動物権と捕鯨問題

(日本鯨類研究所 1996年 3月発行「鯨研通信」第 389号より)

三崎 滋子
日本鯨類研究所



初めに

(財)日本鯨類研究所(日鯨研)は、鯨類研究を生物学と水産資源科学などの 自然科学の分野で行っている世界に知られている研究機関である。 このような自然科学の分野が中心であるのは勿論であるが、そればかりではない。 この研究所は社会学、法学、文化人類学などの人文学の分野での研究も進めている。 どちらの分野でも、国際的に捕鯨問題がどのような情勢になっているかを知ることが 研究に役立つ。 本稿は、私自身の観察と考えを発表するものであって、(財)日本鯨類研究所の意見 ではない。 この点を御理解いただいて、お読みいただきたい。


序論

 二十世紀前半、鯨油が産業化を促進するのに重要な役割を占めるようになったので、 列強各国は争って大型鯨類を乱獲した。 その結果、多くの大型鯨類が鯨油生産の犠牲となり、激減した。 1972年のストックホルム国連環境会議から、捕鯨反対運動が盛んとなり、それが、 環境保護のシンボルとなった。 この運動は、四半世紀にわたり世界中にひろがっていった。 他の捕鯨国とは異なり、油だけでなく、食資源としても鯨類の利用を必要としていた 日本やノルウェーなどの捕鯨国は、あたかも鯨類の敵であるかのような非難を受ける ようになってしまった。 それでも、1970年代には、世界の大型鯨類を管理する唯一の機関であった 国際捕鯨委員会(IWC)が、科学に基づく新管理方式(NMP)という資源管理制度を導入 したので、日本、ノルウェー、アイスランド、ソ連(当時)などの捕鯨国は、 IWCの科学小委員会が豊かな資源量が存在すると確認した鯨種に限って商業捕獲を 続けていた。 やがて、この NMPにも「不確実性」が存在するとの見解が IWCの多数を占める反捕鯨国 の意見になった。 そこで、1982年に IWCは商業捕鯨モラトリアム採択に踏み切るに至った。 更に追討ちをかけるように、1994年に IWCは南極海鯨類サンクチュアリーを採択した。 前者に至る論議は「鯨類が絶滅に瀕する」という「絶滅論」から発して、「不確実性」 という論に至るまで、一応の科学的な論拠が IWCの決定の基本となってきた。 しかし、後者のサンクチュアリーになると、そのような論拠は信頼性を失っており、 本会議での方針決定は、「政治的」な理由に基づく加盟国の国内事情を反映した主張が 主導権を得ている。

 長期にわたる IWCの大型鯨類保護政策が実施されたので、枯渇した大型鯨類の危機は もはや存在しない。 その上、モラトリアム実施中に IWC科学小委員会によって、鯨類の資源管理を今までに ない厳しい方法で行う為に改訂管理方式(RMP)が開発された。 この RMPの実施を監督運営する為に改訂管理制度(RMS)の完成を目指す作業も IWCで 進んでいる。 これらの情勢から見ると、鯨類が絶滅に追い込まれるような事態はもはや発生 しないと、西欧の反捕鯨運動のリーダー達は認識を改めたのであろう。 だから今、何故動物権という問題が出てきたのかという理由は、科学的に根拠のない 捕鯨禁止をバックアップするのに、動物権を倫理基準に用いると都合よいからなので ある。

 重ねて言うが、現在商業捕鯨再開を阻む最も有利な論拠となっているものが、 いわゆる「動物権」に基づく鯨類搾取反対の主張である。 動物権の主張を行うさまざまな組織は、倫理とか道徳、果ては動物虐待禁止の法律上の 権利主張という形で、欧米各国の政策決定者に圧力をかけて、捕鯨再開を阻止しつつ ある。 このような趨勢のもとに、IWCでの捕鯨再開反対への議論は、科学委員会の勧告を軽視 して、技術委員会の中での、人道的捕殺作業部会などの「動物愛護団体」の参加する場 へと移っている。

