国際捕鯨取締条約の加盟国とその変遷

(鯨類研究所(現・日本鯨類研究所) 1982年 9月発行「鯨研通信」第 346号より)

大隅 清治
遠洋水産研究所



はじめに

 国際捕鯨委員会(以下 IWCという)は 1982年の第 34回年次会議において, セイシェルスの提案した「商業捕鯨の話し合いによる終結」を総会において 賛成 25票,反対 7票,棄権 5票によって可決した。 この結果は反捕鯨勢力が IWCの投票ナンバーゲームにおいて遂に得ることのできた 最大の勝利である。 同時にこれは IWCの国際政府機関としての,そして討議による理性ある決定の場と しての機能がすでに消え失せ,反捕鯨民間団体が買収したり,そそのかしたり, 脅迫したりして参加させた国々が,政府としてのいささかの矜持も理性もなく, 反捕鯨勢力の操る投票マシーンと堕してしまったことを意味する。

 IWCの決定は IWCの総会に出席した加盟国政府の投票の票数による。 従って IWC総会への参加加盟国政府の総数と,その中における投票態度の色別けが IWCの決定を左右することになる。

 この小論では,IWCにおける加盟国の数とその中の捕鯨国の割合との変遷を検討し, これと IWCの決定との関連との比較を試み,今回の決定の背景の分析を行ないたい。


国際捕鯨取締条約と締約政府及び投票権

 現行の国際捕鯨取締条約(以下条約という)は,1946年 12月 2日に米国ワシントン D・C・において,表 1に示す 15カ国の政府代表によって署名され,米国が 条約批准書の寄託国となり,1948年 7月 1日に発効した。 そしてこの条約はその本文第 10条 2項により,この条約に署名しなかった政府は, 条約が効力を生じた後,米国政府に対する通告書によってこの条約に加入することが でき、第 10条 4項により,加入する各政府については,その加入通告書の米国政府に よる受領の日に効力を生ずる定めになっている。 つまり,捕鯨国,非捕鯨国の如何を問わず,どんな国の政府でも条約に加入する ことができ,また条約寄託国政府が加入通告書を受け取った日から,加入政府は IWCの会議に出席し,投票できる規定である。 また条約第 11条は,締約政府が 1月 1日以前に寄託政府に通告することによって, その年の 6月 30日にこの条約から脱退することができると定めている。 つまり条約からの脱退は寄託政府に通告するだけで自由にできるのである。

 条約は本文と附表とから成り、本文は条約の改正なしには変更できないが,附表は IWCによってその規定を随時修正することができる(5条 1項)。 そして附表には、(a)保護される鯨種,(b)捕獲枠,(c)解禁期及び禁漁期, (d)解禁水域及び禁漁水域,(e)捕獲制限体長,等鯨資源の保存及び利用について 規定する。 したがって,条約附表は捕鯨操業に直接係わる部分であり,しかもそれが IWCの 総会における票決によって随時に修正できる点に大きな問題点が含まれる。 すなわち,今回のモラトリヤム決定は条約の根幹に触れるものであるにもかかわらず, 上記(a)及び(b)の範ちゅうに属するとの解釈で,附表修正により処理されてしまった。 条約はその前文において,「捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」と唱っており, これは明らかに鯨類を生物資源として利用することを目的としたものである。 条約本文は附表に優先する筈であり,今回の決定はその意味でも条約違反といえる。

 条約は第 3条 1項において,各締約政府が IWCにおいて 1個の投票権を有する ことを定め,また同条 2項と手続規則 Vにおいて,条約附表の修正を伴なう IWCの 措置については,IWC総会において賛成と反対の合計投票数(採決に参加しても投票を 棄権した場合は合計投票数に含めない)の 4分の 3の多数による賛成票が要求される 規則になっている。 この規則は,人口数万人に満たず,しかも捕鯨産業に関して全く伝統のない国も, 1億人以上の人口を抱え,永い捕鯨文化を有し,現に数万人以上の捕鯨を生活の手段と している人のいる国も同じ票の権利しか持たず,また外国人が他国の政府を代表して 投票できることを意味する。 また同時にこの規則は,どんなに不合理な附表の修正も,総会において 4分の 3以上の 票が得られれば可能であり,逆に 4分の 1以上の票が得られれば,そのような不合理な 条約附表の修正提案を阻止することができることを意味する。

 IWCにはその下部組織として,科学小委員会(以下 SCという),技術小委員会 (以下 TCという)及び財政行政小委員会(以下 FCという)の 3つの小委員会が 設置され,手続規則 XVIIによって,それらの小委員会の任務が示されている。 そして手続規則 Vにおいて各小委員会の決定は賛成又は反対の投票数の単純多数決に よって行なうものとすると決めてある。 SCは通常投票によって決定することはしないが,それ故にしばしば“大多数”又は “小数”という表現で,発言しない委員の意向の聴取もせずに,SCの勧告がその 報告書に記載されてしまうのである。 TCはこの投票規則をその決定において適用しているので投票は重要である。 何故ならば,TCにおいては,附表修正に係わるものも含めてどんな提案も,過半数の 賛成票を獲得できれば,採択することができるからである。 IWC総会は TCの決定事項を審議することになるから,TCで過半数の賛成案を取れない 限り,どんな決議案も IWC総会に提出することができないことになる。 また IWCの総会では,条約附表の修正に係わらない提案は単純多数決で決議する ことができる規則になっでいる。

