("nemo" 第4号,1997より。
三浦 淳
反捕鯨病の分析を続けるにあたって、まずこの病気を大まかに分類してみたい。
私の見るところ、反捕鯨病は大きく分けて三種類の原因もしくは症状に分けられる。
無論、これらが絡み合って複合的な様相を示している病人も少なくない。
その三種類とは、次のとおりである。
この三つの症状のうち一番タチが悪いのは、やはりCであろう。
AとBもなかなかやっかいだが、少なくともデータの積み重ねによって論駁もしくは説得することは可能ではある。
だがCは宗教であるだけに、論理やデータによる説得は効を奏さない場合が多い。
これは聖書の内容の荒唐無稽さをいくらあげつらってもキリスト教徒を改宗させられないのと同じである。
そして、ここが肝腎なところだが、ある人間が宗教に染まりやすいかどうかは、一般に信じられているような知性の高低とは無関係なのである。
ここでの知性とは、日本で言えば偏差値の高い大学に合格できる、程度の意味だ。
いや、むしろ中途半端なインテリの方が案外新興宗教や疑似宗教に弱いという事実は、オウム真理教事件で明らかになったばかりである。
そして現在、反捕鯨を推進する側の最大の心理的論拠になっているのもCなのである。
ところが、日本の「良心的」な反捕鯨論者はこの点を認めようとしない。
それはそうだろう。
なぜならCには少なくとも現時点では科学的論拠は何もなく、要は「私はこう感じる」というだけの単純極まりない趣味性に基づいているからである。
おまけにこれは露骨な動物差別主義であり、人種差別主義の一変種であって、多様な文化や習慣のあり方を認めようとしない偏狭なレイシズムに他ならないからだ。
自然保護がレイシズムと結びついている、と言われたら良心的な人は困惑するだろう。
そこから先、この人のとる道は二つに別れる。
まず第一は、反捕鯨運動にレイシズムが関わっていることを素直に認め、それを批判した上で純粋に自然保護・資源保護の視点から捕鯨問題を論じること。
これがまともな道であることは言を俟たないが、そうなったらこの人はもう反捕鯨論者であり続けることは不可能になる。
そこでこの人のとる第二の道が現れる。
反捕鯨運動にレイシズムが関わっている事実を否定してしまうのである。
そしてとにかく反捕鯨を唱えている人間がいるのだから反捕鯨には論拠があるという循環論法的な言い分に徹してしまう。
その典型的な例として小原秀雄を挙げよう。
小原は女子栄養大の教授で自然保護問題の専門家として知られ、新聞などにもよく登場する人だ。
自然保護派の看板を掲げていて日本の捕鯨には批判的だが、表向きCの病状はなく、日本近海の捕鯨は認める立場をとっている。
その彼は、95年に朝日新聞社から出た『環境論を批判する』というアンソロジーに一文を寄せている。
題は「クジラとゾウは高等生物だから保護するのではない」。
ここではゾウについては触れず、捕鯨問題だけに絞って小原の文章を検討しよう。
小原は海外の反捕鯨運動を擁護しようとして様々な論拠を挙げてゆくのだが、その論調は矛盾だらけなのである。
最初の「概要」では次の三点が主張されている。
このうち最初の二点に関しては基本的には異存はない。
ただし言い方が大ざっぱであり、(1)は「いくら伝統でも鯨が死滅するようなら捕鯨はやめるべき」ときちんと書くのが筋である。
要は資源量と捕獲量のバランスを考えればいいだけの話だからである。
また(2)は「保護」が資源利用とあいいれないと考える必要はないので、これもバランスの問題に過ぎない。
しかし(3)に関しては到底納得することはできない。
現在の南極海のミンク鯨の資源量を考えれば、それに合理的な根拠がないことは明白だからである。
それはともかく、本文に入ると、小原の文章はこの「概要」を逸脱して支離滅裂となる。
反捕鯨派に大甘な彼の姿勢が、整然たる論理展開を不可能にしているのだ。
最初の「はじめに」はとばして、次の「野生動物保護は自然保護である」の章を見よう。
