("nemo" 第6号,1999より。
三浦 淳
前回、小松錬平と捕鯨論争を行ったロビン・ギルを例に、この問題に対するアメリカ知識人の思考病理を探ると同時に、彼らの責任を追及した。
そこで、ギルが反捕鯨運動を正当化するために天文学者カール・セーガンの名を援用していたことを思い出していただきたい。
言うまでもなくセーガンはギルと違って全世界的に名を知られた人物であり、その発言は米国の枠をはるかに越えた影響力を持ったと考えられる。
したがって、捕鯨問題を論じるにはセーガン抜きで済ますわけにはいかない。
以下、彼のこの問題に対する言動を追うことにする。
セーガンの経歴を簡単に紹介すると、34年アメリカ生まれ。父はロシア系移民の労働者だったが、成績優秀だった彼は奨学金を得てシカゴ大学で博士号を取得。
いくつかの大学で教鞭をとった後、コーネル大学に落ちつき、同大学惑星研究所長も兼務。
NASAの惑星探査計画で重要な役割を果たした。
文才を発揮して啓蒙的なノンフィクションを多数執筆すると同時に、『コンタクト』のような小説にも手を染めている。
数々の受賞歴あり。
96年死去。
セーガンにはおびただしい著作があり、その全てに目を通すことはとてもできない。
ここでは邦訳のあるものに限定して彼の思考の軌跡をたどってみたい。
読んだ文献は以下の通りで、表示年は訳書ではなく原著の出た年を指している。
セーガンがいつ頃どういうことを考えていたかが重要なポイントになるからだ。
タイトルが長い書物は、各末尾に記したように略記する。
引用は、文意を損なわない範囲で多少表現を変えたり縮めたりする場合がある。
・『宇宙との連帯』(The Cosmic Connection, 1973:河出書房)『連帯』と略
記。
セーガンの専門は言うまでもなく天文学であるが、右の邦訳著作表からも分かるように、生物や進化についても旺盛な知的好奇心を有している。
これについてセーガン自身は次のように述べている。
つまり地球外生命の存在について真剣に考えるなら、必然的に地球上の生命についても知識を深めざるを得ないというわけだ。
実際、彼は宇宙に関する啓蒙的な著作の中でもしばしば生物やその進化に言及している。
鯨類の知能に興味を持つ素地は最初からあったということになろう。
だがその直接的なきっかけは、彼もまた時代の子であったという事実を物語っている。
すなわち、ジョン・C・リリーこそがセーガンを鯨類高知能説へと導いた張本人だったのだ。
前回に論及した例のマッド・サイエンティストその人である。
二人の接触はどのようにして可能になったのか。
『連帯』によれば次のような事情があった。
61年に米国で知的異星生物とのコミュニケーションをテーマとした科学者の会合が開かれた際に、リリーも招待されていたのである。
最後で留保をつけてはいるが、セーガンは「イルカは地球上で人間以外の唯一の知的な種」であるとはっきり述べている。
この出会いが61年であったことにも注意しよう。
リリーがフロリダに研究所を設けてイルカ研究に打ち込み始めて間もない時期であり、当時「イルカと人間のコミュニケーション」は最新の学説として脚光を浴びていた。
異星生物とのコミュニケーションについて論じる会合にリリーが招かれたのは、そうした背景からだったと考えられる。
この会合に出席した天文学者は顔見知り同士が多かったが、ほとんどがリリーとは初対面だった、しかし皆リリーの話に魅せられ、メンバーを「イルカ騎士団」と名づけた、とセーガンは述べている。
当時の米国インテリ層の雰囲気がうかがえる話ではある。
セーガンはその後リリーの研究所に招かれ、イルカと一緒に泳いだりしてリリーの説に傾倒してゆく。
『連帯』(73年)の中で彼は、リリーの研究所がすでに閉鎖された事実に触れ、また「彼の研究の科学的な一面については、多少批判的にならざるを得ない私だが」と再度慎重な留保をつけながらも、イルカ研究に関してリリーは「疑問の余地なく大きな業績をあげた」と断言している。
そして、鯨類高知能説を支持しつつ次のように述べる。
前半はいかにも大ざっぱな議論で、体全体の大きさから見た脳の比率という基本的な思考すら入っていないし、大脳皮質の内部分析にも立ち入っていない。
そもそも鯨類の「社会的相互作用」が人間よりすぐれているとどうして言えるのだろうか。
後半については、前回ギルについても述べたように、マッド・サイエンティストたるリリーの影響がもろに出ていることが分かるだろう。
リリーの説が立証されていないことは、これも前回述べたが、村山司・笠松不二男『ここまでわかったイルカとクジラ』(講談社、96年)に明記されている。
日本人学者は捕鯨国の人間だから信用できないという疑り深い方には、米国イルカ学の泰斗ケネス・S・ノリスの『イルカ入門』(どうぶつ社、原著91年)の一節を紹介しよう。
こうして現在ではリリーの「鯨は地球の歴史を記憶している」式の仮説は否定されている。
目新しいトンデモ話に飛びついてしまった61年頃のセーガンの失態は、現在から見ればきわめて明瞭と言っていい。
なお『連帯』には、前回言及した低能の鯨主義者ロジャー・ペインの名も登場していて、セーガンがこの時分にある種のセクトと親密な関係にあったらしい事情が浮かび上がってくる。
セーガンはのちに、「科学者たちは多くの仮説を提唱するが、その多くは誤りだということが、のちになってわかるものである」(『コスモス』)と述べているが、それはそっくり鯨に関するセーガンの言説に当てはまる。
しかし、単に鯨が地球の歴史を記憶していると誤認しただけなら罪は軽い。問題はその後にある。
セーガンは『連帯』で鯨類高知能説に続けて次のように述べる。
ここに来るとセーガンは、単なる事実誤認の域を越えてプロパガンダを開始する。
怪しげな仮説をもとにしたこの軽薄な行為は、彼の経歴に重大な汚点を残すものだ。
そしてこのプロパガンダに伴う彼の論法は、ペイン同様の、矛盾と論理的飛躍だらけの代物なのである。
なぜ捕鯨が人間同士の戦争と比較されねばならないのだろうか。
これは鯨を人間と同等と見なすことが前提でなければ成り立たない議論だ。
その前提が実証されていないことは仮に棚上げしてもよい。
歴史的に見れば鯨が人間と同じだという思考法は流布していなかった。
だから捕鯨産業を非難する声が上がらなかったのは当り前なのだ。
その捕鯨産業を「生命に対する尊重の念がない」と批判する場合に比較すべき対象は、戦争などではなく、牛や豚や鶏や魚を扱う業者であり、そして何よりもそれらを食べて生きているセーガン自身なのである。
セーガンはおのれの生き方が問われるべき核心点を巧妙に回避している。
