(『人文科学研究第117輯』 (新潟大学人文学部、2005年9月)より)
三浦 淳
古来、動物に対する人間の見方には一定の価値観や偏見がつきまとってきた。
近年そうした方面の研究が進んでいる。例えばハリエット・リトヴォ『階級としての動物——ヴィクトリア時代の英国人と動物たち』1)は英国における動物の種々なランク付けの歴史をたどり、それが英国人の階級や差別意識、植民地主義と関わりを持っていることを明らかにしたし、ボリア・サックス『ナチスと動物』2)は、ナチスが動物保護に関してきわめて先進的であり、それがユダヤ人を虐殺した彼らの世界観と矛盾するものではなかったという事実を解明したのである。
A. 藤原英司は、野生動物や未開地滞在を扱った洋書の邦訳者として出版界に登場した。
記録に残る限りでは、マーチン・ジョンソン『シンバ 百獣の王国タンガニカへ』(白揚社、1958年6月)が最初の出版である。
しかし彼の名が広く知られるようになったのは、ジョイ・アダムソン『野生のエルザ』の邦訳を出してからであろう。
この書物は原著が1960年に出版されて世界中で読まれ、日本でも62年に訳が出てこの年のベストセラー第11位となっている。7)
藤原はまた、『野生のエルザ』の続編二冊を邦訳しているほか、8)ジョイ・アダムソンの他の野生動物を扱った著作、自伝、そしてその夫ジョージの自伝をも邦訳するなど、アダムソン夫妻とのつながりが深い。
また、『野生のエルザ』は世界的に、また日本においても、野生動物というものに対する一般人のイメージを形作るのに重要な役割を果たした書物である。
本論考は、日本海セトロジー研究会第15回大会(2004年7月4日、金沢市・石川県立生涯学習センター)での口頭発表に大幅な加筆を行ったものである。
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(新潟大学人文学部教授)
0.初めに
ここでは藤原英司がイルカや鯨をどう見ているかを、彼の著書『海からの使者イルカ』3)を中心に分析してみたいと思う。
最初に、なぜそうした分析をここで行うのかを書いておこう。
1982年、国際捕鯨委員会(IWC)は商業捕鯨の無期限モラトリアム(一時休止)を決定した。
しかしそこには、単に鯨資源が減少したからという客観的理由だけでは済まない要因があった。
資源量とは無関係に鯨は捕獲してはならない特殊な動物、高度な知性を持つ動物、或いは神聖な動物、とする見方が混じり合っていたのである。4)
つまり、捕鯨問題とは、単に資源量やその科学的測定の問題なのではなく、鯨という動物をめぐる世界観の問題でもある。
文化的な価値観とは無縁なはずの自然科学専門誌においてすら、鯨をめぐる価値観の相違は顕在化している。5)
こうした問題に光を当て考察を加えるのは、人文系の学問に属する仕事である。
藤原英司の経歴を簡単に述べておこう。
1933年東京生まれ、慶応大学卒。
動物心理学専攻。
野生動物に関する多くの著書や訳書で知られ、WWF日本委員会の創設にも携わるなど、自然保護運動に大きな足跡を残してきた。6)
捕鯨問題に関しては、1993年6月12日付け朝日新聞の「論壇」欄に「環境科学文化研究所長」の肩書きで、「捕鯨活動は根本的な見直しを」を寄稿している。
彼のイルカ観を分析することは、野生動物保護を訴える人間一般の思考法を分析することにもつながるであろう。
1.藤原英司と『野生のエルザ』
そこでまず、アダムソン夫妻の人と仕事、そして彼らを藤原がどう見ていたかについて考察を行いたい。
野生動物との交流を好む人物のタイプがそこから見えてきて、本論にも少なからぬヒントを与えてくれるだろうと考えられるからだ。
ジョイ・アダムソンは1910年生まれ、名前からすると英国人のように見えるが、オーストリアの出身である。
「アダムソン」は、三番目の夫となったジョージの姓で、「ジョイ」というファーストネームは二番目の夫であったペーターが「フリーデリケ・ヴィクトリア」という本来の名を発音しづらいという理由から嫌って、発音しやすい「ジョイ」という名を与えたところから来ている。
小さいときに父母が離婚して祖母に育てられるなど、家庭環境には恵まれなかった。
しかし音楽や絵画など芸術に広く興味と才能を示していた。
二十代でいちどアフリカに出かけているが、二番目の夫がナイロビの博物館に職を得たためアフリカに住むようになる。
やがて狩猟監視官であるジョージと出会い、ペーターと別れて三度目の結婚をする。
この間三回妊娠するがいずれも流産に終わり、自分の子供には恵まれなかった。
しかし、母を失った雌ライオンのエルザを育てて野生に帰す試みを行い、その体験を綴った書物が世界的なベストセラーとなって名が広く知られるようになった。
世界中を講演旅行して歩き、またエルザ野生基金を創設するなど、野生保護の国際世論を高めるのに貢献した。
1980年、ケニアで現地人の使用人に殺されて生涯を終えている。
B. まず、彼女の最期について考えてみよう。
『野生のエルザ』の著者が現地人に殺されたというニュースは当時世界的に報道され、ショッキングな出来事として受け取られた。
加えて、夫ジョージも89年にやはり現地人三人の武装グループに射殺されている。
野生動物保護で世界的に名高いアダムソン夫妻がそろって現地人に殺されたという事実は、彼らの仕事の意味を考え直してみる契機として十分なものであろう。
ジョージの殺害を伝える朝日新聞の記事で奥山郁郎記者は、彼と会った経験を回想しつつこう書いている。
印象的だったのは、自分のキャンプの将来について話が及んだ時だ。「私が死んだらキャンプを閉鎖するしかない」と、寂しげな表情をした。