 鯨類の中には、繁殖力が旺盛で、人類に役立つ種もあり、また、その反対に漁業との 競合関係にあるものも少なくない。 動物権論者は、これら全てを枯渇している大型の鯨と同様に扱い、鯨類を一括して 保護せよと唱え、果ては人類よりも鯨類を崇高にして特殊な生物と看倣す。 彼等が圧力団体となって鯨類だけを例外的に保護する為に「種の多様性」を否定する 政策をとる結果を招いている。 動物権が政策決定に影響力をもつ国々の多くはいわゆる先進国であって、自国の政策 が地球規模の道義的主導権を担っているという意識が強烈である。

 種の多様性の面からも、IWCは、鯨類の資源を食物連鎖などの多角的調査を用いて より真剣に考慮すべきであるのに、こういった科学者の主張が多くの場合捕鯨国の側 から提案されるので、反捕鯨国の冷静な科学者も沈黙し、また、研究に莫大な費用が かかるということもあってか、反捕鯨国の多数の科学者の積極的な支持が得られない。 食物連鎖の解明が進歩すれば、人類の食資源問題解決への理性的貢献となり得るのに、 それが、鯨類を神格化する動物権主張と絡み合い、積極的な支持を得られないと すれば、これは、IWCの科学小委員会の存続を左右しかねない由々しき問題でもある。

 では、鯨類保護の論拠となる動物権の主張は、どのようにして捕鯨再開反対の形を とるに至ったのであろうか? それは、本来家畜を中心として主張されてきた動物権主義といかなる関係にあるのか。 これらについて、歴史的に現在の状況に至る経緯を考察して見たい。 さらに現在の状況を筆者なりに分析した。


1.日本は異端?

 西欧諸国等の殆どがユダヤ/キリスト/イスラムなどの宗教を信奉している中で、 日本は、国民の 80%に上るものが、いわゆる仏教、または神道、あるいはこれらと キリスト教の混合した多神教的な生活様式を持って生活している。 赤ん坊が生まれると「お宮詣り」、結婚式は神道、クリスマスはキリスト教、盆と 正月には仏教やら神道やらで忙しく行事を行い、死すれば仏教というのが多くの 日本人の生活パターンである。 宗教では日本人ほど、適応性に富んだ国民も世界に珍しい。 このような現象は、日本人の人間性がいい加減であるから、何でも適当に利用して しまうという結果から生じたと見るむきもある。 それも一つの見解ではあろうが、むしろ、私は次のような見解を持っている。 即ち、日本人は宗教というものを、真理の追及としてではなくて、生活の手段として 受け取り、これを現実的なライフスタイルの中に混合させていく希有な才能を有して いると思うのである。

 このように考えると、宗教は日本人の多くにとって、絶対の真理を意味するものでは ない。 ここで、宗教を論じるのは場違いに見えるが、なぜこのような話しを導入部に挿入 したのかといえば、本題の動物権問題が実は宗教に深くかかわっているからなので ある。

 多くの日本人にとって、神道では八百万(やおよろず)の神々があらゆる生物、 物体に宿っており、人間も動物も草木も同等な命を有している。 また、仏教でいえば、生物は七回生まれ変わり、転生流転する。 日本人にとっては、現世はうたかたの浮世である。 従って、善を施せば、来世により高度の人生が待っており、悪い事をすれば、来世には 畜生道に落ちるかも知れない。 悪いことである残忍な行為をする者は、来世には畜生道に落ちるであろう。 自分の血となり、肉となる食資源は、人間の役に立つものであるから、感謝して大切に 扱わなければならない。 これは、鯨とても同様である。 だから、感謝の意を表わして寺の過去帳に戒名をつけて記載する。 こういう考えは、キリスト教などから見ると極めて原始的で異端かもしれないが、 日本では古来一般に受け入れられているものである。

 このように、キリスト教を中心とする西欧一般から見れば、日本は異端の国である。 しかし、私は、日本を異端であり、間違っていると見る観点が果たして正論なので あるかという点に疑問を抱く。 何故ならば、残忍な行為の否定や、人間に役立つものへの感謝の念などは、ある 意味で、社会の秩序の根っこになっているからである。


