(日本鯨類研究所 1999年発行 「捕鯨及び反捕鯨運動」より)
マーチン W.コーソン
海産哺乳類コンサルタント
現在のニュージーランドのIWCにおける立場は保護主義、反捕鯨であるが、常にその立場をとっていたわけではない。
ニュージーランド領海近辺での商業捕鯨は1790年代後半に始まった。
1845年までにニュージーランドは約100の捕鯨基地を有し、セミクジラやザトウクジラを捕獲していた。
1960年のザトウクジラ資源の枯渇や1964年に鯨油の急激な価格崩壊によってニュージーランドの商業捕鯨は終焉を迎えた。
1964年のニュージーランド捕鯨産業の崩壊まで、IWCでのニュージーランドの立場は、何よりも科学的助言を優先させ、自国の産業を保護するために公海での操業を制限しようとするものであった。
ニュージーランドは1968年にIWCから脱退したが、1976年に再加盟した。
再加盟後はより保護的な立場をとりながらも、将来この資源を利用する余地を残していた。
したがって、ニュージーランドの捕鯨政策は科学的助言によって定められるものであった。
が、この政策は1979年国民からの圧力及び科学的助言が適切ではなかったという認識から変化し、ニュージーランドは商業捕鯨モラトリアムを支持する決定をおこなった。
1980年代にかけて、この絶対保護を掲げる反捕鯨政策は強化され、グリーンピースや他のNGOの影響が急速に強まり、またニュージーランド政府内で捕鯨の管轄が農水産省から自然保護省へ移動した1990年代にも続いている。
1987年に自然保護省が設立された折り、その政策担当者には前グリーンピースの活動家が含まれていた。
ニュージーランドの強硬な反捕鯨、保護主義政策は国内の漁業産業、生物学者、マオリ族代表からの厳しい批判にさらされている。
このような批判は、他のすべての多国間漁業協定で、ニュージーランドは科学に基づいた議論を強く主張しているのに、IWCではこの科学議論を放棄していることを指摘している。
IWC事務局長までもが「IWCでのニュージーランドのいくつかの発言は、資源管理で積み上げられてきた科学的知見を理解していないのではないかと科学小委員会のメンバーを憂慮させている」と述べている。
加えてニュージーランドの政策は、マオリ族との対等関係の保持及び協議の履行というワイタンギ条約に基づく義務を怠っており、マオリ族のこの問題に関する本質的な主張はIWCでのニュージーランドの立場に反映されていない。
ニュージーランドの捕鯨政策は、IWCの枠内で鯨類に最大限の保護を与えるというものである。
が、保護により多くの鯨類資源が回復し、資源が厳格な管理の下での捕獲に耐えうることに鑑み、もし管理された捕鯨の再開を阻んでいる既存の障害物が取り除かれるなら、ニュージーランドはIWCの構造を弱体化させるというリスクを負うか、あるいは捕鯨再開を黙認するしかないであろう。
はじめに
マオリ族の伝説によれば、約450年から500年前に先祖の故郷からニュージーランドへ到着してすぐに、アラワとタイヌイの航海用カヌーの乗組員は、両村間の境界に座礁したマッコウクジラの所有権を巡って激しく争ったと伝えられている。
ヨーロッパ人との接触以前のマオリ族は海に依存し、海洋民族ではあったが、海で鯨を求め、銛を打つといった捕鯨の民ではなかった。
マオリ族の鯨の利用は座礁鯨に限られていた。
鯨の群れが沿岸に向かって寄せてくれば、座礁を促す歌や祈りがささげられ、座礁鯨は厳格な社会的規範にしたがって皮や肉が切り分けられ分配された。
この地域はやがて捕鯨船が夏期に補給や修理をおこなう基地となった。
生まれながらの海洋民であったマオリ族は、捕鯨船の乗組員としてしばしば参加し、地元の部族は野菜、魚、豚肉を捕鯨者に供給する抜け目ない調達係として成功した。
一般的に、捕鯨者とマオリ族の関係は良好であった。
時には、捕鯨者は婚姻関係を結ぶことによって親密で、便益をもたらす長期的な関係を部族と築くこともあった。
が、マオリ族との関係は常にむつまじいものというわけではなかった。
1809年には「ボイド号」のョーロッパ人乗員および乗客のほとんどが、乗員であった若いマオリ族の酋長が不当な扱いを受けたという件で報復に会い、殺害されたことがある。
