日鯨研の設立と捕鯨問題をめぐる国際情勢 (2)

(日本鯨類研究所 1997年 10月発行「日本鯨類研究所十年誌」より)


出席者

斎藤 達夫
前IWCコミッショナー、農林水産省水産担当国際顧問

島 一雄
IWCコミッショナー、日本水産資源保護協会会長

長崎 福三
日本鯨類研究所顧問

稲垣 元宣
日本捕鯨協会会長

岡本 純一郎
水産庁漁場保全課、生態系保全室長

安成 梛子(司会)
水産経済新聞社社長


司会  ここでは日鯨研はどういう理由で設立されたのか、設立に至る背景を中心に話し合っていただきたい。 当時 IWCのコミッショナーだった斉藤さんからお話をお願いします。

斉藤  私は 1977年から米沢さんのお供で IWC会議に出て、85年から 3年間コミッショナーをやりました。 実はそれより前、77年から導入された管理方式の下で個々の鯨種の捕獲ワクについて、とんでもない決定がどんどんされていった。 当時の米沢コミッショナーはいろいろ頑張って先細りを食い止めようと必死の努力をされました。 しかし、捕獲ワクの問題のほかに南氷洋のマッコウ漁の禁止、インド洋のサンクチャリー、ミンク以外は母船式操業の禁止というようなことが重なってきた。 そして沿岸のマッコウも捕獲ワクゼロということになり、それを日本側が特別会議で巻き返すとかというようなことを繰り返してきた。 82年の IWC会議で 3年後の商業捕鯨の全面禁止が採択され、これに対し日本は異議申し立てをしたわけですが、84年 12月の日米捕鯨協議はそれまで何度も IWC会議で焦点になった沿岸のマッコウ資源のワクの問題だった。 沿岸マッコウについては IWCの付表に 81年だったか「IWC会議でワクが出なければ、出漁できない」という決定が書き加えられて、日本はこの項に異議申し立てをしたけれど、この年の IWCは 84年のワクをださなかった。 出漁直前になってどうするかで日米協議が行なわれ、結局、84と 85年漁期は 400頭ずつ継続して獲ることにアメリカは目をつぶる。 その代わり日本は、マッコウのワクの問題についての異義申し立てを撤回しろということになった。

司会  それは沿岸のマッコウだけについてですか。

斉藤  マッコウだけという取り決めでした。 しかし協議が終わり文書を取り交わす段階になってアメリカが「そのほかの鯨種についてもモラトリアム発効後も 2年に限り捕鯨をしてもいい。 その後に異義申し立てを撤回するなら」という提案を一方的につけ加えてきた。 日本はそんなもの受けられないですよ。 まして南氷洋のミンクは資源状態もいいとわれわれは自信をもっていましたから。 だから 84年の合意はあくまで沿岸のマッコウのワクの問題だけの合意だった。 そのうちにやはり有形無形の圧力がかかってきた。 その一部は北洋関係者や国会議員の先生方だったし、「クジラと北洋はどっちが大事なんだ」とか言う人もいた。 なかなか国内の足並みも揃わなかった。

司会  稲垣さん。 当時の捕鯨業界の反応はどうでしたか。

稲垣  モラトリアム採択後の日米協議で中心議題はマッコウだけと思っていたら、マッコウ以外の南氷洋の問題も話をつけようということになって、書簡が交換されたんですね。 その書簡についての受けとめ方は日米で違うのですが、当時は日米の力関係で異議申し立てを撤回すれば、2年は認めてやる、アメリカもマグナソン法(PM法)などの制裁措置はとらないということでした。

斉藤  いや、84年の日米の取り決めはマッコウだけでして、そのほかにアメリカの一方的な提案があった。 マッコウとは形式的には分離されています。 私としては蹴飛ばすつもりでいたんですけど、最終的にはいろんな事情でほかに日本の捕鯨が長続きする方法はなかったのです。