まず、鯨は日本では魚介類と見られているが、実際には哺乳類であるから魚類より再産率で大幅に劣るのだという。
だが「魚屋で売られているので国民の印象は魚である」という。
バカなことを言うものだ。
自然保護の専門家がこの程度のことしか言えないとはと、正直、愕然としてしまう。
鯨が哺乳類であることくらい、今どきの日本人は誰でも知っている。
鯨は哺乳類であり魚類より再生産率に劣る、だからこそ魚類のようにトン数ではなく、ちゃんと頭数で捕獲量を決めているのだ。
いったい小原はふだんどのくらいの知的レベルの人間を相手にしているのだろうか。
次の段落に行こう。
前半の文章をそのまま引用する。
「人間が生きていく上でどんな生き物を食べるかは、現在は慣習で決まる。
減らそうとする場合に意識を持つ動物をまず食用から外すのが第一歩だとの主張がある。
菜食主義者は、その最も徹底した人々だが、確かにこれも厳密にいえば生命を奪っている。
だからと言ってなにを殺して食べてもよいとはなるまい。
イルカやクジラ類を高等動物だから、あるいは知的動物だから殺すべきでないという主張は、差別だとはいえまい。
食べる生き物のどこまでを許容するかは、各人の考え方次第である。
欧米の人々が、クジラやイルカのような知的動物を殺して食べるとはとの批判に、人種差別的発想だといきり立ったのは、この点からは見当はずれであった。」
論理が滅茶苦茶だし文章にもおかしな箇所があるが、ともかく検討していくと、まず小原は菜食主義者などは差別ではないというのだが、どうしてそう言えるのだろう。
菜食主義者とは差別主義者に決まっているではないか。
野菜という生物は食べてもいいが、動物という生物は食べてはいけない、これを差別と言わなくて何を差別と言うのだろう。
もっとも、誰かが「自分は菜食主義者だ」という限りにおいては問題はない。
好きでやっているのだから勝手にすればいい。
差別といっても、個々人の好みの問題に帰着する部分は他人が口出しすべきではないからだ。
差別は、それが個々人や共同体の慣習に根ざす限りは、そしてその個人や共同体内部の人間が納得している限りは、趣味性や文化的習慣という言葉で片づけて差し支えない。
だから「どういう食べ物なら許容できるかは各人の考え方次第である」というところだけなら小原の論理はよろしい。
問題はその後だ。
菜食主義者を差別主義者として批判しなくてはならないのは、自分の趣味性を物差しにして他人を計る場合である。
自分の趣味性を絶対化して、「動物を食べるなんて」と他人に攻撃を向ける時、菜食主義者は差別主義者となり批判さるべき存在となる。
肝腎なのはここである。
「自分は嫌だから食べない」というのと、「他人が食べるのが嫌だから食べさせない」というのは、まるっきり別物なのだ。
前者はあくまで自分の趣味の範囲だが、後者は差別行為そのものである。
「鯨イルカ類は高等生物だから食べるなという欧米の主張に対し、人種差別的な考えだといきりたつのは、見当はずれである」という小原の主張は、したがってまるで見当はずれである。
「(…)欧米の主張は、人種差別的な考え方の見本である」と書かねばならない。
思うに、小原は差別ということが全然分かっていないのではないか。
自分が欧米人から差別される可能性があるなどと考えたことがないのかも知れない。
だから、欧米人が何かを言うとそれには正当な理由があると頭から決めてかかり、自分が差別されていることが意識に上らないのだろう。
差別されるのはまともな知性を持った人間には不愉快なことであるはずだが、小原にはどうやらこの種の知性が欠如しているようだ。
一見知識人風の日本人がしばしばこうした精神構造を持っていることは、先回分析したのでここでは深くは立ち入らない(症状Bである)。
一つだけつけ加えておくと、食習慣の違いは差別につながりやすいということだ。
94年に出て話題になった辺見庸『もの食う人びと』でも、ドイツ人のトルコ人労働者への、日本人の在日朝鮮人等への食を媒介とした差別意識が指摘されている。