アイランズ湾を利用する捕鯨船は次第に増加していった。
1830年代までには100隻以上の英国、米国や他のヨーロッパ捕鯨船の一時的な基地となった。
アイランズ湾の入植地であるコロアレカ(現在ではラッセルとして知られる)は「この世の同じような規模の町でごろつきの数が一番多い」というよくない評判がたった。
1830年代の終わりにはアイランズ湾を遠洋捕鯨船団が利用することは減っていった。
1840年に、その後の国の発展に後々まで影響を与える一つの事件があった。
ニュージーランド建国の条約であるワイタンギ条約が、マオリ族と英国政府の間で交わされたのである。
この条約は英国に国の統治を任せる一方で、マオリ族に「彼らが共同または個人で所有する土地、財産、森林、漁業や他の所有物を彼らが所有したいと望む限り、その独占的所有権を認める」というものであった。
マオリ族によるこの条約の解釈では、「土地、村、家やすべての貴重な所有物は・・・」とされ、座礁鯨は貴重な所有物に含まれる。
条約の重要な原理はマオリ族と政府のパートナーシップにも言及しており、条約にかかわる全てのことがらについて相互の協議や協力を示唆している。
アイランズ湾に定住する住民が増加するにしたがって、捕鯨者にまわすことのできる食料の量が減少し、米国、フランスや他国の捕鯨者の船荷は英国植民地政府の関税の対象となった。
マッコウクジラを求めて遠洋捕鯨船団はニュージーランドを去り、当時有名であった日本北部やべーリング海の未開拓の漁場をもとめて北上し、ハワイが重要な捕鯨基地となった。
この頃、ミナミセミクジラの豊富な資源を利用することによって、沿岸湾捕鯨1産業が栄えることとなった。
ヨーロッパ人とマオリ族の乗組員はクジラを捕獲し、浜でクジラを解体し、鯨油や骨を仲買人に売っていた。
セミクジラ捕鯨は1839年をピークに、その後資源の過剰利用により急速に減少した。
マッコウクジラ漁の減少により、沿岸湾捕鯨がその後20年、ニュージーランドの近海捕鯨の中心的存在となり、ニュージーランド南島の沿岸部で操業を始めた。
最初の捕鯨基地は南西のプリザべーション入江付近、また、1820年代にはクック海峡沖のトリー水道にも建設され、その後20年間に同様の基地が急増した。(図2:ニュージーランドの沿岸湾捕鯨基地(一部)1827‐1964)1845年までにはニュージーランドには約100の沿岸湾捕鯨基地が存在し、セミクジラやザトウクジラを捕獲していた。
沿岸湾捕鯨のピークは1838年から1839年であった。
が、セミクジラの捕獲量はあまりにも多く、1850年頃には乱獲によりセミクジラ漁は崩壊した。
わずかな沿岸湾捕鯨が20世紀初頭まで続けられた。
プレンティー湾のテ・ケハにおいて地元のマオリ族捕鯨者が手銛で最後のクジラを捕獲したのが1925年であった。
1895年にはニュージーランドのもっとも才能のある捕鯨者の一人であるH.F. クック氏が、浜に近い狭い海峡に鉄製の網を張るという方法で北島のファンガムムにおいてザトウクジラの捕獲を始めた。
クジラが網にかかれば、手銛で止めを差し、岸へ引き上げて解体した。
1910年にクック氏は蒸気エンジンを装備したキャッチャー・ボートを購入し、海岸の鯨体処理場を機械化した。
一年後、トリー水道出身のぺラノ一族がエンジンを積み、軽量捕鯨砲を搭載した10メートルの高速ボートを使い始めた。
ザトウクジラを捕獲するニュージーランドの捕鯨産業は1960年に資源が崩壊するまで続いた。
資源はトンガ、ニュージーランドの2基地、ノーフォーク島、東オーストラリア、南氷洋での操業による捕獲圧に耐えられなかった。
1956年に設立されたグレート・バリアー島基地は1961年には閉鎖した。
ぺラノ一族はザトウクジラからマッコウクジラ漁に乗り換え1964年まで操業を続けたが、世界市場で鯨油価格が急落したため、廃業を余儀なくされ、ニュージーランドの捕鯨産業は終焉を迎えた。
大英帝国に組み込まれる以前のニュージーランド捕鯨史は西欧文化とマオリ文化が手をたずさえて織りなしたもので、ニュージーランド商業史の重要な1ページをなしている。
IWC内部で持たれている様々な見解の中で、ニュージーランドは鯨保護派の急先鋒の立場を取っている。
