南氷洋ミンククジラ調査事業

(日本鯨類研究所 1997年 10月発行「日本鯨類研究所十年誌」より)


出席者

小松 正之
水産庁遠洋課課長補佐(総括)

田中 昌一
日本鯨類研究所顧問

加藤 秀弘
水産庁遠洋水産研究所、大型鯨類研究室長

山村 和夫
日本鯨類研究所参事

藤瀬 良弘
日本鯨類研究所研究部長

西脇 茂利
日本鯨類研究所調査部長代理

谷藤 繁
元共同船舶株式会社、資源調査部長

安成 梛子(司会)
水産経済新聞社社長


司会  今回は、鯨研の主要研究事業となる南氷洋(南極海)ミンククジラ捕獲調査について最前線で事業推進にあたった方々にお話を伺いたい。 まず、最初の段階について、田中先生からお願いいたします。

田中  調査開始当時、東京水産大学にいて、外部の人間として協力する形でした。 当時、池田さん(初代理事長)が中心になり、調査計画をまとめる際、解析、推定など の面でお手伝いしました。 当初を振り返ると 1987年のボーンマスの IWC会議で日本側は正式に捕獲調査を提案した。 自然死亡率が調査のメインテーマになったのは、1984年頃から、反捕鯨が力を増し、不可知論を展開していたことが背景にあげられる。 当時加藤さんらが例えばミンククジラ資源が増えていたことを、いろいろな面から証明しようとしていたが、自然死亡率がはっきりしなければ、なにも分からないということで、日本の努力は無視され、科学者の代表として、池田さんも憤りを感じられていた。 それでは、調査をして、自然死亡率を科学的に明らかにしてやろうと考えられたのだと思います。 池田さんは、自然死亡率の推定に、標本がどれだけ必要か計算して当初、1650頭という数字を出してこられた。 この数は当時、獲れない数ではなかったが、1年ではかなり厳しいと、2年がかりで各年 825頭という捕獲数が想定された。 当初は、2年間で捕獲し、次の2年間は休み、5、6年目にまた獲るという構想だったようです。

 ボーンマスの会議で捕獲調査中止決議が採決され、当初の計画を 300頭の予備調査に切りかえた。 予備調査が条件の違う IV区とV区で行われ、これならいけるという確信が持てた。 いろいろと計算をしてみると、300頭という数は、的外れな数ではないという結果が出てきた。 池田さんの当初の構想でも調査計画は最低 8年とみており、長期的な取り組みであることは間違いなかった。 300頭で結果を出そうとすると、各区とも最低 8回あるいは 10回以上つまり 16年以上の調査が必要とわかった。 16年は、日本が政治的に決定したのではなく、また、はじめから決まっていたわけでもない。

 私は、1992年から 4年間、捕鯨問題から遠ざかっていたが、水産大学を辞めて鯨研にもどり、すごい調査をやってのけたと感心しきりです。 16年計画は半分が終わった。 あと 8年も、アッという間にすぎるだろうから、これからが大変です。

司会  加藤さんも、田中先生と一緒に調査に携わったのですか?

加藤  田中先生とは程度が違います。 当時私は単なる一兵卒。 捕獲調査の始まった経緯は田中先生が言われたとおりでしたが、調査開始前には一般生物学を目的にした調査などいくつかのアイデアがありました。 しかし、捕獲調査は、包括的資源評価(CA)が IWCの科学委員会で開始されるので、これにどう貢献できるかということが焦点になるだろうと予測されていて、そのときに(当時の科学委員会の)一番の命題だったのがさきほどの自然死亡係数(M)の年齢依存変化だった。 こうした「M」は未だに実測した例はなく、そこで、当時の統計数理研の岸野さんをブレーンに加えて、この命題を調査することになった。

