("nemo" 第5号,1998より。
三浦 淳
アメリカ・インテリの反捕鯨病の実例をさらに挙げよう。
佐倉統『現代思想としての環境問題』(中公新書、1992年)にこんな箇所がある。
あるとき、このような意見をアメリカの友人に話したところ、彼女はどうしても納得できないと言い張った。
日本で開かれた国際学会のために来日した彼女を含め、10人くらいで鍋を囲んでしゃぶしゃぶをつついていたときのことである。
「鯨は人間のように賢い動物だ。
それを食べることがどうして許されるのか?
あなたはチンパンジーの研究者でしょう(彼女もチンパンジーを研究している)。
チンパンジーを食べることが許されますか?」
それは困る。
日本には、チンパンジーを食べる習慣はない。
だから、日本の食習慣に囲まれて30年間も過ごしてきたぼくにとっては、鯨を食べることとチンパンジーを食べることは、等価ではない。
アフリカの奥地の人々がチンパンジーを食べる風習を持っているとしたら、おそらくぼくは反対するだろう。
チンパンジーは貴重な種であり、絶滅寸前だ、という理屈をもって。
これは100パーセント、ぼくの(さらに、多くは北側諸国に属しているチンパンジー研究者の)エゴである。
アフリカ原住民の食習慣と、北側チンパンジー研究者の仕事と、どちらを優先させる
か、という問題である。(…)
捕鯨反対も同じことだ。
しかし、私の友人にはその構造が見えていないようだった。
ここに登場する女性研究者は、アメリカ・インテリ(私に言わせれば二流インテ
リだが)の典型である。
まず「鯨は頭がいい」という、実証されてもいない言説を信じ込み、次にそれを基準にして他国の食習慣を断罪することにためらいを覚えない。
インテリとは実は自分の頭でものを考えずに周囲の言説を反復する人種だということの好例がここにある。
もっとも著者・佐倉の応対にも問題がある。
アフリカ人の食習慣に自分は反対するだろうが、それでもそれが自分のエゴだと自覚している限りにおいてこの女性より優位にあると言いたいらしいが、これはおかしい。
実際にチンパンジーの生息数をきちんと調べて、絶滅に瀕していればアフリカ人の食習慣に反対すればいいし、そうでなければ放っておけばいいのである。
佐倉はこの後でも、「彼女にとっては、鯨を食べること自体が、絶対的な悪なのである。
その価値観を押しつけるのは、エゴイズムである。
また、鯨を食べていいというのも、エゴイズムである。
どちらも、まったく同じ穴のムジナなのだ。
だから、この論争は、声の大きいほう、或いは味方の多いほう、力の強いほうが勝つ」と書いているのだが、冗談ではない。
この女性(および多数の二流インテリ)の言っているのは、「世界中の人間に、鯨を食べさせないようにしよう」ということである。
それに対して日本人は別段、「世界中の人間に、鯨を食べさせるようにしよう」とは言っていない。
「鯨を食べたくない人はそれで結構です。
しかし食べたい人間の邪魔はしないで下さい」と言っているのである。
両者の主張はその点でまったく非対称的なのだ。
どちらが乱暴で全体主義的であるかは明瞭だろう。
それが分からないで「どちらもエゴ」というのでは、佐倉の知能もこのアメリカ女性とたいして違わないのではないかと疑わざるを得ない。
70年代以降、この女性のようなアメリカ・インテリに出くわして閉口した日本人は、専攻分野を問わず少なくなかったはずである。
私の友人でも留学して似た体験をした者が複数いるが、これは個人的な話になるので、柄谷行人から引用しておこう。
彼は『反文学論』(冬樹社、1979年)の中でこう書いている。
柄谷は70年代半ばに米国に留学し、帰国してまもなく文芸時評を書き始め、のちにそれを『反文学論』として単行本化した。
この一節には、彼が当地で体験したであろう知的モードが明瞭に反映している。
しかし柄谷は、さすがと言うべきか、考察をさらに一歩押し進めている。
物事を分類し位階を定めようとする意志、それが一方で自然科学を生みだし、しかし他方では「サル芝居」をも生みだしたということ、その「サル芝居」はナチズムにすらつながっているということを、柄谷は鋭く見抜いている。
分類する意志は、しばしば根拠のない似而非科学を道具に使ってしまう。
ナチズムの場合はアーリア人学説がその役割を果たしたのであり、これがユダヤ人大量殺戮につながったことは言うまでもない。
鯨イルカ真理教もその同類である。
その道具の無根拠性については、次の例を見れば明らかだろう。
ダイアン・アッカーマン『月に歌うクジラ』(筑摩書房、一九九四年)という本がある。
著者は48年生まれ、大学で教鞭をとったこともある詩人で、いわゆるネーチャー・ライティングものを得意とする。
この本もその一つで、野生動物についてのエッセイ集であり原本は91年に出版されている。
コウモリやペンギン、ワニなど鯨以外の野生動物についても章が設けられているが、いちばん多くのページがさかれているのは題名に入っている鯨である。
ここで著者は、WWFの付属機関である長期観察研究所(マサチューセッツ州)の所長であるロジャー・ペインに何度かインタビューしている。
鯨や鯨の歌についての長講釈は省略しよう。
ロジャーが日本の捕鯨を批判する箇所を引用すると、
「日本人だって、絶滅の危機に瀕しているほかの動物の保護には熱心なのよ。
例えば、ツルとか、アホウドリとか」
「日本人に喧嘩を売る気はないよ。
僕は、捕鯨をやっている日本人——時代後れの、残酷な狩人——を非難しているだけだ。(…)
ひとつの種を絶滅の瀬戸際に追いやるまで破壊を続けるなんて、これは狂気だ」
