日鯨研の設立と捕鯨問題をめぐる国際情勢 (1)

(日本鯨類研究所 1997年 10月発行「日本鯨類研究所十年誌」より)


出席者

米沢 邦男
元IWCコミッショナー、日本水産株式会社顧問

島 一雄
IWCコミッショナー、日本水産資源保護協会会長

森本 稔
水産庁海洋漁業部会審議官

大隅 清治
日本鯨類研究所理事長

高山 武弘
共同船舶株式会社社長

安成 梛子(司会)
水産経済新聞社社長


司会  日鯨研が創立されて 10年になります。 鯨研にかかわりの深い皆様にお集まりいただき、鯨研のこの 10年と今後のあるべき姿についてお話いただきたいと思います。 まず、米沢さんからお願いします。

米沢  いまの日鯨研の仕事は質の高さ、規模の大きさ、それから継続性ということでは、世界に類をみない研究であり、日本の立場を離れても世界の貴重な財産です。 歴史的にみて私と日鯨研とのかかわりというのはそれほどないのですが、私がクジラに関係しはじめたのは 1972年のストックホルムの国連人間環境会議からです。 実際にはその前年のワシントンにおける IWC年次会議からなんですが、しばらくやってまして二つの問題があることに気がつきました。

 一つはIWC科学委員会に日本だけがデータを提出し、それに基づいて外国の学者が解析するかたちに当時なっていたわけですけれど、日本の学者が提出するデータについて、外国の科学者は常に疑いの目を持ってみていた。 私はその疑いは不当な疑いであると思っていた。 この問題を科学的に争うとすれば、外国は少なくとも当時、すべてのクジラは絶滅する恐れがあるという立場をとっていたわけだから、それを突き崩すには調査研究をやる。 それも透明なかたちにするということ。 もう一つはこの研究を国際的な研究にし、国際的に評価をさせる。 これが基本であろうと思った。

 しかし、これに変な国のヤツを入れてもしようがないので、当時アメリカが仕掛けてきた戦争であったわけだから、日米の共同研究をしようと思った。 それでアメリカのアロン(IWC科学委員会の米国のリーダー的科学者で、カーター政権当時のコミッショナー)に「オイ、共同研究やろうや」と持ちかけたら、彼は金がないというから「金は俺の方で出す」と大きなことをいってやった。 そしたら彼は断ってきた。 どうして断わるんだと聞いたら、そんなことやって、クジラが沢山いると分ったら、エライことになっちゃうから共同研究には、ちょっと乗れないよ、と断ってきた。 会議場での正式な回答ではなかったですけどね。 そこで角度を変えて、クジラの調査10年というのを提案した。 これは確か 1972年のIWCで決議されてるんですよね。

大隅  そうです。 1972年の国連人間環境会議で商業捕鯨の 10年間モラトリアムを決議させたアメリカ は、その余勢を駆って、直後に開催された IWCの年次会議に同じ提案をしました。 この提案に対して、科学委員会はモラトリアムじゃなくて、クジラ調査の 10年の強化年間にすべきだという決議をしています。

米沢  そうそう。 そこをもう少し説明すると、そのモラトリアム提案に対して科学委員会は、そんな提案 には科学的正当性がない、そんなことをするよりはクジラの研究 10年ということにしようじゃないかということを決議した。 それに乗って国際研究をやるべきだということにした。 それが現在、日鯨研のやっている IDCR(国際鯨類資源調査 10カ年計画)に基づく南極海(南氷洋)における鯨類目視調査の発端です(現在は SOWERに改名)。 これをやりはじめてからミンククジラがものすごくいるということが客観的にも証明できたので、反捕鯨の科学者が日本の研究を目の敵にしだして、いろんなかたちで防害が始まった。 ホルト(グリンピース系の学者、現在は国際動物福祉連合)がある年の年次会議で、南氷洋にばかりこんなにお金をかけて、ミンクの研究をするのは、片寄り過ぎではないか。 ほかに研究する問題は沢山あるので、そちらの方に金を回して、ミンクの IDCRは止めるべきであると提案した。 それに対してギャンベル事務局長が、これは全額日本からお金がでています。 ほかに向けるとすると、関係国からその問題についてお金をださねばなりません。 それから日本がおやりになるということであれば、止めるというわけにはいきません、というようなことをいって、ホルトを引っ込めさせたという経緯があります。

司会  大隅先生はその間の経緯をずっとみてこられた?