 それ故に,IWCにおいては,4分の3,2分の1,4分の1という 3つの投票の数字の 賛成又は反対の割合が各々決定の大きな関門となる。 4分の 3の票が確保できれば,どんな条約附表の修正も可能である。 2分の 1の票がなければ TCにおいて決議が通らず、したがって IWC総会に決議案を 上程できない。 また 2分の 1の賛成票があれば,総会において附表の修正を必要としない如何なる 提案も IWCの決議として決定できる。 さらに,4分の 1以上の反対票があれば,TCにおける投票で敗れても,総会において 附表の修正だけは阻止することができる。


条約加盟政府と IWC会議出席者

 前述のように,条約の署名国政府の数は 15であった。 その中で条約が発効した 1948年 7月 1日までに条約を批准した国は 9カ国に 過ぎなかったが,発効に必要な 6カ国以上に達した。 また条約に署名しなかった政府の中で,アイスランド,パナマ,スエーデンの 3国は 1949年にロンドンで開催された第 1回 IWC年次会議までに条約加盟を米国政府に 通告し,かくてこの年次会議は 12カ国の加盟政府の下で開催される運びとなったが, パナマ政府の代表は欠席し,実際の参加国数は 11であった。

 条約に署名したけれども,これを批准しなかった 6カ国の中で,チリとペルーは 条約附表のマッコウクジラの制限体長がそれぞれの国の捕鯨の実情に合わないことを 主な理由として加盟せず,この両国はエクアドルを誘って,1952年 8月 16日に サンチャゴにおいて,「南太平洋捕鯨取締規則」を作成し,条約と別に独自の道を 進むこととなった。 チリとペルーが条約に加盟したのは,後述のように 1979年の第 31回 IWC年次会議 からである。

 日本は条約の発効当時は連合軍の軍政下にあり,連合軍は日本の食糧確保のため, 占領後いち早く 1945年 9月には日本の捕鯨を再開させ,同じ年に小笠原諸島海域で 母船式捕鯨を、次いで 1946年には南氷洋出漁を認めるという積極政策をとったため, 日本の捕鯨は著るしい速度で復興した。 そのような状況の下で連合軍総司令部は IWCの第 1回年次会議からすでに オブザーバーを参加させ,実質的に日本の捕鯨代表の形となっていた。 サンフランシスコにおける平和条約が成立する以前の 1951年 4月 21日に, 日本政府は条約加入手続を取り,同年の第 3回 IWC年次会議から,総司令部に代って 日本政府代表を委員として出席させて今日に至っている。

 日本が加入した 1951年から条約加入政府数は 17となり,その後 1969年までの間は 若干の出入りがあったものの,加盟政府数は 16〜18 の間で推移した。 表 1に示すように,1960年の年次会議からはアルゼンチンが加入し,逆に同年 オランダとノールウェイが前年の IWC年次会議の決定を不満として脱退した。 しかしノールウェイはその翌年,オランダも 1962年に再加入した。 スエーデンは 1967年の年次会議からしばらくの間脱退し,1979年の年次会議からは 極端な反捕鯨国に変身して再加入した。 ブラジルは第 2回 IWC年次会議から参加し,1967年の第 19回年次会議から脱退した。 同国政府代表はその間に 5回の年次会議に出席したに過ぎなかった。 その後,ブラジルは後述のような国際的圧力によって,1974年 1月に再加入するに 至った。 1970年にオランダとニュージーランドが脱退し,それからの 4年間は条約加盟国は 史上最少の 14カ国に縮少した。 オランダもニュージーランドも脱退の数年前から捕鯨を停止し,条約に止まる意義を 失ったからである。 しかしながらこの両国は 1976年から 1977年にかけて再加入し,以後はともに 反捕鯨勢力の旗本格となっている。