商業捕鯨に反対する主義をとり、世界中の鯨を捕獲させないようにするための努力をしているが、このようなニュージーランドの態度は初めからこうだったわけではなかった。
18世紀の終わりには、最初の商業捕鯨者がニュージーランド水域に到着し、ヨーロッパによるニュージーランドの植民化という歴史の中で消し去ることができない痕跡を残している。
捕鯨はニュージーランド初期の主要産業のひとつであり、通商や他の産業の牽引車であった。
1840年には、シドニーから約224,000ポンドに値する鯨油が輸出され、その半分以上がニュージーランドで加工されたものであると考えられている。
捕鯨者はマオリ族と婚姻関係を結び、その子孫が1964年に最後の捕鯨基地が閉鎖になるまで捕鯨を続けていた。
ポリネシア海洋航海者の保護者鯨
ニュージーランドは多くの大型鯨類の回遊ルート上にあり、鯨が北上又は南下する際に沿岸近くに来遊する。
ニュージーランドのマオリ族にとって鯨は特別に重要な存在である。
鯨は海洋航海者の守護者であると信じられており、座礁鯨は海の神であるタンガロアから陸上に住む人々への贈り物と考えられていた。
この贈り物は人々によって利用され、座礁鯨の慣習的利用は肉の消費、燈用及び木材保存用の鯨油の利用、鯨の骨やマッコウクジラの歯の様々な道具、武器、装飾品などへの加工を含んでいた。
それゆえ、鯨は精神的な重要性のみならずかなりの物質的な重要性をも持っていた。
捕鯨史
当時、ヨーロッパの捕鯨者が太平洋にその活動の場を拡大したため、彼らがニュージーランド近海の手つかずの鯨資源を発見することは時間の問題であった。
ニュージーランド近海で最初に操業したと記録されているのは、1792年のエボール・ブンカー船長の「ウィリアム&アン号」であった。
1801年までにニュージーランド近海での捕鯨操業が大きく成長した事がわかっている。
(図1:ニュージーランド周辺の捕鯨漁場)ニュージーランド北島の北東海岸部にあるアイランズ湾の波の穏やかな海岸では豊富な飲料水や帆柱用の木材が供給できた。
ニュージーランド捕鯨産業の保護
ニュージーランドの国内産業を保護するために、沿岸3マイル以内での遠洋捕鯨船団の操業を禁止する捕鯨産業法が1935年に制定された。
実際には、ほとんどの鯨が3マイル又はそれ以上の沖合いで捕獲されていたため、この法律は何の効果もないジェスチャーに過ぎなかった。
また、遠洋漁期の解禁は沿岸漁期よりも早かったため、地元捕鯨者が操業を始める以前に鯨類資源がすでに枯渇することすらあり得た。
1940年代及び1950年代には、ザトウクジラが沿岸捕鯨の対象捕獲種であったが、遠洋捕鯨ではマッコウクジラやナガスクジラ類が対象鯨種であった。
しかしながら、シロナガス換算制2(BWU)の導入によってナガスクジラ類の乱獲が進み資源が激減したため、ザトウクジラが南西太平洋及び南氷洋での遠洋捕鯨の対象鯨種となることは避けられなかった。
・鯨の科学的調査の支持
1958年のニュージーランドの戦略は、科学的助言に反して設定された南氷洋での捕獲枠に反対することも含んでいた。
この時期のニュージーランド政府のIWCへの関わりは基本的に地域的及び経済的なものであった。
鯨の科学的調査や科学的助言の尊重を促進するため、また助言が政治化する危険を減らしたいという希望ともあいまって、ニュージーランドは1958年に独自の立場を貫いた。
それは科学及び技術小委員会において、ニュージーランド代表が自ら参加を拒否するというものであった。
これは当時ニュージーランド代表であったフランク・ホーナー氏によって「このような対応の背景には、もし科学小委員会が科学者のみで構成されているならば、技術的または政治的意見を考慮する事なく、純粋に科学的事実に基づいた判断をより合理的に下せるであろうとの配慮である。」と説明されている。
このようなニュージーランドの立場は他の加盟国には理解できないものであり、「愛すべき奇行」であると考えられていた。
不幸にも、1950年代の半ばまでには科学委員会の政治化は事実となり、多くの科学者が第一には自国の産業のために発言し、鯨類資源の効果的な保全は二の次であった。
