南氷洋における鯨の保護区

(日本鯨類研究所 1999年 9月発行「鯨研通信」第 403号より)

田中 昌一
日本鯨類研究所



1.IWCと保護区(サンクチュアリー)

 捕鯨取締条約第5条で、国際捕鯨委員会(IWC)は禁漁期、禁漁区、保護区(サンクチュアリー)を設けることができるとされているが、ここで条約が禁漁区と保護区をどのように区別しているのかは明らかでない。 一般的にいって、禁漁区は資源や漁業の管理や調整の目的で、漁業に関する特定の行為を禁止する区域をいい、一方保護区はより自然保護的色彩が濃く、より広い範囲の地域や対象などに適用される。 IWCはいろいろな捕鯨禁止海域を定めているが、サンクチュアリーと呼ばれたのは南氷洋VI区とI区の一部(70゜W〜160゜W)が1938-1954年の間保護されていたのが最初の例のようである。 このサンクチュアリーはかなり便宜的に設けられたものである。

 IWCでサンクチュアリーがホットな課題になったのは、1979年にセイシェルがインド洋サンクチュアリーを提案して以来である。 提案者は鯨類の繁殖場を保護する効果があり、また長期間全ての鯨種が保護されるので生態系研究のよい機会を与える等の主張をした。 しかし商業捕鯨の禁止で科学的情報が得られなくなる等の反対があり、IWC科学小委員会(IWC/SC)では結論が得られなかった。 委員会ではこれが投票によって可決され、付表に新しいパラグラフが挿入された。 期限は10年で、5年後にレビューすることとなった。 インド洋サンクチュアリーが科学研究を促進するという主張を裏付けるため、インド洋研究計画立案がSCに付託された。 しかし目立った研究としては、ザトウクジラやセミクジラのような沿岸性の鯨種についての目視調査が続けられたこと、外洋域に関しては日本が南氷洋への往復路で目視調査を行なったほか、見るべきものはなかった。 インド洋サンクチュアリーに対する締約国の関心は薄く、科学会合やレビュー会合は後回しとされ、具体的なIWCの活動は進展せず、SCでは否定的意見も多く出された。 しかし1989年に期間の3年延長が決められた。


2.南大洋のサンクチュアリー

 1990年当時、SCは包括的評価(CA)に力を注ぎ、改訂管理方式(RMP)の開発を進めていたが、1992年にこれが完成し、IWCに提出された。 RMPの優れていることを承知していた反捕鯨国は、商業捕鯨の再開を恐れ、新しい捕鯨阻止の手段としてその年にサンクチュアリー拡大を計った。 セイシェルはインド洋サンクチュアリーの無期限延長を提案、またフランスが南緯40度以南の南大洋のサンクチュアリーを提案した。 インド洋の方は2002年まで10年間延長されたが、フランス提案は南極海洋生物資源保存委員会(CCAMLR)等の関連機関とも連絡を取りながらさらに審議を続けることとなった。

 フランス提案は、サンクチュアリーはRMPを補強するものとし、RMPだけでなく、種々の方法を組み合わせて管理するべきであるとしている。 南大洋のサンクチュアリーはインド洋と合わせて全ての大型鯨種のそれぞれ一つ以上のストックを繁殖場、摂餌場の全域で保護することができ、これを長期的に継続することによって、破壊された生態系を回復させることができると主張する。 さらに鯨生態の研究を促進することが期待でき、また南極条約の環境保護の趣旨にも副うものであるとしている。 区域は南緯40度以南の南大洋全域である。 このサンクチュアリーの本来の保護対象はインド洋系の鯨類であるが、鯨が南氷洋で大きな東西移動をすることが示されているので、全南大洋を含むものとする。 さらに研究について、SCが関連機関と協力して研究計画を立てることとなっている。