長崎  アメリカがだしてきたミンクに関する提案の内容はどういうものでしたか。

斉藤  マッコウ以外の鯨種について、2年間、現行水準での操業を認める代わりにモラトリアムの異議申し立てを撤回しろということです。

長崎  私の理解ではモラトリアム採択後、3年間の捕鯨は継続された。 われわれはその 3年間は条約に基づいてやってきたわけで、異議申し立てでやってきたわけではない。 ところが 3年間の後の頃になって「これからどうする」という話の時にアメリカは「母船式捕鯨は 2年間猶予していいよ」という書簡の内容だという人もいる。

斎藤  それも違います。 いわれるようにモラトリアム採択後 3年間は、そのまま続けられる。 ただし、マッコウは特別の付表の問題があって、その 3年間もできるようになっていなかった。

長崎  なるほど。

斎藤  ですからマッコウだけについて 2年間、400頭ずつのワクを決めたんです。 その代わり IWCがクオーターを決めなければ獲ってはいけないということに対し、異議申し立てを撤回するということになった。 ところが日米が書簡を交換するときにアメリカがそのほかの鯨種のモラトリアム後の取り扱いに関する提案を一方的にだしてきた。 それに関しての交渉が、85年の 3月から始まったわけです。

  日米協議は 82年ごろから米沢−バーン日米両コミッショナーとの間で 5回ぐらいやった。 その結果両代表との間で大筋の合意が成立、アメリカが当時の国務次官補、日本側は外務省の審議官の立合でこれを確認した。 これで大丈夫ということで 10月に佐野長官に行ってくださいということになった。 私がお供をして交渉に行ったら、アメリカの態度が急変していて、日米両コミッショナーのライフエステートに関する合意を白紙撤回してしまったんです。 おそらく日米間の合意事項が外部にもれてしまい、議会筋から圧力がかかってしまったようです。

稲垣  私の記憶ではモラトリアムの採択された 82年の 11月に第 1回日米捕鯨協議が開かれましたが、その時、すでに捕鯨問題は決着の方向がついていたんじゃないかと思っているんです。

斎藤  そんなハズはありませんね。 85年までは諦めていませんでしたよ。 ただ当時の状況はモラトリアムの異議申し立てをするのでさえ、大変な根回しがいる四面楚歌的状況で、PM法がこわくて業界内も割れているし、とてもこれではもたない。 外務省も事情がわかっている人はいいが大勢はそうではない。 官邸もという感じで結局アメリカの提案をのめば、少なくとももう 2年の猶予はでる。 消滅させてはいけない日本の捕鯨を存続させる方法は当時の状況下ではこれしかないと考えてその方向に向かったのが 85年の 3月末ですね。

司会  その後の日米協議で日本は異議申し立て撤回に合意し、捕獲調査の方向に切り替えた。

斎藤  私は調査というものはきちんと筋道の通ったものでなければいかんと思いました。 商業捕鯨のときは確か 1800頭ぐらいのクオータでしたから、私自身の腹の中は 400か 500の間かなと思って、池田さん(当時遠水研底魚海獣資源部長、初代日鯨研理事長)にお願いして調査計画をつくっていただいた。 池田さんは 825頭になるという。 実は計画が固まるまでいろんな問題があったんです。 最終的に調査計画を出す土壇場になって、確か長崎さん、三崎さんたちと夜遅くなるまで調査計画を科学的に分かりやすい内容の英文にするために作業をした記憶があります。 この過程で共同捕鯨とはどうしても頭数の問題で意志の疎通ができず、「斉藤はワケのわからんことをいっているからコミッショナーをクビにしろ」と、国会の先生のところに駆け込んだということも聞いています。

長崎  「捕獲調査に切り替える決断をしたのはいつ頃ですか。

斎藤  それは 2年間の猶予期間を持った時です。 やはり捕獲調査というものは誰からも後ろ指をさされるものであってはならないんですよ。 IWC条約 8条 1項を使って計画を作ったわけです。 確かそれよりずっと前になるが、77年に大隅さんが南太平洋の中緯度で 8条 1項にもとづくニタリ鯨の調査をやっていた。 これにヒントを得たんですが、南氷洋で反捕鯨国が捕鯨を禁止するという理由が科学的には不確実だからということだから不確実な点を解明するために調査をやろうということになったのです。

