捕鯨は国際法に違反しているのだろうか

(「勇魚」第 4号、1991より)

鷲見 一夫
横浜私立大学教授



 「環境保護論者のあなたが、どうして捕鯨を肯定なさるのですか。」 こうした類いの問いかけを、しばしば受ける。 環境保護論イコール反捕鯨と単純にとらえている人の眼からすると、私の言動は、 相当に不可解なようである。 このような質問を頻繁に受けるということは、すべての鯨種が絶滅の危機に瀕している というような認識が、単に外国ばかりでなく、日本でも相当に広がっているためでは ないかと思われる。

 今日、地球環境フィーバーが高まるにつれ、捕鯨反対を標榜することが、環境保護 主義のシンボルであるかのごとき風潮が世界的に生じてきている。 そればかりではない。 最近では、環境保護論者の非難の矛先は、南氷洋のオキアミ漁業、ベーリング海 ドーナツ水域でのスケソウ漁業、さらには流し網漁業へと広がりつつある。 10年前までは、多くの国際法学者が、国際海洋法条約との関連で、漁業問題についても 積極的に発言したり、書いたりしていた。 しかし、200カイリ水域が定着し、また捕鯨モラトリアムが採択されるに至って、 近年では、漁業とか捕鯨とかについての国際法学者の論文は、めっきりと少なくなって しまった。 さわらぬ神にたたりなしの雰囲気が蔓延しているためであろうか。 この意味では、私などは、さしずめ「稀少種」といったところであろう。 いやドンキホーテなのかもしれない。

 1988年 4月に、アメリカ政府が調査捕鯨への対日制裁として、パックウッド・ マグナソン修正法を発動して、200カイリ水域の漁獲割り当てをゼロとする措置を とった直後に、アメリカ国際法学会で捕鯨問題を取り上げたいので、訪米して欲しい との招きを受けた。 出掛ければ恐らく集中砲火を浴びることは必至と思われたので、いささか躊躇したが、 敢えて受けて立つことにして、ワシントンまでのこのこと出掛けていった。

 学会では、正面作戦に出ることにした。 まず最初に、絶滅の危機に瀕している鯨種の捕獲禁止は当然のことであるが、南氷洋の ミンク鯨は 70万頭もいると推定されているのに、これを少しくらいとったぐらいで 資源基盤が損なわれるわけでもないのであるから、これまでもモラトリアムの対象と するのは合理性に欠けるのではないかという疑問を提起した。 そして、このような前提の上に立って、次のような問題提起を行ってみた。 (1)国際捕鯨取締条約では、「鯨族の適当な保存」という目的と並んで、 「捕鯨産業の秩序ある発展」という目的が掲げられているのであるが、モラトリアム は、後者の目的と背反するのではないか。 (2)国際法と国内法とが抵触する場合には、後者を前者に合致すべく修正するという のが国際法の基本原則であるのであるが、アメリカのパックウッド・マグナソン修正法 とぺリー修正法は、この基本原則に反しているのではないか。 (3)アメリカは国内法に基づいて制裁を叫ぶが、国際法の上から適法な行為に はたしてそのような制裁を科することができるのか、またそのような警察的行為を 行う資格を、国際社会の誰から受権されているのか。

 これらの問題提起について、相当に強い口調で報告を行ったので、当然に逆襲が あるものと、報告後は内心穏やかではなかった。 しかし、意外にも、質問のほとんどは、アメリカ商務省のブレナン氏に向けられ、 アメリカ政府の対日制裁の法的妥当性について集中した。 気負い込んでいただけに、学会が終わったときには、何だか肩透かしを食ったような 思いであった。

 その後、昨年 12月 10日〜12日にハワイで開かれた「21世紀における海洋の自由」と 銘打った国際会議に招請された。 捕鯨、流し網が、主要議題となることは明らかであった。 またしても何で敢えて貧乏クジを引く必要があるのだろうかと思いつつも、飛んで 火に入る虫になることにした。

 会議では、流し網問題を中心に報告を行った。 捕鯨問題については、アメリカ国務省のチャンドラー女史ガ、対日制裁を強める ために、自動車の輸入制限を行うべきであると主張し、そのためにペリー修正法を 改定すべきであるとの趣旨の報告を行った。 彼女の報告が終わった途端、会議参加者会員の眼が一斉に私に集まった。