2.西欧における動物観

 一方、西欧においては、古くは、ギリシャ神話などにおける汎神的な思想があり、 人間と神と他の生物の間には、一体感があった。 水面に写るわが身に魅惑され、水仙になってしまったナルシスなどがその一例で ある。 しかし、時代が変わりキリスト教が世界の主流に定着すると、色々な思想や科学が 異端と看做されるようになる。 地動説は、末端支流に押流され、極端な場合には糾弾、追放されていく。 こういった兆候の中でも賢明な思想家は、巧みなレトリックを駆使して、自己の主張を 水面下に潜ませつつも、思想と主張を展開する。

 この風潮の中で、デカルトに至ると、「動物は機械である」という動物機械説が提唱 された。 デカルトは、「方法論(Discours de la Methode)第5部」(1637年)に、 「動物が行動するのは、時計などの部品が組み合って、規則的な機能を達成すると 同様に動物は自然が与えた部品の組み合わせによって、機械的な行動をとる」と記述 した。 その背景には、当時、地動説を否定することを強制されたガリレオへの間接的な同調が あったとも解釈される。 確かにそれは 1600年代の西欧における古典的神学への一方的傾斜に対する反動でも あったと考えられる。 この「動物機械説」はこれらの哲学的背景を超越して、キリスト教において都合よい 解釈が与えられ、後にプロテスタントでも人間の罪を浄化する為に人間の中に存在する 悪を動物的なものであると考える基礎となった。

 こうして、デカルト自身が意図したかしないかに関わらず「動物機械説」は、後に 人間には神によって付与された魂が存在するが、動物にはそれがない、とする思想に 発展していく。 中世の西欧でしばしば記録されている「動物裁判」などもこのような思想の中から 発生した出来事であった。 これらの裁判では、悪魔の魂が機械である動物の中に侵入し、悪事を行ったものと され、動物自体の罪が軽減されているケースが見られる。 現代におけるコンピュータ(機械)とウイルス(悪魔)の関係は、これに類似したもの であろう。

 かくして、西欧では魂があるものは人間、ないものは動物であるという区別が一般に 浸透して近代に入る。


3.人間と自然の競合

 私達が今、安楽な生活を営むようになった背景には、人類の先達による過酷な自然 との闘いがあった。 人類が生存するためには、狩猟、収集などに生活を依存していた原始時代から、農業、 牧畜、漁業などを開発して、産業革命に至り、さらに現代の脱工業化文明社会の生活に 至るまで、自然を如何に征服し、これを手なずけ、共存していくかが基本的な命題で あった。 天候を予測し、森林を切り開き、河川を管理し、災害を防止してこれに対応しつつ、 私達は今もなお、天災の脅威の前に人力の為し得る限界を思い知らされながら生活して いる。 火山噴火、地殻変動、地震、台風、ハリケーン、サイクロン、森林火災、干ばつ、 雪崩等々の諸現象に翻弄されている我々は、地球にとって見れば、その膨大な歴史の 中でのわずかな一こまを横切る客に過ぎない。 動物もその自然の一部であり、共存可能である程度に家畜化したものの多くはわずか 数千年程度の年月で野性から変化したものであるという。

 最近「地球にやさしい」というキャッチフレーズがよく使われるが、地球のような 偉大な惑星の永い歴史の中で、我々は極く矮小な部分を占める一生物にしか過ぎない。 この視点で現代の環境問題を考えると、環境破壊も環境保護も殆ど同列の マグニチュードしかない歴史中のひとかけらに見えてくる。 このようなキャッチフレーズは人間の思い上がりを示しているかのようである。

 しかしながら、私達が無責任に自然を破壊して良いというものではない。 人類がなるべく長く生き延びていく為には、自然との共存を私達の後の世代に有利に なるように展開する必要かあるからである。 従って、自然が先行する余り、人類が滅びても構わないという思想は我々にとっては 「死への願望」に過ぎない。 さて、これまでの説明を経て、今やっと本題の「動物権」問題の現状を観察して見る ことになる。