(…)後継者と思って育ててきた白人青年が現地のレンジャー(動物保護員)に何回も襲われ、キャンプを去っていったからだ。
/研究や動物保護を大義名分にしてアフリカに来ている白人に対し、現地の人びとの反発が少なからずあると聞いていた。
このことが助手の襲撃になり、キャンプの閉鎖の方針にもつながったのではないか。
ジョイ夫人の惨殺に続いて射殺されたジョージ氏の晩年を見ると、「野生のエルザ」などで世界的に有名になったものの、現地の人びとの心はつかみ切れなかったのではないか、と思う。9)
この推測が正しいかどうかはとりあえず措こう。
ジョイの殺害について、ジョージの二度目の自伝の記述をもとに検討しよう。
ジョージによれば、狩猟監視官志望であるために夫妻と仕事をしていたザンビア人の青年ピーター・モーソンのテントから金が盗まれた。
疑いはすべての使用人にかけられた。
その直後、ジョイは仕事のことでツルカナ族の若い男ポール・エカイと言い争った。
彼にも盗みの嫌疑がかけられていた。
ジョイは彼に賃金を支払って首にした。
約一カ月後、ジョイが死体で発見された。
警察が捜査し、当初はモーソンにも嫌疑がかけられた。
彼はジョイと日頃から仲が悪く絶えず口論していたことが知られていたからだ。
だがやがてエカイが容疑者として残り、逮捕され、自白した。
首にされたときに得られるはずの賃金全部をもらえなかったために恨み、その後彼女と会った際に抗議しようとして、彼女の方が立腹したので彼もかっとなって殺したという。
81年10月、裁判で殺人罪が確定したが、未成年らしい(年齢がはっきりせず)という理由で死刑は免れた。10)
彼女のこうした最期について、藤原は訳者あとがきで次のように述べている。
ジョイを殺した使用人は、金銭上のトラブルから殺意を抱いたと自ら証言しているが、ジョイの仕事を金銭感覚を通してしか理解し得なかったところに、犯人の重大な錯誤があった(…)。
ジョイの動物をめぐる活動には無私の自己犠牲と金銭感覚では計れない奉仕の精神に基づくものがあり、それを理解していた多くの使用人はジョイの活動に献身的に貢献した。
(…)犯人が少しでも動物好きな青年でジョイの仕事に理解をもっていれば、不幸な事件は避けられたにちがいない。11)
藤原は、ジョイの仕事の意義をまず前提として打ち出し、それを「理解」しなかった現地人を断罪する。
はたしてそれで事件の真相は説明できたと言えるのだろうか。
C. アダムソン夫妻の仕事の意味を考えるにあたって必要なのは、歴史的な背景を知ることである。
二人の活動舞台ケニアは19世紀末から英国の統治下にあり、1963年に独立した。
夫妻のアフリカとの付き合いは20〜30年代から80年代にかけてであるから、ケニアが植民地だった時代から独立した時代にまたがって行われていることになる。
そうした背景は、夫妻の著書にどの程度現れているだろうか。
ジョイについて言えば、驚くほど少ない。
『野生のエルザ』は雌ライオンの仔を育て野生に戻す話であるからやむを得ないが、彼女の自伝を読んでも歴史に関する話はほとんど出てこない。
アフリカの大自然の素晴らしさと恐ろしさ、野生動物との付き合いなどには文才が遺憾なく発揮されているが、社会的な動向には恐ろしく無頓着なのである。
現地人を差別的に見ているというわけでは必ずしもなく、ヨーロッパ文明に冒されて民族衣装を捨てていく現地人への同情、杓子定規に文明化を推し進める宣教師への批判、また原住民を殺戮したフランスへの批判もある。
ところが英国によるケニア支配となると、ほとんど触れられていないのだ。
そもそも『野生のエルザ』が出た60年前後のケニアはどんな状態にあったのか。
30年代の世界的大不況の頃からアフリカでも労働組合運動が盛んになっている。
44年、ケニア・アフリカ人同盟(KAU)という政治結社が結成された。
そして戦後の47年にインドが独立したのを受け、50年代になるとKAU内部でも政治的独立のためには武装闘争も辞さないという急進派が、自力向上を訴える穏健派を圧倒し始める。
こうした中、52年から「マウマウ団」と白人によって呼ばれた集団が反乱を起こす。
史家にも諸説あるようだが、現在ではマウマウ団は植民地ケニアから白人勢力を駆逐することを目指した解放勢力だとして、「ケニア土地自由軍Kenya Land and Freedom Army」と呼ばれるようである。12)
しかし本稿では敢えて当時世界的に流通したマウマウ団という呼称を用いることにする。
マウマウ団の中心を占めていたのはギクユ族であった、それは白人専用高地の指定を受けた地域の大部分が本来はギクユ農民の土地だったからである。
つまり白人に土地を奪われた現地人が行動を起こしたのであった。
マウマウ団鎮圧のために英国は5万の軍隊と警官を送り、植民地政府予算の4年分を費やした。
非常事態は59年まで続いている。
マウマウ団側の死者は11503名、英国側の死者は2044名(白人99名、アジア人29名、アフリカ人1920名)であった。13)
以上の数字で分かるように、実はマウマウ団側の死者の方が圧倒的に多く、特に英国側の白人死亡者数とは100対1以上の差がある。
近代的な武器を持っていた英国側に対して、人間の数はともかく敵方から奪った武器以外は持ち合わせていないマウマウ団は劣勢であった。
また英国側につく現地人もいたし、内部の裏切りもあって、最後はそれによって崩壊したらしい。
加えて国内外のメディアは英国側に押さえられていたため、マウマウ団は白人虐殺を狙う恐ろしい秘密結社だという英国側の宣伝が一方的に通用することとなった。