大隅  私が IWCに関係したのは 1962年に 3人委員会と科学委員会との合同会議というのがシアトルで行われまして、その時からで、通算しますともう 35年以上になります。 この 3人委員会という研究班は南極海の主要な鯨資源の実態を科学的に解明して、資源の管理方策について IWCに報告、提案するために 1960年に IWCが決定し、南極海捕鯨に従事していない国や国際政府機関から水産資源学者 3名を指名して設立され、1960年代の IWCの正常化に大きく貢献しました。 その後いくつかの IWC関連会議に参加させていただきましたが、IWCの年次会議に関係しだしたのは 1967年からで、昨年でちょうど 30回連続して出席しました。

司会  島さんはいつ頃から。

  1978年12月にマッコウ特別会議というのが東京で行われまして、それからクジラとのかかわりができました。

 IDCRの話ですが、1975年の会議で、大隅さんが南氷洋のミンクは商業捕鯨の対象となるだけでも 40万頭以上はおりますといったら、ホルトは 2万頭しかおらんという。 その辺から 1972年の科学委員会で決議した調査 10年というのを、IWCで IDCRとして、やろうじゃないかということになり、1977年の会議で日本から提案し、78年から IDCRがはじまった。 IDCRは全部の水域を 6つに分けて、6年でひとまわりするという目視調査だったが、やればやる程、毎年、毎年、南氷洋のミンクは増えていく。 1982年に商業捕鯨モラトリアムは採択されるけれど、南氷洋のミンク資源は頑強であるということはすでに分っていたから、スイスのコミッショナーなどは、個人としてはあれは絶対反対ということだったけれど、議会とスイスの NGOが反対だということで棄権にまわった。

 いまは捕獲調査は反対だが、目視調査はいいよといってるけれど、当時は南氷洋の目視調査をつぶす反捕鯨の動きが、すごく激しかった。 それが一番激しく表れたのが 1984年のイーストボーンの会議でした。 その時は目視調査と同時に標識銛の打ち込みをやっていたが、標識調査をやると資源量が大きくでるから面白くない。 シェディングといって銛が抜け落ちることがあるのでデラメア(豪州の科学者)がこれは効果がないという論文をだしてくる。 それを基に標識調査を止めようじゃないかという議論が展開されて、日本は大隅さんが頑張るわけだが、多勢に無勢だった。 標識調査の禁止だけで治まるのかと思ったら今度は、目視調査の本体そのものが無意味だというように議論がエスカレートしていく。 ともかく最後、私が大変怒りまして、私の下手な英語で「この調査は最も模範的な鯨類に関する国際共同調査である。 もしあなた方が本当の科学者だったら、これに反対は出来ないはずだ。 目視の方法論がまだ確立していないというのなら、南氷洋はいいフィールドだから確立したらいいではないか」といいましたところ、反捕鯨の科学者リーダーのベディントン(英国の科学者)が調査を支持しようとそこで突如、豹変した。 それでともかく目視調査が続いた。 あの IDCRが続いていないとミンクの資源 76万頭という数字はでてこなかったと思います。

 ベディントンを中心とする反捕鯨の科学者が登場してきたのは 77年のキャンベラ会議からですが、その頃から科学委員会の報告に意見併記というのがはじまった。 科学委員会のレポートが、ほとんどの問題について意見が併記され、科学委員会の結論がでないというような格好をつくっていった。

米沢  それに科学委員会では、明らかに少数意見である勧告を多数意見と併記の形で科学委員会の報告書に記載させ、本会議では多数を頼みに科学委員会の少数意見を可決するという戦術をとった。 明らかにおかしい彼らの意見でも、科学委員会の報告から削除することはできない。 彼らは、そこを利用したのですね。