4.「動物権」と「人権」

1975年に出版され、センセーションを巻きおこしたピーター・シンガーの 「動物の解放」は冒頭で次のような鮮明な記述をおこなっている。 「動物達は人間の専制政治によって苦しめられてきた。 それは、何世紀にもわたる白人の黒人に対する専制政治に匹敵する。」 彼は、第 1章で「すべての動物は平等である」という宣言を行い、かって、差別の対象 となったある層の人々、例えば、有色人種とか、女性とかが現在では平等に扱われる べきであるように、あらゆる動物にはこのような平等思想を拡大適用するべきであると している。

 植物のみを食糧とし、動物性の食糧を否定せよ、そうすることにより動物は人類に よる専制政治の犠牲となる運命から解放されるのである、とシンガーは第 3章 「ベジタリアンになる」で主張している。 第 5、6章における主張は、「人間による支配」と「種への差別」の題目のもとに、 キリスト、カント、デカルト、ショペンハウエル、はては、ダーウィンに至るまで、 西欧人類の歴史の中での思想形成を助けたあらゆる人物が「種による差別」を信じて いたと述べている。

 膨大な資料を収集して書かれたこの本には、結局のところ人間の生命保持に 不可欠な、植物に対する配慮が見られない。 ここに私は、シンガーの限界を発見する。 仏教の「山川草木悉皆成仏」という思想は完全に無視されている。 植物も生物種である。 全ての種を平等であるとするのならば、我々はどこかで、自分の属する種の生存に 有利となる生活手段を選択する本能を有している筈である。 それだから、結局我々は種に対する選択を行って、どこかで、線を引くという問題に 到達せざるを得ない。 そうすることによって、生物種の生存、存続が成立する、という巨視的な視点が シンガーには欠けているのである。 そもそも、白人が行った黒人への差別を、人類全体が動物におこなった専制に匹敵する という主張は一見、人種平等を標傍しているかのようではあるが、つまるところ 白人特有の傲慢ではないのか? 彼の思想の中では、一体アジア人はどこにいったのか?

 勿論、「動物権」で教祖的な業績を残したシンガ一の主張が全て納得のいかぬもので あるというのではない。 例えば、不要な動物実験の否定、或いは無闇にペットなどを可愛がり、それが、 動物愛護であると誤認している向きを、冷静な種への平等にむけての目を持つ人々と 区別するという主張は耳を傾けるに値する。 しかし、全体として、彼の主張は、永い西欧の肉食を基本とする伝統、即ち動物搾取の 歴史への反動に基づいている。 西欧の伝統的思想を否定しながら、自身が人間のキリスト教的原罪意識の呪縛から 脱していない。 ということは、彼自身の思想的解放が行われていないということに等しい。 ここにシンガーを頂点とする「動物権」主義の限界があると思う。

 同じことが、デズモンド・モリスなど一連の動物解放論者に見られる。 共通項は、いずれも動物の権利を主張する原点が、西欧の動物搾取の歴史への反動に あるという点である。 日本の中にも彼等の信奉者が存在するが、彼等は、西欧的な原罪の意識を持つ人々 なのであろうか?


5.植物の権利

 では、生物種である植物の権利については、喚起すべき報告がされたことがないので あろうか? 「植物権」はどうなっているのか?  日本でもテレビなどで、著名な英国の科学評論家、ライアル・ワトソン博士の著作の 一つに、「スーパーネイチャー」と題するものがある。 この中で、著者は、海老を飼っている水槽に隣接して観葉植物を置き、これに電極を つけ、酸素や炭素などの生化学的レベル変化を計測した。 その結果、海老が死ぬ度に、植物は特別の物質を排出するという反応を示したという。

 総体的に、ワトソンはこの現象を植物の示す感情表現の一つであると言っている ようである。 彼はかって、天理教の研究もしたことがあり、かなり東洋的な思想への接近が見られる 人物であるが、また一方 1980年代には、IWCの科学小委員会及び本会議にも出席し、 セイシェルズ共和国の代表として反捕鯨運動を主導した。 このように、彼はあらゆる鯨種を救うべきであるという徹底した反捕鯨運動の頂点に 立った人物である。