それは映画というメディアにも如実に反映している。
英国では早くも54年に"Simba"(邦題『暗黒大陸 マウマウ族の反乱』)という映画が製作されている。14)
米国でもマウマウ団を題材にした映画"Safari"(邦題『死の猛獣狩り』、56年)と"Something of value"(邦題『黒い牙』、57年)が製作された。15)
私はいずれも未見であるが、筋書きから判断する限り、マウマウ団を凶暴なテロリスト集団としか見ていない点では同じだし、特に英国のそれはアフリカに植民する白人の優位をまったく疑っていない点で(この時点でインドがすでに英国から独立している)時代錯誤の代物と言うしかない。
英国映画では87年に制作された"The Kitchen Toto"にもマウマウ団が登場する。
この作品は筋書き的には白人と黒人のはざまで揺れ動き苦しむ現地人を主人公にしていて、価値観が変わってきていることが看取できるが、マウマウ団を恐ろしい暴力集団と見る点では変わりない。16)
D. 話を戻そう。
ジョイの自伝はマウマウ団に触れてはいる。
しかしそれはあくまで不当なテロリスト集団としてであって、現地人が独立を求めた闘争なのだという考えからは程遠い。
夫が戦いに巻き込まれた際には、彼らを「悪者の一団」と呼び鎮圧に協力してもいるが、これは下手をすると自分の身が危うい事態なのだからやむを得まい。
捕虜となった団員を絵に描いたときには、《彼が数日のうちに処刑されることを知っていたら、わたしはけっして彼の肖像を描けなかっただろう》と述べるのだが、これはあくまでその場限りの感傷であって、これに続く文章は単に以下のようになっている。
ケニアが旧体制に代わって独立するまでに数年がかかった。
しかし、その推移は平穏だった。
そして、ケニアの人びとは、ただひとつ、自分たちの美しい国を発展させるという目的のために、力をあわせてともに働いたのだった。17)
マウマウ団とケニア独立が彼女の内部で結びつかないばかりではない。
独立を勝ち取ったケニアと英国との多年に及ぶ複雑な関係や、ケニア人の中にも穏健派と急進派の対立がなお続いていることなど、彼女の眼中にはまるで入ってこないのである。
無論、地元にいたからこそ現実が見えなかったのかも知れない。
現場では歴史の流れは必ずしも良くはつかめないからだ。
また英国自体の植民地観が、上で映画を例として観察したように頑ななまでに旧弊さを保っていたことも見逃せまい。
ただ、彼女の自伝がケニア独立から14年をへた78年に出されていることを考えると、この歴史感覚の欠如は時代や場所だけの問題ではなく、ジョイという人間の本質にも根ざすものだと見ないわけにはいかない。
それは、夫ジョージの自伝と比較することで明らかになるだろう。
E. ジョージには自伝が二種類ある。
1968年の"Bwana game"(邦題『ブワナ・エルザ』)と86年の"My pride and Joy"(邦題『追憶のエルザ』)である。
彼はその二度目の自伝の中で、自分がアフリカへのいわば不法侵入者であること、ヨーロッパ人がアフリカに勝手に国境線を引いたこと、それによって野生動物の移動が妨げられたことなどを指摘して、次のように書いている。
それまで現地人が野獣を日用の糧として、野獣たちと釣り合いのとれた生活を営んでいたのに、それをなぜわれわれは”密猟”というのか?
(…)またいかなる権利があってわたしはツルカナ族にワニを食うのをやめよというのか?
(…)ワカンバ族はなぜヤブの中で弓矢を使ってクーズーを撃ってはいけないのか?18)
彼はまた、戦争中にヨーロッパ側の指示で大量の野生動物(シマウマとオリックス)殺しが行われたことにも触れ、《わたしには植民地主義という窮極の傲慢さが二五年間にアフリカを二度もヨーロッパのつまらぬいざこざに巻き込んだように思われた》とも述べている。19)
後年の回想だから後になって得た認識が混入されているとは言えよう。
最初の自伝ではこれほど内省の度合いが強くないことは確かだ。
それにしても、密猟を取り締まるだけではなく、場合によっては人を襲う野獣を殺さねばならない仕事を長年続けた彼が、野生動物は絶対に保護しなければとか、現地人は無知だから白人が指導しなければという、白人が抱きがちな一方的な価値観もしくは綺麗事を越えた視点を持っていたことはうかがえるだろう。
自分は矛盾を抱えながら生きてきたのであり、自伝ではその矛盾を余すところなく書き残しておかねばならないという意識を、彼は明瞭に持っていたようだ。
マウマウ団についてのジョージの記述も、妻の記述よりはるかに大局的である。
まず、52年2月にエリザベス皇女がケニアを訪れたことを回想する。
滞在中に国王=父が死去し、彼女は英国女王となった。
野生動物を見物する施設にいた女王はしかし《その時ケニアに渦巻き、爆発寸前だったトラブルの全容を(…)十分に把握していたとは思えない。
じつはそのころマウマウ団の反逆活動が彼女の政府を打倒しようとしていたのだ。》20)
そして彼らの行動を《不快きわまりない残虐な殺人活動》としながらも、次のように述べる。
この反乱が鎮圧されるまでには、さらに二年かかった。
二六人のアジア人と九〇人のヨーロッパ人、そして一八〇〇人の”忠誠”なるアフリカ人が死んだ。
さらに約一万一五〇〇人のアフリカ人”テロリスト”が殺された。
(…)/ギクユ族はその時の戦いには負けたが自由への戦いには勝とうとしていたし、自分たちの国の最初の独立政府において優位を占める立場も確保しようとしていた。21)
