(『人文科学研究第119輯』 (新潟大学人文学部、2006年11月)より)
三浦 淳
A. 本題に入ろう。藤原英司の鯨イルカ観を『海からの使者イルカ』を主材料として検討する。
(初版は1980年に出ているが、本論考では93年に出た文庫版1)により引用箇所を本文中に( )で示す。)
このあたりの時代の流れを概観するなら、1972年にストックホルムで行われた国連人間環境会議で米国の提案により捕鯨問題が議題として取り上げられ、商業捕鯨のモラトリアムが決議される。
国際捕鯨委員会(IWC)で商業捕鯨モラトリアムが決議されるのが 82年、その実施が85年である。
本論考は、日本海セトロジー研究会第15回大会(2004年7月4日、金沢市、石川県立生涯学習センター)での口頭発表に大幅な加筆を行ったものである。
_
(新潟大学人文学部教授)
2.藤原英司の鯨イルカ観
最初にこの本の構成を見ておこう。
全体は4章に分かれ、第1章では19世紀末から20世紀の初めにかけてのニュージーランド(以下NZと略記)で法によって守られた鯨の話、第2章では古代ヨーロッパから始まって南太平洋に至るイルカ伝説、第3章では20世紀半ばにNZに現れたイルカをめぐる顛末、第4章ではイルカの生物学的分類と保護について書かれている。
このほか、「まえがき」、「あとがき」、そして商業捕鯨のモラトリアムについて報告した「文庫版のための追記」が含まれている。
藤原の著書からは、冷静で慎重な科学者としての側面と、そこから逸脱した野生動物愛好家としての側面の双方を見て取ることができる。
NZで1904年に一匹のイルカ(のちにハナゴンドウと確定)の保護法が成立した一件から始まって、古代ヨーロッパのイルカ伝説や、NZの原住民マオリ族とイルカとの関係を調査・記述する藤原の筆致には、科学者的な側面が比較的濃厚に現れている。
資料を丹念に収集し、またその信憑性の判定にも慎重であり、したがってその記述には小さからぬ説得力が備わっている。
しかしそうした記述の合間から、彼の持っている独特の価値観、もしくは偏見がしばしば顔をのぞかせる。
また自然保護という観念が西洋に端を発しているということから来るのか、不用意なヨーロッパ礼讃も看取される。
ここではいくつかの観点に絞って、彼の思考法の特質を分析してみよう。
B. まず『海からの使者イルカ』第1章を検討しよう。
ここでは先に述べたように、19世紀末から20世紀初頭の頃NZに現れた一匹の鯨(ハナゴンドウ)の保護がとりあげられている。
ピロウラス・ジャックと名付けられたこの海洋動物に現地の人たちは愛着を覚えていたが、船からジャックが狙撃されるという事件が起こり、それを機に法律でジャックを守れという声が大きくなった。
ここで藤原はこういう書き方をしている。
人間と仲のいい動物に対して仲間意識をもつことは、人情として、世界のどこでもだいたい共通しているといっていいだろう。
(…)だが、その動物を殺させまいとして法律の力をかりるという考えは、日本人には、あまりない考えである。
/(…)役人というものは、おおむねめんどくさいことを嫌う。
(…)まして相手が動物のこととなると、真剣に考えるに値しないと思うのが、日本では常識である。(31頁)
論述に「日本人」「日本」が頻出するのが分かる。
日本人は意識が遅れている、と暗示する書き方である。
もっともこのあたりではこういう記述にさほど違和感はない。
問題はその先である。ジャックが撃たれてまもなく、ヨーロッパの複数の博物館がジャックを高値で買い取ろうとしているというニュースが入り、NZ人を憤激させた。
ジャックを撃った男は、ひょっとすると博物館の賞金目当てだったのかもしれない。
つまりヨーロッパの博物館からの動きがジャック狙撃を招いたのかも知れないと述べて、藤原は次のように続ける。
日本人の一般通念では、こうした博物館の動きは、当時なら正当化されただろうと考える。
だが、ニュージーランドの人たちは、怒りと焦燥のうちに、ジャックの保護対策を当局に迫った。
動物を守ろうという場合、これはじつに大切な手段である。
日本では、今日でも、動物あるいは植物を守ろうという時、ただむやみに騒ぎまわるということが多い。(33頁)
ここに来ると、藤原の論法の強引さが目立ってくる。
ジャックを欲しがっていたのはヨーロッパの博物館である。
なぜ「ヨーロッパ人の一般通念では正当化された」と書かないのだろうか。
日本人向けに書かれた本だから、というのは言い訳としては弱い。
そもそも、遠いNZの地に現れた珍しい動物を手に入れようという帝国主義的な発想は、当時アジアやアフリカを植民地としていたヨーロッパ主要国家の博物館でなければ出てこないものだろう。
1900年前後の日本人といえば日清戦争を終えたばかりであり、そういう欲望があったとは考えにくい。
その意味でも、当時のヨーロッパ人の欲望を帝国主義との関連において明らかにするのがここで行うべき正しい分析と考えられるわけだが、藤原の記述は決してそういう方向には行かない。
逆に、日本人は意識が遅れているという自分の主張を合理化する方向へとブレてしまう。
外国の例を出すたびに日本人へのお説教をかまさないと気が済まないというのは、戦後長らく日本の知識階級につきまとった宿痾のようなものである。
藤原は岩波新書から出した『世界の自然を守る』においても、「スペインというと、わたしたちはただなんとなくヨーロッパの田舎という感慨を抱く。
しかし、世界の田舎である日本よりは、スペインのほうが環境問題への自覚が早かったといえそうである」などと書いている。2)
しかし同書は75年の出版だから、日本を三等国と見ておけば知識人づらができた時代の余韻がまだ残っていた頃だ。
単行本が80年に出た『海からの使者イルカ』は、その点で著者の意識が時代遅れになりかかっていた証しとも見られるかも知れない。
C. だが、藤原の記述には実はもっと本質的な欠落がある。
この章の冒頭近くで、自分がNZを訪れた理由を次のように書いている。
かつて百年ほど前、(…)ニュージーランド政府が、そのイルカを法律で守ったということを聞いていたからだった。(14頁)