ここでは日本の捕鯨を非難する根拠として2つのことが言われている。
第一は鯨は知能が高いということ、第二には種を絶滅させるのは狂気の沙汰だからということである。
第二の根拠が誤りであることは改めて述べるまでもなかろう。
絶滅に瀕した鯨の捕獲を日本は要求してはいないし、調査捕鯨の対象にしているのは数十万ないし百万頭が地球上に棲息しているミンク鯨だけである。
第一の根拠はどうか。
知能の高い動物を捕獲して悪いと言えるかどうかも問題だが、それはとりあえず措くとして、鯨の知能の高さはこの本できちんと論証されているのだろうか。
鯨の脳の大きさ等については何度も強調されているが、それが具体的にどう機能しているのかについての明確な説明はない。
あるのは根拠のない諸説の羅列であり、その説が不確定的なものであることの承認であり、反知性的かつ神秘主義的な言い回しである。
「クジラの脳は、人間が直感的に理解することのできない何か(…)のために使われているのだろう。(…)
それが何なのかは、僕たちにはわからないんだよ」
「イルカが複雑な脳を必要としているのは、もっと複雑な理由のためかもしれない。
人間の文化において、いかに神話が重要かということを思いだしてほしい。
(…)
人間であれクジラであれ、脊椎動物の脳は神話を欲しているのかもしれない。
本当のところは誰にもわからないんだよ」
「人の脳が『知性をもつ』という、それと同じ意味でクジラは『知性をもつ』というのは、これはクジラに対する一種の侮辱だよ。
『知性』という言葉は、クジラのようなほかの種に押しつけられるような、そんな立派なものじゃない。
我々が知性と呼ぶものは、一種の野蛮、巨大な災いの源にすぎないのかもしれない。
知性だけが心のとりうる唯一の形ではないのかもしれないし、知性は本当の知慧とはなんの関係もないのかもしれない」
要するに、何も分かってはいないのである。
それでいてペインは、右で引用したように、日本に行って講演するのは「無関心は無知から生まれる」からで「知ることこそ、何かを好きになるための第一歩だ」と言う。
不思議な男である。
自分も知らないことについて講演して他人の無知を解消しようというのだ。
まともな知性を持つ人間には到底理解不能であろう。
ところで、彼にとっては鯨のみが保護されるべき特権的な動物なのだろうか。
幸いなことにそうではない。
彼の平等感覚、或いは知性は、この点では何とか人並みに発達している。
確かに、そうなれば素晴らしい、かも知れない。
しかし、ならば鯨だけでなく魚類や鳥類や植物の捕獲(?)にも平等に反対してもらいたいものだ。
右の論理からすれば、菜食主義者も捕鯨業者と同罪ということになるはずだから。
だがペインはどういうわけか鯨以外の生物を食用にしている人間を非難することはしない。
魚類を食べているイルカに「平和共存」のお説教をすることもしない。
著者のアッカーマンはその辺を追及すべきだったのではないか。
もう一点指摘しておく。
右で引用したように、ペインは捕鯨に関して主として日本を批判している。
またノルウェーを批判した箇所もある。
なのに、肝腎のアメリカ人、すなわちイヌイットが捕鯨をしていることにはいっさい触れていない。
この党派性、自国の捕鯨には口をぬぐうエゴ丸だしの態度に、お人好しの日本人は注意しておいた方がいいだろう。
他人を批判する場合は少なくとも自分が同じ誤りを犯していないことが前提となるはずだが、その常識が反捕鯨論者には通用しないらしい。
それと、このロジャー・ペインなる、知性とはおよそ無縁の人物が、WWFの付属機関である長期観察研究所の所長という地位にあることに注意したい。
この肩書きがどの程度のステイタスになるのか、私にはよく分からない。
大した地位ではないのかも知れない。
しかしいずれにせよアメリカのWWFにこういう人間がいるということは分かる。
すなわち、野生動物の保護を、その生態や生息数を冷静に評価しながら訴えるのではなく、特定の動物に反知性的な思い入れをして他国を批判しながら、肝腎の自国の行為には目をつぶるという人物である。
これはWWFという組織の差別性、少なくとも捕鯨問題に関する偏頗性をうかがわせる事実と言えよう。
どんな組織にもおかしな人間はいる、という言い方もできる。
しかし、こと捕鯨に関する限りこの差別性はかなり浸透しているのではないかと推測される。
諏訪雄三『アメリカは環境に優しいのか』(新評論、1996年)には次のような記述がある。
WWFアメリカの副会長のこうした態度は、この組織が捕鯨に関して偏見にどっぷりつかっていることを証拠だてていると言えよう。
さて、この種の鯨イルカ真理教の元締めは誰か、或いは淵源はどこにあるのか。
ジョン・C・リリーという人物がいる。
1915年生まれのアメリカ人で、生物学と物理学の博士号を有し、イルカと人間のコミュニケーション研究によってその筋では著名な人物である。
彼は55年頃から、イルカは高い知能を持ち人間と言語交流が可能との説を喧伝するようになった。
その彼が78年に書いた本が94年に邦訳された。
『イルカと話す日』(NTT出版)である。
この本でのリリーの主張と訳者・神谷敏郎の解説とを読むと、リリーの学説のたどった運命がよく分かる。
60年頃にヴァージン諸島にリリーの主催する研究所ができて本格的な研究が始まり、またマイアミにもコミュニケーション通信研究所が設けられ、彼の学説を実証しようとの努力がなされた。
だが結局成果を上げないまま解散しているのである。
当時リリーは10年以内に人間とイルカの会話は実現できると言っていたが、その主張は見事にはずれたわけだ。
