漁業と環境論

(日本鯨類研究所 1994年発行「捕鯨と世論」より)

長崎 福三
日本鯨類研究所
理事長



 漁業は本来環境依存型の産業であり、漁場環境が良好に保たれなければ成り立たないにもかかわらず、漁業そのものが(捕鯨の例のように)環境を破壊するという論理は、一体どこから生まれてくるのであろうか? また、このような論理が、かなり広く西欧の人々に支持されているということは何を意味しているのであろうか? このあたりの問題について考察すると共に、将来の対策について考えてみることにしよう。 1972年、ベトナム戦争のさなか、国連人間環境会議で、「鯨類を絶滅から守ろう」というスローガンをかかげ捕鯨問題を環境問題とすりかえて10年間の商業捕鯨モラトリアムが採択された。 このあたりから「環境問題」は得体の知れない動きをするようになった。

 いわゆる「環境」問題は混乱している。 われわれが住む地球の環境を含む天恵の自然資源を、各国のそして各分野の人びとが、どう有効に利用するかを考えるのが環境問題でなければならず、そのためには国際的協力が要求されるが、現実には、協力どころか、対立が激しい。 例えば天然資源の wise use と no use との対立は多くの分野で見られる。 保存と利用とを 1 枚のコインの表と裏と見ずに保存が 1 枚のコインの表・裏でなければならないと見る考えである。 最近の環境運動にはとかく、この2つの要素のバランスを欠いた立場が多い。 このいびつなバランス感覚が、なにかの理由で emotion(感情的なもの)に支配されるようになると手に負えなくなり、漁業に限らず農業・林業にも激しい対立が生まれる結果になる。

 不当な被害をこうむるのは日本の漁業に限らない。 一次産業に依存する農・林・漁業を生業とする開発途上の国々、又は自然と調和しながらその天恵の中で生存してきた僻地の地方的社会への波及も懸念される。 ここにも先進経済国の一方的論理が見えかくれしているように思われる。

 人間が自然のままの領域を保存しながら現在の文明を築いてきたなどと考えている人はおるまい。 ヨーロッパで、あるいは、アメリカ大陸で何が起こり、人びとがどのように生産を拡大してきたかは大方の人びとが知っている。 人間の生活環境をよくするということは、自然環境に変化を与える結果になることは誰でも知っている。 また一方、自然環境を変化させる結果、人間の生活環境に好ましくない影響を与えるということはしばしば起こる。 人間が生活するための自然の利用・干渉と、自然環境の保存とは両立しがたいことを承知していながらも、われわれはより便利な、消費的な生活を追及し、そして世界の人口は極めて早い速度で増加している。 事態は極めて深刻な条件の中にありながら、こんな時期にバランスを欠いた環境論が幅をきかせていては、われわれの当をえた対応は遅れるばかりである。

 漁業が環境依存の産業であることはすでに述べた。 海の状態が悪化し自然な条件から距れば距るほど漁業産業に悪い影響を与え、悪化が極端になると漁業はなりたたなくなる。 このことは漁業者自身が最もよく知っている。 しかし、最近は、生態系を破壊するという「理由」で、本来環境悪化による被害者である筈の漁業が、環境破壊者として非難されてきている。 捕鯨は今でも環境論者により、生態系を破壊する行動だと非難されている。 最近の鯨に関する研究では、例えば、1,000頭の鯨がいたとした場合、持続的に年間利用できる頭数は安全度をみて2%程度、つまり20頭程度とみられている。 1,000頭のうち、毎年20頭の捕鯨が海洋の生態を崩してしまうなどと本気で考えているのであろうか?