これを読むと、人は現在と同じような意味でのNZ政府が1900年前後にも存在したのだと思うだろう。
無論それは錯覚に過ぎない。
NZが国家として完全に独立したのは1947年のことであり、1900年前後のNZは英国の植民地だったからだ。
確かに独自の憲法を持ち政府を有してもいたが、本国たる英国やその官僚、そして総督が握っている権限の強さを何とか弱めようと画策する点で、独立国家とは到底言えない存在であった。3)
ジャックを守る法律とは総督令であり(46頁)、言うまでもなく植民地を支配するために英国から任命された人間の仕事だったのである。
しかし藤原は第1章に関する限り、当時NZが植民地だった事実にはまったく触れていない。
藤原はジャックを守る法律が英国や米国の新聞雑誌で報道されたこと、そしてインドのカルカッタで発行されていた新聞でも報じられたことを記して、ジャックの存在が「国際化」していったと述べている(50頁以下)。
NZと同じように当時は英国の植民地だったインドの新聞でジャックが報道されることの裏の意味に、藤原は気づかない。
単にジャックを通して「欧米人の心に、イルカに対する親密感が形成され」たと述べるだけである。
いや、やはり気づいていたのだろうか。
NZやインドを持ち出しながら、「欧米人」としか書いていないのだから。
この記述に同じ英語圏であり英国との政治的結びつきが強い米国が登場していることの意味にも注意を向ける必要があろう。
藤原は先に引用した箇所で、ヨーロッパの複数の博物館がジャックを欲していたと書いていたが、具体的な国名は記していなかった。
ところが後の方で、「当時、ベルリンやウィーンの博物館では、ピロウラス・ジャックに対して、高い値段をつけて欲しがっていた」と述べている(69頁)。
私は藤原の利用した文献を調べていないので可能性としてだけ書いておくが、ジャックを欲した複数の博物館がいずれも非英語圏にあったとすると、NZ総督がジャックを保護する法律を作ったのは、英国政府に仕える人間としてドイツ語圏国家から自国の名物を守ろうという意識が働いたからであるかも知れない。
NZは一方で本国の持つ権限に反発していたが、他方で英国への忠誠心にも厚く、南ア戦争(1899〜1902年)の際には英国を支援するための兵を派遣しているし、第一次大戦に際しては連合国の一員として多数の兵を海外に送り1万7千人の死者を出した。
この数は主戦場になったベルギーのそれより多く、しかもNZの当時の総人口は百万人で、ベルギーの六分の一に過ぎなかったのである。4)
以上のような背景をもとに改めて見直すなら、ジャックの保護や報道をめぐる物語からはまったく別の構図が見えてくるだろう。
つまり十数年後に第一次世界大戦が勃発し、英国は海外植民地共々ドイツ語圏と戦い、最終的に米国の加勢によって勝利を収めたが、ドイツ語圏の博物館からの触手に抗してジャックを保護したNZの振る舞いとは、大戦の一種の前哨戦であり、そもそもが帝国主義時代の主要ヨーロッパ国家同士の確執の一つだった、ということである。
D. しかし真に問題なのは、『海からの使者イルカ』冒頭に出された例がNZというオセアニア国家のものだということである。
近代的な法律の力をもって一匹の鯨を守ろうとしたという話にはたしかにそれなりに人を惹きつけるところがある。
だがそれはあくまで1900年前後の、国際政治の上でとりたてて力を持たなかった植民地における一例に過ぎない。
そして第2章になってから藤原はヨーロッパ古代の神話伝説に見られるイルカと人との関わりに触れる。
ここから何が分かるだろうか?
そもそも『海からの使者イルカ』で藤原は鯨やイルカが人間と仲良くなった例を挙げ、それをもって「イルカは海からの使者だ」という自説を論証しようとしているわけだが、そうした事例自体が実はそう多くないという事実である。
最初の例はNZ、つまり近代になってからヨーロッパ人によって植民地化された場所でのことに過ぎず、肝心要のヨーロッパからは近代の例ではなく、古代の神話的な伝承が引かれるにとどまるのだ。
さらに、そのヨーロッパ神話の扱い自体がいささか問題含みなのである。
古代ギリシアの神託地であったデルフィ(古代ギリシア語読みではデルポイ。
デルフィは英語流の発音)について、藤原は次のように書く。
古代ギリシャ時代のイルカを考える場合、デルフィの遺跡を無視することはできない。
エーゲ文明の中心として栄えたクレタ島の人は(…)ある時、イルカに姿を変えた神に導かれて、ギリシャのコリントス湾内の一角に到着した。
そこで彼らは、その海辺から約一〇キロ内陸へ入ったパルナソス山麓を神の聖地と定め、そこをデルフィと名づけて神殿を築いた。
デルフィとはドルフィンのことでイルカを意味する。
/(…)古代の世界では戦時も戦争も、すべてが神託によってきりまわされていたが、中部ギリシャの各地から、ここへ神託をうかがう人々が訪れた。
/つまりデルフィに行くということが、神の決定を仰ぎに行くということを意味し、それは「イルカに聞く」という意味をもっていたにちがいない。(115頁)
このあたりの語源説はかなり微妙である。
斯界の専門家・沓掛良彦が『ホメーロスの諸神讃歌』邦訳に付けた注釈を見よう。
それによると、ギリシア神話の神アポロンはデルフィニオスという添え名を持っていて、このデルフィニオスというのはイルカを表すデルフィスから来ており、これは古代クレタ人にイルカ崇拝の祭儀があり、それが地中海に広まっていったため、後から来た神であるアポロンはイルカ崇拝の祭儀を吸収したのだろう、とのことである。
しかし神託の地であるデルフィがイルカを表すデルフィスから来ているとするのは俗流の民間語源説であって信憑性がなく、他方デルフィが子宮を意味するデルフュスから来ているとする説があって、これは正しいかも知れないという。5)
専門家たる沓掛の記述が慎重であり断定を避けていることから分かるように、或る固有名詞の語源を確定するというのは実はかなり困難な仕事であり、しばしば不可能ですらある。
語源の曖昧さを固定するのは危うい行為だとも言える。