 IWCは1972年の年次会議において,条約非加盟の捕鯨国の条約への参加を 国連事務局長を通じて要請する決議案を可決した。 それに答えてブラジルが 1974年に再加入したが,他の非加盟捕鯨国はしばらくの間 は,わざわざ自国に不利になるような条約に加盟したがらなかった。 そこですでに非捕鯨国の割合が後述するように過半数を越えた状態になっていた IWCは,1976年の年次会議において,反捕鯨勢力の提案であるところの,非加盟国 への捕鯨船その他の捕鯨用機材の売却や援助の禁止決議案を可決し,次いで 1977年の 年次会議には非加盟国からの鯨製品の輸入禁止決議が通過し,非加盟捕鯨国に圧力を 掛け,強引に条約に加盟させるようにした。 当時まで非加盟で残っていた捕鯨国は日本へ大部分の食用鯨製品を輸出することに よって捕鯨業が成り立っていたから,後者の決議は誠にあくどい暴力であった。 その結果,1979年からチリ,大韓民国,ペルー,スペインの 4捕鯨国が条約に加盟を 余儀なくされた。 反捕鯨勢力の狙いは,IWCにこれらの国を加盟させることにより,IWCの決定に 従がわざるを得ない状態にしてから,IWCの決定によってそれらの国の捕鯨を つぶそうとするものであったが,日本はそれらの決議案に反対し,決定に留保を したが,日本の捕鯨を守るためには,それらの決議を尊重せざるを得ない事態と なった。 それ故に非加盟捕鯨国としても反捕鯨勢力の意図がわかっていても加入せざるを 得なかったのである。

 しかし,反捕鯨勢力のこのような行為は,それまでの捕鯨国の IWCに占める割合の 低下傾向に歯止めを掛け,捕鯨国側が団結することによって,4分の 1の票の壁を 突破されるのを防ぐ効果をもたらした。 これに気付いた反捕鯨団体は,1978年以後非捕鯨国政府の条約加盟運動に奔走する ようになった。 その結果,1979年にはセイシェルスとスエーデンの 2国,1980年にはスイス, オマーン,中華人民共和国の 3国,1981年にはセントビンセントを初め,何と 10カ国,1982年 7月末までにモナコ等 5カ国が条約に加入した。 そのいずれもが非捕鯨国であり,しかもその中でアンチグワ・バーブーダのように それまでわれわれが耳にしたこともない小国が 7カ国もあり,またそれらの中の 12カ国は IWC年次会議の直前または最中に条約加盟手続きを取って出席する仕末で あった。 その上に,その国の国籍を持たないいかがわしい人物が政府代表になって IWC会議に 出席する事態を迎えた。 そのため1982年の年次会議には遂に「資格審査特別小委員会」が議長の権限で設定 されたが,この審査会の委員のセントルシヤ代表の資格問題がその会議の直後に 表面化し,一時議場は大混乱におちいるといった経緯もあった。

 条約加盟国はかくして,1979年から急速にその数を増し,1982年には遂に 39カ国 に達するに至った。 図 1に加盟国数の変遷を示した。 条約加盟国は延 41カ国になり,その中で 5カ国は一度条約から脱退して再加盟し, パナマとカナダの 2カ国は脱退したままであり,ドミニカは 1982年 6月 15日に 脱退通告を寄託政府に提出し,1983年 6月 30日に脱退することになっている。 表 2にこれまでの条約加盟国の加盟日と脱退日とを示した。

 条約は本文第 3条 1項により,各締約政府は 1人の IWC委員を任命し,各委員は 1人以上の専門家及び顧問を IWC会議に同伴することができる規定になっている。 表 1及び図 1Cに IWCの各年次会議への加盟国からの代表団の出席者数を示した。 1971年の年次会議までは代表国の出席総数は 33名から 68名で安定していたが, 1972年の年次会議(この会議の直前に国連・人間環境会議がストックホルムで開催 された)から次第に増加し,1982年の年次会議には遂に 181名の多きに達するに 至った。

 1国当り代表団出席者数も,1971年までは平均 4名前後であったが,1972年から 次第に増加し,1978年には最高の 6.9名に達した。 しかしそれ以後減少しているのは,1,2名の代表しか出席しない非捕鯨国の数の増加と 反比例している。 この間に日本を始め捕鯨国は危機感を強くして,大代表団を送り込み,反捕鯨の チャンピオンである米国もまた,日本におとらない多数の代表団を出席させている。


オブザーバーと報道陣の IWC会議参加

 IWCはその手続規則 IIIにおいて,条約非加盟国政府及び如何なる国際機関も, もし IWC会議開催の 30日以前に文書でその旨を通知し,IWCがその申出について 招請状を発給する場合には,オブザーバーとして会議に参加できる決まりに なっており,IWCの第 1回会議からそれに従って,非加盟国政府と国際機関の代表が 参加していた。 そして国際機関としては,初期にははとんどが国連・世界食糧農業機構(FAO) のような国際政府機関(以下 GOという)であり,国際民間団体(以下 NGOという) としては,「国際捕鯨会社協会」が第 2回から第 7回 IWC年次会議の間に 4回 オブザーバーとして参加したに過ぎなかった。