司会  反捕鯨の科学者がコンピューターを操作して資源量をわざと少なく計算したということもありましたね。

米沢  78年のマッコウの特別会議でね。 ベディントンがインチキ計算をして、北太平洋のマッコウが減っているというわけです。 おかしいぞということで、日本側で再計算してみたら、そうならない。 間違っているんじゃないの、といったら「バレタか」(笑)といって、引っ込めた。 そして、その翌年再計算することになったら、今度はクック(IUCN科学者)がインチキをする。

大隅  コンピューター操作係としてチャールズ・フリーという男が事務局に雇われたのですが、反捕鯨グループの科学者達がその男を恐迫して、大部ネジ曲げた結果をださせたんですね。

米沢  それ以後コンピューター計算は、第3者がチェックをするというルールができたんですが、要するに「彼らは信用できない」という科学委員会の認識が定着し、チェック体制が確立したと思いますね。 その伏線があるから、84年の会議でベディントンが IDCRの継続に賛成したのも、もう科学委員会につきあいきれないと思いはじめたのかも知れない。 彼は明らかに、いや気もさしていたね。

  とにかく、1984年のイーストボーンの科学委員会が最低の会議で、それからいい方へ変わっていくんですね。 そのイーストボーンの会議を最後にベディントンはもうでてこなくなった。

司会  その頃からみれば、いまの科学委員会は様変わりですね。

  1982年の商業捕鯨のモラトリアムの付帯条件では、1990年までに見直すことになっている。 この見直しについて、日本はずっと真面目に対応し、それに日本の科学者がよく耐えたということが今日あるんだと思いますね。 それに南氷洋になぜ執着したかといいますと、あの南氷洋の頑強な資源で RMP(改定管理方式)その他のものを完成させられなければ、他の資源では完成させることができないと思ったからです。 だから、まず、これをモデルに使おうじゃないか、ここでできあがったコンセプトを他の資源にも当てはめていけばいいじゃないかということで、我々は全力で南氷洋のミンクに注入しました。

大隅  科学委員会で日本代表団の対応が非常にすばらしいことは、米沢さん以降、すべての科学委員会関連の会議に行政の方からも参加していただいて、科学陣と行政官とが一体となって対応したことです。 そして、行政官が IWCの前哨戦でありその後の IWCの論議の基礎となる科学委員会に参加して、直接に対応していただいたあと技術委員会、本会議に参加しますから非常に強力な論陣が張れる。 これは日本の科学委員会の対応の中で、特筆しなければならないことだと思います。 そして、この対応の仕方が今日まで続いております。 行政官は長期出張で大変なご苦労ですが、日本の科学委員会対応にも、本会議対応にもおおいに機能しておりますので、これからもこのシステムをぜひとも続けて欲しいと願っております。

司会  ほかの国はどうなんですか。

大隅  ほかの国はそういうことは、まずないですね。

  それはですね、反捕鯨側は科学的なことを超えたものを持ち出してくるわけです。 それと議論の仕方とか、そういうものにすごく手慣れた人達がでてくるので、行政の交渉経験のある人が一緒になって考えていかないと、とっても対応できなかったということが現実ではなかったですかね。

米沢  最初ね、僕らが科学委員会にでてた頃は、大隅さんなんかは叩かれっぱなしでね(笑)。 それもただケチをつけるためのアラ探しというわけでね。 しかも、向うはホルトとか、学者というよりは動物愛護団体のリーダー、また手練の行政官国際会議ゴロでもあるというわけで、根回しはする、裏で手を回して、やっと合意のできた結論をひっくり返すというふうに、やりたい放題のところがあったから、あの頃は当方も行政官による対応が必要だったわけだね。

大隅  さきほど、島さん、米沢さんがおっしゃったように、科学委員会における厳しい論議の中で、科学陣がへなへなとなっている時に、行政官はわれわれの尻を叩くばかりでなく、自ら局面を展開させ、事態を打開していただき助かったことが何回もあります。