ここからも分かるように、イルカの知能の研究は実は50年代から60年代にかけてが最盛期であり、SF作家アーサー・C・クラークのジュヴィナイル『イルカの島』が62年に書かれたのもそうした背景からであった。
無論、リリーが結果的に証明されなかった学説を主張したこと自体は罪ではない。
壮大な仮説をたててそれを実証しようとし結局失敗に終わるのは、科学の世界ではありがちなことだからだ。
また当時と比べて現在はコンピュータの性能が向上しているし、脳神経学も発達してきているから、今後イルカの言語に関して新しい知見が加わる可能性も否定できないと思う。
しかし基本的に、鯨は人間以上の思考力を持ち人間以上の遠い視野で過去や未来を見つめているとか、鯨は地球のたどった歴史を記憶しているとか、鯨には人間と同等の法的権利を認めるべきだとか、鯨の倫理と哲学を理解して地球上・銀河系における人間の姿を見極めるべきだとか、国連に鯨代表を派遣するとか、鯨の持つ知識を利用した新しい産業ができるとか、米国国会図書館と鯨の間に電話回線網が設けられるとか——もう写すのが嫌になったので止めるが、こういう彼の説は、SFまがいの暴論でしかない。
ちなみにリリーの説が実証されていないことは、96年に出たばかりの村山・笠松『ここまでわかったイルカとクジラ』(講談社)も明記している。
それではなぜこの種の暴論をリリーは70年代になって改めて本の形で主張しているのか。
それはすでに彼が科学者ではなくなっているからだ。
新興宗教を宣伝するマッド・サイエンティストになり果てているのである。
逆に言えば、50〜60年代の研究で成果が上がらなかったからこそマッドになってしまったのだとも受け取れる。
また彼のそうした軌跡を、不幸にも時代が後押ししてしまった。
この頃、乱獲によって南極海などの鯨類の資源量が極度に減少していたのは事実である。
しかし、それが政治的に利用されて「鯨を救え」というスローガンとなり全世界に広まった時、反捕鯨主義は反ユダヤ主義にも似たカルトの相貌を帯びるようになった。
加えて環境問題がブームになると野生動物はメディアの運ぶ映像によって美化され、実際には自然から遠く離れて暮らしている都市住民にロマンティックな慰謝を提供するようになったのである。
こうした時代背景がリリーにとっては追い風となったのであった。
さて、私とは別の人物によるリリー批判を紹介しよう。
95年に出て一躍ベストセラーになった『トンデモ本の世界』(洋泉社)である。
トンデモ本とは何か。
内容がトンデモない本のことであるが、しかし意図的にデタラメな本を作り上げたのではない。
「トンデモ本の著者たちはみんな大まじめであり、読者を笑わそうなどとはこれっぽっちも思っていない。
しかし、常識ある人間が見れば、その内容は爆笑するしかない代物なのである」と序文に定義されている。
さて、この本には各種のトンデモ本が紹介されていて暇つぶしには絶好なのであるが、312頁以下に「イルカに乗ったトンデモ」という章が設けられている。
90年代の日本ではイルカや鯨関係のトンデモ本が多く出回るようになったが、この項の著者はこれを「イルカ・オカルティズム」であるとし、その主張は二つに要約できるとしている。
要は、私の言う鯨イルカ真理教のことなのである。
ここでは小原田泰久やジム・ノルマンの本が紹介され、トンデモなさが笑われているが、その掉尾を飾るのがリリーの『イルカと話す日』なのであり、彼が大衆に与えた芳しからざる影響が指摘される。
そしてリリーの描く鯨類に関する未来図が笑われた後、「イルカへの期待というのは、一種のカーゴ信仰の変形としてのUFOの話の、さらなる後継者なのではないだろうか」と著者が述べているのは的確だろう。
ただし、その直後で「イルカ本を読んで殺伐とした気分になったことはついぞない。
それは、これらの本の主張に非合理的なものがあったとしても、スタンスが基本的に(…)生態系と仲良くやっていこうというものだからだろう」と付け足しているのは、甘い。
なぜなら、UFO信仰は基本的には本人が楽しんでいればいいのであり、その限りにおいては誰にも迷惑をかけないが、鯨イルカ真理教は捕鯨国を敵視する思考を育て、文化差別主義やエコ・テロリストをも生み出したのであるから。
オウム真理教の教義だけを見て、「殺伐とした気分にならない」から無害だと主張する人は、今どきいないでしょう。
こうしたトンデモ本を真面目に信じ込んでしまうのは、いわゆる大衆ばかりではない。
一見知識人風の人間こそ引っかかりやすいのであり(リリー自身が博士号を持つ人物であることを思い起こそう。『トンデモ本の世界』にはロケット工学で著名な糸川英夫を初め、トンデモない博士が次々と登場する)、アメリカに鯨イルカ真理教が蔓延したことについては知識人(ただし二流の)の責任も小さからぬものがある。
次にその点をより具体的に考察しよう。
私が特にこの論争を取り上げるのは、これが捕鯨問題をめぐって日本側とアメリカ側の間で正面きって行われた唯一の論争だからである。
(無論、ここでは国際会議内でのやりとりは除外し、マスコミに登場して誰でもが読める形で行われたものを言っている。)その意味で、この論争は今も捕鯨問題を考える場合には欠かせない資料であるし、日本国内だけでなく英訳などによって国際的に紹介される価値があると考えている。
論争は事実上小松の完勝で終わったが、捕鯨問題がその後それとは逆の方向に進んでいったのは、政治が科学的事実や論理とは別物であり、日本と米国の政治的力量に大きな差があるという厳然たる事実を証明していると言えよう。