  だからそれを聞いてアメリカは怒りましたね。

稲垣  藤田さんが共同捕鯨の社長をやられていた当時、商業捕鯨をいつまでも続けられないから、将来は捕獲調査の形を考えるべきだといっておられました。 スペシャルパーミット(科学特別許可)は確かに IWC条約の 8条 1項ですが、4条 1項でも鯨の調査を奨励しています。

司会  ところで岡本さんはこの当時はアメリカにいたんですか。

岡本  私は 86年 4月に帰国して捕鯨班長になったんです。 その年米国最高裁でちょうど日米協議で決まった捕鯨問題が係争中でして、判決がでてアメリカ政府が負けたらどうするかとか、その対応をさせられたわけです。 米商務長官が日米協議で日本に商業捕鯨を 2年間延長させたのは米国内法違反とアメリカの環境団体から訴えられた。 日本の異議申し立てはアメリカ政府が勝ったら取り下げる条件だった。

 私個人としては日本がなぜこんな裁判に介入するのか全然わからなかった。 というのも当時、アメリカは自国の沿岸から外国船を早く追い出して漁業のアメリカ化を図る政策をとっていた。 早晩アメリカ水域から締め出されるのになぜ日本は最も国際社会で通用する異議申し立てという武器を捨てることに対して捕鯨協会が金を使ったり、政府が介入することに非常に不思議に思いました。 そのころ長官をやられていた佐野さんが「この裁判はアメリカ政府が負けたほうがいいかもしれない」と一言ポロッといわれた。 日米協議を結んだ時 86年 7月当時の日米漁業関係が、微妙に変化していたものと思います。

稲垣  われわれ捕鯨業界としてはせっかく長官、コミッショナーがアメリカとの間で合意した事項が裁判で引っ掻き回されても困るなあーということでした。 米国自然保護団体が提訴してアメリカ政府が被告になったが、われわれとしても裁判を通じて業界や日本政府の立場を天下に明らかにしようという気持ちもあったことは確かです。 なんとか日米合意にもとづく 2年間の猶予を生かしたいということでした。

司会  業界が捕獲調査へ切り替えようと思ったのはいつごろですか。

稲垣  業界から積極的に政府に対し、どうしてくれとかあまりいいませんでした。 水産庁が捕鯨問題検討会をつくり、西村健次郎さん、山本七平さんなど外部の有識者を集めてモラトリアム後の捕鯨をどうしたらいいか検討したんです。

斎藤  要するにモラトリアムに先立つ 3年の猶予期間の後も終わりでなく、なんらかの形で存続を図れるというのがその検討会の結論だったと思います。 その後 85年の日米協議を経て将来の再開に向けて、商業捕鯨と全く違う捕獲調査を行って科学的根拠を固めようということになったと理解しています。

稲垣  業界の立場としては調査といっても莫大な金がかかる。 頭数は少なくても調査の経費を賄えるよう政府がちゃんと金をだしてくれるのなら、いいという考えでした。

長崎  調査の場合、一つのストックからのサンプル数をグラフで描くと 800いくつになるわけね。 また調査を 1年でやるか 2年でやるか、区域で分けてやるかで頭数はいくらでも調整できる。 だけど一つのストックという前提でいけば、800いくつとかいう数字がポンとでてくる。

斎藤  当時、私は役所をやめていたが、水産庁の幹部に対してはイライラを感じていました。 調査の内容をツメることもせず、将来の方針についても外部にいるコミッショナーの私には全然相談もなかった。 ある時、私と共同捕鯨と考え方が違うので、遠洋課長の仲介で話し合いをしようということになった。 ちょうど岡本班長が出てきて、私の立場を一生懸命代弁して業界に話してくれたんだが、「俺にはものをいわせないのか」とむくれていたことがあるけどね。(笑い)