 海洋生物の wise use は、漁業にとっては古くから一貫した課題であった。 将来も wise use の方法をとり入れなければ漁業は生きのびることはできない。 利用と保存とのバランスを巧みに調和させながら、資源を利用することは、今もそして将来も漁業の基本的問題である。 No useという考えは漁業にはなじまないし、通用しない。 しかし、しばしば利用と保存とのバランスを崩してしまうことがある。 漁業には濫獲という現象は珍しくない。 これは漁業のやり方に問題があるのであって、漁業そのものが悪いのではない。 世界中、どこの国でも、実際に漁業に従事している漁業者が、海洋生物資源の no use に同調することはありえない。 誰か、漁業とはかかわりない、外部の力が大きく働いているとおもわざるをえない。 利用する立場にない人たち(利害関係の外にいる人たち)が勝手な「無用論」を主張するなら、利用する立場にある人たちが「有用論」を改めて展開させるべきであろう。

 かつて地球の資源の有限性を指摘し、増加する人口・需要の増大に対応するための対策の一つとして、海洋への開発・進出が叫ばれた。 1960、1970年代のあの海洋開発に対するフィーバーは、いま、どこへいってしまったのか? 海洋開発と最近の環境保護論とは、どこで、どのような関連をもっているのか? 海洋開発といい、200海里体制といい、環境保護運動といい、いずれも統一のとれた政策の中で動いているとは思えない。

 今から20年ほど前、新しい海洋制度への動きが活発化し、国連海洋法会議の場で、一つの大きな流れとして 200海里体制が合意された。 そして沿岸国はそれぞれ 200海里水域に管轄権を設けた。 その結果、日本の遠洋漁業は、真綿で首を絞められるようにその活動の場を失い、漁場を追われ、後退を余儀なくされてきた。 発展を続けてきた日本の漁業にとっては未曾有の大打撃であった。 しかし、本来 200海里問題は、沿岸国がそれぞれ近海の資源をかかえ込むという、資源配分の問題であり、海洋生物の利用原則の問題ではない。 海洋法条約にそれらしいことを記述した条文はあるが、誰も条文通りの管理が行われるとは考えていまい。

 しかし、予測される生物愛護運動が漁業に与えるであろう影響は、配分論ではなく、利用論そのものにかかわる。 利用論というのは当たらないかもしれない。 利用が是か非かという択一論である。 このような環境運動は、漁業者(これは日本の漁業者のみではない)にとっては「鳩に豆鉄砲」のような話になるかもしれないが、既に捕鯨問題では 20年来の課題であり、その結果、1986年以降、商業捕鯨はモラトリアムの状態になった。 北太平洋の「おっとせい保存のための暫定条約」は、おっとせい捕獲を前提としているという理由で、アメリカ国内で批准できず、この条約は廃棄され、現在は無条約状態に置かれている。 かつて今世紀初頭、濫獲による資源減少を、国際的協力による資源増大を実現し、海洋生物資源の国際的管理・利用の優れた実例として評価されてきた条約だが、今では姿を消してしまった。

 毛皮不買運動などというものがある。 毛皮は動物がつけてこそ美しいなどという。 われわれがおっとせいの毛皮を着なくとも日常生活に事欠くまい、ミンクの毛皮すら不要であろう。 人造の衣料品は毛皮にひけをとらない。 毛皮がなくとも富裕な人々にはなんの不都合もない。 しかし、問題はそんな所にあるのではない。 おっとせいやあざらしを捕獲し、これを売り、その肉を食べている僻地の人々をどうしてくれるのかという問題である。 僻地の人たちに、健康にして安定した生業を保証することが行政の責任ではないのか? 毛皮を着る人を目の仇にしても、彼等にとってはいかほどのことはない、しかしその陰で数多くの「作る」人びとが職を失うことになる。

 国際捕鯨委員会ではインド洋にサンクチュアリーを設け、ここでの海洋の哺乳類の捕殺を全面的に禁止した。 インド洋に生きてきた地方的住民に、イルカをとるな、鯨をとるなと言って、どういう意味があるというのか? このような措置で海洋の環境が維持できるとは、とても考えられない。 もっとも、インド洋サンクチュアリーの目的は「研究」にあるという。 ここでも僻地の人びとの活動を制限して「研究」を行う意図は、まともには理解できない。