 ライアル・ワトソンの主導によって、1980年 4月には、米国の首府ワシントンの スミソニアン研究所の講堂を借りて、IWCとスレショルド財団の後援で 「鯨を殺す倫理」会議が開催された。 筆者も出席したが、この会議では、かなり過激な動物権主張が見られ、中には、植物も 木や茎から直接収穫するのは、禁じるべきであるという意見も出ている。 ヒンズー教的な完全な菜食を唱える講演者もあった。 捕鯨反対に「動物権」が乗り出してきたのがこのスミソニアン会議である。 ワトソンは、この後、分厚い鯨類図塩を出版しており、彼と反捕鯨運動との接点は、 以後余り見られなくなった。 しかし、捕鯨問題に動物権主張を巻き込ませた人物としてはワトソンは先駆者で あろう。


6.ヒンズー教的動物権

1989年であったと思うが、日本の国際法関係評論で著名な鷲見一夫教授(当時、 横浜市立大)が大日本水産会で、チョプラという動物権の法学者の講演を聞こうという 企画を立てられた。 チョプラは、当時オーストラリアのタスマニア大学で、博士号をとるべく研修中で あったが、米国の地方法学雑誌に「動物権」に関する論文を発表しており、そのような ことから、鷲見教授と知り合われたようであった。 日鯨研にも、出席のお誘いがあったので、当時の専務理事、長崎福三博士のお供をして 私も出席した。 講演の趣旨は、チョプラの養鶏所での観察から、人間は食生活には不要である 鶏肉食資源を残酷な方法で生産していること、また、人類には、平和指向があるから、 人間以外の生物と平和に暮らす義務があり、その為には、他の生物種が人間に搾取 されてはならないという概要であった。 当然その主張には、捕鯨や漁業反対が含まれており、大水の米国人弁護士が、憤慨の 余り席を立つというハプニングもあった。 興味のあったのは、チョプラが、「いかなる資源であっても、生物資源を人間の 搾取対象としてはならない。 もしも、ある種が豊富であり、人間がそれを食すれば、栄養となるものであっても、 利用することは倫理に反する。」と述べたことであった。

 では、一体何を人間の生存の為の食資源とすればよいのか? この質問に対してのチョプラの回答は、落ち穂からとれる穀物、及び哺乳動物から わけてもらえる乳である、とのことであった。 私はこれらの食資源が入手困難であるアフリカや極地で生活する人間の場合には どうすれば良いのかと質問したところ、「その場合には、人間が絶滅しても仕方が ない」との応答であった。

 現在でも、チョプラの信奉者はいるらしく、近い内に米国西海岸で開催される 環境保護と持続的開発に関する NGO(非政府組織)会議の法学部門のコーディネーター として、彼の名前が印刷されている。 恐らく、彼の生い立ちから、ヒンズー教的な思考パターンがあるのではないかとも推察 されるが、東洋系人物としては珍しく、文化の押し付けを主張する人物である。

 しかし、彼の背景をもっと注意して観察すれば、インド等に見られる階級差別を 背景にした思想であるという解釈が出来る。 すなわち、人間の中には、人格をみとめる必要のない階級に属する者もあれば、その 反面動物の中に人格(?)を認め、それが、「動物権」となっているという事である。

 聖なる牛が繁栄する、その傍らで、飢餓から死んでいく人間がいても、差し支え ない。 このような思想の中で育てば、「動物権」は人権よりも上であると考えるのかも 知れない。 しかし、これを他の文化圏の人々に押し付けるのはいかがなものであろうか?  これは、自国での階級差別を動物権の名を借りて世界に拡張しようとしているもので ある。