ここでは、この論争で扱われた鯨の資源量や捕鯨禁止にいたる政治的駆け引きの問題には触れないでおく。
というより、ギルの小松批判はそういう方面では余り行われていない(正確には、できない、と言うべきか)からだ。
二、三、その方面での言及もギルはしているが、基本的には小松の反批判によって退けられている。
これは米国などでどれだけいい加減な反捕鯨的言説が流布しているかの証拠ともなるものだが、ギルの論法は主として日本側の反捕鯨批判が文化論に依拠して行われているとしてそれを批判したものなのである。
そこでまず、迂遠なようだが、ギルがその著書『反=日本人論』(工作舎、1985年)と『日本人論探検』(TBSブリタニカ、1985年)でどういう主張をしているかを見ておこう。
そうでないと、ギルの主張や当人の資質は分かりにくいからだ。
『反=日本人論』は、日本で流通している「日本人論」を批判した書である。
浅薄な比較文化学者によって主張される「日本人独自説」の類が無根拠であること、日本人ならではと巷間されているものが実際には他国にも見られる場合が多かったり、日本に比較的新しく導入されたものに過ぎなかったりすることを、該博な知識によって指摘した本である。
といっても筆致はいたずらに攻撃的ではなく、ユーモアに富み、読んでいて面白い。
この本でのギルの主張に私はおおむね賛成である。
何よりろくな学識もないままに「これは日本独自のものだ」という言説を垂れ流しにしている日本人学者・ジャーナリストを恥ずかしいと思う。
一つだけつけ加えるなら、ギルの批判している日本人独自説の類は日本が経済的に豊かになり「経済大国」などとおだてあげられるようになって出てきた自己讃美の一種であって、高度成長を遂げる前の日本では逆に、欧米や社会主義国を極度に理想化しそこから日本を批判する「日本=三流国」論が知識人の間ではハバをきかせていた。
日本人独自説はそれが裏がえったものに過ぎない。
だからギルはふた昔前の日本についても調べて、『反=欧米人論』を書くべきだと思う。
この本からは、エコロジーに対するギルの姿勢も見て取れる。
エコロジー一般に好意的ではあるが、決して過激になったり盲信したりはしない。
ファンダメンタリズム的なものに対する彼の嫌悪は、自分は昔アラブに好意を持っていなかったと述べる箇所からもうかがえる。
「なによりも、私はキリスト教あるいはユダヤ教あるいは回教における基本主義派が大嫌いだった」と。
しかし過度にアラブと日本を対立的に考える、例えば本多勝一のルポルタージュには異議を唱え、今日のアラブの非寛容主義について、吉村作治を引用しつつ言う。
「『最近のアラブ諸国に見られる硬直化は、建て前と本音とのバランスを失い、その良さを忘れてしまった結果だ。』そんなに遠くない昔、天皇主義の”神聖戦争”に走ったことのある日本人は、今日のアラブの悲劇に同情できるはずだ。」
そして、ラジカル・エコロジーについては、ルソー流の「高貴なる野蛮人」という考え方が近代ヨーロッパのロマンティシズムに過ぎないことを見抜きつつ、ラディカル・エコロジストの思想は甘いと述べている。
菜食・肉食についてはどうか。
ギルは河合雅雄を批判しつつ、「肉食=悪、菜食=善」というのは偏見だと正しく指摘している。
また菜食主義者の思想は肉食動物の否定にもつながるとして、アラン・ワッツなどを引用しつつ、「生きることを決心することは殺すことだということを率直に認める」「食事のために殺されたあらゆる生物は大事に慈しまれなければならない。
”食べたいほど愛している”に加えて”愛するほどに食べる”というわけだ」「もしトリが殺されて、なかなかおいしい料理にならなかったとしたら、そのトリは無駄に死んだのである。
私のために亡くなった生きものに対して、せめて料理の傑作にしてあげ、味わい楽しんであげることによってたたえよう」と、極めてバランスのとれた認識を示している。
『日本人論探検』も『反=日本人論』と同工異曲だが、問題の扱いがストレートで著者の提言が前面に出ているところが、違いといえば違いである。
やはり言われていることにはだいたい賛成できるのだが、叙述の余裕から来る面白味という点ではやや劣る。
それと捕鯨問題にページを割いているところが違っていて、この点についての著者の意見には全然賛成できないが、それはすぐ後で触れる。
ともかく、全体として見るとギルのこの2著は悪くない出来ばえであり、特に『反=日本人論』の方は名著と評してもいいだろう。
なんだ、ベタほめじゃないか、と思う読者もいるだろう。
そう、私はこの2著に関しては基本的にギルを賞讃する。
ではよりによって捕鯨に関するギルの意見だけがどうしてダメなのか、と疑問を抱く人もいるだろう。
答は簡単である。ギルが批判している浅薄な日本人論、それと同じレベルのことを彼は自ら反捕鯨論でやってしまっているからだ。
つまり鯨や捕鯨についてろくに知らないのに、鯨は特殊な動物だ、捕鯨ダケはイケナイ行為だと思いこんでしまったのである。
『日本人論探検』での彼の論法を見よう。
まず彼は捕鯨問題における日本人の反応を偏頗だとする。
例えば、「英米人こそかつて鯨油のためだけに鯨を乱獲した張本人だ」「反捕鯨はレーガンの陰謀だ」という日本人の反応に対して、「過去にそれだけ悪行を重ねてきたのに、白人=人間至上主義を止めて、よりエコロジカルな信念に〔白人が〕変わったことを歓迎すべき」「グリーンピースは革新的環境主義者であり、(…)ベトナム戦争に反対し、レーガンのことが大嫌い」と応じている
。
日本側の反応に若干問題があるのは私も認めるが、それに対するギルの批判もおかしい。