 私は当時、旧鯨研にいて、ミンクのバイオロジーを担当し、商業捕鯨の船団に乗船し一研究者として、クジラを測ったり、採取したりしていました。 こうした関係もあって 1年目の予備調査の実施を引き受けることになりました。 一方、調査団組織はまことにおそまつで、私と、当時大学院の学生だった日鯨研の藤瀬部長と、後に共同船舶に入社した小野君が調査団のすべてでした。 しかし、たとえば捕鯨班の広山さんや、キャッチャーボートの船長さんの頑張りがあったり、その他いろいろな方の協力でなんとか調査を終了させることができました。 全体としての目標や成果はいろいろと得られたが、もっとも印象深かったのは、数学者の作った調査デザインをほぼ現場で再現できたということです。 私は 1次予備調査が終わった段階で遠洋水研に新設された大型鯨類研究室長に転出したが、池田理事長との約束もあり、2年目の予備調査へも参加しました。 2回目は 1回目より海区的に難しかったのですが、キャッチャーボートも増え、3隻になり、また調査方法も徐々に定着してきた。 こうした適応の早さは IDCR(南氷洋鯨類目視調査)の調査でも経験したが、共同捕鯨、今の共同船舶の優秀さで、とくに航海士の優秀さに集約されます。 おそらく他の船の航海士がみたら、気を失うほどのデータを、操縦しながら採っていく。 当時の船長さんも、航海士さんも、新しい時代の調査として、現場として慣れていった気がします。 個人的にはこの調査を最後に捕獲調査の現場を離れることになったが、いまではこうした人がらみのことが印象深く思い出されます。

司会  共同船舶の取り組みはどうだったのでしょう?

山村  私は旧捕鯨協会で主に研究者への対応が担当という立場にあったので日本鯨類研究所の設立、捕獲調査の開始段階からかかわっていました。 捕獲調査を実施する動機は、商業捕鯨のモラトリアムが 1990年までに包括的な見直しをされる。 逆にいえば、科学的なものを集めなければ、復活はありえないことにあり、法的根拠は国際捕鯨条約第8条にありました。 また、南極海全体ではミンククジラが 70万頭以上生息していることがわかっていました。 こうした点を軸にして、日本鯨類研究所を設立して捕獲調査を実施するとの構想が囲まっていきました。

 加藤さんの後、私が乗船しましたが、鯨類研究所の研究者自身が調査団長を出していけるよう、人材を切り換えていくため、藤瀬君を副調査団長にし、彼を育てることを目的とし、さらに船全体の乗組員に対し、完全な調査ができてはじめて念願の商業捕鯨が復活するとの、意識を変える目的も担っていたと思います。 私が 3回目で、4回目に笠松さんがいた。 2人は捕鯨で船団を経験している人間で、かつ鯨類研究所の人間である。 そういう人間が間にたって、藤瀬さん、西脇さん、そして石川さんといった鯨類研究所で誕生した人に受け継がれているのだと思います。

司会  谷藤さんは何回まで調査に参加されたのですか。

谷藤  7回までです。 山村さん、笠松さんのころになると昔からの捕鯨船気質から、調査への理解が深まり、かなり体質的に変わった。 非常に物わかりのよい連中ばかりが残ったので・・・(笑)。 大変うまくいったと思う。 でも一番最初、業界は、商業捕鯨が終わった時点で、捕鯨は終わりなんだと覚悟していました。