 1993年の京都会議で再度フランス提案が審議された。 SCでは、管理方式としてサンクチュアリーを提案するならば十分なシミュレーション・トライアルを行なうべきだとの議論もあり、また50年禁漁とRMPを組み合わせたトライアルの結果では効果はほとんど認められないことが報告された。 このためSCでは結論が出せなかった。 IWC本会議では南大洋の保護区に支持を表明しながらも、なお多方面から検討し、中間会議を開いたあとで来年決着させるという決議が採択された。 中間会議は1994年にNorfolk島で開かれ、その後メキシコでの年次会議で、付表修正が可決され、南大洋のサンクチュアリーが決まった。 日本はミンククジラに対して異議申し立てを行なった。

 SCは1995年以来サンクチュアリーの合意された目的は何かと委員会に質問を繰り返していたが、その回答が1998年年次会議で初めて示された。 多数決で採択された決議によると、その目的は①鯨資源の回復と資源の研究とモニタリングの促進、②モラトリアムの効果をモニターするCAの継続、③環境変動の影響の研究、とされている。 サンクチュアリーの意義は不明確のままである。 日本は1995年以来引き続きサンクチュアリーの違法性の理論を展開してきたが、多くの賛同を得るには至っていない。


3. 鯨資源管理とサンクチュアリー

3.1 RMPは信頼できないか?
 RMPほど電算機シミュレーションで徹底的にテストされた資源管理方式はない。 近年工学方面では電算機シミュレーションは一般に用いられており、最近問題になったように、核兵器の開発まで電算機シミュレーションによって行なわれている。 確かに電算機実験によって開発された管理方式を現場に応用した経験がないので、十分なノウハウが蓄積されているわけではない。 その意味でRMPを実際に適用したときに何の問題も生じないと期待するのは楽観的過ぎる。 しかし、鯨の管理は短期間で成功、失敗の結果が決まってしまって、やりなおしができないというものではない。 幸いにも、現場での試行を続けながら、状況をみて臨機の対応を取る時間的余裕がある。 RMPを適用する場合、モニタリングと調査の体制を整えておくことが必要条件であるが、これらを通じて管理の効果を見ながら方策を適宜修正し、失敗を未然に防止できる。 その意味では、ジェット旅客機より安全であるとすら言えよう。 だから、RMPは信頼できないからサンクチュアリーを併用するということは当たらない。


3.2 いろいろな管理方式の組合せが必要か?
 答えは当然イエスである。 小型魚の保護をする場合、網の目合の規制だけでなく、漁期や漁場の制限、さらに小型魚の所持、販売の禁止などが合わせて行なわれる。 これらはお互いに補い合って、効果をより確実なものとする。 それではその漁業を全面的に禁止するという方策を組み合わせたらどうなるか。 他の規制は全て無意味なものとなり、全面禁漁という唯一の規制だけが効果を有することになる。 これは組合せの原則に反している。 サンクチュアリーも同じことである。

 工学関係で重要な概念としてフェール・セーフという考え方がある。 設備の一部で故障などの不都合が生じたとき、これをバックアップする装置が備えられていれば、事故がそれ以上拡大することを防げる。 RMPはその中にフェール・セーフの考え方をすでに一部取り入れてはいるが、さらに実施に当たってもこの概念を取り込むことが望ましい。 残念ながら我々はRMPを実行に移した経験がないので、どのようなフェール・セーフの方式を取るべきかは今のところ明確でない。 しかし先に述べたように、モニタリングによって失敗を未然に防ぐことができるのだから、RMPの実行を妨げるほどの重大性はない。

 RMPを実行する場合、他の一切の規制が不要になるわけではない。 鯨の生態、資源状態等に応じ、繁殖場での禁漁、子連れ鯨の保護などの規制は当然続けられることになるだろう。


3.3 サンクチュアリーは持続的利用の原則になじむか?
 1992年リオデジャネイロでの国連環境開発会議(UNCED)は21世紀の人類の行動計画として「アジェンダ21」を採択したが、その中で水産資源の持続可能な利用の原則を立てた。 1995年国際連合食糧農業機関(FAO)の支援を受けて日本が京都で開催した「食料安全保障のための漁業の持続的貢献に関する国際会議」も持続可能な利用を支持した。

