> 第二次大戦でフランスがドイツに降伏した際、アルジェリアのオラン港にいたフランス艦隊に対し、イギリスは引き渡しを求めたが、フランス艦隊は応ぜず(イギリスに逃げた艦隊は引き渡しに応じた)、イギリスはフランス艦隊を攻撃して沈めてしまったが、イギリスの自衛権は成り立つかな?オッペンハイム(?)は自衛権が成立つと言っていたかな?(記憶があいまい)
メルセルケビール海戦(Wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%B5%B7%E6%88%A6)というやつですな。
それについて、倉山満氏が『国際法で読み解く世界史の真実』のP51から52に麻生太郎氏の逸話も含めて書いて居られますな。
【必要は法に優先する】ということらしく、【国際法】としては【違法】ですが、その後【国際社会】にその【必要性】と【妥当性】を【認めさせている】というイギリス外交のうまさを評価し、【国際法】が【道具】又は【手段】であることに証左にしておられますな。
オッペンハイムのいう【主権国家】の持ち得る【自己保存権】も、WW1以降の議論のなかでも通過的な議論で、今も何か結論づけられているとは考えにくいと思いますな。
「韓国 植民地」で検索すると、かならずekesete1が絡んでいますな。(笑)
日韓併合は、いわゆる「植民地化」と違うのいうのが気に入らないようだ。
当時の文献にも植民地になっているというが、あれは拓殖地とか開拓地というニュアンスでしょう。
第二次大戦でフランスがドイツに降伏した際、アルジェリアのオラン港にいたフランス艦隊に対し、イギリスは引き渡しを求めたが、フランス艦隊は応ぜず(イギリスに逃げた艦隊は引き渡しに応じた)、イギリスはフランス艦隊を攻撃して沈めてしまったが、イギリスの自衛権は成り立つかな?オッペンハイム(?)は自衛権が成立つと言っていたかな?(記憶があいまい)
ツイッターで、臣下から天皇になった例はないから、旧宮家復帰反対という人を見かけるが・・・
しかしまあ、宇多天皇、醍醐天皇のことを知らないのかな。
宇多天皇は源定省から皇室に戻り即位、醍醐天皇は源定省時代の子どもであり、源維城であった。
> ベルtどのnoteの記事の紹介ありがとうございます。
こちらこそ、ツイート取り上げて頂きありがとうございます。m(__)m
また自分語りのようなものです。
ツイッターやりとりで気が付いたのですが、誤解されてるといいますか私自身も自分の手法をより自覚したというのか、私などは戦史の内容そのものを考察検証している(できている)わけではないのです。https://twitter.com/hinatanococo/status/1284143278711902213
〇〇に纏わる周辺事情、を中心に追っているといいますか。
こちらの皆さんや詳しい方々は、複雑面倒な内容そのもの核心に突っ込んでおられて、それを私は周辺をチョロチョロしながら後追いさせてもらっています。
731部隊関係など特にそうで、生体実験が実際に起こり得たかなど医学的専門知識があってさえ難しいのを素人がどうにか出来るわけもなく。
「人体実験をした」としてどういう風に、ではなく部隊員が供述した状況はどうだったとか、実験があったとされる時期の疫病流行の歴史とか
あるいは戦後世界は731部隊をどう認識してどう変遷していったか等。
それが「歴史戦」に役立てばいいなとは願っていますがなかなか難しいところです(-_-;)
南京関係も最近は特に周りをウロチョロですわ。「虐殺」がいつ頃から知られるようになった、各国首脳が言及していたかどうか等。
自称隙間産業、皆さん調査された核心部分を追わせていただきますがゆるりとご理解下さると有難いです<(_ _)>
> > ところで今更聞けない質問なんですが
> > 戦闘中の参謀長(本部)はどこに居たのでしょう。松井大将は上海に居たのですよね。
> > 情報が入って来ても確証あるか判別できたのか。
>
> 上海派遣軍をとかれて中支那方面軍司令官となった松井大将は、12月7日に上海から蘇州への鉄道復旧開通と共に、蘇州へ。15日句容まで飛行機で、後は自動車で、湯水鎭に入ってます。そのまま滞在して17日に南京入城式に参加してます。
> 上海派遣軍(朝香宮司令官)は、16師団と共に紫金山の東麓の馬群に司令部を置いております。
> 参謀部なども中支那方面軍兼任の参謀員は、松井大将と共に行動しており、
> 陥落後、長勇や榊原主計などは、上海健軍の参謀部部員として、馬群と南京を往来していたと考えられます。
詳しく有難うございます。
その辺り気になりながらも調べたことが無かったんです。
参謀長は松井大将と共に、でしたか。
それで最前線の実態は分かるものなのかな・・分からないといけないですよね。
ベルtどのnoteの記事の紹介ありがとうございます。
> ところで今更聞けない質問なんですが
> 戦闘中の参謀長(本部)はどこに居たのでしょう。松井大将は上海に居たのですよね。
> 情報が入って来ても確証あるか判別できたのか。
上海派遣軍をとかれて中支那方面軍司令官となった松井大将は、12月7日に上海から蘇州への鉄道復旧開通と共に、蘇州へ。15日句容まで飛行機で、後は自動車で、湯水鎭に入ってます。そのまま滞在して17日に南京入城式に参加してます。
上海派遣軍(朝香宮司令官)は、16師団と共に紫金山の東麓の馬群に司令部を置いております。
参謀部なども中支那方面軍兼任の参謀員は、松井大将と共に行動しており、
陥落後、長勇や榊原主計などは、上海健軍の参謀部部員として、馬群と南京を往来していたと考えられます。
> ③遺体があっただけで、日本兵卒の行為かどうか不明
>
> 他の国なら自国民を軍が殺害しないはずですがシナ兵はしますし、遺体があったから日本兵が殺害した、とはなりませんよね。
もうほんとこれに尽きますね。
戦後裁判のこれも証拠と言えるものがない、日本のプロパガンダと言われたらおしまいですしねえ。
https://twitter.com/hinatanococo/status/835430900598919170
『中国兵は南京の周囲の都市村落を破壊し、彼等の祖先が、又彼等自身汗を流して働いて蓄積した幾十億元の象徴たる文化施設を破壊したばかりでなく、自国人の蛮行に唯まどうている無辜の住民を仮借なく殺戮しているのである』
ところで今更聞けない質問なんですが
戦闘中の参謀長(本部)はどこに居たのでしょう。松井大将は上海に居たのですよね。
情報が入って来ても確証あるか判別できたのか。