 前述の来日当時、彼は世界の開発途上国の法体系には余り言及していなかった。 開発国での動物保護に関する現行の法律では、動物の所有者や利用者の利益保護の 傾向が強いので、これを真の動物の利益の優先へと改正すべきであるとの主張を していた。 確かに、野性生物を捕獲して展示するなどの方法とか、家畜の飼育や運送の手法などの 中には、改訂すべき点もあるかも知れないが、動物権を人権と同等に扱うには、動物 の擬人化を避けては通れない。 人間の判断には限界があり、野性が全て人道的であり、自然の死は常に崇高であると 判断するのが正しいとは限らないのである。 野性動物間の弱肉強食とか、自然の脅威への対応とかが人間の判断で改善されるもの でもない。 動物権はあくまでも、人間と関わりを持つ動物に限っての問題である。

 チョプラのようなアジア圏の背景を持ちながら、キリスト教的な法体系に挑む人物に とって、例えば、カースト制の中で現実に人権を認められていないような場合、 どのような対策を立てるのかを先ず研究していただくのか必要ではないか? いくら西欧の法を改訂しても、アジアの国で女性の持参金が少ないからと、夫の家族が 嫁を焼殺すといった殺人が現実おこなわれている国もあるから、このような行為を 厳しく処罰する法の制定が先決ではないのか? そうでなければ、人間が動物権云々という権利はない。 このような問題には普遍的な人間自身の尊厳と生命に対する原則無視が秘されている、 チョプラの出身国の近隣でこのような事態を放置しておくべきではないと思う。


7.動物権運動と社会現象

 捕鯨反対には、1970年代より英国王室動物虐待防止協会(RSPCA)などの 動物愛護団体が運動を展開していることは、周知の事実である。 この他、カナダ、ノルウェーのあざらし猟を衰退させた国際動物福祉基金(IFAW)、 米国人道協会などが莫大な財源を狩猟反対運動により獲得している。 1980年代半ばに、英国の名門デパート、ハロッズの伝統ある毛皮部門が閉鎖されると いう事件があった。 動物解放主義者にとって、毛皮生産は動物虐待という解釈なので、執拗に爆弾テロを 行うという事件があったからである。 これに先立ち、日本のグリコ森永事件を真似たといわれる Mars Bars チョコレート への毒薬事件があった。 この事件の主なる理由は同社の系列にペットフードを生産している会社があったこと などから、カンガルー肉の使用などで、動物を搾取しているというものであった。 また、動物解放戦線と称する組織が暗躍し、医療関係の実験動物を解放したり、 時には、細菌をばらまくなどの過激な行動が頻繁に見られた。

 米国では、1990年初頭にコロラド州アスペンでの市議会への毛皮産業禁止の法案上程 がある。 この地方は雪が多く、スキー場などの観光資源が主流を占めているところから、遂に この法案は日の目を見ずに終わった。 しかし、今でも、いわゆるフェークファーと称する人工毛皮がファッション界の主流と なっているのは、動物権主張を巧みに利用した人工皮革生産者のマーケティング戦略に よるものであろう。

 皮肉なことに、昭和天皇の大葬の礼では、各国代表の婦人の殆どが本物の毛皮を着用 していたのがテレビに放映された。 厳寒の折、やはり、本物の毛皮に勝るものはないかのようであった。 1994年 1月の冬期オリンピックでは、ノルウェーの商業捕鯨再開に反対するボイコット の動きがあったにも関わらず、リレハンメルでは、環境との融和を前面に打ち出した ノルウェー選手団の制服は寒さに強いあざらしの毛皮ジャケットであった。 零下 10度を下まわると、実際の所、人工の毛皮では、耐寒性が劣るということは、 筆者も北極圏アラスカの北端バーロウで体験した。

 米国の FBIには、膨大な予算を計上して、動物解放運動対策を実施する部門があると 報じられているが、これは、動物解放の為にテロ行為を行う組織が存在していることを 意味している。

 日本における動物権主張には、理性も見られるようであるが、外国の場合には、 動物権の主張に、階級闘争的な傾向が混じり、例えば、英国の狐狩りへの反対運動や、 貴族の領地内での狩猟権など社会的にも日本における運動とは様相が違う。