 しかし,1963年の第 15回 IWC年次会議に初めて動物保護団体が NGOとして 参加した。 その団体名は「国際動物保護協会」といった。 動物保護団体はその後次第に数を増し,1965年の IWC年次会議には「世界野生生物 基金(WWF)」が,また 1971年には「地球の友」,1972年に「プロジェクト・ヨナ」, 1974年には「シエラクラブ」,1977年からは「グリンピース」などの活動的な 自然保護団体が次々と NGOとして IWCに参加し始め,図 1B に示すように,1978年 からは 17団体に急増し,1982年には 51団体が IWC年次会議にオブザーバーとして 出席するに至った。

 未加盟国政府からのオブザーバーは,表 1に示すように近年増加したとはいえ, 1981年に最高の 9カ国が参加したに過ぎない。 また GOとしては 1981年に 8機関が参加したのが最高であり,共に NGOの数に 比すれば多くはない。

 NGOの増加に伴ない,彼等は次第に IWCの非捕鯨国政府及びそれからの IWC委員に 様々な圧力をかけて,反捕鯨運動を押し進め,また NGOはオブザーバーに止まらずに, 加盟政府の代表団の中にも加わり,さらに強い圧力を自国の政府代表に会議中にも 直接ぶつけるように変質して来た。 この傾向は米国や英国は勿論,スペインのような捕鯨国の代表団にもみられ, スペインは捕鯨国としての立場を弱めた。 さらに反捕鯨団体は小国に働き掛け,反捕鯨団体のメンバーを IWC委員にしたり, 外国政府の IWC委員や委員代理として出席せしめるなどの行動に出るように なっている。

 NGOのオブザーバーの増加に伴ない,IWCは 1977年の年次会議において,国際機関の 定義を UNESCOで用いているのと同じく,“3カ国以上の国に事務所を有する機関” とした。 そして同時に IWC会議におけるオブザーバーの取扱い規則を定めた(29回 IWC議長 報告附録 1,1978)。 さらに,SCの手続規則を改訂して,科学的に資格のあるオブザーバーを SC会議に 受け入れることを決定し,1978年から NGOのオブザーバーが SC会議に初めて参加した。 1978年の IWC年次会議では,これを受けて議事手続規則 III の改訂がなされ, NGOオブザーバーとして IWCの諸会合に参加する許可を明確にした。

 IWCでは従来会議は全部秘密会とし,本会議が終了した時点で議長が新聞発表を 行なう習わしになっていた。 しかし 1973年の年次会議の際に,保護団体から IWC会議を報道陣に開放するよう 要請があり,この件を FCで検討した結果否決した。 その後もこの種の要求は毎年執拗に繰り返され,IWCは 1977年の年次会議において 総会の最初と最後の会合に報道機関の出席を許可することとなった。 次いで 1978年年次会議において,次回から報道関係者が総会の全てを傍聴できる ことにまで拡大され,事務局長との話し合いの結果,会議場のスペースの関係で 別室に会議の発言を放送し,これを報道陣が聴くという形を取ることになった。 1979年の年次会議においては,IWCは全ての会議に報道関係者の入場許可の問題を 検討したが,結局報道陣は従来通り総会の傍聴はできるが,将来は IWCの議長あるいは 副議長が少くとも 1日に 1回は報道陣と会見することのできるように努めることに なって今日に至っている。

 最近保護団体が IWC会議への報道関係者の参加問題に以前ほどに熱心でなくなった のは,最近では IWCの会議において捕鯨国の発言の方が正当性があり,報道陣に事実を 直接知らしめることにメリットがなくなっているばかりでなく,かえって 反捕鯨勢力の,数だけに頼る理不尽さを知られたくなくなった故であろうとの見方も できる。 現在は会議出席の NGOのオブザーバーが逐一会議の内容をしかも極めて曲げられた 形で報道陣へ流していて,良識的な政府代表や IWC事務員の強い懸念を呼んでいる。


IWCにおける捕鯨国の割合

 条約は最初から加入の資格に捕鯨国であるという条件を付けなかった。 そのためスエーデンは非捕鯨国でありながら,最初から条約に加入している。 もっともスエーデンで捕鯨船が建造されており,その意味では捕鯨に関係ないとは いえなかったことも確かである。 それでも第 1回の IWC年次会議の参加国数 11の中で,捕鯨国は 10カ国(91%)を 占め,また母船捕鯨国(沿岸捕鯨と母船式捕鯨とを共に営なむ国を含め)は 6カ国で IWC加盟国の半数を占めて,IWCの初期は正に捕鯨国政府の国際会議そのものであった。

 しかし,その後時が経つにつれて,捕鯨国は次第に捕鯨から撤退し,非捕鯨国に 転換して行ったが,彼等の多くは,条約から脱退せずに,IWCに止まった。 まずフランスは 1953年から捕鯨を止めた(1959年に捕鯨を再開したことがあるが)。 パナマは 1955年までギリシャのオリンピック・チャレンジャー号船団の船籍登録国で あったから,少くとも名目上は捕鯨国であったが,同船団の条約無視の無謀操業が 発覚して,母船操業を止めたのに伴なって以後非捕鯨国側に移った。 アルゼンチンが 1961年から,1963年には英国が,1964年にはオランダが,そして 1965年にはニュージーランドというように,1960年代に次々と捕鯨国が非捕鯨国に 転換して行った。