米沢  行政は参加したけど、行政からの干渉は一切しなかった。 「こんなことをいっちゃ、まずい」とか「そんなものは引っ込めろ」とかの干渉は一切やらなかった。 結局、科学委員会で勝ったというのはそこじゃないですかね。 科学的に正しいことを一貫できたのがよかった。

 それから、叩かれながらも毎年新しい論文を出していくという日本の科学者の馬力もすごかった。 レベルの高い論文がつぎつぎ出てきた。 そういう意味では土井長之さん(当時東海区水研数理統計部長)なんかの貢献もおおきかったね。

大隅  土井さんの他にも田中昌一さん(当時東大海洋研教授)、福田嘉男さん(当時遠水研所長)。 それから亡くなった池田邦夫さん(日鯨研初代理事長)。 こういう強力な代表団を構成して、科学委員会へ送りだしてくださった行政の力が大きかった。

司会  それがいまでも引き継がれて森本さんも。

森本  1977年から 82年までローマの日本大使館にいまして、任務は主として FAO(国連食糧農業機関)とか、国際会議の対応だったんですけど、この間に米沢コミッショナーが当時 FAOに勤めていたガランド(科学者)に会いにローマに来られ、よく一緒になりまして、メシを喰いながら米沢さんから講義を受けました。 それからローマで IWC科学委員会の特別会議が開かれた時、私は後方支援だけだったが、いろいろ難しいことをやっているなあと思っておりましたところ、参事官になり、参事官は歴代、科学委員会のはじめから年次総会の終りまで通して対応すべしということでしたので、1988年から 3年連続して科学委員会にも出席しましたが、これは IWC全体の動きをつぶさに知る上で非常によかったと思います。

 科学委員会での状況を知っていることは、本会議とか、技術委員会の発言に重みを与えることができました。 それから科学委員会の議論は我々にとって難しいところはありますけれど、直感である程度分るところはあります。 当時は科学委員会では改定管理方式(RMP)の開発の仕事もやっておりましたが、これが完成すると困る国がありまして、それら反捕鯨国側の科学者が、やたらと引き伸ばし作戦をとってくるのがみえるので、中身がよく分からなくても議長にそのむね指摘すると「うん、そうだね」というようなこともありまして、RMPも早く完成するようになりました。 実は IWCの会議に出席したのは、参事官当時の 3年間だけで、その後は遠洋課長の立場で国内のいろいろな調整をやっておりました。

司会  ただ、国連とか、この間の CITES(ワシントン条約)会議のような関係では…。

森本  私がここ 10年を振り返ってということでみますと、ひとつは 1993年の第 45回 IWC年次会議が京都でありましたね。 あれは国民世論の喚起という意味で非常に大きかった。 その前年に CITESの第 8回締約国会議を日本で開いて、その年にまた UNSED(国連環境開発会議)がブラジルのリオデジャネイロでありました。 そういうところで持続的利用という概念が生れてきておりました。

 それから1995年には FAOの協賛を得て日本が主催して「食料安全保障のための漁業の持続的貢献に関する国際会議」が京都で開かれまして、その持続的利用の概念を、うまく京都宣言とか、行動計画に盛り込むことができました。 これをさらに利用して FAOの食料サミットであるとか、漁業に関連するいろんな国際機関で支持していただいて、IWCの中だけで行われる議論が、他の国際機関や CITESにおいても理解していただける素材ができたということは、非常によかったのではないかと思っています。

司会  高山さんたちは、会社がなくなってしまうという非常に厳しい状況を経験しましたね。

高山  私が捕鯨問題にかかわるようになったのは、イギリスで日本国旗の焼き討ち事件があった 1978年からですが、その頃から商業捕鯨モラトリアムが採択された1982年までの約5年間が、反捕鯨運動が最も激しかった時期ではないかと思います。 その後もいろいろな事件があったわけですが、まさに薄氷を踏む思いをしたのはちょうどいまから 10年前の 1987年で、この年は捕獲調査ができるかどうかの瀬戸際でした。 10年が経って 1995年には、京都で食料安保国際漁業会議が開かれて持続的漁業に対する国際的な理解を受け、今年ジンバブエで開かれた CITES締約国会議では、ミンククジラをはじめとする鯨類のダウンリスティング(付属書 IからIIへの格下げ)提案で、大きく賛成票を伸ばすなど、かっての頃と比べると反捕鯨の勢いも髄分変った感じがします。 ここまで来られたのは、もちろん日本代表団のご努力があったからですが、やはりそれに加えて、世界の人口増加による食料危機問題と、それに対応するための資源の持続的利用の必要性が世界中で認識され始めてきたからではないかと思います。