右で引用した文章に続いて彼は次のように言う。
セーガンは良心的知識人の常として、差別思想や欧米中心主義に対して用心深い。
ここでも自国アメリカの誤りを例に挙げることで、自分の主張がエスノセントリズムとは無縁の公正なものだという印象を与えようとしている。
だが私に言わせれば、この論法を反捕鯨論者が用いる時、それこそが逆に彼が伝統的な欧米中心主義者・差別主義者であることを証明しているのである。
どういうことか。
近年、ヨーロッパ植民地主義と文化との関係について研究が進んでいる。
そこで明らかになったのは、コロンブス以降アメリカ大陸にやって来たヨーロッパ人が先住民を劣等人種と位置づけようとして、しばしば「人喰い人種」のレッテルを貼ったという事実である。
前回取り上げたギルも、小松錬平との論争でこう述べている。
これは、鯨食文化を食人になぞらえる反捕鯨論者の態度が端的に現れたものだ。
ところで、アメリカの土着民族に本当に食人の習慣があったかどうかは実は実証されていない。
白人側の文献は多数あるが、その証拠能力には信頼がおけないという。
アメリカの人類学者W・アレンズはそれをもとにこう述べる。
そしてアレンズは、「ある人間集団が他の集団を食人者と考えるのは、文化境界の構築と維持」のためだと結論づける。
例えば、『ロビンソン・クルーソー』で主人公の助手になるフライデーが人喰い人種の出身で、主人公に教化されて食人の習慣をやめるという設定は、こうした観念体系の典型例に他ならない。
ここは植民地主義について論じる場所ではないのでこれ以上深入りしないが、ともかく右で述べたように、「食人」はヨーロッパ人が他者の文化習慣を攻撃するための常套手段だった。
時代は変わって、かつてのような植民地主義は不可能になった。
だが、過去の帝国主義に代わって、文化や価値観の露骨な押しつけ、すなわち文化帝国主義が姿を現した。
この新しい帝国主義にあっても相変わらず「食人」のレッテル貼りがハバをきかせている。
ただしかつてのそれとは位相を異にする。
すなわち、以前のように相手の習慣が曖昧なままに「食人」と断じることは不可能になっているので、人間以外の動物を勝手に人間に格上げし、人間と同等の動物を食用にしているのだから野蛮な民族だと見なす思考形式が登場する。
私がセーガンなどの反捕鯨論者を伝統的な欧米中心主義者・差別主義者と言うのはそういう意味である。
彼らの思考パターンは、アメリカ原住民を野蛮人と決めつけ見下した16-19世紀の傲慢なヨーロッパ人と変わるところがない。
欧米人がなぜ他者に人肉啖食の性質を想定するかは、文化論的に見るとなかなか興味深い問題である。
そもそも彼らのキリスト教文化が食人を内包しているからだ。
周知の通り、キリスト教の儀式ではパンはキリストの肉であり葡萄酒は血である。
ナチ時代に限らずヨーロッパではしばしばユダヤ人が虐殺の対象になったが、これについて英国の文学研究者P・ヒュームはこう述べている。
ただし、他民族を「食人」扱いするのは欧米人だけではなく、世界中に見られた現象で、右の考察は洋の東西を問わず当てはまるだろうことも付言しておく。
前出のアレンズは序文で、「中国では朝鮮人は食人者だと信じられていたが、朝鮮ではその逆が信じられていた」と述べている。
話を戻そう。セーガンは『連帯』でのプロパガンダを、次のような単純きわまりない文章で結ぶ。
自分のエスノセントリズムをものの見事にヒューマニズムにすり替えてしまうこの論法は、16世紀以降ヨーロッパ人がアメリカやアジアを侵略するにあたって用いた論法、すなわち侵略は野蛮人を教化するために必要だというコジツケと変わるところがない。
類似のすり替えは『連帯』の他の箇所にも見られる。セーガンは同書の最初のあたりで次のように言う。
最初は、人間は生きるために他の生命を殺さねばならないという優れて哲学的な命題から始めていたのに、途中から環境論にスライドしている。
論理の混乱は明瞭であろう。
彼の反捕鯨論と共通なのは、自分の生き方の根元に関わるきわどい問題は回避し、一般受けしそうなキレイな命題(鯨を守れ、環境を守れ)にすり替えてしまうやり方である。
セーガンの著作が広く読まれる理由の一つがここにあるのかも知れない。
73年の『連帯』に見るセーガンの反捕鯨論・鯨類高知能説を概観した。
時代との関連を指摘しておくと、捕鯨問題が突然世界的な規模で浮上したのは72年のストックホルム国際環境会議であり、米国内で捕鯨問題が敗北左翼の救済コードとして機能した事情は前回述べたとおりである。
彼の著作はその意味で米国のある種の勢力からの影響がうかがえるし、時代の動向に添ったものだと言える。
さて、捕鯨問題に関する彼の見解は基本的には『連帯』での発言に尽きているが、その後も彼はしばらく著作の中で類似の言説を繰り返していた。
簡単に見てみよう。
77年の『エデン』では、体の全重量に対する脳の重量という思考を導入して、この点で見れば人類とイルカが地球上で最も知性的ではないかと述べている。
また大脳皮質にも言及し、「理性は新皮質の機能であって、〔ヒトは〕ある程度まで高等な霊長類やイルカ、クジラのような鯨類とこれを共有している」として、鯨類がある程度まで特権的な生物であることを強調している。
しかし、人間と鯨類だけを特権化していた先の『連帯』と比べるとトーンが弱くなっている感じは否めない。
知能の問題にしても、チンパンジーを始めとする霊長類にはかなりページをさいて論じているが、鯨類については右で引用した以外にほんの数カ所、それも簡単な示唆がある程度なのである。
宇宙・天文学をテーマにした『連帯』では特に「わが最良の友はイルカ」という章を設けて鯨類高知能説をぶちあげていたのに、生物の進化と知能を主題としたこの『エデン』で鯨類への言及が目立って少なくなっているのは、何やら暗示的ではあるまいか。
そして、翌78年に出た『アド』では鯨類高知能説は影をひそめている。
エセ科学を批判する箇所で彼は、「右脳と左脳、ブラックホールの実体、大陸の移動と衝突、チンパンジーの言語、火星と金星の気象の大変化、(…)などを始めとする本物の科学界における何百という最近の研究活動や発見に較べれば、面白いといわれる周辺科学〔=エセ科学〕の主張も私には色あせて見える」と述べる。
ここでセーガンは、真の科学研究における最新のテーマや成果と対比させてエセ科学を断罪しているわけだが、その最新成果の中に「チンパンジーの言語」はあるのに、イルカの言語は入っていないのだ。
これが五年前の『連帯』で「鯨の歌は叙事詩や歴史の代替物」で「深海の深みの中で膨大な年月にわたって繰り広げられた偉大な行為を物語っている」と書いた人の本なのだろうか?
