す。 キャッチャーは開始点に着く。 海状は悪い。

 3月3日:マルバニーがAFPに語ったところによると、グリーンピースは「日本の 捕鯨船団を主要漁場のロス海から追い出した」,「捕鯨者達はこの海域を出て、 どこか他に移動して漁をしていると思われる」

 しかし船団はロス海にいて、この日5頭の捕獲、合計捕獲数は265頭となる。 日新丸は正午に、南緯75度59分東経170度51分、氷解開口したロス海最南端近くに あった。 AFP電によると、グリーンピースは自分等の行動が日本の捕鯨協会から強い反発を 誘発させ、日本捕鯨協会は「日本の捕鯨繰業を邪魔した」と非難したとし、また彼らは そのような非難を喜んで受けると語った。

 しかし東京では、日本捕鯨協会がコメントし、マルバニーはあたかも、捕鯨協会を 引用したかの如くしゃべっているが、なんらそのようなことを述べたことは無いと 否定した。 東京では、マルバニーの発言が3ケ月前、ホバートで胸を張って宣言した目的を 達成できないで撤退する偽装的言い訳としての「一方的勝利宣言」、と解釈された。

 3月6日:船団は21日間に及ぶロス海の調査終了。

 3月14日:グリーンピース号が南国フィジー島スバを経由してニュージーランドの オークランドに入港、グリーンピース・インターナショナルが売却に出した ゴンドワナ号に横付け。 11月21日にフリーマントルを出港して104日目。 その間、日新丸と第25利丸を肉眼で視認できるる距離に接近したのは、合計3時間半 だった。

 3月22日:調査船団は最後の一頭、330頭目を捕獲。

 3月25日:調査終了。

 4月15日:日新丸大阪入港予定。

 4月16日:第1京丸横須賀入港予定。

 4月17日:第25利丸大阪、第18利丸下関入港予定。

 4月24/25日:日新丸、第25利丸一般公開。

 5月10 − 14日:IWC京都会議。

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