まず英米が反捕鯨を主張するようになったのは、経済的に引き合わなくなって捕鯨業から撤退した後になってからである。
エコロジカルな理由で捕鯨を止めたのではない。
むしろ経済的理由で捕鯨業から撤退していたからこそ、安心して反捕鯨をエコロジカルに主張できたのである。
後で述べるが、こういう政治的駆け引きは72年のストックホルム国際環境会議で突如捕鯨問題が取り上げられたことにもつながっている。
この辺の政治的洞察がギルには欠けている。
もっともギルは、米国がイルカの保護に乗り出していること、その実現にあたってはイルカを巻き込むマグロ漁に反対して国民がツナをボイコットしたことが大きいとしているが、この辺は甘ちゃんの寝言としか言いようがない。
都市住民はいくら好物をボイコットしようがそれで食物がなくなるわけではない。
しかしマグロ漁を行う漁民からすれば、マグロが売れないと生計そのものが危ういのである。
その点で都市住民と漁民には大きな「権力」の差がある。
自然をロマンティックに見る多数の都市住民の横暴に過ぎないものを美化するギルの論法を、右で挙げた『反=日本人論』でのファンダメンタリストやエコロジーに関する妥当な認識と比較してほしい。
後退ぶりは明らかだろう。
こと鯨イルカ類となると、ギルの知的レベルは大幅に低下してしまうのだ。
レーガンとグリーンピースとの関係だが、ギルがレーガンを嫌っているらしいことはだいぶ後の(捕鯨とは無関係の)記述からも分かるが、嫌っていようがいまいがレーガンが政策を(積極的にであれ嫌々であれ)行う時、米国大統領として行っていることをギルは忘れている。
つまり、軍事的・経済的・政治的に世界最強の国家の大統領として行っているということだ。
基本的にそれは「力による政治」である。
反捕鯨はその意味で、ギルの嫌うレーガン流の政治そのものに他ならない。
ギルはグリーンピースが反体制派であると言いたいらしいが、米国の反体制派が外国に向かって何かを主張する時、必ずそこには超大国たる自国の力が背景にあるのであって、そのことが分からないで自国反体制派を持ち上げるのはナイーヴに過ぎる。
例えばアイスランドは、米国内での魚製品輸入ボイコットにあって捕鯨を中止せざるを得なかったが、逆のことが可能かどうか、ギルは考えてみるべきだろう。
アイスランド国民が米国内の何らかの習慣を気に入らなかったとして、輸入ボイコットによって米国民の習慣を変えられるだろうか。
ギルに欠けているのはこうした国家間の力関係への洞察であり、それは彼が根本的に政治音痴である証左なのである。
それは別の一節からもうかがえる。捕鯨に対してイヌ食は余り問題になっていないではないかとして、「まあ、国際的イメージを配慮しながら、88年のオリンピックまでに犬食を自ら廃止しようとする韓国政府などの例もあるが」と簡単に述べているのだが、ギルはここでも逆のケースがあり得るか、全然想像が及ばない。
米国や英国は、日本や韓国と食習慣が違うからといって、イベントを契機に自ら改めようとするだろうか。
「国際」というのは実際には欧米先進国の習慣によってイメージされているのが実態なのであり、そうした中で起こり得る習慣の変化とは半ば以上政治的な力関係で決まってくるのである。
韓国がオリンピック開催に際して感じたであろう圧迫感に、ギルはまったく同情がないし、そうした力関係にこそ彼の得意な「文化」の問題を解く鍵もあるのだということに気づかない。
おめでたい人である。
さて、ギルの挙げる反捕鯨の根拠の第二点、というか本質的な理由を見よう。
要するに鯨類高知能説なのだが、これは前項で取り上げたWWFの長期観察研究所長ロジャー・ペインに対する批判を思い出していただければ事足りる。
鯨の脳についてギルはどう言っているか。
最後の台詞、「誰にもほんとうのところはわからない」はペインの言説とそっくりである。
また彼の挙げる説に、マッド・サイエンティストたるリリーの影が明瞭に認められることにも気づくだろう。
鯨類知能論は20年以上の歴史を持つのに日本のマスコミはそれをまったく報じていないとギルは批判するが、こんなあやふやな説を報道しようとする方がおかしいのである。
本当に科学的にきちんと実証された説なら日本のマスコミも報じないはずがないのだ。
ギルはこの説のあやふやさを糊塗するために、
と援軍を頼んで数の論理に逃げ込むのだが、その直後にバランス感覚を取り戻して「もちろんその可能性もあるが」と付け足しているのは悪くない。
彼らについては実際、狂っていると言うしかあるまい。
というより、科学者とは、自分の専門分野について実証的に研究する人間であって、専門外の、それも実証されていない事柄について無責任な言辞を連ねる人間のことではない。
後者のような人間は科学者ではなく山師であるか、たかだか二流知識人に過ぎない。
この点に関するギルの認識は、無根拠な日本人独自説を唱える日本人(ばかりではないが)学者を批判する時とは別人のように鈍い。
日本人論については本多勝一や渡部昇一などの名声(?)に騙されなかったのに、こと鯨に関してはカール・セーガンの名声にコロリと参ってしまうのでは、知性そのものを疑われても仕方があるまい。
日本やヨーロッパの人間は、過去の様々な事例から、「知識人」の言うことが必ずしもアテにならないこと、根拠のない説を盲信しやすいのがむしろ知識階級であることを心得ていて多少用心深くなっているが、ギルを見るとアメリカ人はこの点でかなり遅れているのではと言いたくなってくる。
またギルは、鯨類の知能が本当に実証されるまでには長い時間がかかるだろうとして、「陸上の動物と海の動物との異心伝心が難事業になるのは必至であり、その成功までに何百年かかっても不思議はない」と述べる。