 また同じ条約加盟捕鯨国でも,ノールウェイは 1968年から母船漁業を停止し, 逆にソ連は 1965年から沿岸捕鯨を廃止し,母船操業だけに変じた。 米国は 1972年から商業捕鯨を止めたものの,原住民捕鯨を続けており,デンマークは 商業捕鯨への風当りが強くなるにつれて,実質的には以前と操業形態が変りないにも かかわらず,最近では米国と同じく原住民捕鯨国であるとして IWCの中で振舞う ことによって,自国捕鯨の保全を計るべく努めている。

 表 1 に各加盟国の各年次会議時点における母船捕鯨,沿岸捕鯨,原住民捕鯨, 非捕鯨の別を示した。 また同時にそれらの国の政府の IWC年次会議への出席の有無についても示した。 そして図 2 には,各 IWC年次会議参加国の中に占める,母船捕鯨国,沿岸捕鯨国, 非捕鯨国の割合を示した。 原住民捕鯨国は常に商業捕鯨と原住民捕鯨とを区別し,あたかも自国は非捕鯨国で あるかのように IWCの中で行動するので,ここでは非捕鯨国に分類して計算した。

 図 2 で明らかなように,捕鯨国(沿岸捕鯨国と母船式捕鯨国とを合せた)は, IWCの初期には 90% 以上を占めていたが,1961年からは 4分の 3の割合を切り, さらに 1973年前後には 2分の 1の割合の線を下回るようになり,そして 1982年には 遂に 4分の 1の壁を打ち破られるに至った。 一方母船国の割合は 1953年の年次会議から半分を切り,1960年には 4分の 1を割っ てしまい,そして 1982年現在ではわずかに 6% の小数派に落ち入っている。

 この割合は IWC会議における母船国,沿岸国,非捕鯨国の 3つの勢力の割合を 示すと同時に,投票の割合をほぼ正しく表現しているとみなしてよかろう。 勿論非捕鯨国の中にも,公正な投票を勇気を以って敢然と行なう政府代表もいなくは ない。 しかし,近年におけるように多数の反捕鯨団体オブザーバーが見守る中で,自国に とってプラスにならない公平な投票を行なうのは極めて困難な状況にある。 もしもそのような投票をすると,反捕鯨団体がその IWC委員に食ってかかり, 彼等の発行する新聞やデモで極烈に個人攻撃される破目に落ち入る。 捕鯨国の中でも,自国内の反捕鯨団体の突き上げが激しく,捕鯨国としての共通の 利益を守るため,終始他の捕鯨国と共同歩調を取ることができなくなった国も でてきて,捕鯨国の結束と団結は必ずしも強固でない。 まして沿岸捕鯨国と母船捕鯨国とでは,かつては利害が対立し,母船国が 4分の1 を割った 1960年代からは,たとえ捕鯨国が全体の過半数を占めていても母船国の 主張は通らなくなっていた。 したがって,この割合は投票の目安を付けるに過ぎないが,後で検討されるように, この割合の変遷は IWCの決定の変更と極めてよく符合する。

 IWC年次会議参加国の中の 3つの分野の割合の変遷によって,IWCの時代を次の ような 4つに区分することができよう。

第 1 期:1949〜1960年
 捕鯨国は 4分の 3以上を占め,また母船捕鯨国は 4分の 1以上であった。
第 2 期:1961〜1972年
 捕鯨国の割合は 4分の 3以下となったが,2分の 1以上はあり,母船国の割合は 15%以上あった。
第 3 期:1973〜1981年
 捕鯨国の割合は 2分の 1以下であるが,4分の 1以上であった。 母船国の割合は 15% 以下となったが,6% 以上を占めていた。
第 4 期:1982年〜
 捕鯨国の割合は 4分の 1以下となり,母船国の割合は 6%以下となった。

 以上の各期を分ける1960〜1961年,1972〜1973年,1981〜1982年に IWCにとって エポックメーキングな事件が起っている。 これについては次章で検討することにする。


IWCの時代区分と IWCの決定との関係

第 1 期
 この時代の IWCは捕鯨国の“サロン”であり,捕鯨国の主張は殆んど通った。 この時代は鯨類の資源調査研究も初期段階にあり,SCが充分な資料を基にして IWC委員を説得するような勧告を出せなかったのを口実として,IWCは資源管理の 強化を怠った。 南氷洋の母船式捕鯨によるヒゲクジラ類の他に捕獲枠は全く決められていなかった。 南氷洋の捕獲枠もシロナガスクジラ換算制(BWU)であり,科学的な措置とは いえなかった。 そしてこの値も最初の 16,000 BWU から,この時代の終りまでにわずかに 1,000 BWUを 減少させたに過ぎなかった。 そして 1959年には,オランダとノールウェイは BWU による捕獲枠の減少を不満 として,条約脱退というゴリ押しをしたほどである。 シロナガスクジラやザトウクジラについて,捕獲禁止の必要性が感じられたにも 拘らず,中々実行に移せなかった。 たとえば 1954年の年次会議において,北大西洋と北太平洋東部海域の シロナガスクジラの捕獲禁止が決定したが,前者についてはデンマークと アイスランドが,後者については米国を含む 4国がそれぞれ異議の申し立てをして 効力を発揮できなかった。