 ところでフランス提案の南大洋サンクチュアリーの目的は、破壊された南氷洋生態系を回復させることだとされているが、原始の状態まで回復させるのか、生産性が最高になるレべルを目指すのか、回復したあとどうするのかは明確でない。 持続的利用を望むならば、資源はその生産力が最大になるような状態に維持するのが理想である。 現在枯渇している資源をこの状態に回復させるのに、全面禁漁にすべきか、あるいは控えめな捕獲を続けながら回復させるかは、与えられた条件によるので一概には言えない。 全面禁漁にすれば資源の回復は早いが、経済的、社会的負担が大きい。 一方捕獲を続ければ、負担は少ないが、回復が遅れ、より大きな将来の利益が一部得られなくなる。 一般的には、社会が耐え得る限度で負担を負いながら、できるだけ早く回復させるという方策が最善である。 いろいろな漁業で、資源回復の最適戦略の分析のなされた例がある。

 南大洋のサンクチュアリー提案に当たって、このような分析は一切行なわれていない。 禁漁の効果は当然それぞれの資源の状態によって異なる。 ミンククジラのように、現在でも利用が可能な資源を禁漁にすることは、期待される利益を放棄することになる。 生態系全体の回復を計るためというのであれば、ミンククジラの保護が悪影響を及ぼすという理論に対して、証拠がないと否定するだけでなく、保護が必要だという理論的根拠を示すべきであろう。

 これらのことを考えると、南大洋サンクチュアリーの本来の目的は捕鯨を禁止するということに尽きるように思われる。 少なくとも、生態系の回復が実現したときにどうするのかという展望なしには、サンクチュアリーが持続的利用の原則になじむとは言えない。


3.4 鯨の保護が生態系の保護につながるか?
 著しく枯渇した多くの大型鯨類資源をより高いレべルにまで回復させることが、生態系の面から言って望ましいことは疑いない。 IWCはすでに長期にわたってこれら鯨類資源を完全に禁漁にして保護している。 しかし完全な保護が無条件に正しいわけではない。 SCはサンクチュアリーによって鯨資源の組成が未利用状態の組成に回復する可能性は低いと見ている(Rep. int. Whal. Commn 44:p.99を参照)。 多くの生物集団は、人間の間引きがなかったときに原始の状態で安定していたわけではなく、絶えず変動を繰り返していたはずである。 だから捕獲を停止したとき、鯨資源がもとの状態にもどるという保証はない。

 小笠原島では山羊が増えすぎて植物を食べ荒らし、貴重な自然環境が破壊されつつある。 また日光で鹿が増えて、ある種の植物の絶滅が心配され、鹿の間引きも考えられているという。 アフリカの草原で豊富な動物相が維持されているのは、草食動物と肉食動物が共存しているからである。 南大洋の鯨以外の漁業資源の管理を行なっているCCAMLRは、生態系の関連を考慮しながら、高い生産性を維持できる水準に漁業資源を保存、管理することを目指している。 一方これらの資源の捕食者である鯨類は全面的に禁漁になる。 草刈りを続けながら山羊の増加を放置すればどうなるか。 植物相が破壊されて草刈りはできなくなり、山羊は飢え死にしてしまう。

 人間が殺しさえしなければ動物達は幸せに長生きできると考えるのは、人間の思い上りである。 人間が生活のために生態系の中から動物や植物を食料として間引かなければならないとすれば、生態系内のバランスを崩さないように、広い食性段階に対して満遍無く捕獲圧を加えるべきである。 鯨の餌の生物量を2/3に減らしたならば、鯨の生物量も2/3にしなければバランスが取れない。 この時の間引き率は、もちろん鯨の方が餌生物のそれよりはるかに低いであろう。 1996年の京都会議は生態系を考慮した複数種の管理の必要性を強調している。