君子豹変
すという諺が思い出されるではないか。
『アド』のこれ以外の箇所でも、セーガンは鯨類高知能説に触れていない。
しかし二年後、80年の『コスモス』で彼は再び鯨や捕鯨問題に触れている。
注意深く読んでいただきたい。
言い方が、『連帯』と比べて巧妙化しているのが分かるだろう。
セーガンは「鯨の歌」がホメロスの叙事詩と同じものだとは言わない。
しかし音の高低を仮定的にビットに直して計算し、「一曲」が『イリアッド』と同じ情報量だと述べる。
うかつな人はこれを読んで、「鯨の歌」は『イリアッド』のような叙事詩なのだと誤解するだろう。
しかしきちんと読んだ人間に追及されれば、「鯨が叙事詩を歌っているなどとは書いていませんよ」と言い逃れできる狡猾な論法なのである。
セーガンはついで、鯨は地球上のどこにいても低周波の音を用いてお互いが通信可能であると述べて、
鯨中心主義とでも言うべき見解である。
これに従えば、鯨のために帆船と手漕ぎ船以外は使用禁止にすべきだということになる。
セーガンはその種の提言を実際にしたのだろうか。
寡聞にしてそういう話は聞かないが。そしてこれに続けて捕鯨批判が来る。
セーガンの捕鯨に関する知識が限られたものであることを示す箇所だ。
彼は、鯨が食料として日本やノルウェーで無駄なく利用されてきたことを知らないらしい(或いは意図的に書かなかったのか)。
また米国などが極地の捕鯨から撤退したのは経済的に引き合わなくなったからであり、エコロジカルな理由からではないが、そういう時間的順序を彼は無視している。
さらに、80年時点では漁業での必要性から米国内でもイルカが多数殺されていたし、何より当のアメリカ人(イヌイット)が捕鯨を続けていたのである。
彼はその点にまったく触れずに、日本・ノルウェー・ソ連のみを名指しで批判している。
前回ギルやペインを例に見たように、反捕鯨論者にはダブルスタンダードと隠れたエスノセントリズムがつきものだが、その二つの特質がセーガンのこの文章にも余すところなく表れている。
そしてセーガンは最後に、『連帯』と同じように、宇宙人と通信することに興味を持つ我々は、地球上の知的生物、「例えば文化や言葉の違う人間や、大きなサル、イルカをはじめ、特に海の知的王者であるクジラとの通信を改善することから始めたほうがよいのではなかろうか」と結ぶ。
しかしこの本の中では、鯨が知的である証拠は事実上挙げられていないと言っていい。
あるのは、先に見たとおり、「鯨の歌」をホメロスのような叙事詩だと錯覚させる詐術的な記述だけだ。
時流への迎合とプロパガンダだけが先行し、肝腎の科学的な論証がなおざりにされていることは、冷静にこの箇所を読めばすぐに分かるのである。
以上が80年までのセーガンの言説である。
以後、彼の著作には捕鯨問題は登場しなくなる。鯨に関する記述も激減する。
この変化は何を物語っているのか。
反捕鯨運動が一応の成果を上げたから、という考え方もできる。
しかし規模は縮小したとはいえ日本やノルウェーは80年以降も捕鯨を続けていたのであり、アメリカ人自身(イヌイット)もそうであった。
鯨は人間のように知的であるから絶対に捕獲してはならないという立場からすれば、引き続き反捕鯨を唱えても不思議はないはずである。
実際、反捕鯨運動自体はこれ以降も続行されたのだから。
そして捕鯨問題は措くとしても、鯨の知能に関する関心はどこに行ったのか。
『連帯』や『エデン』ですでにその問題に触れたから、という説明は成り立たない。
なぜなら、啓蒙家の常として、セーガンの著作には重複部分が多いからだ。
ある著書で述べたことを別の著書で再度記述するという例は、彼の場合珍しくない。
したがって鯨の知能に関する話が『コスモス』以降の著作にも再三再四登場してもよさそうなのに、そうではないのである。
なぜか。
実際に80年以降の著作を見ながら考えていこう。
小説である『コンタクト』(85年)は抜かすとして、92年の『はるか』はどうだろう。
主副のタイトルから分かるように、これは地球上の生物の歴史を述べたもので、『エデン』と同系列の書物である。
とすれば鯨についての記述も多数出てきそうな気がするのだが、そうではない。
言及があるのはわずか数カ所である。
『連帯』のセーガンを知る者には、少なすぎて目立つほどだ。
その中で鯨類が高知能であることを述べたのは一カ所だけである。
ここだけ読むと、鯨イルカ真理教信者は「やっぱり」と飛びつきたくなるかも知れない。
しかしちょっと待っていただきたい。
この本全体の中で右の記述がどういう意味を持つかを見なければならない。
この本の「薄い壁」の章でセーガンはヒトと動物の違いに言及している。
例えば、クモの行動を自動機械と見て、ヒトの行動はそれとは違う「意識」の産物だととれるだろうか?