藤原の書き方がこの点で性急であり、かなり政治的であり問題含みであることは明らかだろう。
もう少し突っ込んで言うなら、ここでの彼は、専門家の沓掛とは逆に、素人の気安さから乱暴な断定をしているということだ。
藤原は別の箇所で、或る比較文学者の、イルカを意味するギリシア語は子宮や腹を意味する言葉と関係があり、イルカは海の想像力を秘めた活力あふれる胎のことを示しているという説を紹介しつつ、イルカは「生」の根源を象徴するとして、イルカにアプローチする際のこうした「手法」あるいは認識の差は、古典時代から今日に至るまで洋の東西のイルカに対する対応の差をきわだだせてきたと言えそうである、と述べる(124頁)。
この比較文学者の説自体が確定したものでないことは先にも指摘したとおりだが、仮にこの説が正しいとしても、そこから広いヨーロッパ全体の過去から現在に至るまでの民族意識を規定することは極めて性急で論理の飛躍だと言わなくてはならない。
そもそも、女性の子宮がヨーロッパ神話にあって生命を生み出す場所としてのシンボル的な意味を持っていたことは確かだが、同時にそれは死んだ者が帰っていく場所でもあった。
女性性器はしばしば洞窟に喩えられ、人間はその洞窟を通ってこの世に生まれ、しかし死ぬと同じ洞窟を通って元の場所に帰っていくものと考えられた。
人間が生まれ出る場所と死んで帰っていく場所は同一なのであり、子宮はその意味で両義的な存在だったと言える。6)
人間が生きている以上、死と無縁であることはできない。
神話は一方的に生を讃えるのではなく、死をも見据えるものとしてあるのであって、それを無視して一方の意味だけを強調するのでは無知のそしりを免れまい。
藤原は、イルカが神託を運んでくるという説に絡めて、日本なら稲荷神社でキツネが神託を運んでくることを想起すれば分かりやすいと述べているが(115〜116頁)、今の日本人を考えてみれば分かるように、キツネが神聖な神の使いだという意識が一般に流通しているとはとても言えないのである。
古代ギリシアにしても、或る民族によって或る時代にイルカが神聖視されたことは確かだが、古代と一口に言ってもそれが包摂する範囲は広いのであり、古代全般においてヨーロッパ世界全体がイルカを神聖視していたと断定できるはずがない。
R・フラスリエールはその著書『ギリシアの神託』の中でデルポイ(デルフィ)の神託に一章を割いているが、邦訳で40頁に及ぶ記述の中でイルカに言及しているのはただの一カ所に過ぎない。
それも上述の『ホメーロスの諸神讃歌』でアポロンがイルカと化してクレタ島人をデルポイ神殿の最初の司祭として訓練したことを記した箇所についてだけであり、これをミノア時代の古い文化がデルポイの神託に与えた影響らしいとしながらも、様々な説があることを併記し、「神々については、起源はつねにあきらかにしがたい」と慎重に締めくくっている。7)
ましてヨーロッパも中世以降になると、藤原自身が認めているようにイルカは文学にはほとんど登場しなくなり(116頁)、ヨーロッパのイルカ神話を実際にあった事件で論証しようとするとNZでの事例を持ち出さなくてはならなくなるという不条理が生じてしまう。
そうした事態がなぜ生じるのかは明瞭だ。
古代ギリシアはエーゲ海や地中海に面し、その文化は海洋文化であった。
だから神話にイルカが登場する余地もあった。
けれども中世に入るとヨーロッパの中心は内陸に移動する。
だからイルカが登場する機会もなくなってしまったのである。
そもそも、中世以降のヨーロッパ文化の源流を直接古代ギリシアに求めること自体がイデオロギー的な操作なのであって、古代ギリシア文化と中世以降のヨーロッパ文化には一定の断絶があると見るのが自然だろう。
古代ギリシア文化以来、とヨーロッパ人が言うのは古代以来の文化的一貫性を主張しようとする戦略なのであって、それを日本人やアジア人が真に受けること自体がおかしいのである。
E. 藤原の一方的なヨーロッパ讃美はまだ続く。
彼は、東西のイルカ観をおおざっぱに「西は生、東は死」と二分した上で次のように述べる。
こうしたイルカについての認識の差は、おのおのの民族の潜在意識に深く沈潜し、日常、人びとがそれをはっきり意識することはない。
そして東西の人びとはイルカを殺せ、殺すなと争うが、なぜそのような発言がおこなわれるのかという根源的なものについては、おたがいにうまく説明できないでいるのが現状だ。
それは遠い昔から長い歴史の過程の中で人びとの意識下に深くくりこまれてしまい、もはや外からはっきりそれと形をみとめられないものとなってしまったからなのだろう。(124頁)
こうなるともはや科学者としての発言ではなく、神秘主義者に近づいている。
さらに藤原は、NZの原住民マオリ族に伝わるイルカ神話を検討し、そこに表れた人間とイルカの関係には「生と死が混然一体となって」いるとした上で、次のように述べる。
マオリ族の先祖が南太平洋のポリネシアらしいことは、すでにふれたが、ポリネシア諸族の形成に関する説を調べていくと、おもしろい見解にぶつかる。
つまりポリネシア人は、人種的にみてコーカソイド(白色人種)系の中の初期地中海人種が基幹で、これに東洋系のモンゴロイド(黄色人種)とネグロイド(黒色人種)がまじって成立したものらしいというのである。
/いわばマオリ族の遠い祖先は、地中海のイルカの記憶と、東洋のイルカの記憶、そして南太平洋のイルカへの対応を、あわせもって生活を築いたといえるわけで(…)(144頁以下)
ここに来ると藤原の思考は完全に空想の領域に入っており、とても冷静な科学者のそれとは言えなくなる。
藤原は続けて、この地の伝説でイルカを裏切って食べるという話があることに触れて、
ギリシャ神話にないすさまじさがある。
このようなすさまじさは、メラネシアやポリネシアの食人の風習にも見ることができる。(145頁)
と言うのであるが、イルカ食と人肉食の短絡的な結び付けが乱暴なのは措くとしても、ギリシア神話にしても別段ヒューマニズムに貫かれているわけではなく人肉を食べる話もあるし、ヘロドトス『歴史』やグリム童話やシェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』などにも人肉食の話は出てくるのであって8)、藤原の論理に従うならヨーロッパの神話・伝承もポリネシアに負けないほど「すさまじい」のである。