  斉藤さんはきわめて微妙な 86年 8月に役所を辞められた。 当時、佐竹さんが長官で捕鯨問題をどうするかといわれ、大変だった。

斎藤  86年の IWC会議の最終日の前日夜遅くまでかかって、反捕鯨国が出してきた調査を制限する決議案を必死になって食い止めた。 しかし、日本が実際に調査に入る 87年の会議にはアメリカが中心になって条約 8条 1項の締約国の権利を制限するような決議案を通そうと大攻勢をかけてきた。 帰国してしばらくして、コミッショナーを辞め、島さんにここから先は泥をかぶってもらうということになった。

  当時、国内でも捕獲調査に対する理解が低かった。 外務省に赤尾経済局審議官がいて、岡本君たちが一生懸命通ったせいかもしれないが、赤尾さんが「調査をやらないなんてとんでもない話だ」といい、赤尾試案をつくって外務省の中を固めてくださった。 また、田名部水産部会長が中曽根首相に、調査の必要性をはっきり説明された、と聞いている。

斎藤  田名部さんはきちんと対応してくれた人だと思う。

  田名部さんは大臣になってからも、当時の長官を叱咤激励して調査を実現させたといっておられた。

岡本  86年夏に急遽、調査を FAOが受けてくれないかということを交渉するようにいわれ、FAOと話をしたんですが、FAOからは断られました。

  それは内村さん(当時大日本水産会会長)の案ではないかなあ。

稲垣  いま岡本さんがいわれた FAOの話をわれわれも聞かされたことがあります。 われわれは FAO単独よりも IWCと一緒の形でやってもらえないかと思っていました。

長崎  岡本さんは当時、捕獲調査の予算をつくっていたようですが、水産庁の首脳部は本当に調査をやる気でいたんですか。

岡本  予算を計上することには何ら抵抗はありませんでした。 一つ予算で議論したのは 3億円しか補助金がだせない。 残りは自前で実施主体が金をみなければいけないから、調査資金を積み立てる法律をつくるか、またはどういう仕組みをつくればいいとか、はっきりしなかった。

稲垣  われわれ業界としては特別立法をつくってほしいと陳情してました。 しかし、特別立法なんてとてもじゃないができないと断られ、なかなか話が進まなかった。

岡本  私が捕鯨班長になった当時、いまは亡くなられた共同捕鯨の専務さん 3人(蓮井滋、大津留健、飯田陸之助の各氏)が週に 3回ぐらいきて 2時間ぐらい粘られるんです。 その時、3専務さんがいわれたのは補償問題でした。 「資源があるのに止めさせられるのは理不尽だ」という。 私は「おっしゃる通りだから訴えてくれ」といったんですよ。 事務ベースで頼んでも補償金なんかでませんからね。 国が裁判に負ければ大蔵省から補償金がでるし、逆に政府が勝てば業界もあきらめがつくわけだから。 もう一つの調査については、調査の実施主体は捕鯨関係者ではないということもいいました。

稲垣  いくら捕獲調査といっても当時のわれわれとしては資料を集めるためには頭数を増やす必要があるんじゃないかと。 最大限の数字をお願いしてました。

岡本  多分、池田さんもそういう圧力を感じていたと思います。

長崎  あのころはある程度の調査頭数という拠り所がなければあんなに頑張れなかったかもしれない。

岡本  その当時、斉藤さんがいわれたことをはっきり覚えていますが、いま商業捕鯨で 1900獲っていて調査で 1700とかいったら誰も調査とは思わない。 単なる名前を替えただけになると強く指摘されました。

稲垣  それは私も無理だと思った。

岡本  最初から 500ぐらいがマキシマムじゃないかと、斉藤さんは言ってましたね。

  斉藤さんは、「調査というのは多くてもせいぜい当初 500ぐらいじゃないか」といわれてましたね。

岡本  87年の IWCが終わって捕獲調査の再考勧告がでて調査内容を変えなければならなくなり、島さんと私は池田さんのところへ行った。 825の調査計画があるがやはり新たな形にして、調査を実施をしなければならないと。