セーガンはこの問題について、「ヒトだって〔他の動物と〕似たようなものだともいえる」と述べる。
そしてついには次のように断じる。
「ダーウィンが、イヌ、ウマ、サルなどヒト以外の生物にも備わっている感情として挙げたのは次のようなものだ。
楽しさ、苦痛、喜び、悲しみ、恐怖、疑い、偽り、勇気、臆病、不機嫌、上機嫌、復讐、無私の愛、嫉妬、愛や称賛を欲しがること、誇り、恥じらい、謙譲、寛大、ユーモアのセンス……。」
実際、その後著名な論者からの引用がいくつか並んでいるが、新しいものほどヒトと動物に明確な境界線を引くことに懐疑的なのである。
また、ネズミは過密状態で飼われると攻撃的になるが、チンパンジーはむしろ平和的共存を目指すと述べ、ヒトはチンパンジーよりネズミに近いのではないかとも言う。
以上のセーガンの記述から何がうかがえるか。
ヒトを生物として他の動物から決定的に分けるものは存在しない、という確信である。
ヒトと動物との差はあくまで相対的なものであり、本質的な境界線などないというのが彼の考えなのだ。
それでも、チンパンジーを始めとする霊長類には特別に章を設け、ヒトとの近縁性について詳細に論じているが、鯨類についてはそういう扱いはなされていない。
『はるか』の最後近く、「人間とは……」の章で、彼はヒトと動物に本質的な違いはあるかという問題を再度取り上げている。
そしてプラトンからヘーゲルに至るまでの、人間は動物とは根本的に異なった存在だという見解に次々と反駁してみせる。
セーガンの考え方はその章で引用されているダーウィンのそれに近いだろう。
「我々は、自分たちの奴隷にした動物たちを、人間と同等だとは見なしたがらないものだ。」
では、先ほどの鏡の自己像を見分けるイルカの話はどう受け取るべきか。
確かにそれは知能の話として出てはいる。
しかしこれは種々の動物が人間に劣らない能力を持っていることを列記した中で、一例として出てくるものに過ぎない。
この部分だけでイルカを特権的な生物だとセーガンが見ているとは到底言えないのである。
そもそも記述のしかた自体、「……と〔心理学者〕ギャラップは結論する」という、自己判断を避けた用心深い言い方になっている。
繰り返すが、『はるか』でセーガンは、ヒトと他の動物との間に決定的な違いはないと考えており、その中でどうにか(ヒトに近すぎるという)特権が認められているのはチンパンジーなどの霊長類であって、鯨類ではない。
さて、以上のような『はるか』でのセーガンの姿勢を見ると、彼が鯨から手を引きつつあるという事実、そしてその理由も浮かび上がってくるだろう。
同時に彼の限界もである。
彼は生物学に深い関心を寄せるが、それはあくまでアマチュアとしてであって、自分で専門的な研究をしているわけではない。
むしろ彼の本領は、生物学の最新の研究成果を分かりやすく一般に向けて紹介するところにある。
この頃、霊長類の知的能力に関する研究が盛んになると同時に、DNA鑑定技術が進んで、チンパンジーとヒトの遺伝子上の差がわずか 0.4パーセントであることが明らかになった(この事実には『はるか』も言及している)。
日本で立花隆が91年に『サル学の現在』を出版したのも、世界的な霊長類研究ブームを背景としてのことである。
一方、鯨の知能に関する研究は、前回も述べたとおり50年代から60年代にかけてがピークであり、その後目立った進展がなかった。
これは、一般には反捕鯨運動などを通じて鯨類への関心が過熱したことを考えるなら、つまり鯨の知能を研究するムードが高まったことを考えるなら、きわめて重大な事実と言える。
例えるなら、大衆の熱狂的な支持を受けているプロ野球打者が、金銭的にも施設面でも恵まれているのに、さっぱり打率が上がらないようなものだ。
セーガンは恐らくそれを敏感に察知したに違いない。
啓蒙家たる彼は、鯨からチンパンジーへと、時代遅れの波から最新流行の波へと乗り換えたのだ。
77年の『エデン』でもその兆候は見られたが、90年代の彼は乗り換えを改めてはっきりした形で行ったのである。
『はるか』で鯨類への言及が異常なまでに少ないのは、かつて『連帯』などで怪しげな説を鵜呑みにしてしまった自分を隠すためととれなくもない。
彼が鯨から撤退した理由はもう一つ考えられる。
右で見たように、この本で彼はヒトと動物との間にはっきりした境界線を引くことはできないのだと主張している。
ヒトの持つ能力は多かれ少なかれ他の動物も持っていると述べて例を並べたてている。
とすれば、鯨をヒトと同様の特権的動物だとして捕獲禁止を主張することはできにくくなる。
なぜなら、家畜たる牛や豚や鶏もそれならヒトや鯨の連続線上にあるのではないかという疑問がすぐに浮かんでくるからだ。
『連帯』でもそうだったように、口当たりのよい啓蒙家の常として、彼は家畜なら屠殺してもいいのかといったきわどい、しかし優れて哲学的な問題には決して触れようとしない。
せいぜい先に見たようにダーウィンからの引用という形で簡単に言及する程度である。
そして次の著書『惑星へ』(94年)となると、セーガンの鯨からの撤退はいっそう鮮明になる。
この本で鯨という単語が出てくるのは、宇宙探索機ボイジャーに人間の言語などと一緒に鯨の声も入れたレコードを積んだという事実に言及した箇所だけである。
後はいっさい触れていない。
『連帯』や『コスモス』が、同じように宇宙や惑星研究を扱いながら鯨を特権的に取り上げていたのと比べると、格段の違いである。
なお、ボイジャーが打ち上げられたのは77年であるから、セーガンが『連帯』(73年)や『エデン』(77年)で鯨類高知能説をおおっぴらに主張していた時期と一致することも付け加えておこう。
セーガン最後の著作となった『悪霊』(96年)にも、鯨という単語は一つも見あたらない。
この本は米国に充満する反科学的雰囲気やエセ科学に警報を鳴らしたものだが、例えば米国内の科学博物館にも良質のものとそうでないものがあると述べ、悪いものは進化論に言及していないとして、「解剖学上およびDNAからみるかぎり、ヒトとチンパンジーとゴリラはほとんど同じなのだが、そうした証拠も展示しない」と言う。
チンパンジーなど霊長類だけを特権化する方向性は『はるか』から変わっていない。
この本が鯨に触れていないのは、ある意味では当然であろう。
なぜなら、アメリカなどの反捕鯨運動は、減少した野生動物類の保護という域をとうに逸脱し、ここでセーガンが厳しく批判している神秘主義・エセ科学・反科学主義にむしろ近づきつつあるからだ。