そうした事情を無視した藤原の論法が何を目指しているのかは、W・アレンズの指摘を読めば一目瞭然だろう。
普遍的なのは、食人行為そのものではない。
むしろ「他者」を食人者と考える現象である。
重要な問題は、人間が人間の肉を食べる理由ではない。
むしろ、ある集団が他集団を食人者と規定する理由である。解明すべきなのは、観察可能な習慣ではない。
むしろ、ある観念体系の一側面なのである。9)
そもそも、こうしたヨーロッパ神話を持ち出してそれをコーカソイドやモンゴロイドなどの人種と結びつけるやり方がどれほどアナクロか、藤原に分かっていないらしいところに問題がある。
人種理論と神話——と言えば、すぐ思い出される事例があろう。
言うまでもなくナチスのそれである。アルフレート・ローゼンベルクの『二十世紀の神話』を典型とするその種の思考法をナチズム以降に敢えて展開しようとするなら、よほどの注意が必要だというのは、爾来常識のようなものであるはずなのだが。
F. とはいえ、藤原はヨーロッパ人の植民地主義に触れていないわけではない。
第3章では1955年にオポと呼ばれるイルカがNZに現れてやはり人気者になった話が紹介されているが、そこで彼はNZの景観に樹木が少なく草地が多い理由を、後から入植してきた白人が牧畜業に都合のいいように自然を改造してしまったからだと述べている。
また、現地の自然を強引に本国(英国)に似せようとするのはエゴであるとし、マオリ族が英国人の持ち込んだ病気や戦争によって激減した事実にも触れている(167頁)。
しかしその後、彼は一転して次のように書く。
白人たちはマオリ族にしろアメリカインディアンにしろ、先住民を極限まで殺しつくす政策をもってのぞみ、そのことにわたしたちは怒りを覚える。
しかし、マオリ族もニュージーランドへは外から渡ってきた民族である。
そして、彼らか、あるいは別の民族との複合民族が、ニュージーランドの固有生物を数多く殺しつくした。
巨鳥モアはその筆頭である。
/(…)原住民という人間を動物なみに考えていた時代があったことを考えると、原住民が殺されたことに怒るわたしたちは、動物を殺した原住民に対しても同様の怒りをおぼえるべきであろう。(168頁以下)
原住民やその行為をすべて無垢と見なすのはたしかに逆差別でもある。
しかしここでの藤原の筆致は常軌を逸していると言うしかない。
ヨーロッパ人は単に植民地主義によってアジアやアフリカで原住民を殺しただけではなく、保護策に転じる以前には植民地で野生動物を狩猟しまくって絶滅の危機に追いやったからであり(後述)、またNZの自然を本国に似せようとしたという藤原の記述は事実認識としては浅く、実は英国も昔は森林に恵まれた国だったのだが、産業革命による伐採で牧草地に変わってしまったのであり、それにともなってヒグマやオオカミなどの野生動物も少なからず絶滅しているのである。10)
藤原の筆は、そうした英国人らの所行を無視して、「原住民を動物並みに考えていた時代があった」からという驚くべき理由で、白人の原住民殺しと原住民の野生動物殺しを同列に置こうとする。白人の免罪を意図しているのであろう。
それを別にしても、この本における藤原の論法には撞着や飛躍が多く、読む者を辟易させる。
例えば、「イルカが船に近づいて一緒に泳ぐのは、イルカが船とスピードを競う習性があるからだ」という説明を「人間の独断だ。イルカの心の動きがどうして人間に分かるのか」とした上で藤原は次のように述べる。
こうした独断が科学の名のもとに許されるなら、次のような私の考えもまた許されるだろう。
つまり、ジャックは船や人間と友だちになりたくて船に近づいたということだ。(77頁)
これは明らかに論理的矛盾である。
独断だ、と否定的に扱った説をもとに、これが許されるなら私の考えも許される、としてしまう。
逆に言うなら、イルカが船に近づくのはスピードを競う性質があるという説が否定されるべきなら、藤原の説も否定されるべきことになるはずだからである。
そして、「この考えのほうが、イルカと人間との間に新しいモラルを確立するのに、はるかに役立つのではないのか」と続けていく。
つまり目的が正しいから自分の説は正しい、と言っているようなもので、論理的な飛躍は明らかだろう。
もしこの論法が正しいなら、あらゆる動物との友好を確立するのに役立つからあらゆる動物は人間と友だちになりたいという考えを持っているとするのが正しい、と言えてしまい、動物の思考はすべて人間との友好関係に従属しなくてはならなくなる。
これはむしろ究極の人間中心主義ではあるまいか。
論理の飛躍はこれに終わらない。
〔ニュージーランドに現れ市民に親しまれた鯨〕ピロウラス・ジャックはその意味で、海の仲間を代表して、人間の世界を訪れた海からの使者であり、それを守ろうとした総督令は、その使者と、使者の仲間を守ろうとしたという意味に置いて、陸と海の生物との記念すべき平和協定だったともいえるだろう。(77頁)
個別的な事例に基づいてただちに「海の仲間を代表する」とか「平和協定」という壮大な結論を導き出してしまう彼の文章は、非常に危うい。
こうした事例に惑わされずNZの歴史を概観する者は、興味深い事実に突き当たる。
マオリ族の住むNZに白人がやってきたのは18世紀末から19世紀初頭にかけてであった。
NZの原住民はポリネシアから渡ってきたと見られるマオリ族であるが(それ以前にも別の先住民がいた)、17世紀半ばにオランダ人探検家がヨーロッパ人としてこの島を「発見」し、1769年にキャプテン・クックことジェームズ・クックがやってきて調査を行った。
18世紀末から19世紀初頭にかけて捕鯨やアザラシ猟に従事する人間が英米仏から入り込むようになり、やがて南島のアザラシは乱獲によりほぼ絶滅してしまう。11)
ピロウラス・ジャックを法律によって守ったNZの白人たちとは、そのような人間だったのである。