 しかしこの間に次第に捕鯨国の IWCに占める割合が低下するにつれて,次の 時代以後に実を結ぶようになるいくつかの捕鯨取締強化案が IWCの中で検討される ようになった。 たとえば 1958年には国際監視員制度と国別割当制度が提案されている。

 1960年は IWCにとって 1時代を画する年であった。 この年の IWC年次会議にはオランダとノールウェイが条約を脱退して,母船捕鯨国の 割合が 4分の 1を切ったが,これと軌を一にするかのように この年次会議において 英国は「三人委員会」の設置の決議案を突然に提出して,これが可決されてしまった。 この年次会議前後には,南氷洋捕鯨(南鯨)の捕獲枠が決められなかったり,決議に 対して異議の申し立てをしたりして,南鯨の資源管理に大混乱を生じており, 捕獲規制の強化について科学的根拠を固める必要性が感じられていたし,母船国は 附表の改定を必要としない決議案の阻止に必要な 2分の 1以下となり,捕鯨国は 全体として 4分の 3を上回っていたが,その中には南鯨母船式操業に関係のない国も 多く,この決議案はそのような状況で通過したのである。 三人委員会はそれまで SCに関係していなかった南鯨の非出漁国または GOの 資源解析学者によって構成された。 そしてこの委員会の報告が次の時代の捕獲割当量の急激な減少と,捕鯨国の数の 減少をもたらす武器となった。 その意味でこの委員会の設立は IWCにとって 1時期を画すものであり,それが丁度 第 1 期の終りと一致する点が注目される。


第 2 期
 この時代にはすでに母船捕鯨国は 4分の 1の割合を下回り,母船国だけで附表の 修正を阻止する票の数はすでに確保できる状態ではなくなっていた。 それでも捕鯨国は過半数を越えており,IWCは依然として捕鯨国が優位の状態にあった。

 三人委員会が設定されて以後,SCは次第に IWCの中で発言力を増し活動的になった。 1962年の特別 SC会議において,北太平洋捕鯨について,南鯨の三人委員会に似た 資源解析を進めるために,関係 4国の科学者による作業部会が設定され,活動を 開始した。

 1963年には三人委員会は最終報告を提出し,その年の年次会議では南鯨の捕獲枠は 一挙に 10,000 BWUに下げられたばかりでなく,南鯨のザトウクジラと一部を除く シロナガスクジラの捕獲の禁止措置が取られた。 またこの年次会議では三人委員会に一名を加えて四人委員会として,さらに 1年間 作業を継続することが決定された。

 1962年には IWCの枠の外で国別割当協定が南鯨母船国の間で締結され,ここに, それまでのいわゆる“捕鯨オリンピック”時代は終った。 国別割当制度の成立は西欧捕鯨国の南鯨からの撤退を促進させる働きをした。 まず英国は日本に自国の割当量とともに次々と船団を売却し、1963年から母船操業を 停止した。 次いでオランダも英国にならって国別割当率を船団とともに売却し,1964年に南鯨 から撒退した。 南鯨に永い伝統を有するノールウェイも遂に 1968年に母船式操業を中止し,日本と ソ連船団のみが南鯨母船式操業国として残る事態となったのである。 日本はこの時代における捕鯨割当量の減少を食い止めるため,外国の国別割当枠を 次々に大金を払って船団とともに購入したが,これが結果的には捕鯨国の減少による IWCでのわが国の不利を助長する結果となった。

 南氷洋母船式の捕獲枠はこの時代に急速に捕獲枠を減少し,この時代の終期の 1971年には 2,300 BWU になり,1972年の年次会議において,遂に BWU 制度は 廃止され,鯨種別に捕獲枠が定められることになった。

 南氷洋捕鯨問題がこの時代に片付くとともに北太平洋における捕鯨(北鯨)が 注目されるようになり,1965年に北鯨資源会議が関係 4国の科学者によって持たれ, 1966年 2月には関係 4国 IWC委員による北鯨問題のコミッショナー特別会議が開催 された。 これに先き立ち,1965年の年次会議において,北鯨のザトウクジラとシロナガスクジラ の 1966年からの捕獲禁止が決められ,その後も北鯨コミッショナー会議が度々 開かれて,「北太平洋捕鯨規制」の下で自主的に捕獲枠の設定とその強化が行なわれた が,1970年の年次会議において北太平洋における捕獲枠を鯨種別に条約附表に加える ことが決定された。