アメリカはキリスト教原理主義、そしてそこから派生した神秘主義がきわめて強い勢力を持つ国だ。
(進化論を学校で教えるのにクレームがつく国なのだ。)
加えて国の豊かさから来る青少年の反知性主義、学校優等生への嘲笑といった現象もある。
セーガンはそういった反科学・反知性主義に反駁しつつ、懸命に科学の価値を訴えかけようとしている。
例えばセーガンはUFO信者を批判する。
セーガン自身宇宙人との交信計画を推進した人だが、宇宙人が地球にやってきた痕跡があるとかUFOを見たとかいう話にはきわめて慎重な対応を示している。
地球に宇宙人がやってきた証拠は現在のところ見あたらないというのが、『悪霊』以前の著作からの彼の一貫した立場なのだ。
しかし現実にはその種のトンデモ話はマスコミに充満している。
セーガンはそれを批判して、「古き良き時代には、UFOに連れ込まれた人たちは核戦争の危険性についてお説教されたそうだ。
一方、近ごろの宇宙人たちは、もっぱら地球環境の悪化とエイズにこだわっているらしい」と言う。
要するに「宇宙人の発言」なるものは、その時どきの社会問題を反映するという話なのだ。
この点をより鮮やかに分析してみせているのが、岡田斗司夫の『東大オタク学講座』(講談社、97年)である。
それによれば、UFOは「宗教の神秘性が失墜した社会」に生じた空隙を補填する役割を持っているのであり、「宇宙人のメッセージ」のパターンが何年かごとに変わることこそその証拠である。
50年代の宇宙人のメッセージは「ロシアに注意せよ、君たちアメリカがその正義をもって地球のリーダーにならなければならない」であり、次は「宇宙はフロンティアだ、地球人よ早く宇宙に出ておいて」となり、次に「原爆反対」、そして「地球に優しく」、そして「DNA」、そして「鯨を守れ」が来る。
「鯨やイルカは我々がアルタイル恒星系から運んできた生物だ、大事にしろ」と宇宙人は言ったそうである。
「宇宙人」はその時代で最も流行している社会問題を口にするものなのだ。
さて、岡田とセーガンの認識は一見すると一致しているように見える。
しかし天文学者セーガンの発言は、「宇宙人の発言」と本当に違うのだろうか。
右で出てくる「宇宙人」の言説は、実は反ロシアの勧めを除くとどれもセーガンの著作にも出てくるものばかりなのである。
無論、彼は権威づけのために「宇宙人がそう言った」「鯨はアルタイルから運ばれた」などと虚言を弄したりはしない。
彼の権威づけは、それが科学者の責任ある発言だというところにある。
つまり岡田の言う「宗教の神秘性が失墜した」部分を、セーガンは科学の権威性で補填しようとしている。
だがその結果の言説が「宇宙人の発言」の内容と違わないというのは、何故なのか。
彼が専門の天文学を別にすれば所詮は啓蒙家に過ぎないこと、「鯨は叙事詩を歌っている」式のトンデモ話を一時的にせよ鵜呑みにし、ある場合には詐術的な論法でそれを著作の中で展開したことはすでに見てきた。
つまり、彼の専門外の発言は、その時どきの流行を反映するという点で「宇宙人の発言」と同じなのだ。
口当たりがよく、一般の良識に逆らわない内容の話題が、一方は「宇宙人の発言」として、一方は「科学者の発言」として流通する。
構造的には同じではないかと思えてしまう。
セーガンの著作を読んでいると、一見該博な知識の裏に、きわめて単純な部分があると分かる。
この種の発言は随所に見られるのだが、ならば、宇宙船からは地上の人間や動物も見えないから、その生命など大した価値はないと言えるだろうか?
彼の論法はだいたいがこうしたもので、天文学少年の域を出ない。
ある意味でそれは羨むべき境遇かも知れない。
私自身そうだが、大抵の男の子は天文学の図鑑に夢中になる時期がある。
少年期の夢をそのまま実現できた人間、それがセーガンなのである。
その才能と幸運は素直に慶賀したいが、彼の大ざっぱな世界観では片づかない問題も世の中にはあるのだということを、少なくとも自覚はしておいて欲しかったと思う。
彼は宇宙について(何なら生物学を加えてもいい)おびただしい知識を披露してくれるが、それに比べると人間社会に関する知識はきわめて平板・単純・お粗末である。
天文学や生物学への彼のアプローチは、社会の複雑な実相を見ることからの逃避なのではないかと思えるほどだ。
少し意地の悪い設問を考えてみよう。
セーガンが従事した宇宙探索事業には莫大なカネがかかる。
しかし、一方で地球上には栄養失調や医療施設の不備のために命を落とす子供が多数存在するのだ。
仮にある人が「何の足しにもならない宇宙船より、低開発国の子供を救うためにカネを使ったらどうか」と言ったらセーガンはどうしただろう。
「研究への先行投資を行えばいずれは十分な見返りがある」というような答え方をしたろうか。
しかし現在では先端的な科学研究に要する費用は余りに巨額で、将来それに見合うだけの見返りがあるとは信じられなくなっている。
実は、セーガンは『惑星へ』の中でそうした問いに答えようとしている。
NASAの全予算は米国国防費の 5パーセントだなどと述べて、宇宙探索の費用がとるに足りないものであることを強調している。
(似たような弁明は、『連帯』や『コスモス』でもなされている。)
だが死にかけた子供の救済と比較して宇宙探索が焦眉の急とは言えない事業であることも、彼には否定できない。
最終的に彼が使う論理は、要約するとこうだ。「宇宙探索は魅力的なものであり、多くの人々がそれに賛同してくれる。
人類にはフロンティアが必要だ。それが人類の新しい活力や飛躍につながるからだ。」
無論、こういう結論を出す彼の口調は、少なくとも学者として宇宙の様々な現象を啓蒙的に説明する時ほど歯切れがよいわけではない。
好意的に見れば、その歯切れの悪さに彼の良心が現れているのだとも言える。
しかし、それが逆に私には偽善的に見えるのだ。
私自身は、一方で飢えた子供がいても、先端的な科学研究に巨額のカネを使うことがあっていいと思う。
それは科学研究が将来への先行投資だからではない。
知的好奇心とはそういうものだからだ。
飢えた子供を救えるカネがあるのに知的好奇心の充足のために使ってしまう、そういう残酷さが世の中には否応なく存在する。
人間はその残酷さを背負ってしか生きられないと思うからだ。
(残酷さを維持・放置しろと言っているのではない。
念のため。)
いったいセーガンにそういう残酷さの認識があるだろうか?