  87年の会議が終わった後でサンプル数を 300と決定したのです。 中曽根首相の訪米前に閣議があり、科学委員会の結果に加え、対米関係も考慮してサンプル数を決定した。 結局、池田さんに今は調査をすることが重要です。 ともかく 300という標本で「試行調査」ということで実施することにしたいと思います。 調査をやることに意味があるか検討していただきたいとお願いしたら、池田さんも「いた仕方ないと思います」といわれ、私は恐縮したことがある。 それから田中先生のところに説明にいったら「行政官はいいですね。 科学者は科学的に意味のある数字で調査する必要があるのです」といわれたことを強烈に覚えています。

稲垣  その通りだと思いますね。

岡本  87年のIWC会議の際、調査計画を出すときは外務省の野上漁業室長が頑張ってくれたんです。 手続きにしたがって調査計画を IWCの事務局限りとして提出しても情報が流れて反捕鯨の宣伝に一方的に使われても困るから堂々と外人記者クラブで記者会見して発表することにしたんです。 これが在米大使館との間でアメリカを刺激しすぎると大騒ぎになりました。 野上さんには迷惑をかけたけれど結果的には日本がこそこそと隠れないで調査に取り組んでいる姿勢を示せたと思います。

斎藤  一緒に会議に出た外務省の担当者はわれわれを実によくサポートしてくれましたよ。 本省の上の方はなんとか日米関係をうまく治めたいと考えているから、非常に辛い思いをしたでしょう。 モラトリアムの異議申し立てをしたときの遠藤参事官、赤尾さん、佐藤さんとか、よくやってくれましたね。 その後の調査が走りだしてからのコミッショナー、鯨研の方々なんかは実によく頑張った。 いまは例えばサンクチャリーなんかが出たときもそれほど抵抗なく異議申し立てをできるわけですよね。

司会  以前は国際社会から孤立してはダメとか、色々圧力がありましたね。

斎藤  現在は調査の成果もあがって誰も後ろ指をさせないでしょう。 それから政治家のなかでも多党化が幸いしている面もあるし、総理が自分の方から積極的に「捕獲調査はこちらに理がある」といってくれたのは初めてでしょう。

長崎  さきほど岡本さんがいわれた予算の話だが、10数億の資金を鯨研に注ぎ込んで財団をつくろうという話があったんですか。

岡本  86年夏の段階では調査をやる以上、新しい研究所をつくらねばいかんということで、そういう方向で固まっていました。 しかし、農林水産省の中でも「こんなもの(捕獲調査事業)は補助事業じゃない」といわれました。 もともと資金があってその事業をサポートとするという意味で補助金をだすのであって、最初から資金のない研究所に補助事業を組むことはありえないと。 これは方向を間違えたかと悔やんだのですが、このためまず新しい研究所にきちんと調査資金を寄付金で積み立てる必要性が考えられた。 研究所をつくり、そこに調査基金を積み立てるために法律をだそうとしたが不可能なことが多く立ち消えになった。 その後、資金の原資として国際漁業経営安定基金を元手にして非課税で積み立てる「基金構想」を考えたんです。

稲垣  あの基金は南トロから始まり、北洋サケマスが入って、クジラも手っ取り早く調査基金に乗っかり大蔵省の OKをとれば免税になるからということでした.

岡本  基金をつくるために大蔵省といろいろ議論したんですが、最後は指定寄付金という形しかないというところまでいきました。 大蔵省がいうには指定寄付金というのは本来は(交通遺児や海難遺児の奨学金を例外として)図書館や公会堂などの建設費や学会の開催のように目的のために 1年で使いきってしまって、繰り越していくものではないんだというんですね。 それで最後に使いきりますといった。 何故かというと調査船をだして、当初の目的を達成しないで、もし途中で帰れという事態になったとき、その金は誰がどこでみるというものがなかったから、少なくともその部分だけはだしたいというのが話の始めです。 ただ大蔵省は指定寄付金というのは広く多数から集めるのだが、あなたの計算だと特定の会社からしか集められないじゃないかとかいろいろいわれました。 指定寄付金のときも最後の土壇場で上木さんといういい企画課長がいて、理解していただいた。