 1940頭獲った商業捕鯨のときに比べると、調査では 300頭の捕獲なので新会社の規模も半分にし捕獲調査船も当初は 2隻で始まった。 それまでは、クジラを獲るのは捕鯨会社が主体だったが、日本政府が科学研究のために許可するのが捕獲調査で、実際の企画や研究は日本鯨類研究所が主体になったので、われわれは用船されて調査員としてクジラを獲りにいった。 新会社では長いこと務めていた比較的高齢者を上の方から順に辞めてもらい、砲手もはじめてという人ばかりになった。 この砲手の技術はなかなか難しく、一人前になるのは相当年数がいる。 厳しい時化の海でミンククジラという標的の小さなクジラをとるにはかなりの技術がいる。 漁場にいけばおとなしいクジラもいれば、すばしっこいクジラもいる。 予備調査なのでキャチャーボートも 2隻で、砲手は 4名用意した。 一つの船に 2人ずつ乗せて、技術の見習いも兼ねていた。 内地を出港してから、途中赤道直下でキャッチャーボートの人々に母船に乗ってもらって、調査なるものについて加藤先生らの説明を受けた。 南氷洋にいけば自由にクジラが獲れるというわけではなく、がんじがらめにいろいろ制約がある。 コースや海域も決められている。 いままでなら静かなところで獲ればよかったが、それを北側の南緯 60度からということになると、北に行けば行くほど暴風雨圏が近いから、非常に海が荒れるし、従来のミンク漁場としては、まったく非常識な漁場であり、経験もありませんでした。

 初めて調査に参加した連中はゼロからはじめるんだということで、まずはみんな意識の改革から始めなければならず、私の立場としては乗組員のそういう 180度違った調査方法になるんだという意識をかえさせていくことが、重要な仕事だったと思います。 新会社は比較的若い人を残したが、何十年も苦労した仲間だし、私の言うことは比較的よく聞いてくれたと思う。 今までのやり方とは全く違うので、まごつき、苦しい危険な仕事になるけれども、これを克服しなけれは捕鯨の復活はないんだと言い聞かせました。

 調査団長の指導を得て、また IDCRの経験のある連中が、本当に核になり、非常に役にたって、理解を早めてくれました。 どうしてこういう船の動きをするのか?、数十頭のクジラがすぐ側にウヨウヨしているのに、それを横目で見て、いないところ、いないところに行く。 だが、いないところも調査の必要があるんだといって、少しずつ理解を促していって、案外早く慣れたように思います。 調査船は、最初、商業捕鯨のものをそのまま移行した。 第3日新丸という 2万3千トンもある船を、一時期、わずか 300頭を獲るために使用しました。 以前だとデッキの上に 20頭くらいは山積みにして、解剖していたが、一頭、一頭、デッキに広げて、長時間かけて調査をするわけです。 ただ、船が大きすぎ、小回りがきかなかった。 だんだん努力して母船を探して、日本水産から譲り受けた日新丸に移ったが、それまでの第3日新丸は非常に器が大きくてかえって不便でした。

司会  5回目は藤瀬さんが調査団長で行かれた。 5、6回連続でしたね。 7回目は西脇さんですね。

藤瀬  私は南の捕獲調査は 1、2、3、と 5、6次と 5回乗っています。 最初、加藤さんは一兵卒といわれたが、加藤さんが一兵卒なら私はもっと下の何かと悩んでしまうが・・・(笑)。 1次の予備調査で出港するかしないかがまだ、はっきりしていない頃だったと思いますが、加藤先生から当時大学院が終わりどうしようかと考えているところに救いの声がかかってきた。 「12月頃、南氷洋の調査があるので、お前乗らないか」というので、「是非乗せてほしい」ということになり、乗せていただいた。 それをきっかけとして日鯨研に勤めさせてもらった。 私は商業捕鯨時代のことはまったく知らずに、南の調査にかかわることになったのです。 乗組員の方がたからいろいろ聞いたが、たいへんな時期に乗ったなといわれ、当初は調査団と乗組員の間の年齢の差も感じていました。