こうした視点は、最近の用語を使うなら完全にポストコロニアリズムのそれであって、彼が時代の変遷を痛切に感じ取っていたことが読みとれる。
もっとも、68年の最初の自伝では多少書き方が異なっている。
そもそも全体が、自分の生い立ちから始まり(彼は英国人だがインド出身である)、アフリカで金鉱探しと野獣狩りを初めとする放浪と冒険の生活を送ってきたことが率直な筆で述べられていて、特に構えずとも面白く読める本なのだ。
しかしそこでも、例えばツルカナ族について、英国の政策によって不当にも荒蕪地に居住を強いられた不遇な民族だとか、彼らから英国が火器を取り上げたのはエチオピアからの侵入者が火器で武装したことを考えるとまずい政策だった、と述べているし、22) ヨーロッパがアフリカに勝手に国境線を引いてもアフリカ人はそれとは無関係な生活をしているという指摘もある。23)
また大戦中に宗主国の都合で野生動物が大量に殺された一件にはきちんと言及している。24)
英国やヨーロッパの政策を批判的に見る目を彼がその時点で持っていたことは明らかだ。
マウマウ団についても一章を設けている。
概してこの集団に否定的ではあるが、最後は次のようにまとめている。
こうした陰惨な思い出がどんなものであったか、それは当時、現地に暮らしてみた者でなければわからない。
だが、ケニアの大統領が言っているように、すべての憎しみや悲惨さは、もはやことごとく過去のものである。
すべてを忘れ去り、われわれは未来へむかって進まなければならない。
そして、われわれが未来にむかって望むものは、このすばらしい大陸に、平和と幸福が訪れることなのだ。25)
これを先のD.で引用したジョイの記述と比較してほしい。
表面的には同じように見えるかも知れないが、実は明瞭に違う。
ジョイがケニアにおける争いの実体を見ずに綺麗事を言っているのに対し、ジョージは独立ケニアにあっては住民全員が国家の建設に前向きにとり組まねばならないという大統領の訴えかけをしっかり受け止め支持しているのである。
争いはあったし今もある。
だが未来に向けてそれを乗り越えなければならない、そう彼は大統領と共に述べているのである。
妻ジョイの先の記述の10年も前のことだ。
ケニアの現実を見る目は、ジョイとジョージでこれほど違っている。
マウマウ団ばかりではない。
密猟についても、ジョイにはそれが現地人の生活習慣や仕事の無さと結びついているという認識が希薄なようだ。
密猟について『エルザ』第二部と第三部で考察しているが、彼女の目は表面的な部分にとどまっていて、現地人の視点でこの問題を考えるところからは程遠いのである。26)
ちなみに田島健二によれば、ジョイは現地ではきわめて評判が悪かったのに対し、ジョージは非常に良かったという。27)
夫と妻へのこの正反対の評価は、二人の資質の差を浮き彫りにしていると言えよう。
F. ジョージは妻をどう見ていたのだろうか。
最初の自伝で、彼はジョイが古代アフリカ人の墳墓をあばく仕事に熱中するあまり現地人をこき使い、反乱を起こされかけたという思い出を書いている。28)
また二度目の自伝では次のように述べている。
ジョイはその性格に、相手を切り捨てようとする残酷さを秘めていた。
(…)彼女はいかなることにせよ反対されることを嫌った。
(…)ジョイが死んだあと、〔彼女の親友〕ジュリエットはジョイのことをこんなふうに書いた。
つまり、ジョイはそのすべてのきわだった業績にもかかわらず、本当のところは常に子ど
もだった、というのだ。
わたしはそのとおりだと思う。/
(…)ジョイはチーターについての新しい本『いとしのピッパ』を書きはじめていた。
そしてそのころ彼女は、イアンバシャ湖畔の自宅にやってくる動物たちに、すっかり夢中になっていた。
庭にはいろいろな動物がやってきたが、その動物たちに接する時の彼女の忍耐強さは、人間に対する気短さとはまさに対照的だった。29)
先に述べたように、ジョイは二度の離婚をへてジョージと結ばれている。
そのジョージとも一時期離婚話が出た。30)
育った家庭環境も両親の離婚により不安定であった。
ジョイは自伝の中で、アフリカと関わりを持つ人間を二種類に分類している。
保守的で、欧米での生活とは全然環境が異なるアフリカにうまく順応できない人間と、逆に欧米では挫折を味わってきたためにアフリカでの自由な生活に酔いしれてしまう人間とがいる、というのだ。31)
自分自身は後者に属する、と言いたかったのだろう。
ヨーロッパに生まれながらアフリカに長年暮らし、人間より野生動物と付き合うことを好んだ女性——それがジョイ・アダムソンだった。
それは別段非難されるべきことではない。
ただ、彼女の生涯と仕事に意味を与えるときには注意を払わなければならないというだけの話である。
彼女が原住民に殺されたという事実から単純に類推して、彼女が原住民に抑圧的な人間だったからだ、という論調がある。
A.で引いた奥山記者の文章にもそうしたニュアンスが含まれている。
藤原英司がこの説に批判的だったのは前述のとおりであり、彼女がそれ以前には原住民の助手から信頼されていたと強調しているのだが、私は時代の変遷という数値を代入すればこの問題は矛盾なく解けると考えている。
ジョイが『野生のエルザ』を発表したのは1960年、ケニア独立の3年前、マウマウ団の決起が鎮圧されて数年後である。つまり時代の大きな変わり目である。
それ以前であれば、アフリカの白人はあくまで主人として黒人に君臨することができた。
黒人助手の白人に対する「信頼」も、こうした背景から来る従順さの変形に過ぎない。
いかに彼女が短気であれ安全だったのである。