そもそもクックの「調査」自体が、当時高価だった鯨油などの資源を求めるヨーロッパ人の欲求に沿う仕事だった。12)
ちなみに英国の南氷洋での捕鯨活動は1960年代前半まで続いている。13)
1840年、NZは正式に英国の植民地となる。
現地人首長には必ずしも賛成でない人間もいたが、時すでに遅しであった。
1852年にはNZ憲法が制定される。
その数年後から入植者に対するマオリ族の反発が高まっていくが、彼ら現地人も統一性に欠けており、やがて次々と入植者の軍門に下っていく結果となった。
最後まで抵抗したのはハウハウ団と呼ばれた現地人集団であり(1.で言及したケニアのマウマウ団と発音が似ているのが興味深い)、結局入植者と原住民の争いは1880年代まで続いた。14)
NZの白人たちは距離的に遠いが故に、かえって英国との結びつきを絶えず意識していた。
それが南ア戦争や第一次大戦への、時として過大なまでの派兵を生み出したのである。
1907年に英国自治領となり1947年に正式に独立しても、英国との心理的な絆は残っていた。
それが切れたのは英国のEEC加盟の時(1973年)だった、とシンクレアは指摘する。
それまでヨーロッパ大陸から距離をおいた政策をとっていた英国は、ここで独仏との経済的連携に踏み切る。
それはNZからすれば、かつては世界的な植民地帝国の盟主だった英国が、ヨーロッパという限られた地域内で生きる道を選択したということに他ならない。
自分は英国から見捨てられた、とNZ人は感じた。15)
オーストラリアが白豪主義を捨てたのもこの頃である。
アジア系移民の増大のために白人中心主義を改める政策は以前からとられていたとはいえ、正式に白豪主義を撤回したのが英国のEEC加盟とほぼ同時期であったのは偶然ではない。
つまりこの時期、英国はEEC加盟によりヨーロッパ国家となり、ためにNZとオーストラリアはオセアニア国家として生きる道を模索せざるを得なくなったのだ。
逆に言えば、それまでは両国と英国との絆は相当に強かったということになる。
以上のような歴史を念頭において1980年に書かれた『海からの使者イルカ』を読むなら、消滅しつつある大英植民地帝国の絆を、英国人でもNZ人でもない日本人が、「イルカ」を口実に強化しようとしている奇妙な構図が浮かんでくるだろう。
かつては原住民は動物扱いされたと称して白人の原住民殺戮と原住民の野生動物殺戮を同列に置き、しかも白人の野生動物殺戮にはいっさい触れない。
明治維新以降日本人の強迫観念であった「ヨーロッパ=普遍」の図式がそれを支えている。
「エルザ」本の訳業を通して自然保護運動に入っていった藤原にとって、すなわちヨーロッパ人の野生動物観を通して自然保護を考えるようになった藤原にとって、こうした見方は必然だったのだろうか。
G. 『海からの使者イルカ』の冒頭で、藤原は日本のイルカ漁を槍玉に挙げ、それに「勇壮イルカとり」と見出しを付けて報じた新聞記事を批判している。
生き物を殺すことを勇壮だとする考えは、今日でも未開部族の中に見られるし、文明人の中でも、生命に対する自覚の乏しい人びとの間に、かなり広く見られるものである。(7頁)
ここには藤原の思考法の特徴が明瞭に現れている。
まず、生き物を殺すことを勇壮だとする形容を「未開部族」に結びつけている点である。
おそらく彼の念頭にあるのは、アフリカなどの狩猟採取民族の生活様式だろう。
1.で見たように、藤原はジョイ・アダムソンの『野生のエルザ』邦訳者として名を知られるようになったが、アフリカ現地で長らく暮らしたアダムソン夫妻の生活を日本に紹介しながら、野生動物の美しさを称えたりその保護を訴えたりする場合に限って共感を示しており、野生動物を必要に応じて狩猟しながら暮らしている現地人や現地に根付いた白人の暮らしにはまったく理解を見せていなかった。
彼がエルザに関わる仕事をしたのは、ジョージ・アダムソン二度目の自伝の邦訳出版(1988年)を別にすれば、『野生のエルザ』邦訳が出た1962年からジョイ・アダムソンの自伝を邦訳出版した80年までの期間である。
80 年に単行本が出た『海からの使者イルカ』は、まさにエルザ本に接続する仕事なのであり、思想的にもその延長線上にあったと考えられる。
さて、生き物を殺すのを勇壮とするのが「未開部族」であるという藤原の言い分は正しいのだろうか。
そういう部族もあろうが、しかし一般的にそうであると言うことには問題がある。
例えば、アフリカのブッシュマンを研究した田中二郎によれば、彼らの狩猟の仕方にはいくつか種類があり、弓矢での狩猟はいちばん困難であるがゆえにこれを行うことができる男性は一人前と見なされるが、一方でそれに成功した男は必ずしもそれを誇るわけではないし、また日常的にはむしろ罠をしかけて動物を捕獲する方法がよくとられるという。16)
狩猟に出かけても獲物に出会う確率は必ずしも高いわけではない。
むしろ罠という、人間が直接手を下さずとも四六時中捕獲の可能性がある方法がとられるのは、或る意味自然なことである。
食料として野生動物を必要とする社会にあって、捕獲は日常に属する仕事であり、「勇壮」といったロマンティックな価値観が入り込む余地は少ない。
現代でも、モンゴルの遊牧民は家畜を飼いながら同時にそれを屠殺して暮らしているが、彼らにあって家畜への愛情深さと屠殺の日常的な手際の良さとは決して矛盾していない。17)
そこから振り返ってみると、藤原がやり玉に挙げている新聞記事の見出しは、実際にはイルカ漁に従事する漁民の感性を示しているのではなく、漁民の仕事を外から眺める新聞記者=都会人の感性を示していることが分かるだろう。
逆に言えば、それをことさらに残酷だとする感性もまた都会人のものだということだ。
繰り返すが、日常的にそうした作業を必要とする人間には、「勇壮」や「残酷」といった形容が入り込む余地はないのだから。
この点を多少、歴史的背景から考えてみたい。
「未開人」であれ、先進国の現代人であれ、菜食主義者でなければ動物の肉を食らって生きていることに変わりはない。
動物の肉を食すためには、まず動物を殺さなくてはならないのも自明の事柄である。