ニュージーランドの立場は原理に基づいた行動であり、また、国内での専門的な科学的知見の存在を認めようとしなかった政府の姿勢の反映であった。
政府は専門家が国内にいながら、そのような専門家を会議に参加させたがらなかった。
ニュージーランドの立場は資源の枯渇という科学的証拠に根ざしていた。
そうであれば、国内の科学者の研究が政府によって認知されなければならないはずだが、ニュージーランド政府代表の外交的議論を擁護するために、専門家の意見が求められるようになったのは、1950年代の後半になってからである。
1950年代にビル・ダービン博士によって、鯨類資源の回遊、季節性、生物学及び鯨類行動学などの研究がなされ、1960年代にはK.アレン博士はIWC3人委員会3のメンバーになり、ガスキン氏とコーソン(著者)がザトウクジラ漁からマッコウクジラ漁への転換から産業の終焉までを網羅する研究をおこなっていた。
これら全ての研究は政府にとって価値ある資料であった。
しかしながら、科学的調査の結果が無視されるようになるにつれて、その挫折から科学への支持が萎えてしまった。
1946年と1968年の間にニュージーランドが一貫して、利己的ともいえる保全主義的捕鯨政策をとっていたこと、また、その代表が会議に熱意をもって臨んでいたからといって、政府が捕鯨政策に本腰で取り組んでいたことの現われであるとは言えない。
政府官僚は、ニュージーランドの捕鯨産業が経済的には微々たるものにもかかわらず、必要以上の配慮を受けていると感じていた。
捕鯨のプライオリティが低いことはニュージーランド政府代表がIWCの最初3回の会議に欠席したこと、また、1963年の捕鯨産業終焉の前年まで正式なコミッショナーが参加しなかったことから明白である。
それまでは、外務省の担当者が代理として出席していた。
1964年、鯨油価格の下落やニュージーランド近海でのソ連遠洋捕鯨船団の操業などの影響で、53年間操業を続けてきたペラノ一族は捕鯨業から撤退することを決めた。
IWC加盟国としてとどまる直接的な利害がないにもかかわらず、ニュージーランド政府は自国近海の鯨類資源が回復し、捕鯨産業が復活する場合に備えて、IWCにとどまることを決断した。
ニュージーランド政府は、健全な科学に基づいた判断が必要とされるために調査を支援する姿勢をみせていたにもかかわらず、ひとたび自国の捕鯨が終わってしまうと、多くの政府職員はIWCメンバーとして貢献することを重視していたが、政府としてのIWCへの関与の度合いは低下していった。
同時に、政府は標識調査や研究のために引き続き予算を付けることやIWCでの分担金増加にはどのような理由であれ消極的になっていった。
IWC内でニュージーランドが急速に無力化しているという風潮がみられ、もはや捕鯨国ではなくなり、IWC加盟国でいることの義務やコストに見合う利益がないと考えられていた。
ニュージーランドは、その脱退がさらなる脱退を招くのではないかという他国の心配を尻目に、1968年にIWCを脱退した。
ニュージーランドでは、米国の前例に従い、国内法で鯨類製品の輸入を禁止する規制を導入した。
この行動は国内産業になんら影響を及ばさなかったため、象徴的な意味が主であった。
しかし、ニュージーランド政府は、現状ではこれが精一杯であると考えていた。
1978年にはニュージーランド領海内の全ての鯨類、ひれ脚類を保護するための海産哺乳類保護法が公布された。
1975年まで、ニュージーランドがIWCに再加盟する可能性は、加盟によって得られる利益が何もないため、皆無であった。
1972年のストックホルムで開催された国連人間環境会議での商業捕鯨の10年モラトリアムの提案は、国民の蛋白源を鯨肉でまかなっていた日本がその代替蛋白源を何にするのかという問題を生んだ。
日本の食文化に対して無知であったニュージーランドの農民出身の政治家は、羊肉や牛肉を対日貿易の目玉とすることで利益にあずかろうとする策略をすぐに練ったが失敗に終わった。
政治家や特にグリーンピースやプロジェクト・ヨナのようなNGOの圧力、また商業捕鯨に対する一般民衆の強い反対気運が盛り上がりを見せたことから、ニュージーランド政府は国際会議の場で捕鯨問題に積極的に関与する姿勢を見せる必要に迫られた。