 捕鯨反対における動物権主張には、英国や米国などに古くから存在しているいわゆる 動物保護団体が金持ち階級の寄付などによって存続し、且つこれらの団体の勢力が 政策への影響を持つ支配階級のロビーイングと合流していることに特徴がある。 故ピーター・スコット卿のライフワークとなった英国の世界自然保護基金(WWF) などがその例である。 日本にも WWFがあるが、やはり、財政的にも大企業との連帯をはじめ、個人でも いわゆる上流指向の人々が賛同して催事を執り行うなど、政策への影響が自覚されない まま社交的な機関であるとの認識を持って参加している人々が多いのに驚かされる。

「海の羊飼い」(Sea Shepherd)の名で有名なポール・ワトソンの率いるテロ集団は、 アイスランド、ノルウェー、などの捕鯨船を爆破したり、アザラシ猟作業を妨害したり して、これらの国々からは、国際犯罪の手配を受けているが、動物権の影響下にある 政権を持つ米国などは、ワトソンの居住を認知している。

 先年デンマークやノルウェーの王室が、ある動物愛護を標傍する団体は、動物愛護と 政治的主張を兼ねて行っているものとして、王室は政治に関与せずとの立場から役員職 を辞退されたと聞いている。

 また、反捕鯨を運動の主流とする団体であるグリーンピースや IFAWなどは、政治家 を巻き込み、広く一般の階層に支持者を広げているが、日本の小杉隆議員を議長 とした、主要国環境議員連盟である GLOBEという NGO(非政府組織)が IFAWの主導者 であるブライアン・デービスの基金をもって発足したものであることは知る人も多い。 この連盟には、日本の政治家の中でも元総理経験者などが名を連ねているし、米国の ゴア副大統領が前議長であったことでも有名である。


結論

 一時盛んに報道された動物解放戦線によるテロ事件は、最近余り表面化しては いないが、現在でも、捕鯨やあざらし猟を標的とした活動は続けられている。 世の中に戦争などの不幸な事態が見られなくなると、マスコミがこれらの運動について の記事を大きく取り上げて書く傾向がある為に、動物権に関するニュースが今のところ 少くない。 だから、かえって、現在はもっと不幸な戦争や事件が多発しているという見方も 出来よう。

 正統派とも言うべき「動物の解放」の著者シンガ−などに見られるのは、西欧の歴史 への反省から、人権運動が起こったと同様、動物への搾取もやめようとする動物権運動 である。 これについては、第一章で述べたが、東洋或いは日本的な「生命転生」思想とは あい入れないものがある。 「家畜の解放」を唱えても、すでに何世紀もかかって家畜化した動物を単に解放する ことが、果たして、動物自身の幸せにつながるのかどうかは、人間の判断だけでは 定かではない。

 確かに、必要以上の実験とか、生産過剰の食肉処理とかは、改善されるべきもので あり、これらは、人間の通念や常識の範囲で改良出来る事である。 問題は、人権を超えた所に動物権を置こうとする過激な思想であり、このような思想の 持ち主にとって、我々一般の人間の持つ判断能力は信用出来ぬものであろうから、 彼等の提起する諸問題は現在の一般社会通念では処理不可能である。

 残念なことに、捕鯨反対を標傍する動物権主張者は、表面上、このような人権を 超える鯨権を主張している。 日本人は「最後の一頭」までも、殺りくするであろう、とか、日本は捕鯨者の安全や 科学標本収集を優先する余り、鯨を残酷に扱っているという主張はその表われである。 こういった主張をする人々の念頭には、野性の死が非常に美化されてインプットされて いるようである。 鯨類と言えども、天敵が全くいない訳ではなく、捕獲された多くのミンク鯨にシャチに よるものと見られる身体の傷があったり、また、座礁によって、人力の届かぬ自然死が 発生したり、そのほかの状況の中での死が必ずしも安楽であるとは限らない。 むしろ、過酷なものである場合が多い。