 南氷洋を聖域として公園化し、一切の生物採捕を禁止するという提案をする人びとがいる。 鯨類やあざらし類はもちろん、オキアミですら、鯨の餌になるという理由でその捕獲を禁止しようと主張する人たちである。 漁業者にとっては未だ遠い騒ぎとしか受けとられていないが、呑気にかまえていられる動きではない。

 つい最近まで、領海、経済水域は沿岸国の管轄下にあるが、公海は自由な海と受けとられていた。 狭ばまりながらも公海こそが自由な漁業の場であった。 しかし、海洋生物の利用論を適用するには、誰にも属さない公海は恰好の場である。 沿岸国はそれぞれ自国の経済水域を独自の政策に基づいて利用できるし、その権利を保持できる。 そこまで、別な利用哲学を及ぼすことは抵抗をともなう。 公海での流し網の禁止、公海でのサケの漁業禁止、南氷洋での生物利用禁止など、これからは共有の場、共有物の利用に別の措置が適用されることになるかもしれない。 そして公海はきゅうくつな場になってしまう。

 それでは生物愛護の路線上にある利用原則とはどういうものであろうか? 生物の生存権を尊重するという理念であり、いかなる理由があるにせよ、捕殺を行わず、天然の動物を水族館などの不自然な状態に置くことにも反対し、科学のためとはいえ、生体実験の材料にすることを許さないという主張につながる。 生物に生存権があることは言うまでもない。 が、このような主張に固執すると、どうしようもない自己矛盾を持つことになる。 このような主張をする集団又は個人はしばしば、特定の条件、立場という隠れみのを使うことで、この矛盾を消去しようとする。 鯨の捕殺は一頭たりと認めないが、連日殺りくされている牛や豚なら、飼育されたものという意味で生存権の問題はどこかに消えてしまう。 このことは恐ろしい独断につながることは言うまでもない。 「特定なもの」、「特定な人」、とそれ「以外のもの」、「以外の人」とを区別する考え方である。

 ここで海洋生物資源の wise useと no useをそれぞれ主張し、対立した立場をとっているのは誰と誰であるかを承知しておかなければならない。 対立した相手がはっきりしなければ対応も考えられない。 しかし、この相手の認識はさまざまであっても必ずしも一致していない。 例えばアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・その他のヨーロッパのいくつかの国々を頭にえがく人もいるし、それぞれの政府に政治的圧力をかけていると思われる NGOとよばれる、数多い非政府機関の集合を考える人もいる。 しかしこれだけでは相手の主張の背景が見えてこない。 そこで筆者の観察に基づく、河のこちら側と向こう側の対立構図を提示してみたい。 10年以上にわたって、厳しい対立を続けてきたし、今もその対立が一向に解消されない IWCの機構の中での捕鯨問題を通して、誰が、どのように対立してきたかを見てみよう。 捕鯨問題での対立は、捕鯨国対非捕鯨国という形をとっているように見えるが、どうやらそんなに簡単なものではなさそうである。 1972年のストックホルムでの第一回国連人間環境会議で、反捕鯨側(その中心はアメリカであった)がかかげたスローガンは「鯨類を絶滅から救う」ことであった。 もし鯨類が絶滅の危機にあり、これを救うための運動が必要だとすれば、これほど一般の人達の共感をよぶことはあるまい。 草の根運動として運動資金を集めることも容易であろう。 彼等は活動に充分以上の資金を調達することができたし、「鯨の絶滅」という印象を一般の人々に与えることに成功した。

 しかし、その後の IWCの活動の中で、保護されるべき種は保護され、論議の対象は資源量の大きい南氷洋のミンククジラなどに集中した。 この種に関する限り、絶滅論議は適用しない。 そこで資源に関するわれわれの知識の「不確実性」を次のスローガンとして用意した。 この運動も成功し、1982年には反捕鯨側念願の商業捕鯨モラトリアムの決定にこぎつけた。