  上木さんは「岡本君がいなければできなかったろう。彼はすごいねばっこい奴だ」といっていた。

岡本  上木さんは男気をだしてこちらが腰砕けになりそうなときに「この捕獲調査のための金は通さなければいかん。これは絶対頑張れ」といってくれた。

 最後の税制大綱の決まる朝、大蔵省が「政府としてやる調査だという形をつくらねば困る」といって閣議了解を条件に付けてきた。 長官は閣議了解なんか想定していなかったし、調査船団を出す直前ですから上木さんが長官に夜中に電話連絡したり、鶴岡漁政部長に相談して大蔵省の税制課長と折衝したり根回しが大変でした。

 その後、外務省は閣議了解は日本政府が捕獲調査を結束してやるような印象を与えるのはアメリカとの関係からいってまずい、「調査資金を集めるため」を明確にするのであれば仕方ないといってくる。 大蔵は当然、調査資金を集めるための閣議了解なんてバカなことができるかと。 調査の実施に日本政府の関係省庁が協力すべきだという表現にすべきだと、これは当たり前のことですが閣議了解の直前まで調整が難航しました。 それでやっと指定寄付金という制度に持ち込んだわけです。

司会  87年衆参両院の農林水産委員会で捕獲調査の実施について集中審議があったと思いますが。

岡本  水産庁がどうも弱腰と思ったのか、外務省の赤尾さんも国会にきて気をもんでおられましたね。

斎藤  その年の IWC会議の時、捕獲調査についての対処方針の原案が「IWCのいろいろな意見を尊重して実施する」という書き方だったので「科学的に妥当な意見があれば」という字句を是非いれてくれと岡本君に頼んだ覚えがある。 会議に出掛けていく時も、IWCで批判があれば再考するとか、われわれの後から鉄砲を打ってくるような発言があったり、会議の終わった後も日本政府は調査船を間髪を入れずに、出すのかと思っていたら、なんか出るのか出ないのか分からないに感じになってきた。 水産庁はやるべきなのにまだ決めていないので、国会の先生に大いにケツをひっぱたいてくれと、といった覚えがあります。 その後長崎先生、池田さん、大隅さん、田中さんたちが内村大日本水産会会長に会い、直談判したり、使える手段は全部使った感じです。

  松永駐米大使に捕獲調査のことを説明するためアメリカヘ飛んだときのことです。 ちょうどアイスランドの大臣や駐米大使、コミッショナーも日本の大使に面会を求めてきたものだから、「島は捕獲調査の説明に来たといいながらアイスランドと密約をやりにきたんじゃないか」と大変ご立腹という。 私は「他の目的はありません」とピーター佐藤公使に申し上げて、ようやく大使と会うことができた。

 大使は「日本は捕獲調査をやるというけど、商業捕鯨をやめてすぐ捕獲調査はないんじゃないですか。 要するに商業捕鯨をやりながら、核になる調査、ランダムサンプリングに基づく調査をやっていて、商業捕鯨をやめるから、その部分だけ残すというなら理屈は通るけど。商業捕鯨をやめたからすぐランダムサンプリングというのはおかしいと指摘されました。 私は「今までの商業捕鯨だってそれなりのデータはとれますが、それでは精度が不十分であり、より統計的に厳しい調査をやるんです」というようなことを申し上げたと思います。 当時はいつ首になるかなあーと思って仕事をしていました。

司会  聞いているだけで大変ですね。 まだ 10年前の話だから生々しい。

稲垣  さっき岡本さんから調査の基金の話がでましたが、新しい鯨研ができたのが 87年 10月。 同時に日本捕鯨協会から鯨研の分離と基本財産を移管した。 そのとき岡本さんから「基本財産の金をだしてくれ」とハッパをかけられたんです。 共同捕鯨からは 2億円を新鯨研に寄付したんです。 ああこれで共同捕鯨は解散という話になったから、清算に必要な金を職員や株主に返して、多少お金が残るので免税にしてもらって鯨研に指定寄付金としてだして立派な捕獲調査やってもらうということになったわけです。 調査をやるための特別基金がたしか 14億円ですか。