セーガンの本を読んで感じるのは、この人は知的世界に充足しきっていて、世の中には知的ならざる、しかしそれなしでは社会が動かない人たちの分厚い層があるのだという単純な事実が見えないのではないかという疑問である。
例えば彼は『悪霊』の中で、アメリカの学校の反知性的雰囲気を是正しなければと訴えている。
私もその意見に基本的に反対ではない。
知的な子供がバカにされるような風潮が好ましくないのは当然だ。
しかし本当に知性的な子供であれば、周囲の風潮に流されることなく上級学校に進学して自分の能力に合致した勉強を続けるだろうとも思う。
少なくともそれを可能にする奨学金の類はアメリカでは十分整備されているはずだ。
だが一方で、知性をバカにすることによってプライドを保つ人たちが、そしてそういう人によってしか担われない領域の仕事というものがこの世には存在するのである。
社会学者ポール・ウィリスはその辺の事情を見事に明らかにしている。
世の中はセーガンのような知的エリートによってだけ動いているのではない。
セーガンは知的であることによってプライドを充足できる。
他方に反知性によりプライドを充足する人々がいる。
人間はプライドなしには生きられないという観点からすれば、どちらも等価である。
或いは、彼は『コスモス』で低開発国の子供が高等教育を受けられないと言って嘆いている。
確かにそれは知的世界に従事する人からすれば損失であろう。
だが、あらゆる地域で才能ある子供全員が上級学校に進学することは本当に百パーセントの善なのだろうか。
仮にそうなったら、貴重な労働力が奪われて地域社会が崩壊してしまうかも知れないのである。
これは机上の空論ではない。
現にアフリカでNGOが直面しているのはそうしたジレンマなのだ。
そしてこういった事実にセーガンが思い至らないという時、彼の知性の質そのものが問われねばならないだろう。
それは、小説である『コンタクト』(85年)からも読みとれる。
この作品はSFとしてそれなりに面白いし、また80年前後の米国インテリの知的モードを知る上でも興味深い(ただし捕鯨問題は出てこない)。
だが躓きの石はヒロインのエリーで、これがどうにも好感の持てない人物なのである。
ハーヴァードとMITに同時合格し前者を選んだ知的エリートとして設定されている彼女は、頭脳明晰ではあっても独善的で冷淡な性格の主にしか見えない。
最終的に四人の仲間と宇宙に飛び立って(この作品は少し前に映画化されたが、映画では筋を単純化するためにヒロイン一人が飛行士に選定される設定になっていた。
原作では世界各地の老若男女諸民族から五人が選ばれる)、宇宙人と会話を交わし、おのれの独善性を反省するというオチになっているが、この反省も自分の両親との関係など狭い領域に向けられるに過ぎない。
小説の語りは主にヒロインの視点に添いながら進められるので、彼女の限界はそのまま作者の限界ではないかという、多分セーガンが予想しなかったであろう疑念が湧いてくる。
『悪霊』に戻ろう。
反科学的な風潮や原理主義的宗教を批判し科学の価値を訴えるセーガンの姿勢そのものには、私も共感するところが多い。
日本人も他山の石として肝に銘じるべきだと思う。
しかしセーガンに考えてもらいたいのは、自分も宗教的原理主義者などと同じ過ちを犯さなかったかどうかということなのである。
彼は『悪霊』の中で、科学者も時として誤りを犯すと述べて、自分の誤りについても実例を挙げている。
だがその大半は、地球上の観察から予想していた天体の実体が、探索機を飛ばしてみたら違っていたといった類の話である。
例外は、中東戦争で油田に火が付けられた際に環境への悪影響を予想してはずれた事実を述べている箇所だけだ。
遡れば、『コスモス』(80年)で地球寒冷化説を唱えていたことも付け加えていいかも知れない。
地球温暖化説が猛威を振るっている昨今からすると隔世の感があるが、実は科学の仮説というものはこの程度なのだということは知っておいた方がよい。
現在の温暖化説にしても異論もあるのだが、なぜか温暖化しか騒がれない。
日本でも75年には『地球は寒くなるか』(講談社現代新書)なんて本が出ていた。
話を戻すと、セーガンが自覚しているらしい誤りは、データが揃って検証されれば明らかになるものばかりである。
その程度の誤りはどんな大科学者でも犯すことがあるし問題ではあるまい。
だが、彼は大嫌いなはずの原理主義宗教やナショナリズムに似た誤りを犯さなかったであろうか。
彼は『悪霊』でチャールズ・マッカイ『群衆心理の錯覚と狂気』から引用する。
これは十字軍について述べたもので、セーガンは学生時代にこの部分を読んで唸ったという。
しかし十字軍のような愚行は今も絶えてはいない。
私は、マッカイのこの文章は反捕鯨運動を描写するのにぴったりだと思う。
鯨の資源量を冷静に論じる雰囲気もなく、特定の動物に一方的に思い入れをし、自分の主義主張を通すためには手段を選ばない。
ヤハウェやキリストの代わりを鯨がしているだけだ。
エルサレムは南極海、もしくは「野生」という観念だろう。
先に私は、知的ならざる人々の分厚い層がありそれによって担われる仕事もあると述べた。
これには、お前は反知性主義を認めるのかという批判があるかも知れない。
それは違う。
私の考えでは、非知性的な説明原理は、限られた範囲のものであれば害にはならないし、放置しておけばいい。
セーガンが精力的に批判しているUFO信仰や占星術も、それで心理的に安定した生活を送れる人間がいるならやらせておけばいい。
ただ、それが外部への攻撃的な行動につながったり、学校教育や国家間の交渉のような場に持ち出されるとなれば話は別である。
そういう時こそが「知識人」の登場すべき場面であるはずなのである。
ところが米国では逆に知識人が反捕鯨運動のような反知性主義の片棒をかついでいるのだ。
十字軍への反省など微塵もない。
マッカイの警告は、過去の歴史を説明するためではなく、新しい誤りを犯さないためにこそあったはずだ。
なのにセーガンは『連帯』を始めとする著作で、反捕鯨主義という新しい十字軍を使嗾したのである。
彼はマッカイから何を学んだのだろう。
或いは、最後の著書のタイトルに引きつけるなら、セーガンは悪霊を野に放ったのだ。
その罪を自覚せずに死んだらしい彼に、反知性主義を批判する資格があったのだろうか?
(文中敬称略)
(訳者からの簡単な解説)
捕鯨問題には、「鯨・イルカ類は賢い」という神話がつきまとっている。
もとよりこの記事でイルカ類の知能の全容が明らかになったわけではないし、そもそも頭の良しあしを一律の基準で決定し得るかどうか、私は疑問を持っている。
ましてや、基準の曖昧な知能の度合いで捕獲の可不可が決定されるなどはナンセンスであろう。
ただ、ここでは鯨類に関する神話を崩す一助として、参考までに訳出してみたにすぎない。
タイトルの「愚鈍なバンドウイルカ」は、原文では"Tumbe Tuemmler"となり擬似的な頭韻を踏んでいるのであるが、日本語ではその種のニュアンスを出すのは不可能なので、意味だけとって訳しておいた。
〈イルカは、実際にはどの程度賢いのだろうか? ネズミの方が利口であることを、脳研究者がつきとめた。〉
伝説によれば、太古の昔、彼らは人間であり、人間に混じって目立つこともなく暮らしていた。
それがある時、ディオニュソス神の命令により海に入り、魚の外観をとるようになった。
しかし陸上に残った仲間である人間に対しては、彼らはいつも親しみを感じ続けている。
今日に至るまで、この人なつこい海の居住者は、人間の友人と見られ——そして動物界には稀な知能の所有者とされてきた。
例えば国際捕鯨委員会の一員であるイアン・スチュワートは次のように主張している。
「イルカは、陸上の我々人間がそうであるように、海中で最高度に発達した生物種である。」
微笑を口元に浮かべた遊泳の達人である歯鯨類〔イルカ〕は、卓越した賢さを有している、ということはつい最近まで科学者の間でも疑われていなかった。
しかし、アルゼンチンの海洋研究所「ムンド・マリーノ」でイルカ類の脳と知能を研究している二人の学者が、これに冷水を浴びせるような研究結果を公表した。
すなわち、海の賢者と言われてきたイルカ類は、より低い知能の主と格付けされねばならないというのである。
この二人の学者、〔ドイツ・〕ボーフムのルール大学の生物心理学者オヌア・ギュンテュルキュンと、ニュルンベルクの動物行動学者ロレンツォ・フォン・フェルゼンは、小型鯨類の脳を研究し始めた頃は強烈な印象を受けたという事実を隠さない。