当時鯨は環境保護運動のシンボルとなっていた。
鯨類保護に積極的に関与する国が環境問題に対して配慮ある健全な国と見なされた。
鯨類をみたことのない何千ものニュージーランド国民にとって、鯨類資源の枯渇した状況は「人類による環境破壊のシンボル」であった。
ニュージーランドにおけるグリーンピースの先駆的メンバーであるマイク・ドナヒューは「海の巨人である鯨を救えないなら、この地球を救うことなど不可能なのではなかろうか」と述べている。
IWC内の力関係の変化や、物事を力づくででも変えようという政治的意思が働くようになったこの会議を通じて、鯨類保護運動の目的を達成することができるという認識などが、ニュージーランドのIWC再加盟を促した。
しかしながら、ニュージーランド政府は「鯨を救え」哲学を無条件で受け入れたわけではなかった。
1970年代に政府は環境問題の経済的、商業的可能性を見出していた。
また、再加盟はニュージーランドが捕鯨再開の方向に動いた場合の方便でもあった。
1978年のニュージーランド代表団はブリーフィングで以下のように指示を受けていた。
「長期的には鯨類資源が回復するという期待、かなりの数のイワシクジラ、ミンククジラ、また、それらよりやや少ないもののマッコウクジラが、我が国の領海内に生息しているという地理的背景から、我が国は将来条約のガイドラインにそってこの天然資源を利用するという可能性を残しているのである。
(外務省ファイル104/6/9/4 pt13)」。
国内ではNGOが捕鯨問題に関して急速に活動的になり、この目的を達成するために抗議文書作戦を展開していた。
抗議文書作戦はしばしば学校をターゲットとして展開され、子供たちからの「鯨を救え」文書が、捕鯨問題の管轄官庁であった農水産省の政府関係者に圧力をかけるために、山のように届けられるというものであった。
外務省は1980年代に捕鯨問題ほど多くの抗議文書を受け取ったプロジェクトはなかったとみている。
1976年に再加盟した折り、ニュージーランドのコミッショナーはIWC本会議で「資源保護が主要なニュージーランドの関心事であり世界的急務と考えている。
政府はそのためにふさわしい手段を思慮している」と述べた。
ニュージーランドの捕鯨に関する立場は、急速に妥協を許さないものとなり、「一般的に鯨類はその種の存続が脅かされていなくとも、捕殺されるべきでない(外務省ファイル104/6/9/4 pt13)」という意見へと変化した。
この鯨類保護原理主義の立場にもかかわらず、ニュージーランドは日和見主義者であった。
必要に応じて海産哺乳類が利用できるように、その利用の権利を放棄することもなく、将来の直接・間接の経済的チャンス、例えば領海内の外国籍船舶に捕鯨の権利を譲渡するといった機会、を逃すようなことは拒否していた。
1976年から1978年の間、ニュージーランド政府の公式の政策は厳密に科学的助言に基づいて決定されていた。
例えば、もし資源が健全だということが科学的に明らかになった場合には、商業捕鯨は許そうというものであった。
ただ、不確実性がある場合には、ニュージーランドはもっとも保守的な選択をすべきであると主張している。
決定は科学に基づいておこなわれるべきであるという考えを擁護する立場から、ニュージーランドは1978年、国際鯨類調査10年計画(IDCR)4にトンガ付近のザトウクジラ資源調査用の費用として1万ドルを拠出した。
当時ニュージーランドによって取られていた立場とは対照的に、倫理哲学やモラルに根差した絶対保護論がNGOの間で急速に高まっていった。
1977年のニュージーランドの立場は鯨の捕殺と他の動物の屠殺に倫理的差違はないというものであり、捕鯨に関して言えば商業捕鯨自体が罪悪であるという考えはなかった。
世界有数の羊などの畜肉生産国の意見としてはごくあたりまえのものであった。
NGOが捕鯨者に捕鯨を止めさせようとかなりの圧力をかけていた時期、両者の関係が急速に対立的になり、互いに相手の主張に神経をとがらせるようになることは避けようがなかった。