 モラトリアムが採択された 1982年頃までは捕鯨問題への対応は、捕鯨業界だけで行っていましたが、その後、クジラがなくなるにつれて、日本の鯨食文化の灯を消すなということで流通関係の人々が心配し、全国各地に捕鯨を守る会ができ、決起集会などが開かれました。 それに参加して下さった国会議員の方々が「我々も何かしなくては」ということでできたのが、自民党の捕鯨議員連盟で、その翌年から 2名づつ IWC会議に出席していただき現在に至っています。 また、各界のオピニオン・リーダーの方々にも、捕鯨再開に向けてエールを送ってもらったりしました。 我々の今日があるのは、こういった捕鯨問題にいろいろな分野の方が様々な形で参加していただいたからであり、本当に有難いことだと思っています。

米沢  外国でもガランドなんか早い時期から日本の学者頑張れと僕のところへいってきたこともあるし、最近ではハモンド(前科学委員会議長)なんか怒って、科学者の意見を大事にしないんならやめるぞといって科学委員会議長をやめたという時代があった。 それから IDCRにどんどん参加してくれた外国の科学者の応援もずい分あった。

大隅  それからバタワース(ケープタウン大学助教授)とか、ワローさん(ノルウェー大学教授)とかがずいぶん科学委員会で頑張っておられますし、日本の科学調査、研究の発展にも種々応援をして下さっております。

米沢  そういう連中がどうして頑張ったかというとね。 象の問題でも森林の問題でもそうなんだけど、自然資源を利用すべきでないとする主張が、反捕鯨主張の根底にあり、こうしたイデオロギーが世の中を動かすようになっては大変である。 また、特定のイデオロギーが学問的真実をねじまげるということは許せない。

 こうなると単にクジラの問題だけではないという危機意識が彼らにあったからだと思うよ。

 それから 1980年ぐらいから特に 1990年以降、世の中というのは少しつつバランスを取り戻すような方向に動きつつある。 だからフィナンシャルタイムスとか、オーストラリアのオーストラリアンとかいう ような真面目な新聞が、そういう取り上げ方をしはじめている。 これも大きい。

大隅  これが今年の CITESの象のダウンリスティングの成功につながってます。

司会  疑似商業捕鯨などと日本だけが叩かれた時に、日本は金もうけ主義だからそれをやるんだ、というようないい方をされましたね。 だけど本当に金もうけだけのためなら、ここまでやれなかったでしょう。

米沢  外務省のさる高官が島コミッショナーを呼んで「日本は捕鯨のためにどのくらい損したか分りませんよ」といった有名な話しがある。 たしかにある時期、クジラのためにそんなに悪名が高まるなら、損得を考えて止めちゃった方が得じゃないか。 産業もろくすっぽないのに捕鯨モラトリアムの反対なんかして、そのために日本が世界中から袋だたきに合うようなことは止めた方がいいんじゃないかという考え方がかなり強かったことも事実だが、当方の意気込みは損得という次元を超えていた。 世の中には損をしてもやりぬくべきことがあるし、得をしてもやるべきでないこともある。

  最近、捕鯨の問題というのは漁業の問題になってきている。 漁業というのは野生生物を利用している最大の食料獲得活動です。 生態系を合理的に利用しようとすれば、その生態系を構成するすべての要素を満遍なく、ほどほどに利用していかなければならない。 いま、大変問題になっているのは海産ほ乳動物がすごく増えて、そこらじゅうでトラブルを起こしている。 例えばナミビア沖とか、カナダの東海岸だとか、北ヨーロッパや日本の周辺もそうです。 いまクジラが消費している海産生物の量は大隅さんの推定だと大体 5億トンぐらいになる。 マリンマンマルとか、鳥まで含めると 7億トンぐらいになるだろう。