 初めて調査団長を務めた 5次調査は、天候が厳しく、最終的には 288頭の捕獲で終わりました。 とくに IV区の東側には例年ならばミンクの発見が多数あるのに、この年に限って低気圧がそこで停滞して時化が続き、このため後半には、ミンククジラを 1頭も発見できなかった。 季節によって、年によって、ミンククジラの分布に変化のあることが後の解析からも明らかになりました。 現地では四苦八苦の状況だったが陸上からいろいろ助言を頂きなんとか事故もなく調査を終えることができました。 調査団長としては厳しいが非常にいい経験をしました。 6次調査は V区の調査であり、前年の状況を踏まえてさらにいろいろ改良をし、この年はとくにロス海の調査がスケジュール一杯のところでの実施となってしまったことからロス海の調査が終わるか終わらないうちに、結氷がはじまった。 ロス海の入口が海氷で閉じるのが早いか、調査が終わるのが早いかの追っかけあいで、谷藤さんにあと一週間もつでしょうかと相談しながら、なんとか乗り切って、結果的に目標を達成することができました。 これ以後私は新たに始まった北の捕獲調査を担当することになり、以後、西脇さんにバトンタッチしました。

司会  西脇さんは 7次から今年を含めて 4回行かれた?

西脇  捕獲調査ではその 4回ですが、それ以前にも商業捕鯨が終わるまで、捕鯨協会に臨時に雇ってもらっていて、IDCRに 3回挑戦させてもらい、クジラを獲ることより、クジラを見ることを勉強していました。 当初、われわれは、いま思うとおかしいくらいに、クジラっていないのではないかと思っていたが、IDCRに参加して、クジラってずいぶんいるもんだと実感していました。 89年から 4年間は、IDCRと北太平洋の目視調査を専門にやらせてもらった。 私が実感しているのは、谷藤さんもいわれましたが、IDCRの経験が実に役立っているということです。 捕獲調査のトラックラインにも、全く違う鯨種にまじっているミンククジラをトラック上からみつけ出さなくてはいけないような状況にも役立っていたことです。 また、その中で群構成の小さなミンククジラを探すのも、発見するのも、鯨種を判定できる能力も日本が世界に誇れる能力であると思った。 その能力があるから、捕獲調査以外の南氷洋の鯨種の資源の状況などを調べるための貴重な資料を提供しているんだと思います。

 私は 93/94年から 4年間、調査団長をやらせてもらいましたが、天侯には悩まされました。 谷藤予報官という方(笑)がおられた当時は、谷藤さんがまあ大丈夫だろうということでやっていたことが、谷藤さんがいなくなってから、わからなくなった。 また南氷洋の変化は氷縁の変化とミンクの分布状況だ。 天候の変化で氷縁も変化するし、ミンクの分布状態も変化する。 天気予報と氷縁の変化をどう読むかが重要です。 最近は氷縁の情報が入ってくるが、あの当時はなかなか入らず、過去の漁撈部の氷縁情報なんかを作ったり、トラックライン一本引っ張るか、引っ張らないかで、サンプリングや努力量をどれだけふやせるのか苦労しました。 調査団長をやると 1回ぐらいはグリーンピースに会うらしく、私も 94/95年に会った。 この 94/95年はみなさんにうらやましがられるほどの余裕をもって、南氷洋から帰ってこれると思っていたら、最後にロス海でグリーンピースが待っており、そこからサンプリングに苦労したが、3隻の調査船があったため、何とかカバーしてやってこれた。 330頭のサンプリングは、過去のみなさんの経験があったので獲れたのです。

 95/96年から新しく調査海域が拡大された。 私が苦労したのは、海域は拡大されるものの、調査日数は拡大されない。 南氷洋の天気は、1、2月がよくて、12月、3月は、良い天気になれば恵まれている方で、そんななかで、拡大された部分を、いかにうまく天気と相談しながら、調査をして 100のプラスサンプリングをとるのは、きわめて難しかったと思う。 たまたま、私の場合、IDCRで III区とVI区にもいってきたので、その辺の天気の状況とか、シチュエーションが分かっていました。 ただ、去年のVI区というところは IDCRのベテランの研究者もいうが、2度と行きたくないというくらいの海域で、低気圧の吹き溜まりになっている。 しかし、行ってみたら、意外と面白かった。 10年間に培われた砲手の熟練、環境の悪いところでのサンプリングのテクニックが高く、それがずいぶんと貢献してくれました。 条件のよいところで獲るのも技術なんですが、悪いところで確実にターゲットになったクジラを獲るという技術が非常に向上したために、いまの調査が助けられていることは確かだというのが、この 4年間の私の実感です。