自戒の念を忘れず、同時に自分が差別されたら毅然と反論する心構えを持ちたいものだ。
同じ段落の後半に行く。
「動物愛護精神や感情は欧米では強烈であるから、生態的な見方に基づく反捕鯨論が大衆にも理解されているとはいえない。」私もそう思う。
そしてこの「動物愛護」とは、自分の趣味を多民族にも押しつけることであるから、差別にあたることは私が右で論証したばかりである。
ところが小原は次にこう書く。
「捕鯨モラトリアムが提起され(…)ストックホルム会議での国際世論の主張と、その背景になる基本理念は、明らかに地球上の自然を保全するためであった。」
なぜ「明らか」なのか。
ここは一番論証の必要な部分ではないか。
大衆に差別的な反捕鯨論がはびこっていることは小原は認めている。
とすれば、民主主義の原則 —— 一国はその国民の知的レベルに見合った政府しか持てない——によって、きれいごとの「基本理念」の背景に差別感情があるのではないかと疑ってみるのは、常識であろう。
差別を「差別ですよ」といって実行に移すバカはいない。
差別にはいつもきれいごとの理念が隠れ蓑としてつきまとうものだ。
ところがこの肝腎の作業を小原は省略してしまう。
以下、「野生動物保護の基本理念は正しい」という類の文章が、論証ぬきで続くのである。
そして野生動物は飼育される動物とは違って、自然環境に深く関わっているから保護しなくてはならないとくどくど繰り返すのだが、その根幹にあるのは「保護」は「利用」とあいいれず、少しでも「利用」すると野生動物が絶滅するがごとき論法である。
まるでちょっとでも体に汚れがつくと病気になると思いしつこく手を洗い続ける潔癖症患者のようだ。
この論法で行くと大多数の魚類は野生なのだから保護されねばならないはずであるが、しかしどういうものか小原の論理には魚類は入ってこないのだ。
途中をとばして終わり近くの「利用のためのゾーニング(地域区分)をどうするか」を見ると、それが一目瞭然となる。
「捕鯨に関して私が一貫して主張してきたのは、少なくとも公海から撤退すべしとのことである」「公海の大部分は自然のままにしておくべきだ」という。
ならば公海での一般漁業もやめるよう主張すべきであるが、「海洋上での過剰漁業が問題」とわずかに触れるものの、どういうわけか「全世界に公海での漁業はやめさせるよう働きかけよう」といった主張は全然見られない。
ひたすら捕鯨についてだけ公海から撤退せよと言い募るのだ。
これはこの一文の題が「クジラとゾウ」だから、という逃げ口上は通じない。
現在公海上で行われている捕鯨の規模と、一般漁業の規模を比べれば、小原の論理からするとどちらをやめさせねばならないかは明瞭であろう。
にもかかわらず小原が公海上での一般漁業をやめさせよと主張しないのは、欧米がそれを主張していないからではなかろうか。
小原の主張はそれほどに他律的なのである。
最後に、南極海の鯨聖域案について述べておこう。
小原の主張はここでもあくまで他律的である。
「日本側の主張が、本質的に科学的ならば、もっと同調する声が上がってもよい」「日本側のいう科学性が、生態学や環境科学の上からも充分に科学的ならば、国際的になぜ孤立したのだろう」というのだが、ここに見られるのは、政治と科学が別物であるという認識がまるでなく、政治で決まったことを科学的だと考える恐るべき無知である。
多数決でことが決まるなら科学者とは楽な商売と言うべきだ。
小原はこの一文で科学者たることを放棄したも同然だろう。
声の大小に影響されずにデータを自分で調べ自説主張するという、科学者として必要最低限の姿勢がまるで見られない。
これは差別に対する感覚を欠くという彼の資質と無縁ではない。
なぜなら、差別の自覚はいつも少数派から始まるからである。
少数派が多数派に抗議して声を上げるところからしか差別を撤回させる行動は始まらない。