 しかしながら北大西洋における捕鯨に関しては,この時代には,シロナガスクジラと ザトウクジラの捕獲禁止の延長が決議された以外は,全く無風状態で過ぎた。

 第 2 期の最後を画する大きな出来事が 1972年に 3つあった。 その第 1は先きに述べた BWU 制度の廃止であり,第 2は国際監視員制度の実施の 決定であり,そして第 3は商業捕鯨のモラトリヤム決議案の提出である。 国際監視員制度はすでに第 1期の末期にノールウェイによって構想が示されたが, 第 2期中は毎年の年次会議において討議され,協定案が次第に固まり,遂に 1972年 から北太平洋の母船式と基地式で実施され,南氷洋母船式捕鯨では 1972/73年漁期 から実施に踏み切ったのである。 1972年の年次会議に先き立って,「国連・人間環境会議」が開催され,ここで 「商業捕鯨の 10年間のモラトリヤム」が決議され,その余勢を駆って,IWC年次会議 において,米国により,同様の決議案が提出された。 この議案は IWCの総会に先き立って行なわれた SCの討議の結果,全面モラトリヤム は科学的に正当化されないと結論され,総会において賛成 4,反対 6,棄権 4で 否定された。


第 3 期
 この時代に入ると,捕鯨国の割合は IWCの中で 2分の 1以下となり,まして 母船国は 15% 以下の小数派に転落し,捕鯨国は 4分の1の壁は守れても,TCでは提案を 通すことができず,IWCの総会においても,附表の修正を伴なわない決議案は全く 阻止できない状態に追い込まれるようになった。

 表 1に 1972年以来の IWCで可決した附表の改訂を伴わない決議の件数を示した。 1972年には 2件であったが次第に増加し,1980年には最高の 14件に達した。 このように第 3期の特長の 1つは決議の時代であり,2分の 1の壁を突破した 非捕鯨国はこの規則を利用して次々に捕鯨国をつぶすための決議案を通過させて 行った。 1972年にはまず非加盟捕鯨国の条約への参加を国連事務局長を通じて要請する決議案 を可決し,1974年にはモラトリヤムの代案として新管理方式がいわゆる 「オーストラリヤ決議」として提案され,可決された。 この決議はその後 SCの討議を経て,1975年には資源管理方式として IWCの附表に 載り,その結果それまで捕獲の許されていた種々の鯨種系統群が次々とこの方式 により自動的に捕獲禁止にさせられ,捕鯨国の立場を弱体化するのに極めて効果を 発揮した。

 1976年の年次会議においては,非加盟国への捕鯨船その他の売却や用船の禁止決議 が通り,翌 1977年には非加盟国からの鯨製品の輸入禁止決議が通過し,1978年の 年次会議ではさらに非加盟捕鯨国の加盟呼び掛け決議により追い打ちを掛けた。 非加盟捕鯨国を IWCの中に引き入れてから叩きつぶすのが,それらの決議の目的で あったことはすでに述べた通りである。

 1978年には“捕鯨の倫理”の問題が IWCの討議の議題となり,翌 1979年には 「鯨類の習性と知能」に関する国際会議の開催が決議され,後世に鯨保護の行き過ぎの 例証として批判されるであろうところの「鯨類の習性,知能及び捕鯨の倫理に関する 国際会議」が1980年 4月にワシントンD・C・において,IWCもスポンサーとなって 開催された。

 人道的捕殺の問題は第 1期の終りの 1959年に IWCによって初めて取り上げ られたが,その時にはすぐに決着が付いた。 しかし,第 3期に入って,1976年には反捕鯨勢力から捕鯨を禁止する口実として, 再びこの問題が取り上げられ、年次会議において人道的捕殺の研究が決議されて以来, 毎年の IWCの議題に入れられて,次々と IWCの決議と勧告がなされ,作業部会会合を 開催したりした後,1980年の年次会議において,非爆発銛のミンククジラへの使用を 1981/82年漁期から禁止する決議案を通過させてしまった。 これは科学的にミンククジラの捕獲を止めさせる理由を見出せなくなった反捕鯨勢力が 考え出したもので,これにより資源論と別にミンククジラ漁を止めさせる手段と したのである。

 このように,この時代には附表の修正に触れずに,次々と捕鯨国つぶしのための 決議が IWCにおいて通過し,捕鯨国は一層苦境に立たされるに至った。

 第 3 期に入ると北大西洋の捕鯨国も安泰ではいられなくなった。 1975年に新管理方式が IWCによって決定された翌年の年次会議から,世界の全ての 鯨資源が 3分類法によって分類され,各々について定められた方式に従って捕獲枠が 認定されて,初めて北大西洋の鯨類についても捕獲枠が付き,それが附表に載るに 至った。

 またマッコウクジラが反捕鯨勢力の戦略目標になり,総力を挙げてこれをつぶしに 掛ったのもこの時代の特色の一つであり,日本沿岸のマッコウクジラを除いて この間に全系統群の捕獲枠を失なった。