しかしマウマウ団決起とケニア独立によって、特に急進的でない黒人の意識も変わっていく。
ただしその変化はあくまで徐々にであり、顕在化するのには時間がかかる。
ジョイが殺されたのは、そうした意識の変化が犯罪という形をとって不意に浮上したものだったのではないか。
加えて、独立後のアフリカのたどった複雑な事情も働いているだろう。
60年はアフリカで17カ国が一挙に独立し、「アフリカの年」と呼ばれた。
しかしやがて新興国家は壁に突き当たる。
ここで詳しく論じる余裕はないが、新しい産業興しが失敗する一方で、部族間の抗争が激化してゆく。32)
独立したての頃の希望が失われ、徐々に現実の桎梏の下で現地人の意識も鬱屈していったのである。
ジョージの殺害については資料が少ない。
最も信頼のおけそうなGeorgeAdamson Wildlife Preservation Trustのサイト33)も、" In 1989 at the age of 83, Adamson was murdered at Kora by Somali bandits."と述べているだけである。
田島健二によれば、象の密猟者の大部分がソマリ族であり、それは貧しさと、大ソマリア国家建設を夢見る彼らの反政府的行動が原因なのだという。
象殺戮も、密猟者としてではなくテロリストとしての行為であって、象が政治的な駆け引きの道具とされているのだ。
アフリカの現地事情はかくも錯綜しているわけである。34)
またジョージ二度目の自伝の後半でも、ソマリ族密猟者とのいざこざが幾度も記されている。
彼の死は、彼個人の資質からというよりは、こうした政治的混乱の中で起こった悲劇である可能性が高い。35)
G. 改めて『野生のエルザ』という本の意味を考えてみよう。
ベストセラーになり多くの国で翻訳出版され、66年に映画化もされたこのノンフィクションは、人間とライオンの心の交流を描いた作品として素直に感動して読んでいい書物だと思う。
しかし歴史の流れの中においてみると別の意味が浮かび上がってくるだろう。
すなわち、英国によるアフリカ統治が終わろうとするときに、白人の存在理由を改めて打ち出した書物なのである。
この本では、主人公はライオンでありまたその育成や再野生化に打ち込む白人夫妻である。
アフリカの美しいと同時に凶暴な自然も印象的だ。
他方、本来そこに暮らしているはずの現地人の姿は影が薄い。
野生動物の育成や保護と言えば、自然が破壊されつつある時代にあって誰もが賛成せざるを得ない。
また、野生動物や大自然には無条件で人を惹きつける魅力が備わっているのも確かだ。
しかしこれから独立して近代国家建設を目指すケニアにあって最大の課題は、人の育成と仕事の確保だったはずなのである。
無論、人材育成・仕事確保と自然保護とは必ずしも矛盾しない。
自然を守り、それを観光資源として活かすための人材育成という道もあるからだ。
ただしそれは口で言うほど簡単ではない。
そもそも野生動物を保護するという思想自体が、アフリカで生業を営んでいる現地人から離れた発想であり、ジョージも述懐していたように(E.を参照)、不遜さを含む考え方だったのである。
しかし、減少しつつある野生動物は守らねばという訴えも説得的である。
現地人の仕事を作ることと組み合わせれば、文句の付けようのない思想だ。
だが、はたして『野生のエルザ』はそういう認識下で読まれたのだろうか。
むしろジョイとライオンの交流、そしてアフリカの大自然の素晴らしさからベストセラーになったのであって、現地人の暮らしを理解し独立後の仕事を作るという課題からは逆に目をそらさせ、やや厳しい言い方をするなら、英国の積年に及ぶ不当なアフリカ支配を忘れさせる役割を果たしたのではないか。
60年に出たこの
本は、63年のケニア独立と入れ替わるようにして受容されていった。
植民地時代には自分たちの利益しか目になかった欧米人が、今度は独立したアフリカの野生動物に目を注ぐ。
いずれも現地人への関心が欠如していることでは共通している。
71年段階で22カ国語に訳され聖書に次ぐ発行部数とまで言われた『野生のエルザ』は36)、少なくとも欧米人にとっては問題のすり替えを通して読者を安心させる効果を持っていたと言えよう。
自然保護の政治性を考える上で、『野生のエルザ』は重要なサンプルである。
H. 最初にも書いたように、藤原英司は『野生のエルザ』の翻訳者として一般に名を知られるようになった。
エルザ現象やアダムソン夫妻に関する彼の考え方を調べ、歴史の流れの中で『エルザ』と夫妻が持ってしまった意味と比較するなら、藤原の持つある種のイデオロギーが見えてくるはずである。
エルザ本や夫妻の自伝の訳者あとがき、そして入門書として著した『エルザとアダムソンの世界』(1977年)を読むと、藤原がジョイに関してはほぼ全面肯定もしくは擁護の姿勢をとっているのに対し、ジョージに対しては必ずしもそうではないことが分かる。
ジョージ批判の姿勢を最も鮮明にしているのは、彼の最初の自伝『ブワナ・エルザ』を収録した『世界動物文学全集第15巻』への解説である。
まず、ジョージが生涯の大部分を捧げた狩猟監視官という職業について次のように述べている。
著者〔ジョージ〕は密猟者を逮捕し、その男を部下にすることによって年間に相当数の動物を救えるということを書いている。(…)
今日では、こういうやりかたはしだいに影をひそめつつある。
そもそも野獣殺しの張本人である白人のプロハンターを狩猟監視官に任命するということが、今日ではもう時代遅れのものとなった。
アフリカの独立諸国では狩猟監視官もアフリカ人を任命するところが圧倒的に多くなっている。