しかし先進国にあっては菜食主義者でない人間がみな自分の食用とするために動物を殺すわけではない。
それは屠殺という形で専門業者に委ねられているからだ。
だが農業社会において屠殺は基本的にそれぞれの家で行われるものであったし、現在もモンゴルなどがそうであることは上述のとおりである。
屠殺という仕事がヨーロッパで主として専門職によって担われるようになったのは19世紀半ばのことである。
それまでは屠殺は家族レベルの仕事だった。
鉄道の普及によって、動物を屠殺するために遠方に運び、これを食肉としてから再度遠方に運んで販売することが可能になったのである。
こうして集中的に動物を屠殺する産業が成立し、それに伴って屠殺産業は残酷で非人間的な作業の場としてシンボル化される。
20世紀初めには、すでに食肉処理工場を非人間的作業を通じて労働者を搾取するシンボルとして描いた小説が米国で出版されている。18)
人間が生きていく上で欠かせない仕事が、一部の人間の職業として特化され、それによって職業差別が生じる。
そうした事情は明治以降に肉食が一般化した日本にあっても例外ではなかった。
鎌田慧『ドキュメント屠場』によれば、全国一般全横浜屠場支部の記録には次のようにあるという。19)
現在の大黒町に移転してから三五年を数えましたが、一一年前に発覚した書類によれば、ここへの移転当時も、地域住民や労働組合、経営者協議会が、「刑務所や火葬場より、心を痛めさせられる屠殺場の建物を見て暮らす事には耐えられない」あるいは「物心両面での実害が甚大である」として大反対運動を起こし、署名や陳情まで行っていた事が明らかにされています。
一般には利害関係で対立するものとされる労働組合と経営者協議会が見事なまでにスクラムを組んでいる様子は、この問題の深刻さを物語っている。
両者は一見敵対しあっているように見えて実は共通する価値観の上で動いていたのであって、都市化による分業体制の中では、「経営者−労働者」という社会主義的な二項対立はずらされ、職種による差別構造へと転化されるのである。
自分では日常的に肉を食らいながら、しかしそのために動物を屠殺している人々に対しては差別意識を抱くというパラドクスは、人間の思考様式の根源に根ざしているのかも知れない。
英国の文学研究者P・ヒュームはヨーロッパでしばしば起こったユダヤ人虐殺について次のように述べている。
この大量虐殺はしばしば、ユダヤ人が食人を行っているという告発にしたがって行われた。このパターンは重要である。
ある共同体が、その内部統合の根拠としたまさにその行為を外部に投射し、これを告発することによって共同体の境界が創出されるのである。
そのとき、内部の抑圧と外部への投射という心理過程と同時に、投射が成功すればするほど投射された外部の脅威に対して共同体を自己防衛せねばならぬ必要が強められるというイデオロギー過程が並行して作動する。20)
すなわち、キリスト教の儀式ではパンはキリストの肉であり葡萄酒は血である。
食人行為をそうした象徴的な形で儀式化しているキリスト教文化が、敵対するユダヤ人は本当に食人行為をしているのだとすることによって境界線を引き、あわせて自分たちの結束を固めようとする。
屠殺業者を差別する、しかし自分では肉を食べている市民たちの心理は、こうした自己の行為を外部に投射して境界線を設定するという点で同じだと言えよう。
H. 動物を殺すことに関する価値観が一筋縄ではいかないという事情を、過去の歴史をふまえながらもう少し見ておこう。
もし動物を殺すことが残酷だとするなら、食料確保のためではなくスポーツとしての狩猟の方がはるかに残酷であるはずだ。
前者は自分が生きていくためだが、後者は娯楽に過ぎないからだ。
現代ではこの考え方に異論を唱える人はいないだろう。
しかし歴史をたどると必ずしもそうではなかったことが分かる。
H・リトヴォ『階級としての動物』の第6章「狩猟のスリル」は、英国の帝国主義的侵攻が英国人の野生動物との付き合いをいかに拡大させたか、またその中でいかに英国人が身勝手な価値観のもとに野生動物やアジア・アフリカ人を扱っていたかを詳細に明らかにしているが、中にこういう一節がある。
結局のところ、狩猟家とは領土拡張主義者の理想像であり決定版であった。
セルーは、(…)もっぱら象殺しとしてその名を馳せていたときでさえ、パブリックスクールで植民地勤務に備えて勉強していた多くの少年たちのヒーローであった。
かつてヨーロッパ人が足を踏み入れたことのない地域に大型猟獣を求めて狩猟家がやってくることは、文明の前触れであると考えられた。21)
こうした狩猟行は多大の手間と費用を要するため長らく上流階級のヘゲモニーと結びついていたし、また実際には英国人の狩猟家は現地人の同行を得なければ獲物がいそうな場所を探索することも不可能であったのに、現地人を軽蔑し、野生動物の方が現地人より高貴だと考えていた。
狩猟家の発砲にねばり強く抵抗した野生動物は「すばらしい勇気」を賞賛された。22)
無論、こうした狩猟行為は野生動物資源を枯渇に追いやった。
資源枯渇を案じる声は狩猟家たちの中にもあった。
しかしそれは今日において想像されるような、野生動物保護の制約を自分たちに課そうとするものではなかった。
ヴィクトリア朝後期の狩猟文献のなかに広くみられた自己抑制と他者への配慮〔=自分だけで狩り過ぎず他の狩猟者にもとっておく〕というルールは、サバンナやジャングルの減少しつつある動物資源は、楽しみのために狩猟をするひとびとのものである、と暗黙のうちに主張していた。
それと同時にこのルールは、大多数は感情的必要〔=娯楽〕よりも物質的必要を満たすために動物を殺していた、ブッシュを放浪するその他多くのひとびと〔=現地人〕には、狩猟の権利はない、と言ったのである。23)
動物を殺す動機にはヒエラルヒーがあり、それは殺す人間のヒエラルヒーに直結する。
生きるために必要でない殺しの方が、必要な殺しより高級と見なされる。
こうした英国人の「スポーツマンシップ」によって批判されたのは現地人だけではない。
ラテン民族もこの点で英国人に劣るとされた。24)