 いま海面漁獲量は 8千万トンぐらいだから、クジラでその 5倍から6倍、さらに海産ほ乳動物全体では 10倍からの消費になる。 それらのものをキチット調査しないと漁業資源、海洋生物資源全体の合理的利用にはならない。 これからはこの面の調査をやっていかなければならないが、鯨類に関しては統一的で大きな調査能力を持っているのは世界で日鯨研だけです。 そういう意味では日本だけの財産だけではなくて、僕はいつもアメリカにもいっているんだが日鯨研は世界の財産です。

 もうひとつ、鯨研のこの 10年の中で大きく変わってきたことは、いわゆる社会経済的な研究、調査も含めてきたことです。 その研究も国境を取り払ってね。 世界の学者の協力を得て、鯨類の問題以外に利用の問題、少数民族の権利の問題とか、人権の問題についてもやっています。 これは世界に誇るべきことだし、さらにそっちの方の調査、研究というものを強化していかなければいけないと思いますね。

大隅  社会科学の強化の話ですが、今年、日鯨研は機構を改革致しまして、社会科学部門を情報・文化部という名称で部として独立させました。 今後、この部門をさらに強化しようとしていますので、皆さんの期待に応えられると思います。 それから我々は日鯨研の今後の 10年についてはいろいろと夢を持っています。 さきほどから日鯨研へのありがたい期待の声がありますが、それに応えるようなアクティブな活動をしたいと思っています。 それから、漁業界の何人かの方がおっしゃって下さっているんですけれども、日鯨研がクジラだけでなくて、もっと海面の総合的な利用と管理の方策を考える機関になってほしいという、そのようなご希望にもできるだけ応えるような組織を今後つくりたいと思っています。 例えばマグロの研究にしても、いま、国際的に日本の立場は、弱体であるというようなこともありますけれど、国の研究機関では対応が難しい分野を我々がカバーできるような組織にしたいと思っています。 そういうようなことで、水産研究所でできないような研究を、当研究所でやれたらいいなあと思いますし、この間の CITESでの決定のひとつとして、鯨肉の不法な取引の防止のための措置ということで、DNAによる個体識別の強化という要請がありますが、我々の研究所はそういうものにも十分に対応できるのではないかと思っております。

高山  共同船舶は鯨類調査に船舶と乗組員を提供しています。 いま、捕獲調査に従事している船の船令は古い船で 40年、最も新しい船でも 26年もたっており、これらの船の代船建造を行っていかなければならない時期にきています。 乗組員については、将来を考えて、5年前から新人を採用しており、今年も 40名ほど採用しました。 彼らは「日本の捕鯨を背負って立つ」という気概をもって入ってきており、その意気込みを無駄にしないように皆で努力していかなければならないと思っています。 また、乗組員に対して、捕獲調査は政府、日鯨研、共同船舶三者一体となって進めていく事業であること、さらに、今後の日本の食料産業を支えるための重要な事業であることを常日頃説明して、意識の高揚に努めています。

大隅  高山さんがおっしゃったように三身一体を考えておりまして、この調査のいろんな意味のひとつに技術の継承というのがありますが、日鯨研では新しい技術の創造ということを考えております。 近代捕鯨 − ノルウェー式捕鯨というのは、もう開発されて 150年ぐらいたっています。 この技術革新時代に、いまだに大砲でクジラを撃っている方法より、もっと新しい方法が考えられるでしょうし、それから、人道的捕殺の問題に関連して、日本の捕殺方法がいろいろ非難されてますけれど、そういった非難を解消するために、技術的改良が必要だと思うので、研究部のほかに調査部をつくりまして、調査部の仕事はそういった新技術の開発に力を入れようと思ってます。

司会  行政のほうからの鯨研への期待についてはどうですか?