その意味でアダムソンのこの物語(…)は、アフリカで白人が全盛を誇ったころの、白人にとって”古き良き時代”を語ったものといえる。37)
ここでは二つのことが言われている。
まず、独立したアフリカ諸国では狩猟監視官に白人ではなくアフリカ人を採用するようになっているという、言ってみれば当たり前の事柄である。
日本が明治時代、高等教育教員に当初はいわゆるお雇い外国人を採用したが、やがて日本人の学者が育つと順次切り替えていったのと同じ話だ。
しかしもう一つの点は簡単には見過ごせない矛盾を含んでいる。
「密猟者(…)を部下にすることによって(…)動物を救」う方法は影をひそめつつあり、「野獣殺しの張本人である白人のプロハンターを狩猟監視官に任命する」のは時代遅れだ、と言っている箇所である。
つまり、野獣を殺す人間は狩猟監視官やその補助には使えないというのだ。
ジョージが生きたのは、人を襲う野獣や密猟者が跋扈する現実のアフリカであった。
彼自身も金鉱探しや野獣狩りなど、当初は流浪と冒険を楽しむ生活を送っていたのであり、やがて縁があって狩猟監視官という仕事に就いたのである。
つまり、現代にありがちな「野生動物や自然を守れ」という理念から仕事に入った人ではない。
そうした人間の行動様式は、たしかに現代から見ると矛盾含みのところもあるだろう。
けれどもジョージにとって大事だったのは、現実のアフリカで自分に課せられた仕事をうまく処理するということであって、そこでは野生動物の命だけでなく人間の生活も大事だったのである。
自伝を読むと分かるが、彼はしばしば密猟者に寛大であり、形ばかりの罰を与えただけで放免している。
密猟がなぜ起こるのか、彼は知っていたからだ。
密猟をするのは経済的に恵まれた白人ばかりではない。
むしろ現地人に多い。
彼らは貧しく、カネが欲しいばかりに密猟を行う。
或いは、彼らは以前は生活習慣として狩りをしていたのに、白人が一方的に狩猟禁止の法律を作ったために「密猟」とされてしまうのだ。
こうした状況下にあって、野生動物保護に必要なのは「滅びかかっている野生動物を守れ」という理念的なお説教ではない。
現地人が密猟をする必要がなくなるような社会を作っていくことなのである。
無論、ジョージのしていたことは対処療法的な仕事であって、社会の構造を根本的に変えていく政治的な仕事ではなかった。
けれども、自分の仕事が野生動物保護だけでなく現地人生活の秩序維持とも密接に関わっていることは十分自覚しており、それが矛盾を含んでいることも認識していたのである。
E.でも述べたように、彼はその二度目の自伝の中で、自分がアフリカへのいわば不法侵入者であること、ヨーロッパ人がアフリカに勝手に国境線を引いたこと、それによって野生動物の移動が妨げられたこと、現地人に猟を禁じる権利が欧米人にあるかどうか疑問であることなどを指摘していた。
無論、これは正しくはあっても、十分な見解ではない。
時代の変遷によって人と野獣のバランスは変わる。
場合によっては「野獣は絶対に殺すな」という理念を押しつける必要が生じることもあろう。
しかしそれは「野獣を殺すな」という理念が時代と状況を越えた普遍性を持っているからではなく、生息地の狭隘化や人間数の増加など生態系のバランスが変化したからなのであって、少なくともかつては野獣を適度に狩る生活はいささかも自然環境をないがしろにするものではなかったのである。
藤原のあとがきに戻ろう。
彼は先の引用に続いて、最新の動物学の知識に基づいてジョージの動物観の「誤り」を指摘し、《かれら〔白人狩猟監視官〕の自然観、又は生命観は非常に問題の多い一時代前のものであり、それが”狂って”いることに気づかないまま、かれらはアフリカの自然に介入し、アフリカの自然保護の旗手として自らを位置づけた》38)と批判する。
そして最新の研究に基づいた制度が必要だとして次のように述べる。
今までの白人狩猟監視官は、ただ自分の勘と、人並みの道徳観だけに頼って動物を判断し、自然保護的な行動をとろうとしてきた。
それが多くの問題をひきおこし、これからのアフリカでは、もっと違う角度から動物を見る新しい監視官、あるいは新しい監視官教育が必要だと考えられている。
いわばかつての”英雄”見直しが始まり、アフリカの白人狩猟監視官は、今や自然保護の立場からは”落ちた偶像”と化しつつある。
非常に気の毒な言い方になるが、その意味では〔ジョージ・〕アダムソンのこの回想録は、一昔前の英雄が自己の置かれた立場が変わりつつあることに気づくことなく、思いのたけを述べたものともいえる。39)
一見するとポストコロニアル的な言い方のように映る。
白人の狩猟監視官は実は自然保護の本当のやり方が分かっていなかった、新しい時代の監視官や監視官教育が必要だ、というのだから。
だが実はそこには二つの陥穽が敷かれている。
一つはすでに指摘したように、「自然保護」という考え方自体が現地人のためになるのか、という問題。
もう一つは、新しい現地人の監視官はでは具体的にどのように職務を果たすのか、という問題である。
藤原は、しかしこの二つの問題に答えないままに解説を終えている。
彼は批判するだけでなく、ジョージが動物に繊細な心遣いを示す箇所やライオンの美しさに感動する場面については評価している。40)
しかし肝心要の問題は放置されたままなのである。
I. さて、ジョージ最初の自伝を収録している『世界動物文学全集第15巻』には、『神象の最期』という短篇小説が一緒に収められている。
パキスタンの作家アブール・F・シディッキによるもので、筋書きは次のとおりである。