「私はそれまであんなに大きな脳を見たことがなかった」とギュンテュルキュンは言い、「人間の脳はこれに比べれば原始的な感じがするほどだ」と述べた。
調査結果は、従来の研究者が発見して卓越した知能の証拠と見られてきた事柄を証明するように見えた。
例えば、体全体の重量に対する脳重量の割合は、認知能力の評価基準となっているが、極地以外のあらゆる海に生息し最もよく知られたイルカ種である大型のバンドウイルカ(Tursiops truncatus)の場合、チンパンジーにおける割合より明確に高く、人間よりわずかに低いだけである。
感激した鯨類研究者たちは、脳の他の数値からも、イルカ類が人間の精神上の兄弟ではないかと予感したのだった。
例えば、大脳皮質の表面から見える面積に対するシワを含めた全面積の割合は、鯨類では非常に高いのである。
人間の場合、脳のシワは高い知能の証拠と見られているのであるから。
しかし、イルカのホルマリン漬けの脳を薄く切って顕微鏡で観察し、解剖学的な研究をさらに重ねていくと、ギュンテュルキュンとフェルゼンは失望することになる。
▲歯鯨類は、大脳に対して大脳皮質(Cortex)の重さがきわめてわずかである。
▲大脳皮質は、進化史上最も新しく獲得された部分であり知能の宿る場所であるが、イルカ類にあっては極端に細胞数に乏しく、薄い。
およそ 1.5ミリメートルで、人間の半分しかない。
▲脳皮質の解剖学上の細部構造は——陸上の哺乳類と比較して——かなり単純なようである。
いくつかの皮質層がほとんど分化しておらず、成長した個体では、層が完全に欠落している。
無論、バンドウイルカの新生児ではこの層はまだ存在している。
ギュンテュルキュンとフェルゼンは、鯨類の脳は、かつて陸上の哺乳類だったものが海中に移行した際に、徐々に退化したのではないかと推測した。
脳の全容は実験室での詳細な研究により明らかになるであろう、と。
両研究者はそこで、英国の神経解剖学者アンソニー・ロッケルとロバート・ハイアンズの研究結果を参照した。
80年代初め、ロッケルらは哺乳類の大脳皮質に小さな柱状構造を発見した。
その統一的な構造は際だっていて、表面から白質部分にまで達しており、基底部の厚さは数ミクロンしかない。
大脳皮質は、こうした何十万という隣接し合う細胞柱により構成されているのである。
ロッケルとその協力者らは、この細胞集合体の中にあるニューロンの数を数えた。
すると、ネズミであれネコであれマカク〔ニホンザルなど〕であれヒトであれ、大脳皮質の細胞柱は一つあたり平均して108の神経細胞を含んでいた。
——この数字は、陸上の哺乳類にあってはばらつきの極めて少ないバイオ定数である。
ギュンテュルキュンとフェルゼンが鯨類の大脳皮質の様々な部分をプレパラート化して得たデータは、これに比べると著しく劣っていた。
イルカの細胞柱には一つあたりおよそ30の神経細胞しか含まれていなかったのである。
——地上の哺乳類のざっと3分の1に過ぎない。
イルカの脳は極めて大きいが、三つの部分の占める割合が高い。
まず中脳の聴覚中枢。
これが発達しているのは、聴覚を用いて狩りをする動物すべての特徴である。
次が小脳で、ここでセンソモーターな〔感覚・運動双方の協調的な〕学習が行われる。
最後が前脳の基底神経節で、これは動作を制御する機能を持っており——イルカはこの部分が巨大に発達しているので、シンクロナイズドスイミングのような技巧的な泳ぎには長けているわけである。
ギュンテュルキュンとフェルゼンによれば、バンドウイルカの学習能力には、こうした研究結果に矛盾するところも一部見られる。
イルカたちはほんの数時間の訓練で、フリッパー・ショウで観客から賛嘆されるようなアクロバティックな芸を身につける。
また、トレーナーの身振りによる指示に従って、複雑な動作を連続して行うことができる。
しかし水中スポーツの得意なイルカたちも、それ以外の事柄に関しては理解力に乏しい。
例えば、三角形と四角形を区別することができるようになるまでに、彼らは数カ月を要する。
ギュンテュルキュンによれば、ネズミ、そしてハトもこれと同じことを学習するし、「しかもイルカより早い」そうである。
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* 縦書き原稿から横書きへの変換のため、一部の漢数字を算用数字に変更してあります。)
(新潟大学人文学部教授)
5 カール・セーガンの悪霊
・『エデンの恐竜——知能の源流をたずねて——』(The Dragons of Eden—
Speclations on The Evolution of Human Intelligence, 1977:秀潤社)『エデ
ン』と略記。
・『サイエンス・アドベンチャー』(Broca's Brain, 1978:新潮社)『アド』
と略記。
・『コスモス』(Cosmos, 1980:朝日新聞社)
・『コンタクト』(Contact, 1985:新潮社)
・『はるかな記憶 人間に刻まれた進化の歩み』(Shadows of Forgotten
Ancestors, 1992:朝日新聞社)『はるか』と略記。
・『惑星へ』(Pale Blue Dot, 1994:朝日新聞社)
・『カール・セーガン科学と悪霊を語る』(The Demon-Haunted World: Science
as a Candle in the Dark, 1996:新潮社)『悪霊』と略記。
地球上の生命の本質を調べることと、地球以外の生命を探すこととは、「私たちは、いったい何者なのか」という一つの質問の二つの側面を探ることに他ならない。
(『コスモス』)
リリーが招待されたのは、彼がイルカの知性について研究していたため——特にイルカとのコミュニケーションを行うべく苦心していたためであった。
イルカとコミュニケーションを持とうとする彼の研究が、ある意味で——イルカは地球上で人間以外の唯一の知的な種であろうから——将来、万が一にも恒星間通信が確立された場合、異星の知的生物種とコミュニケートするにあたって、我々の直面する問題への一つの解決法となるかも知れないと考えられたのである。
私としては、万が一宇宙からのメッセージを受信したときには、それを理解する方が、イルカ語(かりにそういうものがあるとして)を理解するよりはずっとやさしいのではないかと思っているが。
クジラの脳のサイズは、人間のそれよりも遥かに大きい。その脳皮質は回旋状をしている。
しかも彼らは、少なくとも人間と同程度の社会性を持つ。人類学者は、人間の知能の発達はつぎの三つの要因に主として依存していたと考えている。
すなわち、脳の容積、脳の回旋性、そして個体同士の社会的相互作用である。
つまりクジラ類は、これら三つの条件において人間よりも平均的にすぐれている——時によっては遥かにすぐれていることになるのである。
(…)〔「鯨の歌」に示された〕クジラ類の知能が、叙事詩や歴史の代替物あるいは社会活動の精巧な暗号のかたちになって発達しているとは考えられないだろうか。
クジラやイルカは、文字発明以前の人間のホメロスのように、はるかな深海の深みの中で膨大な年月にわたって繰り広げられた偉大な行為を、そうして物語っているのではないだろうか。
これまで述べてきたイルカのコミュニケーションの実態は、彼らが私たちのような高度にシンボル化された言語を持たないことを示している。
(…)イルカたちは、現在起きつつある出来事について情緒的表現をすることしかできないらしい。
(…)イルカのコミュニケーションには過去や未来の物事を示すシンボルなど存在しない。
/では、イルカたちは、個体に共通した記憶や行動以上の何らかの形で、『文化』を保持することができるのだろうか。
あるいは私たちのように、過去の出来事に思いを巡らせ、それを美化したりすることがあるのだろうか。
私はできないと思う。
彼らにそのようなことができることを示す証拠はまったくないからだ。
/またイルカたちには、私たちの豊かな文化の基礎となっている『世代をこえた経験の伝達』の機構も存在しないようだ。
つまり、集団としての経験を文字や口伝の形で後の世代に伝え保持していく能力である。
クジラ類は我々のために、きわめて重要な教訓を提示している。
(…)我々は、組織的に彼らを虐殺してきた。
(…)なぜごく最近まで、この恐るべき残虐行為に対してたいした非難の声もあがらず、クジラに対して同情の念も湧かなかったのか?