司会  いままでの話を聞いていると、世界に冠たる調査団が作られたと思いますが、行政の立場から小松さんはどういう経緯からかかわられた?・・・。

小松  私は 88年の調査船団を出すときは、国際課協定班長でした。 88年から 91年までイタリアにいて、帰ってきたら、捕鯨班長をやれということで南極条約の議定書の締結交渉(南極を環境保護区域にするという内容の議定書交渉)にいかされました。 そのままほっておくと、クジラの活動もなにもできなくなる怖れもあるので、当時の島次長から、捕鯨活動は適用除外にするという一文をいれてこいと言われ、除外項目をいれてきたのが、私の捕鯨との最初のかかわりでした。

 科学者の月例会にもぼつぼつだしてもらい議論を聞いたが「これは議論がかみ合っていない」と思った。 そうした中でみなさんが真剣に悩んでいたのは「M」の推定ができなかったことです。 ルイス・パステネ(日鯨研の DNA研究者)が、論文を書きだしたら IV区と V区の管理水域に独立した系群がいるという仮定でやってきたのに、分析の結果、それが否定された。 長い熟考の末にルイスの論文は IWCに出すことにしました。 そうなると、いままでの前提がくずれる。 Mの計算という考え方はいいが、母集団の捉え方が、くずれていった。 ルイスの論文を出して、1〜2年はまだ日本の捕獲調査は極端に非難されなかったが、サンクチュアリ提案があった前あたりから、「日本の調査はランダムサンプリングしていない。 とくに若年鯨がいない」ことが相当非難の対象になった。 当時サンクチュアリーの話が出てきたから、調査の本質にかかわる非難というものについては国内にあまり伝わっていなかったが、われわれは「サンクチュアリーの採択のことより科学的な根拠と基盤の方から攻撃されて捕獲調査がもたないんじゃないか」と心配した。 ピークがサンクチュアリーが通る 94年、科学委員会のレポートに、日本のサンプリングは全く代表性がないとデラメア(豪州の科学者)がいった。 また、あるところでは若いところがすっぽりと欠けていますというわけで、こんなやり方でやっても、「M」は求められませんと言われた。

 このような中で、95/96年の南氷洋調査計画の作成準備にかかった。 そのために科学委員会のレポートを読んでいるうちに、人間は発想を変えればいいんだなあとつくづく思った。 北の調査のときもそうだったが、ケチをつけられたら、ケチをつけられたところにヒントがかくされている。 そこを調査すればよいのだ。 欠点を補えばいい。 北の調査では日本の近辺の海域を小間切れにされ、素人がみても、決してあり得ないようなシナリオを出して来る。 ならば、そういうことがないということを証明すればよい。 南氷洋の方は母集団をつかまえてサンプリングしていないというならば、母集団がどこまで広がっているのか、それを毎年、補足していったらいいではないか考えた。

司会  それで III区と VI区の一部についても調査海域とした。

小松  IV区と V区にまたがる系群と IV区に部分的に存在する系群の 2つある。 ではそれぞれの系群の範囲を調査する必要があるとの仮定をおいた。 ルイスが DNAの分析で 2つの系群が、IV区の III区側のバウンダリーのあたりで交わっていると証明してくれた。 藤瀬さんに、形態の特徴をルイスが分けた DNAの、組成の区分けに従って、同じように分析してもらったら、DNAで差がでている系群に対応して形態上の差が統計的にも出た。 これで調査計画の修正ができたと思っています。