森本  鯨研はずっと以前からあったのですが、財団法人に衣替えした新しいこの 10年の日鯨研を考えてみました場合に、生まれた頃は、いろいろな面で心配な点はあったと思うんですね。 それでこの 10年間は、捕獲調査を核にして、科学委員会という国際的な場において、十分評価される研究ができてきました。 その成果によって日鯨研の基盤が安定してきたんだというふうに思っております。 調査結果そのものの充実とこれに携わる研究者をはじめとする関係者の努力の成果だと思います。 さきほど、島さん、米沢さんもいっておられましたように、これだけの研究が仕組めるのは他になく、世界的に誇れる研究機関です。

 ただ、これから先 10年を考えてみた場合に、しばらくの間この捕獲調査を核にしてさらによりよいかたちで、国際的にも評価されるようにしていかなければならない。 このほかにこれまでの活動にかえて新しい分野での視点を我々も期待している。 他の研究分野においても参考になる新しい研究機関(広く意見を集めてやり得る新しい機関)というふうに位置づけられると思います。

司会  日鯨研は新しいからか、開かれた研究所というふうがありますね。

米沢  これからの 10年というと 2010年頃までに、なるわけだが、世界の食糧危機だとか人口爆発が心配されるのは、大体 2020年頃で、その意味で今後の 10年は非常に大きいわけです。

  10年たったら世の中は変ってくるだろうから、鯨研の研究も、それに合せてステップアップしてもらいたい。 それから、いま安成さんが開かれた研究といわれたけれど、これは非常に大事なんだね。 クジラの研究が世界の最高の水準を維持しているのは、大隅さんたちクジラ専門の学者の奮張りや、調査をしつこくやってきたことが、その基盤にあるわけだが、そのうえに田中昌一さんだとか、統計数理研究所長だった赤池弘次さんだとか、外部の第一級の人材を柔軟に研究の中に取り込んだからだと思う。 鯨研のこの 10年は発展期だったからできたが、これからは組織はなかなか広がらない。 研究の対象を人文科学に広げる必要もあろうが、テーマは時代によって変わるところもあるから、今後はいかにして小さい組織で最大の能率をあげるか、外の頭脳を効率的に活用するかが課題だね。

大隅  その点、日鯨研では IWC科学委員会対応を主目的として、以前から月例会という組織がつくられておりまして、原則として月に一度、いろんな大学や研究機関のクジラに関心を持った研究者に参加していただいて、研究成果を持ち寄って検討する場が確立しておりますが、これは自慢できると思います。 また、当研究所は「資源管理研究所」という組織をもっております。 この組織は田中顧問を中心にして捕鯨にこだわらずに、日本の水産業に関わる自然科学、社会科学を総合したような問題を取り上げて、それぞれのテーマについて、専門研究者を招いて話し合いの場を持っており、これも約 10年間続いております。

 米沢さんのおっしゃることを肝に銘じてさらに開かれた研究所になるよう努力したいと思っております。

司会  開かれたものであれば逆にそれが外ににじみでることになりますね。 すでに文化人類学研究ははじまってますし。

大隅  これは本当に島さんの功績ですよね。 これが例の沿岸小型捕鯨問題で外国の学者達を捕鯨のチームに参加させることにつながっています。

  あれはね、マルモの会議の時に、日本には原住民生存捕鯨に非常に類似した沿岸小型捕鯨があるから、そのカテゴリーでクオーターを下さいということで、原住民生存捕鯨分科会に提案したわけですよ。 いまでもよく覚えているけど、あんなに人を馬鹿にした話はない。 プレゼンテーションしたけど、質問はひとつもない。 この次どうしますかと聞いても、なにもいわない。 この時にミルトン・フリーマン(カナダ・アルバータ大学文化人類学教授)先生がこれをみていて、こういうアンフェアーな取り扱いをされるのはおかしい、僕らにできるかどうか分らないけど、やらせてくれと。 同じような考えがアラン・マックナー(N・Yテレプレスアソシエイツ社長)氏からもでていて、両方の案を一緒にしてやろうじゃないかということで、世界中から人類文化学者を集めてきて、彼らの目でみて、彼らの連合で世界に発表してくれと、いったところ、マックナーは気を悪くしちゃって、フリーマンだけで会議がもたれましてね。 その動きというものはその後のフリーマン自身の動きとなり、さらに発展して、世界捕鯨者会議みたいなものまでつながる。 沿岸小型捕鯨の速効薬にはならなかったけど捕鯨問題全体、少数民族の権利とか、海産ほ乳動物の利用とか、全般的な問題に対して世界的な議論を巻き起こした原点だと思いますね。