多数派はいつも正しいと信じる者は、差別というものが根本的に理解不可能な人間なのである。
聖域案がIWCで通った理由は簡単である。
捕鯨問題が、捕鯨国以外の国にとってはどうでもいいことだからだ。
日本やノルウェー以外の大多数の国は捕鯨に利害関係を持たないので、非科学的な理由であろうと声の大きい反捕鯨派に同調しておいた方が楽だし、自然保護のポーズもとれて便利だからである。
逆に言えば、捕鯨に賛成しても非捕鯨国は何の直接的利益も得られないし、国内の差別的な反捕鯨派からは叩かれる、面倒だから聖域案に賛成しておこう、それだけの話なのである。
一般漁業ならこうはいかない。
一般漁業での乱獲は大西洋でも問題になっているが、これは欧米各国も密接な利害を持っているから、漁業規制や資源保護は話題になっても、「漁業は、野生生物を捕獲する行為で自然保護に反するから、全部やめましょう」などというふざけた意見を述べたり、いわんやそれに賛成したりする国はない。
国際政治とはこういうもので、ご都合主義的部分が相当にある。
それが政治的感覚を欠いた小原には分からない。
もう一つだけ小原の議論に特徴的なところを挙げておこう。
捕鯨問題についての日本での報道が「ナショナリズムを煽る」としていることだ。
この「ナショナリズム」という言葉は、「良心的」な人が時事問題の論評によく用いるものだが、どうも内容をきちんと吟味して使っているようには思われない。
ナショナリズムとは、帝国主義に対する批判として出てくるものであって、ナポレオンの行軍に対してドイツやロシアが立ち上がったのもナショナリズムなら、英国の支配に対してインドが立ち上がったのも、日本を含む列強の支配に対して中国が立ち上がったのもナショナリズムなのである。
そして帝国主義はしばしば政治的優位に立つ国の普遍主義の仮面をかぶって現れるのだ。
ナショナリズムはそうした政治的普遍主義への抵抗の土台を提供するものであった。
「ナショナリズムはいけません」などと言っていたら、植民地の独立などあり得ないことになってしまう。
無論、ナショナリズムは偏狭な排外主義に転じやすい。
したがって、ナショナリズムそれ自体は両義的なのであって、その点をふまえずにこの言葉を軽々しく使うわけにはいかないのだ。
そして、現代は昔と違って露骨な植民地主義は不可能になっているが、代わりに別な形での帝国主義が台頭していることを見逃してはならない。
メディアの発達による文化帝国主義がそれだ(トムリンソン『文化帝国主義』という本がある)。
ここでは詳述しないが、捕鯨問題にはこの文化帝国主義の影がつきまとっている。
少数派である捕鯨国に「ナショナリズム」のレッテルを貼るのは、新しい帝国主義に加担するものだとの認識は最低限必要だろう。
日本の「環境保護」論者がいかにデタラメで欧米の偏見に不感症かを示すために小原秀雄を取り上げた。
他にも批判に値する人間はいるが、日本人ばかり叩いていると自分もB症状の患者だということになってしまうから、以下で、「自然保護」の観点からではない、鯨を特殊な生物とする観点Cからの反捕鯨論がアメリカでいかに盛んかを見よう。
最初に述べたとおり、日本人の反捕鯨論者はこの点から目を反らしがちだが、自分が差別されていることに鈍感な人間は所詮他人の精神的奴隷に過ぎないことを肝に銘じるべきだろう。
新しい本から取り上げよう。
ジョン・ダニング『死の蔵書』(宮脇孝雄訳、早川書房)という推理小説がある。
日本では96年に翻訳出版されたばかり、宝島社『このミステリーがすごい!』96年海外部門で第一位に選ばれた作品だそうで、古本が材料になっていることもあり買ってみたのだが、意外にもここに捕鯨問題の影を発見したのだ。
警察官をやめて古本屋になった「私」は殺人事件に巻き込まれるが、リタという美人の古本業者と知り合って惹かれるようになる。
しかし彼女が事件の犯人ではないかとの疑いも抱く。
初めて彼女の屋敷に入ると、室内の装飾品や写真には鯨が目立ち、捕鯨船の前に立ちはだかっているグリーンピース闘士の写真もある。