 興味あることは、動物権主義者が一様に、ハンターによる動物の死と苦しみを同一視 していることである。 それは、所詮擬人化した基準によるものでしかない。 人間でも、死の淵から生還した人の話の中に、死と苦しみは必ずしも一致するもの ではない、との見解もある。 脳内の物質が死のような極端なストレスに対応して、苦痛を感じられなくするのでは ないかという説もある。 幸い、IWCの技術委員会にある人道的捕殺作業部会の中でもこのような見解を指摘する 理性的な学者がいる。 また、人間の脳神経系統と鯨類のそれを同一とする説には異論が多い。 生物によっては、鶏のように頭部を切断されても、走れるものがある。

 Animal Worldの中でシュワイツアーが言っている次の言葉は、我々が動物権に ついて、一体何が今出来るのかを考えさせる。 「私の存在それ自身、他者の存在とのあいだに起こる数限りない衝突のお陰で成立 している。 他の動物の命を奪ったり、生命を傷つけたりしなければならない重荷が私に課せられて いる。 私が寂しい小道を歩く時、私の足元の大地には、踏つけられて苦しみ死ぬ小さい 生物が繁殖している。 私の生命を保つ為には、私の生命によって、傷つけられる他の生命に対して防御 しなくてはならない。 私の家に巣を作った子鼠の処刑人となり、家の中に巣造りをする虫を殺すのも、私の 生命を危険にさらすバクテリアの大量殺りくを行うのも私である。 私の食糧は他の生物である野菜や動物を破壊することで得られるものである。 という事は、私の幸せは他の生物を犠牲にして成立しているということである。」 つまる所、人間は、自己を守るのと同様に他の生物をなべて、平等に守ることは 不可能なのである。

 結局、人間は、自らの種の繁栄の為に、良識をもって、他の動物を管理して、自分の 設定する基準で他の種の幸福を判定しなくてはならない。 この限界を超えて、動物権を主張すれば、我々は自分の種の存続を否定することに なる。 動物権主張者からしばしば受ける質問に、「鯨が増えているから捕獲して食べてよいと いうのならば、人間は増えているから食べろというのか?」というものがある。 この種の発想は正に、人権に対する原則無視の姿勢を表わす。 それは人類の秩序を動物のレベルに落とす危険な思想である。

 昭和 19年に記録される事件で、後年武田泰淳の小説にもなったものがある。 北海道知床半島に難破した船の船長が寒さと飢えに耐え兼ねて、死んだ船員の肉を 食べて、生き延びた。 裁判の結果本人は死刑を望んだが、法にはこのような行為を罰するに適切なものが なく、わずか二年の懲役が言い波された。 罪の償いにと必死に刑務所の中で働いた結果、優良受刑者となり、一年で釈放されて しまう。 しかし、彼には良心の呵責を背負い生きて行くことが重荷となったのである。 本人は死を望み、その後何度も自殺を試みるが遂に苦痛の内に死んでしまう。 この話が先日テレビ放映されたが、この事件の示唆するものは強烈である。

 人間と動物を同列に論じられないのは、人間には、良心というものがあり、動物には これに匹敵するものが果たして存在するのかが不明であるからである。 しかも、この良心という観点ですら、人間中心の基準にすぎないものであるし、また、 そういった基準も時代や民族で異なるという限界を我々は認識して、普遍的な良識を 求めつつ、動物権主張に慎重に対応しなくてはならない。

 動物権については、(財)日本鯨類研究所においては、まだ討議されたことがない。 しかし、現在の捕鯨問題を観察すれば、この問題が水面下で重要な役割を持っている ことは明らかである。 すでに、ダブリンの第 45回 IWC年次会議に際して、英国のタイムズ紙が社説で 指摘し、他の外国メディアでも取り上げたことである。 また、永年 IWCと捕鯨についての研究をしてきた外国の社会学者、カナダの アルバータ大学のミルトン・フリーマン教授や米国の南カルフォルニア大学の ロバート・フリードハイム教授などがこれを研究の課題としていることからもわかる。 最後に付け加えたいのは、これらお二人の社会学者が(財)日本鯨類研究所の為に、 何回も来日され、日本の捕鯨についての研究を行っておられることである。 本稿の資料となったものには、お二人の教えによるものが多いことを紙上を借りて ここに感謝したい。

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