ここから分かるのは、鯨類高知能説が一種のユートピア思想であるということだ。
ユートピアは決して実現せず、むしろ実現しないことによってそれを喧伝する人間の情熱を駆り立てる。
時間的もしくは距離的に遠いところにあり、それに関する正確な知識を得られないからこそ、ユートピアは成立するのであり、それに熱狂する人間が生まれるのである。
そしてその結果が「目的は手段を正当化する」という論理につながり、最悪の場合はヒトラーやスターリンの残虐行為に道を開くのであり、捕鯨問題ではエコ・テロリズムや様々な不正行為を容認する態度につながるのである。
ユートピア思想に弱いが故のこうした態度こそ、二流知識人の特質である。
例えば最近でも、移民規制をめぐるフランス知識人の動きに批判が出たことを『朝日新聞』が報じている(98年1月13日付け)。
フランス政府が打ちだした移民規制案に反対する署名運動が起き、デリダやル・クレジオなどの著名知識人が同調したが、しばらくして逆にこの運動を批判する声明が別の知識人によって出された。
声明の執筆者で、社会学者ピエールアンドレ・タギエフ氏は、この運動を革命至上主義の左翼の宗教的な考え(メシアニズム)に似たところがあるという。
社会変革の担い手としての「プロレタリア」の代わりに、理想化、英雄化した「移民」を置き換え、自らの意見と異なる者を悪役に仕立ててしまう。(…)
理性的な議論を棚上げにし、知名度を利用して一般市民をあおるのはおかしい、というわけだ。
タギエフ氏は「何かの分野で権威があるからといって、ほかの分野でも見識や能力があることにはならない。
知識人は専門外にまで影響を及ぼそうとするのを慎むべきだ」と主張する。
右の「移民」を「鯨」に置き換えれば、ギルやセーガンなどアメリカ知識人のお粗末さは明瞭だろう。
これはごく最近の認識じゃないかって?
そう思う向きには、英国の文筆家ジョージ・オーウェルが半世紀も前に書いた「ナショナリズムについて」を読んでいただこう(『オーウェル評論集』、岩波文庫)。
なおここでのナショナリズムとは「何かに盲目的忠誠心を捧げる態度」を意味し、その対象は自国とは限らない。
(…)言うまでもなく、インテリのあいだで圧倒的な型のナショナリズムは共産主義なのだ。
ただし、ここで共産主義者というのは、共産党員だけでなく一般にその同調者および親ソ派をふくめた大ざっぱな意味で言っているのであって、ソ連を祖国と見なし、何がなんでもソ連の政策は正しいとしてその利益をはかるのを自分の義務と心得ている人をさす。(…)
ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけでなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。
英国におけるヒットラー崇拝者たちは、6年ものあいだ、ダッハウやブッヘンヴァルトの存在に耳をふさいできた。
そしてドイツの強制収容所をもっとも声高に弾劾した人びとのほうは、ソヴィエトにも強制収容所があることはぜんぜん知らないか、知っていてもぼんやりした知識しかないことが珍しくないのだ。
次に、ギルのようなアメリカ人が出てくる背景について別の角度から一瞥しておこう。
社会学者・宮台真司は『制服少女たちの選択』(講談社、1994年)の中で、日本における70年代以降のサブカルチャーの流れを分析しつつ、日本のカタログ的雑誌が米国サブカルチャーのバイブル"WHOLE EARTH CATALOG"のコンセプトをそのまま借りてきたものであり、アウトドアライフ・ムーブメントの細々とした商品紹介をこととしていたと指摘して、以下のように述べている。
何故に72年のストックホルム環境会議で突如捕鯨問題(だけ)が浮上したのか、真相は今も謎であるが、右で宮台が述べている説は当時水産庁の調査官だった米沢邦男が唱えたもので、先にも紹介した小松錬平の「くじらと経済摩擦」(『中央公論』86年4月号)や梅崎義人『クジラと陰謀』(ABC出版、1986年)でも紹介されている。
私は一般に陰謀説の類は余り信用しない人間だが、ストックホルムで捕鯨問題が大きく取り上げられたことに関しては極めて不透明な部分があると感じており、会議の主催国スウェーデンの首相だったパルメが反米を鮮明にしたくないとの立場から、ヴェトナム戦争に触れて米国政府の逆鱗に触れるのを回避したという説はなかなか説得的だと考えている。
しかしとりあえずここで重要なのは、ギルのような人間が生まれてくる背景への宮台の洞察である。
「敗北左翼の救済コード」としての反捕鯨運動、そしてそれに加担してしまうギルのような世代(彼は51年生まれ)が見えてくるだろう。
無論ここでの「敗北左翼」とは、実際に反体制運動での敗北経験があることを意味しない。
直接的な反体制運動が不可能な時代に、その代用品(オウム真理教でも、鯨イルカ真理教でも!)に向かってしまう人間一般をそう名づけるのだと考えればよい。
さて、回り道がずいぶん長くなってしまった。
実はここまで読んでもらえば、小松=ギル論争についてはほとんど分かったも同然なのである。
ギルは「4月号くじら論文の目くじらを嗤う」で、主として小松が「くじらと経済摩擦」で述べた「捕鯨問題は文化的相違から来る」という叙述を撃っているのだが、実際は小松論文のメインは捕鯨問題をめぐる経緯や反捕鯨国の不正なやり口の紹介であって、文化論はその後につけ加えられたものに過ぎない。
だからギルの批判はかなり的をはずしている。
肝腎なのは鯨の資源量とは無関係に汚いやり口で捕鯨禁止が決まったというところなのに、ギルはその点に余り目を向けないのである。