その後初めて二人で食事をすると、彼女が環境保護論者で菜食主義者だと分かる。
彼女の所有していた高価な古本を買うと、「小切手の振り出し先はグリーンピースにしてちょうだい」と言われる。
唖然とする「私」に、彼女はこう言い放つ。
「毎朝、目を覚ます気になるのは、グリーンピースがあるからよ。」
しかし、やがて「私」と親密な関係になったリタは菜食主義を放棄してステーキにかぶりつく。
「処女を失う日。肉食に戻る日。あたしって、本当は気まぐれで野蛮な生き物だったのかもしれないわ」と彼女は言う。
そして壁の反捕鯨闘士の写真がかつての恋人であることを打ち明ける。
こうした描写からアメリカの時代背景を見てとることができよう。
事件は86年に起ったという設定だから、反捕鯨運動がまだ燃え盛っていた時期である。
リタは数年前には恋人の影響もあって反捕鯨に熱中し菜食主義者になったが、新しい恋人「私」ができて、あっさり菜食主義を放棄してしまうというわけだ。
ただし、最後近くで彼女は「私」に殺人の嫌疑をかけられていると知って失踪する。
やがて彼女の無辜を知った「私」が探してみると、リタはグリーンピースに戻っていることが分かる。
せっかく新しい恋人ができて新興宗教から足を洗ったのに、殺人嫌疑にショックを受け逆戻りしてしまったのだ。
『死の蔵書』がアメリカで出たのは、事件の設定年から6年後の92年。
70年代から80年代にかけての反捕鯨熱をある程度距離をおいて見られる時代である。
作中には残念ながら反捕鯨を撤回するような言辞は見られないが(そんなことを書くと環境保護団体からつるし上げを食い売上に響くのだろう)、少なくとも菜食主義に対するアイロニカルな視点ははっきり感じることができる。
リタはある時期のアメリカ・インテリ層の典型的な行動様式を示しているが、よく考えればそこには大きな矛盾がひそんでいる。
菜食主義者は、他人に自分の趣味を押しつける限りにおいて批判されるべき差別主義者になる、と私は先に書いた。
捕鯨に関しては彼女はその押しつけを認め支持している。
しかし自分の主義を他人に押しつけることがあくまで正しいと思うなら、捕鯨ばかりでなく一般の漁業や家畜の屠殺をも批判しやめさせなくてはならないはずである。
だが彼女はそうした行動には走らない。
一般漁業や家畜屠殺を批判することは、大多数のアメリカ人の食生活を批判することであるから、周囲の人間を敵に回す結果になる。
彼女はそうした行動には走らず、遠い日本やノルウェーの食生活に対してのみは強圧的な態度をとるわけだ。
この安易さと身勝手さにアメリカ・インテリ層の大きな盲点があると言えよう。
キリスト教や社会主義といった信じるべき大規範が失われた現代、カルトが流行するのはある意味では当然だろう。
それはインテリであっても例外ではないし、むしろインテリの場合はもっともらしい理屈をつけてカルトを正当化するすべを心得ているだけいっそうタチが悪い。
右では小説を例にとったが、フィクションだけでは説得力に欠けるから別の例を見よう。
落語家・笑福亭猿笑に『くじら談議』(ブックマン社、1993年)という著作がある。
彼は93年5月、「ニューヨーク・タイムズ」に捕鯨を擁護する意見広告を出した。
この広告に寄せられた手紙がいくつか紹介されているが、中に「テキサス大学助教授ロバート・デュウリー」からの手紙がある。
そのまま引用すると、
「私は、あなたの『ニューヨーク・タイムズ』の広告に対する返答を書いています。
もし日本が直ちに捕鯨を止めなければ、私は次のように行動を起こすつもりです。
この人は多分、思考と行動において平均的な大学人よりかなり尖鋭的なのだろうが、これを読むとアメリカ・インテリの悲惨な思考形式がよく分かる。
まず鯨の資源状態がどうなっているかなど事実をきちんとふまえる姿勢がまるでなく、自国の「捕鯨=悪」という偏見をはなから疑いもしない。