かっての捕鯨国で、自国領海内の鯨資源の利用に関心がなかったニュージーランドは、IWC内で仲介役の役割を果たし、保護派利用派双方の利害を調節し、IWCの重要な進展に貢献した。
しかしながら、仲介役という立場にもかかわらず、ニュージーランドは保護派と同盟を結んでしまった。
政府代表団は資源保護という目的を達成すべく保護主義一派と相談して戦略をたてるように指示された。
この政策変更を正当化するため、ニュージーランド政府は世界世論が鯨類の絶対的保護を支持していると主張した。
当時ニュージーランドのコミッショナーであったイアン・スチュアートによれば、政府内では捕鯨政策の変更についての正式な話し合いはなかった。
スチュアートは個人的に考慮した結果、科学的根拠にのみ頼っていたのでは、ある種の鯨類は絶滅を免れない、このような事態をさけるためには、絶対的な保護が必要であるとの結論に達した。
時の外務大臣はスチュアートの助言に同意し、「これ以上の外交政策はない」と述べた。
これに続いた、労働党(1984年)、国民党(1990年)政権はこの政策を全面的に支持した。
スチュアートは「首相(デヴィット・ランゲ)に捕鯨政策について説明した折り、個人的な確信としてニュージーランドは全面的保護をおこなうべきであると述べた。
加えて、首相の本件に関する政策について、また、自身がコミッショナーとして残るべきかを尋ねたところ、首相は即座に全面的な支援を現してくれた。
私にはそれ以上の指示は必要なかった。(Lynch 1996)」
これ以後、ニュージーランドのIWCでの方向性は決定的となった。
概して、科学的助言なしで決定を下し、道徳的、倫理的議論でその立場を擁護する方向へと動いていった。
1970年代には様々な要素、例えば、原住民生存捕鯨、小型鯨類、人道的捕殺、国際監視員制度、インド洋、南大洋サンクチュアリなどが話題となった。
これらは現在も論争トピックであり、ニュージーランドは熱心に保護主義の立場を貫いている。
ニュージーランドは科学的助言ではなく、それ以外の情報源に頼っているところが多い。
政府代表はグリーンピースやIFAW、EIAなどNGOから情報を受け取り、利用しているのである。
1980年、ニュージーランドのグリーンピースの先鋭的活動家であるマイク・ドナヒューは、グリーンピースに自分が参加できる可能性がないか打診した。
彼はロンドンのニュージーランド高等弁務官にチリの捕鯨活動の証拠を示し、この事件をIWCで取り上げてもらえないか依頼した。
1980年から1982年の間、また1984年から1987年にドナヒューはニュージーランドの政府代表団として参加を許された。
グリーンピースメンバーの代表団への参加はニュージーランドの保護論の信憑性を弱めるものとして歓迎されず、捕鯨国の反感をかった。
しかしながら、NGOグループ内の幅広い人脈を活用して、ドナヒューはその筋の有力情報収集センターとして機能することができた。
1987年には、海産哺乳類の管轄権は農水産省から新設の自然保護省へと移り、ドナヒューは同省の政策担当官に任命された。
ドナヒューは1991年のインタビューで、「まだ、自分の幸運を信じられなかった。自然保護省での仕事は基本的にボランティアでやっていた仕事と同じであるが、給料と政府代表というステータスを与えてくれた。」と述べている(Pacinc Way 91年2月号)。
1991年にはIWC年次会議がアイスランドのレイキャビクで開催され、クック博士のモデルに基づいた改訂管理方式(RMP)6が資源管理に健全な数学的基礎を提供したため同意され、承認された。
重要なのは、当時ニュージーランドのコミッショナーであったスチュアートがこのモデルに反対したことである。
このモデルがおそらく今まで計画された「漁業」資源管理でもっとも保守的なモデルであるにもかかわらず、チューニング・レべルが捕鯨のために設定されたことを理由に、彼はこのモデルに反対し、その実施をはかる採決で棄権票を投じた。
自身の決定についてのこうした説明の中で、スチュアートは今日も維持されているニュージーランドの捕鯨政策を簡潔に示している。
1994年にスチュアートの後継者となったジム・マクレイは前任者が定めた政策は変更しないという厳しい条件を踏襲している。