 この時代の IWCにおける出来事の一つとして次に取り上げられるのは,1979年 年次会議において,その年に初めて IWC会議に参加したセイシェルスの提案した 「印度洋保護区」が IWCで賛成 16,反対 3,棄権 3票で条約附表の改訂を伴なう 決議として通過してしまったことである。 この時点になると捕鯨国も自国の権益を守るためには,いくら不合理であっても 自国の捕鯨産業に直接関係がない提案には反対できない状態に追い込まれてしまって いた。 その間隙をぬってこの提案が通過してしまった。

 しかし,この時代には,反捕鯨勢力が 1972年以来毎年のように繰り返して提案 してきた商業捕鯨の全面禁止案に対してだけは,捕鯨国は 4分の 1の壁を利用して 遂に守り切ったのである。


第 4 期
 1979年から急速に増加した条約加盟国は,1982年の第 34回 IWC年次会議の最中に 加盟したアンチグワ・バーブーダを加えて 39カ国に達し,ドミニカとジャマイカが 欠席したのも及ばずに,捕鯨国の割合はこの年に遂に 4分の 1の壁を打ち破られ, 新たな局面を迎えるに至った。 そしてこの年に,遂に商業捕鯨の実質的なモラトリヤムが IWCの総会において, 最初に記したような票決により決定された。 1982年の時点で捕鯨国は 8カ国あったが,その中のスペインは反捕鯨勢力の強烈な 攻撃の前に陥落し,自国の 3年間の捕鯨の継続を守るために賛成票を投じてしまった。

 国際捕鯨取締条約はこの時代にはすでにその本来の機能を失ない, 「国際鯨類愛護条約」と改称するのが適当と考えられるようになった。 今後この条約が如何に推移するかは予断を許さない状態にあると思われる。 1982年の IWCは SCの一致した勧告までも無視する提案と票決が TCと総会で行なわれ, SCの存在意義はなくなっている。 FAOの代表の極めて客観的な声明は全くかえりみられず,日本政府代表の米沢 IWC 委員の真剣な訴えを聞く耳を非捕鯨国政府を代表する委員は持っていなかった。 これでは捕鯨国は条約に何のメリットも認められず,良心的非捕鯨国も条約に止まる 意義を見出せないであろう。

 IWCの第 4 期において,1982年にも増して1983年の年次会議が条約の将来を決する 場になるであろう。


おわりに

 1982年のIWC年次会議の決定は,永い鯨食文化を有し,捕鯨産業に直接・間接に 従事する多くの人々が存在するわが国にとって,極めて深刻な問題を投げかけた。 これからわが国が取るべき選択枝としては 2つある。 それらは,第 1 にこの条約から脱退することであり,第 2 の道はこの条約に止まる ことである。

 すでに条約は変質しており,条約に止まっていてもやがて 3年後には自動的に 捕鯨操業は停止されてしまう。 一端失なった捕鯨技術と文化の復活は不可能に近いし,1986年以前にも捕獲枠は 捕鯨の存続ができない程に小さくさせられないという保証はなく,現在の条約加盟国 の構成の下では,1990年に捕鯨再開の望みは全くといっていいくらいにない。 このような条約からは早く脱退し,捕鯨国と良心的政府でもって新たな捕鯨条約を 作るべきかも知れない。 しかしそれが現実的に可能であろうか。

 反対に条約に止まる道を選ぶ際には,第 4期に入っている現在,捕鯨国の絶対少数 の中で捕鯨が生き残る道を見出せねばならない。 この中で差し当り決定を迫られている行動に 2つある。 その 1つは,決定に対する異議の申し立てである。 条約は第 5条 3(e) 項により,附表の修正は異議を申し立てた政府については, 異議の撤回の日まで効力を生じないことを定めている。 これを行なえば,条約に止まっていても今回の決定は適用されないことになる。 例えばマッコウクジラの漁期 8カ月の附表改訂は第 3回 IWC年次会議で決定されたが, オーストラリヤはこれに異議の申し立てをし,捕鯨をやめるまで周年操業していた。 しかしその場合には,1983年の年次会議において,次年度の捕獲割当量を大幅に 減少させる等の種々の報復手段を絶対少数下の第 4期には覚悟しなければならない。 また他産業への悪影響も充分に考慮する必要があろう。

 別の行動は異議の申し立てをせずに,涙を呑んで今回の決定に従うことである。 これによれば少くとも上記の報復措置を受けるのはまぬがれようが,民族の誇りと 文化を捨てまで,理不尽な決定に従がわなければならないのであろうか。

 思い悩みは深いけれども,日本政府はやがていずれか 1つの道を選ばねばならない。 それとも画期的な解決策をそれまでに見出せるであろうか。 異議の申し立ての期限は 1982年 11月 4日に迫っている。

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