そしてその偏見を他国に押しつけるにあたって、目下地球上で政治・経済・軍事面で最強を誇っている自国の力を用いることに寸毫のためらいも覚えない。
まるで「僕んちのパパは社長だから、言うことを聞かないとお前の親父をクビにしてもらうぞ」と威張る子供同然である。
歴史認識においても一方的で、「世界の警察官アメリカ」そのまま、自国は正義だと信じきっている。
日本の大学教師にもひどいのがいるが、アメリカもそれに劣らないなと感心してしまう。
ここは歴史認識を論じる場ではないから簡単に書くが、第二次大戦まで十数年間の日本が侵略的であったことを私は認めるけれど、だからといってアメリカが正義の味方であったということにはならないのである。
アメリカは19世紀末から米西戦争など帝国主義的行動をとるようになり、植民地獲得に走ったのだ。
ヨーロッパ列強の猿真似をしたことでは日本と同じである。
その結果獲得した植民地のうちフィリピンは独立しているが、ハワイはいまだにアメリカ領である。
東条時代の日本を論難するなら、敗戦によって植民地を手放した日本に捕鯨問題で圧力をかける前に、ハワイ独立運動のために奔走するのが筋じゃないんですか。 (この項続く)
ここで補論として、96年春に出た鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)を紹介して内容を検討してみたい。
結論めいたことから言うと、これは「地球にやさしく」「自然との共生」といった流行のスローガンに惑わされることなく、自然保護とはいったい何なのかをきちんとつきつめて考えた、大変すぐれた書物である。
都市生活者が短絡的に「自然保護」を唱え、自然の中で暮らしている地元住民がそれに反対するという構図がしばしば見られること、「自然」と「人間」を二項対立的にとらえ前者を神化する思考様式の欠陥、アメリカ自然保護思想家ソローが都市生活者であり啓蒙主義的な立場でものを言っていたに過ぎず、彼が「自然の中で」暮らした小屋は実際には都市に隣接していたこと、自然保護思想と超越主義とのつながり、自然保護思想家の唱える「地球全体主義」が文字どおりの全体主義になりかねないこと、「原生自然」という観念の歴史的成り立ち、など、「自然保護」に関わろうという人間なら一度は考えておくべきこと・知っておくべきことがここにはぎっしり詰まっている。
特に自然と人間を対立的にとらえるのではなく、両者の関わりの全体性を説く箇所は秀逸であるが、全体性という(ニューサイエンス風の)言葉を先走らせて物事を単純化・没論理化することを避け、あくまで分析的な作業の積み重ねで全体性を論証していこうという著者の堅実な姿勢は、右で批判した小原秀雄の、野生動物や原生自然を絶対化してひたすら保護を唱える単純な物言いと比較すると知的レベルにおいて雲泥の差がある。
私自身、漠然と考えていたことがこの本の中で様々な資料によりきちんと論証されているのに驚嘆したし、実に多くを教えられた。
さて、そうした評価をはっきり書いた上で、この著書の中に出てくる捕鯨問題の扱われ方に触れてみたい。
もとより捕鯨問題はこの本の中ではごく簡単に言及されているだけであり、著者からすればその部分で著書をあげつらわれるのは不本意であろう。
実際、捕鯨に触れる最初のところで「詳しくは論じられないが」と断っている。私もその点をあらかじめお断りした上で以下の感想を述べることにする。
著者は、日本沿岸の捕鯨と南極海の捕鯨とを区別する。前者は地域と結びついた伝統的な文化的・社会的連関を多分に残しているので、都会市場への流通により乱獲に陥る恐れがあるところをきちんと制限すれば問題ないとする。私もこれには同意見である。
後者については、南極海と日本は地域的つながりがないし海洋資源の所有権がどこまで及ぶかという問題があり難しいとする。
私が引っかかったのはこの箇所である。
そしてそれは、単に捕鯨問題だけではなく、この本全体が現代社会の中でどういう役割をはたし得るかに関わってくるが故に、小さからぬ疑問なのだ。