 私は、最近の大きな転機のひとつは、南氷洋の修正計画を提出し、それに基づく調査を実施することにあったと思う。 大変なエネルギーを使って、計画作りをしたと思っている。 ところが 95年のアイルランドでの会議に調査計画をもっていったら、この年はサンクチュアリーが通った翌年で、科学委員会は何とか乗り切ったが、本会議で結果的に日本の捕獲調査に対する決議は、自粛決議になった。 しかし、とにかく、この 110頭というのは日本の科学陣の総力をあげて、1年近くかけてやってきたので、極力妥協しないラインで対応しました。 それからもアメリカがしつこく、日本に 110頭の分を何とか譲ってくれないかと言ってきた。 日本としては科学委員会の要求事項に科学的に応えるために必要なものである、やってみて改善が得られないなら、結果は 1年で分かるのだし、また、再考しましょうといって、原修正計画書どうり実施するとのラインでアメリカには繰り返し説明した。

 それらを含めて今年 5月に JARPA(南氷洋捕獲調査)のレビュー会議をやったら、ほとんどの科学者は非常に高い評価でした。 RMP(改定管理方式)の実施に寄与し、生態学にも系群解明にも大きく貢献したと評価された。 本当に評価していないのは、デラメア、ランカスターとジャステン・クックのごく一部の科学者であろう。 ノルウェーのシュエイダー博士が「小松さん、これは日本の科学者の 10年間の地道な努力の賜だ。本当によかったですね」と言ってくれました。 だから、ここにきてやっと、沖でご苦労された方、陸上の分析で苦労された方、外部と折衝しながら毎年こつこつと船を出していったわれわれだとか、そういう人たちの三身一体の結果が、ようやくここに実を結んだのです。 100%完璧な調査なんかないかもしれないが、世界の海洋関係の調査で、これの右に出るものはないのではないか、と国立極地研究所の平沢所長も言われています。

司会  Mの解析など、これからの課題といったようなものについて・・・。

小松  Mも一定の誤差の範囲を求めれば、当然推定できます。 ある程度の幅があれば、加入率も分かっていくわけなので、クジラの資源管理に貢献していくと思う。 欠点はいくら探索努力しても若齢のクジラが発見できないことですが、これは若年クジラを除いたMの推定と管理を考えれば良いと思う。

田中  私が考えるに、南氷洋に下ってこないクジラがいるのではないか。 私はお魚の解析を普通にやっています。 魚の解析をする場合、加入年齢以下は全く無視してしまって、それ以上のものを対象に研究している。 とくにそれで、お手上げだということにはならない。 若年クジラについて知らなくても調査に重要な誤りがあることにはならない。

 バタワースやクックは日本のデータを解析している。 クックは 1984年ごろ、南氷洋でミンクが増えたというのは幻影に過ぎないというようなことを盛んにいっていたが、日本のデータを解析すると増加していることを認めざるを得ないことになるだろう。 南氷洋の場合、16年計画のうち 8年が終わったが、分かってきたので、かえって分からなくなったという問題も出てくる。 年齢組成をもう少し詳しく調べてみる必要があるが、80年頃、加入量が減ったらしい。 何故そうなったのかが問題だ。 クジラは哺乳動物だから子供の数と親の数は比例するだろうと安直に思っていると、そうでないことが分かってきた。 その他にも氷の張り出しとか、環境とかが、ミンククジラにかなり影響を及ぼしていることが、毎年のデータの積み重ねで、分かってきた。 分かっただけかえって悩みが大きくなった。 でもこれはすばらしいことです。

司会  やればやるほど分かってきてさらに研究が広がる・・・。

西脇  クジラの発見でも、南氷洋の鯨類層が初期のころと 10年後の現在とでは状況が変化してきている。 このへんのことも、日本の研究者には分かってきている・・・。 これだけのサンプリングと目視というものが、これぐらいの組織でやれるというのは、いまのところ日本だけではないでしょうか。 世界に対する貢献度は相当高いと思う。

小松  非致死的調査で代替しろという声が反捕鯨の人間にあるが、非致死的評価で、現在日本がやっていることと同じ結果が提供できるなら、やってみろ、分析してみろといいたい。 やれないのに、調査を止めろとばかりいってくる。