 もう一つは CITESの京都会議で起ったことだけど、象だけでいくら戦ったって負けちゃうわけですよ。 この時にジンバブエのジョン・ハットン氏と私と GGTの金子氏と話をして、トランスバウンダリー(境界を超えた)の組織をつくらなければ駄目だと、要するに合理的利用派を結集しようじゃないかということで IWMC(国際野性生物管理連盟)をつくりあげた。 そのヘッドがラポアント氏(CITESの元事務局長)で、97年の CITESの成功というものは、正にラポアントの貢献がすごく大きい。 英語、フランス語、スペイン語の三カ国語のニュースレターをつくってどんどん配るわけです。 書いてあることは実にキチンとしたことが書いてある。 今年の会議では IWCと CITESの関係というような決議から入っていくわけだけれど、まずクジラが先行して賛成票が増えていく。 これに続いて象がでてきて、最後は 77票までいった。 向うの方はもう議場から出てしまったり、投票しなかったりで、反対票が減ったもので、3分の2の多数で通りましたけど、あれはやはりトランスバウンダリーの協力の力が大きい。 トランスバウンダリーにすれば世界的な運動になるんだけど、漁業だけで頑張ろうとかね、クジラだけで頑張ろうというと、ほんの一部の国だけになってしまう。 いま、日本の国内でも漁業の NGOと合理的 NGOは違うと言う人がいるが、やはり合理的 NGOに徹しなければいけないと私は思っています。

米沢  PRとか対話とかは国際的にも国内的にも非常に大事なことなので、鯨研に頑張ってもらわないとね。 こういうことは万事消極的では駄目ですね。 クジラが成功したのは IWCの中でも、外でもそうだが、ことごとく日本側がことを起こしてきた。 したがってPRにしても、こっちから常に積極的に働きかけて、IWMCなんかと連携して国外的にも国内的にもやっていかないといけないと思うね。 そういう意味で鯨研がやってきたことは大変よかったと思う。 それから人文科学に広げた効果も大きい。

森本  今回の CITESをみても、実際は情報合戦なんですね。 IWCの加盟国は固定してますので、なにをいってもそれ程大きく変わらないという側面はありますけれど、ああいう国連に近いような大きな会議になりますと提案の中身について、知らない人が多いんです。 知らない人を、うまく抱き込むというのは、口でいうほどに簡単ではない。 だから今回日本代表団はフランス語、英語、スペイン語、日本語の四カ国語の分かりやすい鯨類ダウンリスティング提案などのパンフレットをつくって持っていった。 しかも、CITESの会議なんてのはクジラだとか漁業の専門家は非常に少ない。 だからそういう方々にパッと一目で分るようなのをね。 いままで内陸国の人達に働きかけたことなぞあまりないんだけれど、国連的な組織の会合に行くと内陸国の人も一杯いますからね。

 こういうことから考えますと、政府も努力しなければいけないけれど、柔軟に対応できる日鯨研の中で、ある程度情報を世の中に知らしめるという意義は非常に大きい。 それと反捕鯨の人達は鯨種ごとにいろいろな分析や議論を展開されるのを非常に嫌う。 要するに外国の人達はクジラにいろんな種類があるということは知らない。 短絡的にクジラは絶滅と思っている。 だから、そうじゃないんですよ、たとえばミンクはたくさんいて資源は健全なんだと分りやすく説明すると、なるほどわかりましたということになりますので、そういう努力を国際的な場でやっていくことが必要で、そのための資料を整備して、情報を定期的に提供していくことが重要でそのへんも大いに期待されるところじゃないかと私は思います。

司会  ではこのへんでありがとうございました。

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