捕鯨に触れているのは「具体的な展望の中で」という章であるが、ここで著者は、都会生活者は単に「切り身」を消費するだけではなく、生産者と何らかの形でつながることで、見えにくくなっている生産と消費のリンクを意識していくべきだとする。
そこまではいい。
次に著者は「理想的には、なるべく地域で生産したものがその地域の中で消費されるようなあり方が望ましい」と言う。
ここに来ると私は首をかしげざるを得ない。
勿論、著者はこれが無理な相談であることを認識しつつ、「現実的にそこまでなかなかいけないにしても」とすぐに付け足すのだが、堅実だった著者の姿勢がここでやや逸脱している感がある。
「切り身」は、好むと好まざるにかかわらず現代社会の宿命だと私は思っている。
日本の伝統的食品である豆腐は現在は多くが輸入大豆で作られているし、やはり日本人がよく食べてきた魚介類にしても輸入物が増えている。
宿命とは、それをよしとしてその上にあぐらをかくことではない。
一方で「切り身のリンク」を知悉しつつ、しかしこの産業・商業社会では所詮切り身を免れ得ないのだと認識していることを意味するのである。
「切り身のリンクを意識すること」を極論化すると、結局は自然の絶対化を行う単純エコロジストと同じでアナクロニズムになってしまう。
そして著者が右のような議論の後に捕鯨問題に言及する時、こうした疑問は一層強まる。
なぜなら「南極海の鯨は日本だけのものではない。みんなで利用法を考えよう」といった
言い回しは、資源量から見て捕鯨を中止させる根拠が怪しくなってきた時に、自然保護団体が窮余の策として編み出した詭弁という色彩がきわめて濃いからだ。
(南極海の捕鯨史を考えれば、この論法の奇妙さはすぐ分かるだろう。)
その背後にあるのは、無論、鯨類を特殊な動物と見なし資源量とは無関係に捕鯨そのものを悪とする文化差別主義に他ならない。
私がここで文化という時、それはIWCも認めているような原住民捕鯨とか生存捕鯨などに見られる狭義の文化を指すのではない。
大昔からやっているから、或いは先進国や都会から縁遠い生活をしている人たちの捕鯨だから認めるというのは、バカバカしい文化観である。
同じ先進国でも、アメリカ人は鯨を食べず日本人は食べる、文化の相違とはそういうことである。
商業や産業を奇妙に敵視する思考法(右で批判した小原もそうである)は単純エコロジストにしばしば見られるものであり、捕鯨問題を論じる時にも大きな足かせになっている。
ノルウェーはモラトリアム後に捕鯨を再開する時、商業捕鯨ではなく伝統捕鯨だと言わなくてはならなかった。
一方イヌイットは、きわめて数の少ないホッキョク鯨を捕獲しながら生存捕鯨の名のもとに認められている。
こうした歪んだ文化観や商業観が捕鯨論議をおかしくしている元凶の一つであることを忘れてはならない。
確かに現在は公海の自然資源を、いかに過去の実績があれ無料で利用できる時代ではない。
入漁料として様々な形での国際貢献を行うことも捕鯨再開には必要だろう。
しかし商業だからいけないという議論はナンセンスである。
鎖国をし自給自足経済によっていた江戸時代の日本にしても、国内では大規模な流通や商業が行われていた。
まして交通や流通経路が世界的に発達した現代においてをやである。
商業や流通は人類の歴史と共にあるのであり、人類の宿命である。
ただ、過去に行われたような資源の乱獲乱用を防ぐべく監視体制を強化し、持続的利用の可能範囲について調査や分析を怠らないこと、これが肝要なのだ。
こうした前提を認めない限り、まともな捕鯨論議は不可能であろう。
(文中敬称略)
_
* 縦書き原稿から横書きへの変換のため、一部の漢数字を算用数字に変更してあります。)
(新潟大学人文学部助教授)
2.差別に不感症の野生動物保護論者
3.アメリカ・インテリの反捕鯨病を観察する
補論:鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』書評