中世からルネサンス期のイルカ料理

捕鯨問題とは関係のない話題だが、今世紀半ばに活躍したオランダの著名な鯨類学者 E.J. シュライパー (E.J. Slijper)博士の著書「鯨」に以下のような記述がある

"イルカは昔からたまたま海岸に近づいたところを捕らえられた(図 15)。 散発的に獲られたこともあり、あるいは規則的にしかも1つの産業といっていいほど多数獲られたこともある。 たとえば、11世紀にノルマンディーの海岸で盛んに獲られ、1098年には法律による捕獲制限が行なわれたくらいである。 イルカの油はとも燈火用に使われ、肉は人間の食糧となった。 イルカの肉は当時大変美味なものと考えられ、1426年の年代記によれば、英国のヘンリー6世はこれをとても好んだという。 かれの後継者であるヘンリー7世の戴冠式の正餐にもイルカの肉はいろいろに調理して、メインコースあるいはパイとして供せられたという。 伝統的な国民ではあるが、イギリス人は今日ではイルカの肉を食べない。 ただし宮廷では17世紀の終り頃までイルカの肉を食べる習慣があった。"
(細川宏・神谷敏郎訳、東京大学出版会、1984、42頁)

日頃から、日本におけるイルカ肉の扱われ方に違和感があったので、中世からルネサンス期のヨーロッパにおけるイルカ料理について少し調べてみた。

まず、上のヘンリー6世についての記述は若干疑問が残る。 というのは、彼の生年は1421年であり、父のヘンリー5世が若くして死んだために生後9ヶ月で即位したものの、「年代記」の書かれた1426年には5歳前後で、いくら王とはいえ、子供の食事上の好みに年代記が言及するだろうかという気はする。 年代記の執筆年が誤りか、あるいは父のヘンリー5世の誤りである可能性はあると思う。 なお、時代で言えば、ヘンリー6世はフランスとの間の百年戦争末期から、王室の後継争いのバラ戦争初期の王であり、代表的なパブリック・スクールであるイートン校(Eton College)やケンブリッジ大学のキングス・カレッジ(King's College)は彼が創立した。 また些細な事だが、上の引用部でヘンリー7世がヘンリー6世の「後継者」となっているが、実際には赤バラを紋章とするランカスター家のヘンリー6世の後は、白バラを紋章とするヨーク家のエドワード4世、エドワード5世、リチャード3世が即位し、バラ戦争の勝利者ヘンリー7世は、新たなテューダー朝の創始者であって、直接の後継者ではない点を注意しておく。

さて、当時のヨーロッパではキリスト教の力は強大であり、復活祭の前の40日間にわたる 四旬節(Lent)や断食日(fast day)といった、肉食禁止の日が設けられていた。 ただし、昔の日本と同様、イルカや鯨は魚類と見なされて、これらの日にも食べる事は認められていた。 例えば、ヘンリー6世の父であるヘンリー5世はフランスから迎えた妻キャサリンの王妃としての戴冠式を1421年の2月に行なっているが、この時期は四旬節の最中であったので、式典で供された食事は、30種類以上に及ぶシーフードが主であり、イルカも含まれていた。

イルカが哺乳類である事は、すでに古代ギリシャのアリストテレスが見抜いていたはずだが、こういう哲学とは無縁の業績は中世までには忘れ去られていたのだろうか。 なお、食感が魚類よりは陸上の動物の肉に近いという点は鯨類の肉が当時好まれた理由の1つのようである。 14世紀のミラノの医者 Maino de' Maineriが著した本で海産種で良いものとして挙げられているのはイルカ類、サメ、タラなどで、ヒメジ、ホウボウ、ツノガレイ、シタビラメなどがそれに続くという。

ところで、英語ではイルカ類のうち、口がとがったものをドルフィン(dolphin)、そうでないものをポーパス(porpoise)というが、当時の料理を調べると後者の方をよく見かける。 ヘンリー5世の上の儀式でもそうであり、また彼が開いた他の宴会のメニューには「ロースト・ポーパス」(Roasted Porpoise)という料理も見られる。 たぶん、イギリス南西部沿岸やノルマンディーで捕られたネズミイルカ(Harbor porpoise)ではないかと思う。 なお、シイラ(dorado)という魚もdolphinと呼ばれることがあり、しかも料理されるので、"dolphin"をキーワードに検索する際には要注意である。