 日本でもそうだけれど、これは流行病だ。 何か世の中の動きに迎合した研究があるとみんなそっちの方にいってしまう。 科学者としての絶対的な判断、信念をもって、世の中の動きに振り回されることがあってはならないと思いますね。 行政官も一緒と思いますね。 そんななかでわれわれは正しいと思ってきたことを継続してやってきて、正しいということが相当程度、科学委員会などで評価されてきたと思う。 回りから邪念が入るようなことがあっても、キチンと自分の信じることを長く続けることが大事なのではないだろうか。 クジラを持続的に利用するということは環境保護運動なんだ。 いまに環境保護団体が捕鯨を環境保護のシンボルとして利用させて下さいといってきますよ(笑)。

田中  小松さんもいわれたが、科学者は信念をもって進んでいかなくてはならない。 これは非常に大事なことだと思う。 結果的に自分の考えは間違っていたとなれば、科学者として、潔く非を認めればよいが、人の提灯持ちばかりをやっていて、間違ってましたといわれた場合、その人は科学者として本当に立つ瀬がない。 国際交渉の場などで、なかなか口から出せないこともある。 そのようなときはしゃべらなくてもよいと思う。 ただ、自分の信念に基づかないことを、提灯持ちでべらべらしゃべるのはよせと言いたい。 クジラ問題をそういう意味で考えていくと、捕鯨というものが人類にとって、不可欠なものであるとか、ぴったりとした答えをもてないと信念も持てない。

 漁業一般と言ってよいが、21世紀の人類の食糧問題を考えた場合に、これはただごとではないぞ、と思う。 人類が生きていこうとすると、山の物も海の物も、なんでも利用していかなくてはならない。 そうなったならば、海のことに関係している科学者として、海の資源を長期的に見てどう利用していくのか、明らかにしていく責任がある。 クジラの研究も、イワシの研究も不可欠だ。 人類が生き残っていくにはそういう研究をやらなくてはならないんだと、自分をそこまでもっていくと、腰が据わってくる。 かわいそうだなんていうなら、食事をしないで 3日間頑張って見ろと言いたい。 動物を食べないで植物を食べればいいというが、植物なら殺してもよいのかという話になってくる。 悟りまではいかないまでも、そういうことを考えていくと、しっかりした信念ができてくる。 そういう中でクジラの研究をこれからどうするのか。 当面はうまいことやった、調査が続けられる、うまくいって商業捕鯨が復活した、バンバンザイといって、祝杯をあげることではすまない。

 21世紀を見据え、そのためにいま何をすべきかを考える。 そんな観点で見ると、これから 8年間にわれわれは何をなすべきか。 長期展望をもたないと、つまらぬことで一喜一憂することになる。 一朝にして新しい思想や信念は生まれてこないから、毎日自分自身にいい聞かせながら、また、組織としても考えながら、少しずつ積み上げていく必要があるだろう。 調査はだんだん安定してさたようだが、これからどうやって進むのかということが極めて重要で、ヘタをすると安定の中で自分を見失うことにもなりかねない。

藤瀬  田中先生のおっしゃったことは、重要だ。 安定期に入ったといっても、JARPAレビュー会議で出たのは、あくまでも半分の結果で、できるかもしれない、できるだろう、というように変わってきたにすぎない。 後半部分についても、できるという自信をもって進むべきだ。 その中で田中先生がおっしゃったような問題を、肝に命じたい。 もう一つ、いま調査団のなかで世代交代が起こっているが、これからの後半戦でも質の高い調査をどう維持していくかが、大きな課題です。