先に引いたオーウェルの批判がそのまま当てはまる姿勢と言えよう。
そしてギルは最後に、ライアル・ワトソンやラヴロックやセーガンなどの一流科学者も相手にしたらどうですか、捕鯨問題をめぐる対話はストックホルム決議から一歩も進んでいないと述べているのだが、ここに至っては彼の政治音痴ぶりは絶望的な様相を呈している。
まずラヴロックやセーガンは政治家ではないし捕鯨問題の専門家でも当事者でもない。
彼らと話し合ったとしても捕鯨問題が具体的に解決されるわけではない。
次に、米国政府が捕鯨問題でとったのは問答無用の態度であって、対話を進める方向などではない。
もし対話を言うなら、ギルははっきり米国政府の態度を批判し、捕鯨国に不当な圧力をかけることをまずもって止めさせ、その上で対話を呼びかけるべきであろう。
ギルはそういうことは全然していない。
むしろ彼がしてきたのは、米国政府の力まかせの政策を容認し暗黙裡に支持することだったのだ。
そんなギルに「対話」など呼びかける資格はない。
小松の反批判で反捕鯨的言説の誤りを指摘されたギルは、最後の「知ってもらいたい反捕鯨運動の動機」でその点を率直に謝罪しながらも、まだ反捕鯨運動性善説に固執している。
昔白人中心主義だったアメリカ文化が鯨を人間の輪の中に加えたのは、「日本人を輪の中に入れたのと同じ」だと言うのだが、これほど人をバカにした話はない。
これは、人間の範疇を決めるのは結局白人だと言っているも同然だからだ。
白人が日本人や鯨を人間の仲間と認めたのだからそう思わなければならない、思わない奴は圧力をかけられて当然だ、ということなので、結局ゴリゴリの白人中心主義から全然進歩していないのである。
恐らく当人はそんな意図はなかったと言うだろうが、言葉遣いには注意しなさいと言いたくなる。
そして最後にギルは、
と言うのだが、生態系を破壊してまで鯨をとるべきだとは小松は一言も言っていない。
捕鯨が生態系を破壊するかどうかは資源量の正確な測定で決まるのであり、IWC科学委員会はミンク鯨の資源量が捕鯨をするに足ると認めている。
シロナガス鯨のように数の減っている鯨をとらせろとは日本は全然主張していない。
ギルの本来の主張は「鯨は頭がいい」だったはずで、これは生態系とはまるで別問題であるから、彼はここで再度的をはずしていると言えよう。
そして何より、「地球全体の生態系のためなら、どんな民族の飲食習慣を非難してもよい」と言うなら、自国のイヌイットの捕鯨を批判したらどうか。
しかもイヌイットの捕鯨対象であるホッキョク鯨は、日本が捕鯨を要求しているミンク鯨とは違って資源量がかなり少ないのだから。
ところがギルは小松との論争ではイヌイットの捕鯨を擁護しているのだ。
こうなるとギルという男の恐るべき、或いは月並みな党派性は明らかだろう。
彼は『反=日本人論』のあとがきで、日本人論を次々と批判したことを弁明して、「もし本書が、アメリカ人向けに書かれたとしたら、日本の良いところとアメリカの悪いところばかりを書いたに違いない」と述べている。
先にも書いたように『反=日本人論』は名著であるから、私としてもそれを信じたい気持ちは重々あるのだが、捕鯨問題についてのギルの態度を見る限り、にわかには信じがたくなってくるのである。
(文中敬称略)
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* 縦書き原稿から横書きへの変換のため、一部の漢数字を算用数字に変更してあります。)
(新潟大学人文学部教授)
3 アメリカ・インテリの反捕鯨病を観察する(承前)
ぼくは鯨の肉を食べること自体には反対ではない。
どこの民族が何の肉を食おうと勝手である。
問題は、何を誰が食べるかではない。ある動物種が絶滅するかどうかである。(…)
〔軍人の階級や捕虜の扱いに関して、欧米人の考え方は日本人とは大幅に違っていたが、〕彼らがヒューマニスティックだというわけではけっしてない。
それは牛を殺すことはヒューマニスティックだが、イルカを殺すことはそうでないという考えが、恣意的なのと同じである。
しかし、ここにはたんに文化の相異があるというだけではすまないものがある。
たとえば、われわれにとって、イルカも牛も「生類」であって、一方は殺してよく他者は殺してはならないというような理窟は成り立たない。
しかし、「イルカを守れ」という連中にとって、その区別ははっきりしている。
自然界そのものがいわば”法律的”なのである。
したがって、また西欧のみが自然科学を生みだしたともいいうるのであって、そこに存する根本的な論理はわれわれには欠けている。
「法律」とは、法則であり、また理性だといってもよい。
どんな「サル芝居」であろうと、彼らがそれをつらぬくことにはいいようのない凄みがある。
もちろんナチズムの物凄さも、まさにそこからくるのだ。
「この地球上には、クジラという、高い知能をもつらしい生き物がいる。(…)
こんな動物を肉や油や口紅やマーガリンやキャットフードやコルセットの芯にするなんて、絶対に間違っている。(…)
僕は今年、日本に講演に行って、人びとにクジラの話をするつもりだ。
無関心は無知から生まれるものだ。
この動物のことを知ったら、人びとも無関心な態度を改め、クジラを好きになることだろう。
知ることこそ、何かを好きになるための第一歩だ。
日本人の考え方はきっと変わる、と僕は信じている。
そうなれば当然、日本人も世界のほかの国々の人びとと同じように、捕鯨を糾弾するようになることだろう」
「クジラやイルカの脳は、人間の脳と同じか、それ以上に複雑らしい。