岡本  13億 6000万円でした。

長崎  その頃の水産庁は捕獲調査を 3年か 5年と考えていたのでしょう。 モラトリアムの規定に含まれている鯨資源の包括的見直しを 5年以内に実施するという、5年間を視野においたのでしょうが。

岡本  日本政府としてはアメリカとか反捕鯨国と戦って続けることができるかどうか、物凄い不安があった。 87年 8月になってアイスランドに対する制裁をアメリカがやらないと聞いて、やっとなんとかやれると思いました。 12月に捕獲調査船団を出すためには出港準備を少なくとも 3カ月前までには準備に入らなければならなかった。 また出港準備資金を誰が面倒を見るのかと不安があったけど、アイスランドの話があって、これは出せるだろうという感じになりました。 確か 9月頃、「船団出港の準備をしてもいいよ」といったと思います.

長崎  その時点で共同捕鯨は解散して共同船舶に切り替えましたね。 共同船舶は当時あの形でずっと続けていけると、考えていましたか。

稲垣  もう共同捕鯨は人間も半分以下に減らしていましたから調査の現場業務を共同船舶でやるということくらいですか。

岡本  このときも共同捕鯨の 3専務さんが物凄く抵抗されたけれども「解散してもらう」と、今から考えると、ひどいことを言ったのかもしれない。 私の意識からすれば共同捕鯨が用船会社になったとしても、いつ潰れるか分からない会社なのですから、共同捕鯨としてはきれいにすべて清算しておく必要があると考えていた。

稲垣  そんなとき金がかかりすぎるから母船は第 3日新丸を使わないでくれという話がでたり、といって急にトロール船というわけにもいかなくて。 それからいい忘れていましたが鯨研設立のさい、指定寄付金をなるべく幅広く集めるというとき、水産経済新聞の先代社長の安成さんが 100万円だしてくれた。 これはわれわれも感激したんですよ。 せっかくの機会だから(笑い)・・・。

岡本  調査船については北転船の話もでましたね。 300頭という調査ワクからすると経費的にもつかとか経営者みたいなことも考えました。

長崎  日鯨研側からみると 300という数字は、人間のスタッフからみてもぎりぎりいっぱいの数字でした。 300とれるかどうかも自信がなかったし、いったい調査船をだして損がでたらどうするとか、寄付で穴埋めしてもらうしかないだろうというようなことを話していた。 ですから 1年目が終わったときはホットしましたよ。

岡本  鯨研をつくるとき最悪のときの後始末をどうするかという不安はありましたが半面、日本の鯨類研究をリードする研究機関としてなんとか生き残れる方法を組み立てたいという思いもありました。

長崎  1年日が終わった時点で本当によい数字がでて 300でいけると思った。 当時、疑似商業捕鯨だとかなんとかいわれてうるさくてしょうがない。 早く結果をだそうとみんな大変疲れました。

  実際、大変だったあの頃のことを考えると、いまは随分安定した状態ですよ。

斎藤  初心を忘れれたらいけないと思う。 間違っても疑似商業捕鯨に近付くようなことは考えないでほしい。 最初に決められた目標をきちんと守ってもらいたい。 結局、鯨研がここまでこれたのも池田さん、長崎さん、大隅さんら歴代理事長、各省庁の担当者、ずっと通してコミッショナーの島さんたちのご苦労の結果です。 もちろん十数年の苦闘の歴史のなかで研究スタッフの功績も大きかったと思います。

稲垣  藤田さん、米沢さん、斉藤さん、島さんなど歴代のコミッショナー、水産庁のみなさん、鈴木善幸さんら国会諸先生のご苦労もありました。

岡本  いろんな場面でいろんな個性の人たちが出てきて一番いい形で力を発揮したと思います。

長崎  おっしゃる通りいろんな場面でラッキーもありました。 斉藤さんもいわれた通りこれからの鯨研は初心を忘れずにいってもらいたい。

司会  では時間になりましたのでこの辺で。 有難うございました。

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