/クジラ産業には、生命に対する尊重の念がほとんど見当たらない——これは、人間に深く根ざしている欠点だが、勿論、クジラには限らない。
人間対人間の戦争ともなれば、一方は他方を互いに人間ではないと宣言し、そうすることによって、人間同士が殺し合う際に自然に湧き出てくる疑惑をなくそうとするのが普通である。
ナチスはかつてこの目的を、征服する国の人間を〈亜人間〉と宣言することによってきわめて効果的に達成した。
(…)アメリカでも、他の人間を〈亜人間〉と差別することが、初期のアメリカ・インディアンとの戦いから、ごく最近の軍事行動にいたるまで、軍と経済マシンとのかくされた潤滑油であった。
古い文化を持った他国民が、敵だというだけの理由で、サルとかトンガリ頭とかヤブニラミなどと口汚くののしられた。
農水省高官が「……〔鯨は〕牛と同じ哺乳類なのに、なぜ食べてはいけないのか」と発言しているのに出くわした。
私は、ハッ、同じ哺乳類なら、人間を食べてもいいのかな、と日本人のオカシなレトリックを大いに楽しんだものだ。(『中央公論』86年6月号)
普遍的なのは、食人行為そのものではない。
むしろ「他者」を食人者と考える現象である。
重要な問題は、人間が人間の肉を食べる理由ではない。
むしろ、ある集団が他集団を食人者と規定する理由である。
解明すべきなのは、観察可能な習慣ではない。
むしろ、ある観念体系の一側面なのである。
(『人喰いの神話』、岩波書店、原著79年)
この大量殺戮はしばしば、ユダヤ人が食人を行っているという告発にしたがって行われた。
このパターンは重要である。
ある共同体が、その内部統合の根拠としたまさにその行為を外部に投射し、これを告発することによって、共同体の境界が創出されるのである。
そのとき、内部の抑圧と外部への投射という心理過程と同時に、投射が成功すればするほど投射された外部の脅威に対して共同体を自己防衛せねばならぬ必要が強められるというイデオロギー過程が並行して作動する。
(『征服の修辞学』、法政大学出版局、原著86年)
〔異星人は地球上の生命体とは性質を大きく異にするであろうから、彼らと接触するには我々は人間第一主義や国家主義を克服しなければならない、したがって〕その手はじめとして、まずクジラやイルカと友好関係を結ぶことによって、真のヒューマニズムを実現するプログラムをスタートさせるよりよい方法は、当面見当たらないのである。
これに似通った考え方〔あらゆる生命に敬意を払うという宗教観〕は、(…)菜食主義を培うことに役立っている。
だが、植物を殺す方が、動物を殺すよりもましだという考えはどこから来たのか?
/人間というものは、他の有機体を殺すことによってしか生存できない。
/しかし人間はその代わりに他の有機体を育てることによって生態学的バランスをとることができる。
森林の育成を促進したり、経済的、産業的価値を持つからというので、アザラシや鯨のような有機体を絶滅させてしまうのを阻止したり、無計画な狩猟を禁止したり——要するに、地球の環境を全住民に住みやすいものにすることができるのである。
ある種のクジラが出す音は、歌だといわれているが、しかし私たちはその音の本当の性質や意味をまだ知らない。
(…)ザトウクジラの歌を、音の高低による言葉と見なすと、一曲の中に含まれる情報は10の6乗ビットほどになる。
これは古代ギリシャの大叙事詩『イリアッド』や『オディッセイ』に含まれている情報とほぼ同じである。
クジラの歴史が始まって以来、ほとんど常にクジラは全地球的な通信網を持っていたと思われる。
(…)/ところが19世紀になって蒸気船が開発され、それらの船は騒音公害をばらまき始めた。
(…)クジラたちの通信は次第に困難になり、通信の届く距離は着実に短くなっていった。
(…)/私たちはクジラを互いに引き離してしまった。
その上、私たちはもっとひどいことをしている。
私たちは今日までクジラの死体を売買し続けてきた。
人間はクジラを狩り、殺して、その死体を口紅や工業潤滑油の原料として売りさばいてきた。
/このような知能の高い生物を組織的に殺すのは極悪非道だということを、多くの国が理解するようになった。
しかしクジラの売買は今も続いており、それは主として日本、ノルウェー、ソビエトによって推進されている。
この基準〔鏡に写った自分を識別する能力〕から見て、チンパンジー、オランウータン、イルカには意識も心もあるのだ、と〔心理学者〕ギャラップは結論する。
私たちはあまりに小さく、また私たちが設けた国境はあまりにあいまいで、地球と月のあいだにいる宇宙船から見ることなどできない。
こうしてみると、私たちが執着するナショナリズムといったものに、何の根拠もないことが分かる。
(『惑星へ』)
どんな時代にも、その時代特有の愚行がある。
(…)そこにあるのはある種の狂気だ。そしてその狂気は、政治的、宗教的、あるいは双方が絡み合った大義のもとに作り出されるのである。
付録:イルカの知能に関するSpiegel誌の記事
以下は、ドイツの代表的な週刊誌"Der Spiegel"98年第35号(8月24日)に掲載された記事の全訳である。
愚鈍なバンドウイルカ