さらに、野生以外の動物保護はどうだったか。
英国の動物保護の歴史を振り返るときわめて示唆的な現象に出会う。
動物保護法が英国で成立したのは19世紀であるが、当時この法律は主として下層階級をターゲットにしていた。
すなわちこの法律は当初は家畜と馬だけを保護対象としており、これらの動物を扱うのは下層階級の仕事だったからである。
その一方で、上流階級は狐狩りや雷鳥狩りを楽しんでおり、そこにはこの法律は適用されなかった。
徐々に家庭のペットなどにも適用されるようになっていくが、そもそも生きるための仕事として動物と付き合う人間と、家庭の趣味として動物と付き合う人間の価値観を一緒くたにすることに無理があることは、今の目からすれば明らかだろう。
その意味でこの法律は最初から、生活の道具として動物を扱わざるを得ない下層階級への差別的な意識と共に成立し運用されたのだと言える。25)
話がややそれたかも知れない。
しかしここで押さえておくべきは、ヨーロッパ人の動物との付き合い方には現地人や下層階級への差別意識がつきまとっていること、ヨーロッパも決して一枚板ではなく民族間の反目があること、動物保護法も上流階級に都合の良い形で出発したこと、それは野生動物保護に際して原住民の意向が無視されがちな傾向とおそらくは通底しているということである。
ちなみに、国家内部では動物保護法でも「地域ごとの特性」に配慮せざるを得なかったことは、フランスで闘牛と闘鶏については例外的に認められた事例が示している。26)
これは自国イヌイットには稀少な鯨の捕獲を認め、日本の沿岸捕鯨には反対する米国の二重基準にまで通じる例かも知れない。
さて、狩猟行為は英国植民地の野生動物を激減させ、19世紀も後半になると植民地政府も野生動物保護を打ち出さざるを得なくなる。
ここで一考しておくべきなのは、それが英国がアジアやアフリカの植民地を支配する帝国主義下において生じた政策変更であった、という事実である。
多くの植民地を領有する政策が19世紀ヨーロッパ諸国にとっては自国のステイタスに直結していたとすれば、野生動物保護政策にしても例外ではなかった。
絶滅に瀕した猟獣の保護が英国の管理型の植民地支配を象徴するものであるとしたら、他の大国が支配している動物の同じような苦境に関心を抱くことは、英国は国際的に卓越した地位にあるという主張を間接的に表現するものであったのかもしれない。
(…)こうして一九〇〇年に、アフリカのサハラ砂漠以南に植民地を持つヨーロッパ政府の代表がロンドンに集まり、英国の代表団が内容を提案した「アフリカにおける野生動物、鳥、魚の保護に関する協定」に調印した。
(…)その他の調印国が英国人ほど動物保護に関心を持っていなかったかもしれないということは、ベルギー人、ドイツ人、ポルトガル人が協力してくれないという言及が頻繁に見られる、この後十年間の公式書簡からうかがえる。27)
さらに、そうした保護は差別をむしろ顕在化させるものでもあった。
狩猟法は本国からやってきて短期間滞在する狩猟家や高官には稀少となった野生動物の狩りを認めるのに、現地で暮らす入植者には認めなかった。
また禁猟区に指定されると耕地を荒らす野生動物を殺すことができないので農園主たちの反発を買った。
白人の狩猟家たちは、野生動物を枯渇に追いやったのは自分たちではなく、近代的な武器を手にした現地人だと責任転嫁することがよくあった。28)
こうした差別的な扱いは、実は過去のことではない。
現在でもアフリカのカメルーン政府は、地元の部族には野生動物保護の建前から狩猟を禁じ、そのくせ欧米からの観光客には入場料をとって狩猟を許可している。
地元の原住民は入場料を払えないから、いくら伝統とはいえ、猟をすると密猟扱いになってしまうのである。 29)
I. 以上のような構図を念頭において、藤原が1975年に出した『世界の自然を守る』を読んでみると、野生動物保護の主張に秘められた政治的な意味が見えてくる。
この本は世界自然保護基金(World Wildlife Fund、略称WWF)とその日本支部の設立や活動に少なからぬ頁を割いているが、WWFがスイスで設立されたのは1961年、その日本支部(WWFJ)設立は68年であった。
1.で私が、『野生のエルザ』はアフリカ諸国がヨーロッパから独立していった時期に、それと引き換えるかのように読まれたと指摘したことを思い出していただきたい。
WWFもまた、アフリカがヨーロッパのくびきから逃れる時期に設立された。
無論、設立構想自体はそれよりはるかに早く 20世紀初頭にさかのぼるが、現在世界最大と言われる自然保護組織が「アフリカの年」ときびすを接して設立されたのは、偶然というには出来過ぎている符合である。
そうした視点から『世界の自然を守る』を検討するなら、この時期のヨーロッパにとって都合の良いイデオロギーを展開している様がよく分かる。
冒頭取り上げられるのは、アラビア半島に生息していたオリックスが絶滅の危機に瀕した際にそれを救ったヨーロッパ人、具体的には国際自然保護連合(IUCN)及び設立されたばかりのWWFの活動である。
オリックスは従来から地元ベドウィンの狩猟対象であったが、彼らの武器が原始的であった段階では個体数は維持されていた。
しかし近代的な銃器が導入されて数が減り始め、加えて石油成金のアラビア人やアラビア王室が娯楽としてオリックスの大量殺戮を行うようになると、あっという間に絶滅の危機に瀕することになる。
欧米野生動物保護論者の介入で残ったわずかなオリックスが集められて米国の動物園に送られ、そこで繁殖が試みられるに至った。
最終的には現地人の協力も得て、オリックスの個体数は増え始め、絶滅の危機を免れた。30)
ヨーロッパの自然保護論者にとって、これは輝かしい成功譚であるばかりか、自分に好都合な物語でもある。
オリックスを絶滅の危機に追いやったのはあくまでベドウィンや地元の石油成金や王室なのであってヨーロッパ人ではない。
そしてオリックスを救ったのはヨーロッパの自然保護論者なのだ。
断っておくが、私はこの物語が嘘だと言っているのではない。