15世紀前半の家庭向けのメニューを集めた"John Russell's Boke of Nurture"にもイルカは登場するし、イングランド東部の町イプスウィッチ(Ipswich)の記録でも、魚市場でも、サケ、チョウザメ、ニシンなどと並んで鯨肉とイルカが並び、イルカやサケなどは一種の贅沢品として、その取引自体に料金が課せられた、とある。 ロンドン市長の食卓にも鯨やイルカは並び、鯨については串に刺してローストしたり、ボイルされたものが豆と一緒に出され、舌と尾の身が好まれた。 イルカはまるごと調理されてナイフで切り分けてマスタードを付けて食べた、とある。

時代が変ってテューダー朝の時代に入っても宮廷では食べられ、ヘンリー8世やその娘であるエリザベス1世の時代にも、ごく普通に食べられていた。 また、イングランドのみならずスコットランドの宮廷でもイルカは食べられていたことが、女王メアリー・スチュアートの時代の16世紀半ばの記録にうかがえる。 冒頭に引用したシュライパー博士の「宮廷では17世紀の終り頃までイルカの肉を食べる習慣があった」という言葉からすると、スチュアート朝の末期の名誉革命に際して、国王ジェームズ2世の娘婿のオランダ総督がウィリアム3世として即位したあたりが、宮廷からイルカ料理が消えた頃、という事になるが、宮廷内の人的変化が原因というよりも、イギリス社会における畜産の発展や、大航海時代に入って海外からもたらされる産物などによる食生活の変化によって、17世紀末に向けて徐々にすたれていったのではないかと想像する。

なお、今日のイギリス料理の味に対する評価を考えると「イルカの肉は当時大変美味なものと考えられ」という記述に疑念をいだく人も多いであろうが、フランスのアンジュー伯がイギリスのヘンリー2世となった12世紀半ば以降、百年戦争に敗北するまでは、イングランド王はフランスにも領地を持っていて宮廷にもフランスからの人間は大勢いたようだから、料理をめぐる文化的状況は近代国家成立後とは違ったであろうと思う。

フランスでもイルカや鯨肉は中世の市場で売られてきており、著名なレストランのトゥール・ダルジャン(Tour d'Argent)が16世紀のパリにオープンした際にもメニューにはイルカのパイ(Porpoise pie)があった。

と、ここまで書いてくると、当時のイルカ料理はどのようなものだったのか知りたくなるのだが、中世やルネサンス期の料理を紹介し、そのレシピも書いてある本やホームページはいくつかあるものの、イルカのように今日のヨーロッパ圏では食卓から消えた食材を扱ったものは、取り上げられるのが稀なようである。 今回ネット上を検索していて見つかったのは、以下に挙げるイルカのプディング(Pudding of porpoise)くらいである。

イルカのプディング
イルカの血と脂を取り出し、オートミールと混ぜて、塩、胡椒、ショウガで味を付け、イルカの腸(Gut)につめる。 お湯に入れて、強火でゆでた後に火を弱める。 お湯から取り出して、よく水分を切り、表面がパリパリになるまで火であぶり、出来上がり。

ただ、古語を直訳した文と現代文による解説を比較してみると、「腸」と訳した言葉(大文字で始まる"Gut")は内蔵を取り除いた体全体、という意味かもしれない ( http://www.godecookery.com/mtrans/mtrans19.htm 参照 )。 つまりイルカの体全体に詰め物をした、というわけで、先にでてきたイルカをまるごと調理したものが、この料理かも知れない。 いったいどのような味がするのか興味をかき立てられる。

さて、現代の日本に話を戻すと、商業捕鯨のモラトリアム以後、鯨肉の代用品としてイルカの捕獲量が増大し、イシイルカ(Dall's porpoise)を中心に年間2万頭ほど捕られているが、「イルカ肉」ではなく「鯨肉」のラベルを貼られて店頭に並ぶ事は珍しくない。 日本では様々な食材が料理されているが、伝統的な材料においても、様々な手法によって新しい料理が創られている。 その事をふまえて、上に挙げた、日本ではまだ試された事がないであろうイルカ料理の事を考えると、単に鯨の代用品として風味の異なるイルカを扱うのは、何かもったいないように思う。 「鯨肉」とラベルを貼られ、買って食べた消費者から「昔食べた味と違うなあ」と思われるのでは、死んだイルカも哀れではないだろうか。 鯨類は、とかく伝統的な料理にスポットが当られがちで、イルカについても一部の地方に伝統料理はあるのだが、今日では、昔と比べて様々な調味料があり、様々な調理器具があるのである。 ならば、積極的にそれらを駆使して、今日の日本で調理しうる美味しいイルカ料理とはどのようなものか、挑戦して創り上げる料理人がいても良いように思うのだが。

(2000年11月4日 更新)

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