谷藤  確かに調査を始めたときは、何年続けられるか分からなかったが、もう 10年も経過し調査も安定してきたし、実はホッとしている。 これから調査を続けていくために、必要なのはやはり人的資源で後継者の育成が必要です。 たまたま調査が始まったときは、ありあまる道具と人がいましたから、すんなりと調査にいけましたが、これがもう、ここ 1〜2年で、あのとき捕鯨から移ってきた人びとはリタイアするから、その後継者をこれからどう育てていくのか。 希望する若い人々に夢を与えてやらないと、後継者は少なくなるのではないかと心配です。

山村  これまでのところ研究者も含め、南極に出かけて活躍したいという人々がけっこうおり、おかげさまで人員の交替はうまくいっていると思う。 もう一つ、いまでも、大学等の研究機関と共同研究を行っているが、せっかく獲ったクジラをもっと広い分野で、たとえば医学とか、化学とか、薬学など、いろいろな人たちがクジラを活用できるようにしていけば、さらに私どもの活動の理解を得たり、支持者を獲得していくことになる。 それが結果的にわれわれ関係者に夢を与えることになるのかなと思います。

谷藤  人だけでなく、道具もかなり老朽化して、厳しい南氷洋で、危険な海域で調査するには、船があまりにも古すぎる。 更新が必要です。 また長年つちかわれた技術がどう継承されるか、その辺のやり方も今後新しく考えていかなくてはならない。 いまの若い連中が技術的に熟練してきたらやり方を変える必要があるでしょう。

山村  谷藤さんに頼っていた技術、さきほど天気予報官という話がありましたが、いまは人工衛星から直接、上空の雲の写真が送られてくる時代になりました。 長い経験に頼らなくても済む努力もしなければなりません。 機械化をしていったり、副生産物の規格を見直していったり、あるいはクジラを遠赤外線の温度差の感知能力を使用して、クジラが海から浮いてきたのを見つけるという新しい技術を導入した捕獲調査というものにも取り組んでいかなくてはならないでしょう。

司会  日本鯨類研究所がひとつの事業として、どういうやりかたをし、どう舵取りをしていくのか、といった点について、行政としての考え方をお聞かせください。

小松  いまの国際捕鯨委員会の欠点を補うために、われわれにできることは何か。ひとつは日本国の責任で独自の判断をする。 正しいと思ったら、多少の国際世論の抵抗があってもやることです。 日本の場合条約 8条が当面の締約国としての権利行使ができる部分です。 ノルウェーだと異議申し立ての下でやる。 また将来においては海洋法の沿岸国の権利や高度回遊性魚種条項などの活用もある。 いずれにしろ、ベースになるのは科学的な根拠です。 また他方では IWCで4分の3の多数を得るのは難しいといいながらも、方法論をかえれば支持が得られる近道があるではなかろうか。 今年のワシントン条約や 95年の京都食料安全保障会議などでは海洋生物の持続的利用をかなり世界にアピールできた。 そういう努力を模索することでしょう。 一方、機材についても、できる範囲内で、新鋭化を図っていく。 技術面では、いつまで捕鯨砲で獲るのかということもある。 21世紀に入ろうとしている中での新技術も考えていかなければならないでしょう。

 私は捕鯨の再開がいつかという時期は明確には答えられませんが、捕鯨が再開する日が確実に見えていることは明言できます。 むしろ、世界の食糧危機が重要な問題として差し迫っているから、日本は世界の責任国家として、きちっとした調査活動を通じて、2度と乱獲を起こさせないよう、南氷洋の生物資源を永久末代まで、持続的、安定的に利用していく体制を確立することが大事なんだろうと思う。 そういう意味で日本鯨類研究所も、将来の海洋の総合的な解明ということを視野に置いた総合的な海洋研究ができる方向にいければと個人的には大きな夢をもっている。 日本の社会そのものが、いまのまま、第 3次産業に傾斜して、何もしないで、楽な生活するということを継続したならば、この国家は滅びるだろうと思う。 もう 1回、第 1次産業と自分の肉体と頭を使って、食糧も、知的産物も生み出すところに立ち返る必要があるのではないでしょうか。

司会  長時間ありがとうございました。

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