そうではなく、真実の物語であっても特定のイデオロギーを隠していたり、特定の人たちにとってのみ都合の良いお話であったりすることの妨げにはならない、と言っているのである。
念のため付け加えると、『世界の自然を守る』全体がそのようなイデオロギーに染め上げられた本なのではない。
今読んでも有益な部分が少なからずあり、5年後の『海からの使者イルカ』よりむしろ視点は柔軟で、優れた出来映えである。私がここで問題にしたいのはあくまで、WWFの最初の輝かしい成功譚がこの本の冒頭に収められていて、その成功譚がヨーロッパ帝国主義の終焉とアフリカの独立という時代に成立しており、そうした符合に何が隠されていたかは現代人の目には見えやすくなっているはずだ、ということなのである。
では、何が見えやすくなったのか。
自然保護という観念につきまとう大きな陥穽である。
そもそも、「自然を守れ」と我々が言うとき、その「自然」の中に人が住んでいることを想定しているだろうか。
我々は四六時中そうした「守られた自然」の中で暮らしたいと思っているから「自然を守れ」と叫ぶのだろうか。
違う。
我々は普段は便利な先進国の都会に暮らしたいのであり、「自然」は時々旅行に出かけていって満喫すべきものなのである。
「自然を守れ」という叫びは、「自分は普段そこに暮らしていないが」という前提条件のもとに発せられ、しかもしばしばその前提を隠蔽している。
そして普段「自然」の中で暮らしている人々が「自然」を破壊して「文化的な」暮らしをしたいと望むのを止める権利が自分にあるか、という問いをもである。31)
なぜなら先進国の都会とは、「自然」を破壊した場所に他ならないからであり、そこでの暮らしを満喫する人々とは自分が住む場所について真剣に「自然を守れ」と訴えることのない人々だからである。
「自然を守れ」は、ほとんどいつでも他人に対して叫ぶ言葉として存在する。
自然と離れて暮らしている人たちこそが自然保護運動に熱中しやすいこの傾向は「バンビ症候群」と呼ばれることもあり32)、自然保護につきまとう弊害として認識されている。
自然保護思想が超越主義やロマン主義と結びつき、近代的な都市生活の成立を前提として浮上することは鬼頭秀一によって指摘されているが33)、本来人間は自然の中で暮らしその恵みを糧とすることにより生きてきたのであって、農業従事者にとって野生動物は農作物を荒らす敵に他ならず、もし野生動物を保護せよと主張するのであれば、農家が野生動物から受ける被害を減らす作業といかに両立させるかを考えなくてはならないのである。
現在、野生動物保護を真剣に考える人にとってそうした視点は常識化していると言ってよい。34)
また、それは都会化した先進国が、「自然」を多く残した後進国の「自然保護」に向かう際に絶えず意識しておかなければならないことなのだ。
「エルザ」本における藤原がそうした視点を欠いていたことは1.で明らかにしたが、他の著作でもその点は変わらない。
『世界の自然を守る』では、スペインの自然を残したデルタ地帯がWWFの募金活動によって保護された成果を報告しつつ、「スペイン以外の人々が、スペイン国内の自然を守るために、(…)金を惜しげもなく投じるとはどういうことなのか。
それほどみんなが大切だと考えるマーリスマス・デルタとはいったい何なのか、こうした疑問がスペインの人びとの間におこったとしてもふしぎではない」と書いている。35)
しかし上のような視点をふまえて事態を見るなら、むしろ外国だからこそ人々は募金に積極的に応じたのだと考えるべきだろう。
自分の日常的な活動と関係する身近な自然ならば、そこに様々な利害関係が絡むから、募金に応じるのにも慎重になる。
遠方に住み利害関係のない人々こそが、ロマンティックな心情から募金に応じるのである。
またここで藤原は、WWFスペイン支部会員が、学校での活動により子供の会員が多数できたと感激していた話を伝えているが36)、自然保護と経済活動の矛盾といった複雑な事情が見えない子供であるからこそこの種の活動に勧誘しやすいわけで、そうした洞察抜きで感動話としてこのエピソードを紹介する藤原の姿勢には疑問符を付けざるを得ない。
また藤原は別の著書で、米国の国立野生生物保護区で狩猟や釣りが認められている事実を報告しつつ、それに異議を唱えている。37)
資源量が豊富な野生生物の捕獲が認められているのは、生物の数量バランスをとる、住民にレクリエーションと食料を提供する、入漁料徴収で自然保護の資金が得られる、などなどの理由からであるが、藤原は様々な側面からこれを批判している。
批判には説得的な部分もないではないが、最終的に彼が依っているのは「野生生物を殺すのは悪である」「自然保護とは自然に人間が手をつけないことだ」という信念である。38)
人が自然の中で暮らしながらどう自然を保全していくか、という発想はついに彼にはない。
WWF日本支部の創設に関わった彼がそうした人間だったという事実を見るとき、それが自然保護のあり方そのものに歪みをもたらしはしなかったろうかという危惧の念が湧いてくる。
近代化の中で屠殺業者への差別意識が浸透していく過程と比べれば、歪みの意味が分かりやすくなるだろう。
自分は肉を食べながら屠殺業者を差別するという構図は、規模を大きくすれば、自然と交わることのない大都会で第三次産業に従事して暮らす多数の市民が、自然の中やごく間近で暮らし自然の産物を利用している人々に対して「野生生物を殺すな」「自然には手をつけるな」と叫ぶ構図へと容易に転化する。
そしてそれが19世紀帝国主義時代の「宗主国たるヨーロッパ」対「植民地たるアジア・アフリカ」という構図の延長線上に位置づけられることをも本論文は示してきた。
無論アジア・アフリカ諸国の政策がかつて植民地だったからという理由ですべて正当化されるわけではないが、藤原の著作にヨーロッパ帝国主義の影が、その負の部分を十分に吟味されないままに混入しており、そして現代でもいわゆる国際政治においてヨーロッパ先進国の発言権が強いという現状をふまえるなら、彼の著作に見られる様々な問題点は今なお一種反面教師としての意義を失っていないと言えるのではないだろうか。(文中敬称略)
注