その複雑さは、クジラやイルカが生きていくうえで、なんらかの重要な役割を果たしているのに違いない。
だが、その役割が何なのかはわからない。
手がかりはゼロ、もっともらしい説のひとつさえない」
「人間以外の生き物だって権利をもっているということ、クジラのようなほかの哺乳類だって、造物主から侵すべからざる権利を与えられているんだということを、僕たちはそろそろ理解しなくちゃね。(…)
1776年(アメリカ合衆国の独立宣言)のことを思いだしてほしい。
我々はみんな侵すべからざる天与の権利をもっている、という目から鱗が落ちるようなすごい真理を僕らの祖先は発見したんだからね。
権利をもっているのは哺乳類だけじゃないってこと、鳥類や両生類やトカゲや植物やプランクトンや、とにかくすべての生き物が権利をもっているんだってことを、近い将来、僕たちは悟るだろう。
そして、ついに地球上のほかの生き物たちと平和に共存してゆくようになる。
人間はたくさんの種のうちのひとつにすぎないんだってことを悟るんだよ。素晴らしいじゃないか……」
WWFアメリカのマイケル・ハットン副会長は、「クジラは頭が良いというより、センティエントな動物だと思う」と話す。
(センティエントとは、意識のある、知覚したという意味。)
アメリカでは、妊娠三、四カ月になる子どもは「知覚した」とし、これ以降の堕胎は殺人罪に当たる。
センティエントは、殺人罪かどうかの分かれ目になる。
センティエントと呼ぶことは、クジラに人間と同じ立場を与えているのかもしれない。
ひとつめは、イルカやクジラと直接的・非言語的な交流(テレパシーとかチャネリングとか)による深いレベルの精神交流が可能であるという主張。
ふたつめは、彼らが人間にまさる知性と徳性を持っており、そんな彼らとの精神的交流を通じて人間は自らの救いとなるいろいろなメッセージやパワーを受け取れるのだという主張である。
「クジラ類と人類のあいだで結ぶ新しい法律や協定、条約を、クジラ類と協力して研究すべきである」といった彼の提案がリリー以上に夢見がちな人々をトンデモの方向へと誘ってしまった面は否めないと思う。
4 小松錬平=ロビン・ギル論争の意味
新しい治世を樹立しよう、普遍的ユートピアを、或いは世界帝国を創立しようとするのは、とりもなおさず悪魔に加担することであり、悪魔のたくらみに協力しその総仕上げをすることである。
1986年、『中央公論』誌上で捕鯨問題をめぐる論争が、小松錬平とロビン・ギルの間で繰り広げられた。
小松は当時『朝日新聞』編集委員兼テレビ朝日ニュースキャスター、ギルはアメリカ出で79年より日本に滞在、独善的な日本人論を批判した『反=日本人論』や『日本人論探検』などで注目されていた。
論争は、4月号に小松の「くじらと経済摩擦」が載ったのを皮切りに、6月号にギル「4月号くじら論文の目くじらを嗤う」、7月号に小松「ギル氏の事実誤認は故意なのか」、9月号にギル「知ってもらいたい反捕鯨運動の動機」という形で続いた。
E・M・シオラン『歴史とユートピア』
だが、その「用」を具体的に言うと、まだまだ当てずっぽうの段階である。
ある科学者は、あの脳ミソには7つの海の海底地図がおさまっているのではないか、と仮説する。
立体的な事物の記憶にはあれくらいの容積が必要だ、というのがその根拠である。
あれはクジャクの尾のようなものだ、と言う人もいる。
つまり異性の注意を引くため、というのだが、脳ミソをどうやって見せびらかし、相手を「悩殺」するのかは、はっきりしない。
何世代にもわたる記憶をおさめているのだ、という説もある。
誰にもほんとうのところはわからない。
有名な科学者、カール・セーガン氏はいったいなぜ、「宇宙人とのコミュニケーションを図る前に、海の住民のクジラ類とのコミュニケートを試みる方がよい」などと言えるのだろうか。
セーガン博士は狂気だろうか。
そしてまた、セーガン博士と同様にクジラ類の頭の良さを信じている英米の一流学者の多くも、皆狂っているのだろうか。
移民はすぐにでもフランス社会にとけ込めるのだから、入国制限はけしからん、という「芝居がかった道徳的な憤りは(極右の)すべての移民排斥の主張と同様、政治ではない」と〔声明は〕し、この署名運動を情緒的だ、と決めつけた。
(…)私が問題にしている精神の動き〔ナショナリズム〕が英国知識人のあいだに広く行きわたっていること、それも一般大衆のあいだより知識人のあいだに行きわたっていることを、納得してもらえるだろう。
本家の"WHOLE EARTH CATALOG"の基礎になっていたのが、ベトナム戦争後の米国におけるドラッグレス・ハイ・ムーブメントだった。
その背景には、60年代後半の米国サブカルチャーにおける、社会派(=反戦派)と自己派(=ドラッグ派)の潜在的な分岐があった。
前者の一部は、72年のストックホルム「人間国際環境会議」において突如もちあがった「反捕鯨」(「枯れ葉作戦糾弾」のはずが米国政府による買収で寝返ったとされる)を通して「エコロジー派」へと転身し、後者の一部は(…)ドラッグレス化し(…)アウトドアライフ・ムーブメントやサバイバル・ブーム(…)、パソコンクリエーターや、ニューエイジサイエンスや、サイコセラピーや自己改造へと進んだ。
これらのいわば「なれの果て」の諸動向は日本においても大きな影響をおよぼし、双方ともに「敗北左翼の救済コード」として機能することになった。
「他民族の食品リストを削るという行為」自体がいけない、との発想はむしろ危ない。
地球全体の生態系のためなら、どんな民族の飲食習慣を非難してもよろしい、いやすべきだと思います。