IWC事務局長レイ・ギャンべルは「IWCでのニュージーランドのいくつかの発言は、資源管理で積み上げられてきた科学的知見を理解していないのではないかと科学小委員会のメンバーを憂慮させている」と述べている。
1995年、ニュージーランドの漁業産業は日本がIWCで出したミンククジラを対象とする商業捕鯨再開要求を支持した。
国内のIWCブリーフィングでニュージーランドの水産業界の代表は、外務省の官僚に対して改訂管理制度(RMS)7実施を遅らせるという議論は論理的でないという意見を述べている。
長年、環境保護団体はニュージーランドの捕鯨政策が国民の90%以上によって支持されていると宣伝してきた。
が、これはかなり前の郵便による調査の結果を誇張して用いているのである。
この調査ではニュージーランドの人口の12%をも占めるマオリ族が除外されていた。
本稿の前部で述べたように、ワイタンギ条約の重要な要素は相互の対等な関係であり、また様々な問題に関して協議することであるが、捕鯨問題を考慮するに当たりこれは生かされなかったし、マオリ族がこの問題に関して本質的な議論をおこなっても、それはIWCでのニュージーランドの立場に反映されなかった。
近年のマオリ部族会議ではマオリ族をIWCのニュージーランド代表団に参加させること、またマオリ族のコミッショナーを任命することなどの決議が全員一致で採択されている。
多くの鯨類資源は、保護されてきたため回復している証拠も多く、資源がRMSに基づいた厳格な管理の下での捕獲に耐えうると考えられており、捕鯨再開の可能性は高い。
ニュージーランドがIWCの枠組み内での論争に参加しているという事実から、もし管理された捕鯨の再開を阻んでいる既存の障害物が取り除かれるなら、ニュージーランドはIWCの構造を弱体化させるというリスクを負うか、あるいは捕鯨再開を黙認するしかない。
捕鯨国としてのニュージーランドは、その小規模な産業が依存していた鯨類資源が健全に管理されることに関心を抱いていた。
国際捕鯨取締条約(ICRW)批准の頃までには、ニュージーランドに残っている捕鯨基地は1911年に設立されたぺラノ一族所有の沿岸基地が一つだけになっていった。
その後、第二の捕鯨基地がハウラキ湾のグレート・バリアー島にオーストラリア資本のノーフォーク島及びバイロン湾会社の子会社として1956年に設立された。
地元産業が拡大し、ニュージーランドのIWC加盟がこの競争の激しい産業へのさらなる参入を促すのではないかと期待されていた。
他の捕鯨国に比べれば、ニュージーランドは弱小捕鯨国であった。
捕鯨と科学
1964年にニュージーランドの捕鯨産業が崩壊するまで、「保全」とは鯨ではなく産業の保全を意味していた。
捕鯨政策の形成に利害を有する唯一の団体は捕鯨産業自身であり、また、産業に参入を考えている者であった。
1950年代及び1960年代には複雑な政策形成に圧力を加える他の団体は皆無であった。
当時のニュージーランドの捕鯨政策は正直なものであった。
その目的は地元産業を保護するために公海での乱獲を減少させようとするものであった。
このことからニュージーランドは、南氷洋の鯨類資源を合理的に利用するためIWCで保全派の立場を取っていた。
自らが依存していたザトウクジラを保護するためにニュージーランドがとった措置は以下のようなものであった。
・科学的助言を考慮する
・遠洋捕鯨操業に公平な監督官制度を導入する
・シロナガス換算制に反対し鯨種別に捕獲枠を設ける
国内の関心
1960年代には捕鯨問題が多国間会議の場で議論されていたにもかかわらず、ニュージーランドの外交政策の決定は主に国内関心事に左右されていた。
これは政府が引き続き捕鯨問題は、経済問題であると位置づけていたためである。
この政府見解を変える国内の圧力は存在せず、その点でニュージーランドも他国と同様であった。
例えば、1963年にIWCの3人委員会はシロナガスクジラの資源回復のためその捕獲を50年停止することを勧告した。
種を絶減の危機から救うためには早急な対応が必要であることを認めながら、ニュージーランドはシロナガスクジラに直接的な興味はなかった。
ニュージーランドは直接的関心がない鯨種に限り、科学的助言に基づいて投票した。