 われわれの知識の不確実性を問題にしながら、日本及び調査捕鯨には反対するという矛盾した結果になっている。 「鯨の絶滅」、「知識の不確実性」など、その都度スローガンは用意されてきたが、問題は別のところにあることが、次第にはっきりしてきた。 本音は、「鯨を一頭たりと、どのような目的であれ、殺すことはまかりならぬ」ということであり、「鯨肉などを食べるのはけしからん」ということにつきる。 そして、どうやらこの文章の上に、「日本人」という条件がつくようである。 そうなると、鯨はイルカ類を含むという形で拡大し、海洋哺乳動物から、次第にその餌となる魚やオキアミにその範囲が拡大されることにもなる。 そうなると食文化の違いからくる対立ということになりそうである。 日本・アイスランド・ノルウェーなどという国では伝統的に海洋生物に依存してきた。 一方、ヨーロッパに起源している人びとは牧畜型の民族で、豚・牛・羊などを飼育し、殺して食べる、つまり海洋生物型に対し牧畜型という構図を見ることができる。

 海洋民族型は言うまでもなく、海から魚貝を採捕して食用としているため、食の対象を特定の種に限定することはしない。 海からの生産は地方的であり、季節的である。 多様なものを、その都度利用しなければ、海からの生産に依存することはできない。 海草・ウニ・ナマコ・イカ・タコなどなんでも食の対象になり、鯨やイルカも例外でない。 そうしなければ生きてゆけない。 日本人は決して「げてもの」食いでもないし、特に「グルメ」でもない。 手当たり次第食べて生きてきただけのことであり、そのために魚貝の処理、調理法も多様を極めてきた。 海洋民族の知恵である。

 これに対し牧畜型の民族は、特定の種に一年中依存している。 Livestockの意味するように、羊なら羊の群れと生活を共にし、餌を求めて移動する。 羊の群れは必要以上に大きくしてはならず、依存するに足る大きさでなければならない。 群れの大きさは完全に人間がコントロールする牧畜民族の知恵である。 今では餌を求めて移動する必要はなく、雑穀などを餌にして飼育する。

 従来は基本的に異なる二つの生き方が並行してきたし、それで問題はなかった。 しかし人口が増加し、一人当りの消費量が増え、需要が拡大するにつれて、自然収奪型の漁業の場合、とかく過剰利用が起こる。 ときには濫獲−資源減少という結果になる。 食性段階の高い魚や鯨類では種の絶滅も不可能ではないかもしれない。 しかも海洋、特に公海は共有性が強い。 特定の人たちが共有性の強い資源を利用していることに対する反発もある。 そして漁業を環境破壊と位置づける。 一方、牧畜には過剰利用はなく、種の絶滅もない。 需要が増大すれば飼育数を増やせばよい餌になる雑穀は不足していない。 足りなければ農耕地を増やせばよいということになる。

 もうお分かりのことと思うが、筆者の頭の中には肉食と魚食、牧畜型と海洋民という相違が浮かんできている。 ここで肉食と魚食を対比してみることにしよう。 主要な国々の畜肉、魚貝の年間一人当りの摂取量をみてみる。 まず、畜肉、魚の摂取量がそれぞれ 50キログラム以下の国々と以上の国々とに区別できる。 以上の国々には経済先進国がすべて含まれているが、この中でも畜肉の消費量には大きな開きがある。 オーストラリア・アメリカ・ニュージーランド・カナダ・アルゼンチンの 5ケ国は100キロをこえて突出している。 当然のことながら、これらの国々での魚の消費量は低い。 フランス・オランダ・イギリス・ドイツ・イタリアなどを含むヨーロッパ諸国は 100、50キロの範囲に拡がり、肉食国と分類できる。 デンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの北欧諸国にソビエト・スペインを加えた国々では肉以外に魚への依存がかなり高くなる。 これに対し日本とアイスランドは別格として魚への依存度が極めて高い。 典型的な魚食国とよんでいい。

 50キロ以下の国々のうち、韓国・北朝鮮・フィリピン・マレーシア・ベトナム・タイなどの東南アジア諸国は魚の摂取量が肉に比べて相対的に多く、魚食傾向が強い。 そして、これらの国々では米を主食としている。 このほか、ガーナ・シェラレオーネ・コートジボアルなども魚食が強いが、いずれもアフリカの西岸に位置している。 中近東・アフリカ・中南米の諸国は肉食型であるが、その消費量はまだ少ない。 中国も豚肉食国である。