3.5 サンクチュアリーの効果をどうやって見積もるか?
 数々の疑問を残したまま、IWCは南大洋サンクチュアリーを設置した。 このような状態において、少なくともサンクチュアリーが鯨の資源にどのような変化をもたらしたかをモニターすることは、IWCの最低の責任である。 サンクチュアリー設定の目的のなかにも、科学研究の推進が大きくうたわれている。 サンクチュアリーの効果を見積る場合、問題は、すでにモラトリアムによって全面的に禁漁になっていたので、サンクチュアリーによって加えられた規制は実際上なにもなかったということである。 サンクチュアリーの導入によって特に科学研究が促進されたわけでもない。 日本の南氷洋での調査は、モラトリアムの結果として始まったものである。 我々の知り得るのは結局モラトリアムの効果である。

 モラトリアムの効果を見積もるためには、最低限鯨資源がどのように増加しているかをモニターしなければならない。 南大洋全体について行なわれているこれに関連する研究は、国際鯨類資源調査10ケ年計画(IDCR)とこれを引き継いだ南大洋鯨類生態調査(SOWER)だけである。 この調査はほとんど3回にわたって南氷洋全域の目視調査を行なったが、これだけの調査では残念ながらまだ資源量が増加したことを統計的に証明することはできない。 南極海ミンククジラ捕獲調査(JARPA)は1987年以来隔年にIV区とV区の調査を続けているが、ザトウクジラなどが最近急速に増えてきたことを示唆する情報はあるものの、資源の増加率の推定などはできていない。 この調査が今後10年、20年と続けられるならば、食性、成長、成熟、妊娠などの変化の傾向が示されるかもしれない。

 JARPAはもちろん日本の国家予算で進められているが、IWCの事業であるSOWERの経費も大部分日本が負担している。 日本は将来捕鯨を再開するために積極的にこれらの調査を支援しているのであるが、もし捕鯨の再開を放棄した時になおこのような多額の経費を負担するとは考えられない。 日本は南極観測のために鯨調査以上の経費を支出しているが、これは南極研究への要請が国の内外で非常に強く、国民的合意が得られているからである。 残念ながら、鯨の研究について、このような条件はない。


4.インド洋サンクチュアリーの教訓

 インド洋サンクチュアリーはセイシェルによって提案され、オーストラリアが全面的にこれをバックアップして実現し、維持されてきた。 そして、科学研究の推進が標榜されていた。 IWCでも科学研究計画をSCに検討させるなどしたが、早急に開くことが予定されていた科学会合が開かれたのは、設定から7年余たった1987年2月であった。 行政面を検討する会合が2回開かれたが、出席したのは数カ国に過ぎなかった。 設定後5年後に行なうはずであったサンクチュアリーのレビュー会合も、開かれたのはサンクチュアリー期限ぎりぎりの1989年であった。 このようにサンクチュアリーが設けられ、また捕鯨のモラトリアムが決められたため、各国のインド洋の鯨資源に対する関心は低下し、科学研究はほとんど行なわれず、IWCのなかでインド洋サンクチュアリー関係の予算要求に対して低い優先順しか与えられなかった。 そのため、サンクチュアリーの生産的な効果は認められず、資源に対する影響もまったく不明のままである。

 大学などで基礎研究が進められているのは、科学者の純粋な好奇心のためといわれるが、そのために支出されている予算額はそれほど大きくない。 核物理とか南極観測などの基礎研究に多額の予算が支出されるのは、将来の応用への期待と、国威発揚のためである。 南氷洋の鯨研究が基礎科学としてそれだけの条件を備えていないとすれば、やはり応用研究としての意味を考えなければならない。 高いレべルの資源研究を維持するためには、持続的利用の裏打ちが必要である。 我々はインド洋サンクチュアリーのもたらした結果に学ぶべきである。

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