老いさらばえた象が仲間の群れから見捨てられ死を覚悟するが、たまたま人間の持っていたミルクを飲んで生き延びるうちに神象扱いされ、民衆の信仰の対象となる。
だがある時ミルクを持った女の首に長い鼻を巻き付けて殺してしまう。
当局は人殺しの象だということで射殺を決定し、英国統治時代に象撃ちを経験した男を探し出して依頼する。
男は仲間と共に象を追いつめるが、他方から来た民衆たちが象を囲んだため射殺をあきらめる。
この短篇について藤原は解説で、象を霊獣扱いするインドの習慣を知らないとこの小説の妙味は分からないこと、インドの宗教であるジナ教(ジャイナ教)では輪廻思想に基づいて解脱のためには出家が必要とされ、あらゆる生物を殺すことが禁じられており、この思想はインドの仏教やイスラム教にも影響していること、イランのホメイニ師を中心とした政変を見れば分かるようにイスラム教は世俗化が進む世界のなかでも行動性を保っていることなどを縷々説明した上で、次のように述べる。
こうしたイスラム教的行動力と、仏教やジナ教にみられる”無害”〔殺生の禁止〕の思想がインド、パキスタンでは微妙に民衆の深層心理を支配しており、それがゾウの神格化と結びついて社会現象を描いたのが、この作品だといえる。41)
藤原はそれに続いて、《では、この作品の中で同じインド(パキスタン)の森林当局がゾウを単なる殺し屋だと判断したのはどういうことなのか。
同じインド人でありながら、どうして当局は民衆とは正反対の判断をくだしたのか》という問いを発する。
そして、それは欧米に留学できるような一握りの裕福な人間だけが当局の役人となっているからであり、彼らは欧米から《人間生活を脅かすものは”害獣”として処理する野生動物管理思想を吹き込まれて帰国》するのであり、象を神格化する民衆は彼らの目には無知蒙昧と映るので、力ずくでも自分たちの”近代性”を実現しようとするのだ、という。
そして象が殺されない結末は、民衆の勝利を表現していると述べて、次のように書く。
そしてこれこそ、じつに今日、アフリカをふくむインド、イスラム圏と第三世界が国際世論の中ではたす新しい傾向を示しているといえよう。
自然保護の世界戦略において、欧米諸国は今まで常に自分たちの理念を強引に世界中に押しつけようとしてきた。
しかしその理論や近代性、そして武力などでは圧殺できない地域特性が世界各地に存在することに、やっとかれらも気づきはじめた。
そして今日、国際自然保護連合(IUCN)の世界戦略においても、地域特性を十分に考慮することという一項が盛り込まれるようになった。42)
ここだけ読むと、この頃(本は1980年発行)の藤原は、先ほど『ブワナ・エルザ』解説で白人狩猟監視官を時代遅れと批判した態度を含めてきわめてポストコロニアルであり、欧米支配的な価値観に批判的であり、第三世界の視点に立ってものを言っていると思われるかも知れない。
だが、よく読むなら、それは見せかけであることが明らかだ。
藤原がここでパキスタンの世界観に肩入れしているのは、たまたまそこが象を神聖視し殺さないという生活習慣を持っていたからに過ぎない。
『ブワナ・エルザ』解説での彼は、先に見たようにジョージの狩猟監視官としての仕事ぶりを批判して白人の自然保護の限界だとしていた。
しかし彼は、ジョージが現実のケニア社会の中にあって野生動物を狩って暮らしてきた現地人にそれなりの理解を示してきたことについては何一つ述べていなかった。
ジョージが野生動物に繊細さを示したりライオンの美しさに感動した場合に限って讃美していたのである。
すなわち、ここでの藤原は、野生動物を保護し殺さないという場合に限って第三世界的な価値観を擁護しているのであり、そうでない場合は、現地人の野生動物との付き合い方には触れず、野生動物を殺したりコントロールしたりする思想は白人の世界観だとして非難しているのである。
きわめてご都合主義的な見解だと言うしかあるまい。
そうした藤原の本音は、77年に出版した『エルザとアダムソンの世界』の中にいっそう明瞭に現れている。
彼はそこで、ジョージはアフリカで暮らすうちに動物は殺すより観察する方が面白いと気づいたのだと述べて、次のように言う。
これは私の持論なのだが、本物のハンターというのは、最後には必ず動物を殺すことにいやけがさす。
つまり動物を殺すことがおもしろくてしょうがないというハンターは、わたしに言わせれば、きわめて幼稚なハンターである。
(…)/生命を守ることは、生命を奪う以上に勇気を要することが多く、よりすぐれた勇気を求める真のハンターは、最後に必ず銃を棄てる。43)
要するに藤原にとって大事なのは野生動物を殺さないことなのであって、それ以外の考えは受け付けようがないのである。
だが、ジョージは最終的に「銃を棄て」たわけではない。
必要と思われるときには野獣を殺しながら密猟者を取り締まる生活を続けたのだ。
したがって藤原の評価は次のようにならざるを得ない。
ジョージの動物への愛は、野生の動物に美を認めるという点において本格的なものだったが、一面では非常に割りきったところがあった。
/つまり、ジョージは、旅先で自分が飢えそうになった時には、ためらわずに動物を殺して食べた。
だが殺さないですむ時には、殺さなかった。
この点、ジョージは、きわめて猛獣的な人間だったといえる。44)
食物が必要なときには動物を殺すが不必要には殺さない——これは肉食獣だけでなく、現地人の流儀でもあったはずだ。
ジョージもそれを踏襲したに過ぎない。
ところがそのことが、つまり現地人であれ現地に根を下ろして暮らす白人であれ、その点では肉食獣を同じなのだという一点が、藤原にはどうしても理解できないのである!