 こう見てくると世界的にみて魚依存国は、むしろマイノリティーであり、肉消費が圧倒的に多い。 現在動物食品に恵まれていない国々でも、穀類供給が充実してくれば、次の段階で肉嗜好が強くなることが容易に想像できる。 こうなると、長期的に見た場合、地球上の食料問題は楽観できる状態にはない。

 ここで肉食・魚食を食料エネルギーの上からみてみよう。 魚貝は天然生産物をそのまま利用するが、牧畜による肉食型では低次の生産物を飼料として消費するため、基礎カロリーは高くなる。 1キロの畜産物を生産するには平均 6〜8キロの飼料を必要とする。 肉牛 1キロを生産するのには 10キロ以上、豚肉では 4〜5キロ、とり肉では 2キロ程度の餌を与えなければならない。 したがって畜肉を主食としている西欧人の食用として消費する基本カロリーは、穀物を主食としている東洋人などと比較してはるかに高くなる。 平均して開発途上国の人々は年間 200キロの穀類を消費しているが、先進国では 500キロを上回り、アメリカでは 5倍の 1トンを消費している計算になる。 アメリカ人 1人の消費はインド人 5人、日本人に換算して 2人強に相当する。

 今、世界中の人々が平均 1日 500グラムの穀類が必要だとすれば、総人口約 56億の人々を支えるには年間約 8億トンの穀類の生産でこと足りる。 最近の穀類の生産は 16億トンとも 17億トンともいわれ、穀類だけでは十分に人口を養う量に達している。 しかし、世界的に多数の人々が肉食に指向し、現在の欧米人なみの食性を目標としたら、とても地球のもつ農業生産では賄えない。

 一方、魚貝をみると、一部の養殖生産を除き、大部分は自然物の収奪である。 問題は海の中の生物体系をどのように巧みに利用するかということである。 プランクトン食の魚貝を利用すれば漁獲可能量は大きくなるが、高級な魚食性魚だけを利用すれば漁獲量は限られる。 このような生物体系を利用するには食性段階の高いものから低いものまで、幅広く収穫する方法が最も好ましい。 この点では日本の漁業生産は効果的であり、なんでも食べる食性は、このような生産の経済性を支えている。

 さて、このように見てくると、捕鯨を含む日本の漁業活動に対する反発の運動は、一部の過激なグループによって展開されているとしても、その背後に、西欧社会があることを見てとらなければならないことがわかる。 そうでなければ過激な団体が多数の国々の政府の意見を左右することなどできる筈はない。 このような肉食−牧畜社会の生産論理を批判しても、効果があるとは思えない。 むしろ、限られた地球の生産体系の中で、増加する人口、向上する個人消費に対応するためには、夫々の民族のもつ地域条件に密着した食性を生かした工夫が必要になろう。 各民族、地方社会が築いてきた伝統的な自然との付き合い、食習慣を大事にしなければならない。

 それから、恐らく厳しさを増すと思われる環境論の中で、反漁業、反魚食運動を抑える説得が必要ではあるが、むしろ世界の海洋依存民族、魚食民族が協力し合うことの方がより必要であろう。 魚食民はマイノリティーではあるが、漁業の合理性をうち出すには三つの措置が望まれる。 第一は将来も魚食に依存してゆくのであろうアジア諸国、アフリカ西岸の国々、そして北欧の国々を合わせた国際的協力関係を強化し、ここで海洋依存、海洋利用の理念を確立することである。 第二はアメリカ・カナダ・ヨーロッパ諸国のそれぞれの国内で漁業に依存している数多くの小さな地方的社会がある。 これらの声を総合する組織を作ることが必要であろう。 第三は極北の僻地で海洋生物と共に生きてきた indigenousな社会・人々の声を集め、これらを援助することである。 そして漁業・魚食又は自然との伝統的かかわりを維持、拡大する力を結集することが、今、日本に問われているのではあるまいかと思う。

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