 議長からも発言を促された。 そこで、彼女には、「どうぞおやりになったらいかがですか」と答えた。 その理由としては、まず第一に、もしもそのような恣意的なガット規定の運用が 許されるのであるならば、日本としては、心おきなくオレンジ、牛肉、米などを 輸入制限できること、策二に、日本外交が歪んでしまっているのは、経済の 対米依存が大きすぎるためであることから、外交健全化のためには貿易パートナーを 多様化した方がよいこと、第三に、現在のような浪費的なライフスタイルを改める には、日本は経済成長率を落とした方がよいことなどを挙げた。 そして、調査捕鯨でミンク鯨を 300頭捕獲することぐらいで大騒ぎされるよりも、 東チモールでは、アメリカの武器援助で、インドネシア軍により、1975年以来 20〜30万人もの人間が殺害されてきているのであるから、そのような深刻な問題の 方にもっと眼を向けられてはどうですかと切り返してみた。 これには、彼女は、キョトンとした顔つきをして、何も答えなかった。 恐らく彼女は、東チモールで発生している事態を知らなかったのではないかと 思われる。

 会議終了後、ニュージーランド・グリンピースのハグラー氏方ら、捕鯨問題について 話し合いたいとの申し出を受けた。 これで、ワイキキの浜辺に出る機会はなくなってしまった。 海辺を横目で見やりながらの捕鯨論議となった。 氏の主張は、鯨肉を食べるのは贅沢であり、動物性タンパク質の補給は牛肉、豚肉、 鶏肉で十分なのであるから、日本は捕鯨をやめるへきであるという点にあった。 これには、問題は人間の嗜好にかかわる事柄で、自己の好みを他人にまで押し付ける のは賛成できないこと、従ってインドの人々が牛肉を食べるのはけしからんと言い 出したら、どのように答られるのか、また開発途上国の人々の眼からすれば、牛肉生産 は飼料穀物を浪費する贅沢品ということになりはしませんかなどと反論した。

 議論は尽きるところがなかったが、別れ際に氏から、東京、オークランド、 サンフランシスコなどで、捕鯨問題についての公開シンポジウムをやったらどうか との提案がなされた。 これには、いい企画だと賛成した。 どこかオーガナイザー役を買って出てくれるところはないものであろうか。

 ハワイから帰国して程なくして引っ張り出されたのが、(財)日本鯨類研究所の主催 による国際会議である。 この会議は、去る 1月 29〜31日にかけて晴海のマリナーズコート東京において 開かれた。 仕掛け人は、日本鯨類研究所の長崎福三氏である。 氏の目論みは、外国の国際法の専門家を招いて、捕鯨問題を法的な観点から徹底的に 論議しようというのである。 この種の国際会議は、わが国では初めての試みであった。

 会議には、アメリカからは、E.マイルズ教授(ワシントン大学海洋研究所所長)、 ヴァン・ダイク教授(ハワイ大学法学部)、R.フリードヘイム教授 (南カリフォルニア大学国際関係論)、R.クネヒト教授(デラウェア大学海洋政策 センター)が参加した。 IWC事務局長の R.ギャンベル氏も出席した。 日本側からは、水産庁次長の島一雄氏、元 IWC日本代表の米沢邦男氏も出席した。 残念ながら、アイスランド外務省法律顧問で、かつ IWCアイスランド次席代表の G.エイリクソン氏は、急な公務が生じたために参加できなかった。 なお、会議の書記は、米国ワシントン州弁護士の J.ヘイスティングス氏が務めた。

 この会議における私の最大の開心事は、先に触れたアメリカ国際法学会での報告内容 がすでにデンバー大学のジャーナルに「日米捕鯨戦争」と題して掲載されていたこと から、これに対して外国の国際法学者がどのように反論してくるであろうかという点に あった。 しかし、正直いって、この期待は裏切られてしまった。

 私の問題提起に対しては、外国参加者からの説得力のある回答は得られなかった。 というよりも、反捕鯨国の行動は、国際法的には正当化のしようがないといった方が よいであろう。 「力は正義なり」の反捕鯨国の行動を、国際法学者としては、弁護のしようがない のである。

 ただこの会議でアメリカ側の学者からの反論で最も印象に残ったのは、日本政府は モラトリアムへの異議申し立てをなぜ撤回してしまったのかという指摘であった。 これには、一本取られたというのが、偽らざる感想であった。 1984年 11月 13日に、アメリカ政府は、200カイリ水域への入漁制限をちらつかせて、 日本からモラトリアムへの異議申し立てを撤回させることに成功した。 この撤回を約束させられたのが、村角・ボールドリッジ協定であった。 しかしながら、ウィーン条約法条約第 52条に照らしてみるとき、この協定は、強制に よって結ばれたものということができるのであって、それ故に無効であるというのが、 私の見方である。

 この会議で最も驚いたのは、島氏が実に忌憚のない発言をされたことである。 このような印象を事務局役を務められた三崎滋子女史に漏らしたところ、外交会議では こんなものではないと聞いて、二度びっくりであった。

 国連海洋法会議でのペーパー外交を見慣れてきた私には、島氏の発言、態度は、実に 新鮮なものに映った。 わが国の海洋法会議出席者がこうした率直な発言を行っていたならば、日本漁業の 今日の窮状は相当に避けられたのではないかと、今さらながら惜しまれてならない。

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