NGOの影響
1970年に入って、一般民衆の環境問題に関する関心が急速に高まっていった。
ニュージーランドで環境グループや他のNGOが急増し、政治的活動を展開するようになり、「鯨を救え」運動に参加していった。
政府はこのような動きに対応するため保全主義から厳格な保護主義へとその立場を変化させていった。
ニュージーランドの鯨類絶対保護及び反捕鯨政策
ニュージーランドは1979年に捕鯨のモラトリアムをおこなうという動きを支持することを決意し、他の全てのIWCアジェンダにある懸案事項でも一貫して保護政策をとることにした。
この態度の変化には国民からの圧力のみではなく、科学小委員会に対して不十分な情報にもとづいて種別の資源数や捕獲頭数といった勧告をおこなうことを義務づける新管理方式(NMP)5の導入にともない、科学的助言を信用できなくなったという背景もある。
ニュージーランドの政策への批判
ニュージーランドの捕鯨政策の形成は、近年漁業産業、生物学者、マオリ族代表といった国内からの厳しい批判にさらされるようになっている。
その中の一つに、政策に一貫性がないという批判がある。
他のすべての多国間漁業協定で、ニュージーランドは科学に基づいた議論を強く主張しているが、IWCでは科学議論を放棄し、科学と政治を妥当に区別していない。
ニュージーランドの捕鯨政策は、将来のいかなる捕鯨も適切な管理、統制のもとで資源の存続につながるものでなければならず、そのためにIWCの枠内で鯨類に最大限の保護を与えるというものである。
このような強硬な保護主義的立場を長期にわたってとってきたことから、ニュージーランドは他の方向への政策変換が難しくなっている。
2 1946年にIWCによって捕獲枠設定の基礎とするため採択された制度。
このBWU 1単位に相当するのはシロナガスクジラなら1頭、ナガスクジラ2頭、ザトウクジラ2.5頭、イワシクジラ6頭である。
BWUは北太平洋でナガスクジラとイワシクジラに関しては1969年鯨種別の捕獲枠が設定されたため放棄された。
南半球ではBWUは1972年に鯨種別捕獲枠に置き換えられた。
3 IWCによって1961年に設置された。
3人委員会は遠洋捕鯨国出身ではない、資源動態に知見があった、チャッブマン、ホルト、アレンから構成されていた。
後にこの委員会は4人となったが、長くIWC科学小委員会と密接に協力して1961年から1964年まで機能し、南半球のヒゲクジラ資源の状態やIWCの決定が資源にどのような影響をもたらすかなどについて助言を与えた。
4 IWCが南氷洋での国際的鯨類目視調査のため1978年に設立したプ口グラム。
5 IWCによって1975年に採択された鯨種別の捕獲枠算定システム。この方式では、鯨類資源は初期管理資源;維持管理資源;保護資源の3つのカテゴリ—に分類される。
6 IWC科学小委員会によって開発され、lWCで1994年に採択された捕獲枠設定のための計算方法。
たとえ資源評価や系統群の境界に誤りがあっても、この方法を用いればリスクの排除が可能である。
が、IWCはいまだにRMPを実施していない。
7 IWCが捕鯨を管理するために開発している管理システム。
科学小委員会によって開発されたRMPの他の3要素:データ収集の細目;資源量推定のための調査及びデータ解析のガイドライン、監督及び取締まりから構成される。
このうち監督及び取締り制度については合意をみていない。
Duggan, S. 1991. New Zealanders. Pacific Way. 37:42-44.
Lynch, K.M. 1996. New Zealand in the International Whaling Commission. M.A. Thesis, Victoria University,Wellington.
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1 湾を基地とした小型船による沿岸捕鯨
文献:
Carter, A. 1990. For the Love of Dolphins. New Zealand Listener and TV Times.