藤原にとって動物を殺すことは、いわば野生の肉食獣だけに付与された特権なのだ。
そして藤原は論理を次々と飛躍させていく。
エルザとジョイとの心の交流を根拠として、《エルザはその心的状況において人間と同じだということになる》として、《その心情面で両者があい等しいということは、(…)人とライオンとは、その内的存在に共通するものをもつということである》《そしてライオンを動物という言葉におきかえる時、動物と人間とは、たとえ外見が異なっていても、本来、同じものなのだということになる》45)と強引に結論づけてしまうのである 46)
J. こうした藤原の傾向は、野生動物の命を至上視する人間には、現地の実情、特に人間側の事情が見えなくなりがちだということの好例と言えるだろう。
藤原は先に、ジョージのようなハンター上がりの白人が狩猟監視官になる制度は時代遅れだと述べた。
果たしてそうだろうか。
8年間ケニアで野生動物狩りを経験した田島健二は、1988年に出した著書の中で、最近は野生動物保護熱のあまり「ハンター=自然破壊者」という単純な図式でとらえられがちだと批判的に述べた上で、次のように書いている。
アフリカにおけるハンターの存在は、貴重な外貨獲得に貢献し、それは同時に、アフリカ共通の国内問題である雇用促進をも助けていた。
外国からやってくるハンターがアフリカに落とす金は、一人当たり数百万円から、ときには一〇〇〇万円ちかくにものぼった。
それは今日のサファリの中核をなす、写真を撮る一般観光客の一〇倍以上にもなった。
(…)ハンターは密猟のコントロールに一役買っていた。
ハンターの存在を恐れて密猟者の行動は制約されていた。
ところが、一九七三〔七七の誤記と思われる〕年に狩猟が全面禁止となってハンターの姿が原野から消えると同時に、密猟者の数は急増し、その行動が活発になった。
/ケニアで、ゾウの数が急速に減っていったのは、狩猟禁止令が出された年以降のことである。47)
この本は、白人の狩猟監督官がケニア独立後20年ですべて現地人に置き換えられたことや、70年代ケニアの野生動物保護政策がうまくいかなかった事情をも説明している。48)
詳しくは同書に譲るが、人手と資金の不足よりは、現地人の管理・職務能力不足ということのようだ。
つまり、残念ながらと言わねばならないが、自然保護は現地人に仕事を全面的に任せればうまくいくというものでもなかったのである。49)
そしてケニア政府の杓子定規な狩猟全面禁止政策により、狩猟を生活の一部としていた部族は困窮に陥る。
現地の実情を必ずしも尊重しない政府の政策の背後にあるのは、白人の野生動物保護論者による有形無形の圧力だった。50)
田島の本から、H.で引用した藤原英司の「白人の狩猟監督官は時代遅れ」という断定を逆に照射してみよう。
藤原がそう述べたのは80年であった。
つまり彼は、77年に狩猟を全面禁止し狩猟監督官も現地人に置き換えつつあったケニアを見ながらそう述べたのである。
だが彼の期待は裏切られた。
いや、彼の考えがそもそも矛盾含みだったのだ。
野生動物全面禁猟が本当に現地人のためになるのか、考えていなかったのだから。
88年に出た本によって80年頃の藤原の認識を批判するのは後知恵と言われるかも知れない。
たしかに日本にいると遠いアフリカの実情は分かりにくい。
しかし東南アジアやアフリカ諸国が戦後次々とヨーロッパのくびきを離れて独立していく様は、日本でもそれなりに報じられていたのである。
ケニアにしても例外ではない。
マウマウ団を恐ろしいテロリストとした英国の喧伝を真に受けない書物が、日本では67年に出版されている。
野間寛二郎『シンバと森の戦士の国』(理論社)である。
マウマウ団はテロリストではなくケニア独立を目指す「森の戦士」だったのだと主張するこの本は、中学生向けとされているが、著者はアフリカ現地に取材していて、大人が読むに十分耐える内容となっている。
67年度の読書感想文課題図書にも指定されているから、多くの中学生や国語教師に読まれたものと推測される(ちなみに「エルザ」第四部『エルザの子供たち』〔原本では第三部の後半〕も64年の中学生読書感想文課題図書となっている。
この辺の時代の流れは面白い)。
この本には、英国側とマウマウ団の戦いで白人の死者が95人なのに対しマウマウ団側は11503人に上ったという数字も挙げられている。
86年のジョージ二度目の自伝にこの数字が挙げられていることは先に指摘したが、67年段階ですでに日本ではそうした実態が明らかにされていたのである。
藤原がアダムソン夫妻の計三冊の自伝に付けた解説、そして『エルザとアダムソンの世界』には、つまり77年から88年までの仕事には、しかしそうした認識はうかがえない。
彼は現地の実情を顧慮せずひたすら野生動物の命を奪うなと訴えたのであって、ジョージや田島とは反対に、アフリカ人の生活の中でこの問題を考えていこうという姿勢を欠いていたのだった。(文中敬称略)
注
自然科学系の研究者は、こうした文化的な背景を持つ問題に鈍感な場合が珍しくない。
例えば槌田敦は『環境保護運動はどこが間違っているのか?』(JICC、1992年)で情緒的な自然環境保護運動を厳しく批判したが、鯨やマグロの捕獲を非難する欧米の動きについては、《クジラは食べなきゃならんというものでもないし、マグロだってそれがなければ絶対駄目だというものでもないから、みんなが嫌がるんならやめようというのでいいんじゃないでしょうか》としている(185頁)。
和を重んじる日本人の特質は自然科学者にこそ明瞭に看取される。
また、そもそも野生イルカを捕獲して飼育すること自体が(一部世論の圧力などにより)困難になりつつあることは、吉岡基(東大農学部特別研究員)も証言している。
『UP』(東大出版会)1994年2月号、20頁。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD2686/index.html