抗議する者たち/近現代史

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[1960] Re: 安物買いの銭失い

投稿者: Emmanuel Chanel 投稿日:2022年 7月30日(土)04時56分32秒 ZN025158.ppp.dion.ne.jp 

> https://www.afpbb.com/articles/-/3415901?cx_part=top_topstory&cx_position=1
>
> ポーランドが韓国から武器輸入ですか。安物買いの銭失いですな。(笑)
> しかし、日本のバヨクさんは、韓国の武器輸出には何もいいませんな。
私に兵器購入の良し悪しを評価する見識なんてあったものでもないですけど、製造技術があって技術移転してくれて、急いで数を揃えてくれる相手が韓国だったという話です。ドイツは信用できないから注文出来たものでもなかったとか。
まあ、確かに、ネトウヨ系な私たちからしたら、あの韓国に注文するの?という感じではありますね。



[1959] 安物買いの銭失い

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月23日(土)16時57分16秒 p2482050-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

https://www.afpbb.com/articles/-/3415901?cx_part=top_topstory&cx_position=1

ポーランドが韓国から武器輸入ですか。安物買いの銭失いですな。(笑)
しかし、日本のバヨクさんは、韓国の武器輸出には何もいいませんな。



[1958] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)13時10分44秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

南京の30万とベトナムの200万はどこか似てますな。┐(´д`)┌ヤレヤレ



[1957] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)11時51分53秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

秦センセイの論文に、明号作戦でフランスの統治権を日本が回収してからの飢饉の対応の例が取り上げられている。
大使府からトンキン州庁米穀局へ出向して食糧行政の担当官となった石川良孝(のちルーマニア大使の手記の要旨を載せている。

1942年東京帝大を卒業して外務省へ入り翌年秋、留学生として仏印へ行き、44年4月から大使府のハノイ事務所(各省から出向の60人が勤務)に勤務した。明号作戦直後の45年3月中旬からキム政権へ引き継いだ5月末まで私はトンキン州庁へ派遣され、局長が更迭されただけで、残留した中下級職員の協力を得て食糧危機対策に取り組む。
ハノイ市民に配給するコメの在庫が15日分しかないと知り、南部から鉄道輸送が途絶しているので、半分は自由価格で販売してよい条件で華僑にジャンクで輸送させる方策を実施し、かなりの成果をあげた。
ついでトンキン州の知事を集めてコメの供出会議を開き、データに基づき省別の新米割当を決め、日本の商社マンを統制官として各省に配置した。

石川は飢餓が一番ひどいといわれたビンへ農林省出身の鎌倉領事とともに視察へ行ったことがあった。冬は凍死者が出たというが、2時間見てまわっても餓死者はひとりもみなかったし、ハノイでもそんな話は聞いたこともない、と断言する。



[1956] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)10時34分7秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

秦センセイの論文を要約しましたが、秦センセイがずるいのは、餓死者の数について、自分の見解をはっきりとはいわないのですよ。



[1955] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)10時29分48秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

ベトナムは45年飢餓を、外交的武器として利用する戦術をとってきた。当初は日仏の共同責任という立場をとっていたが、しだいに日本の責任を強調する方向へ変わった。理由はいくつかあった。
第一は、明号作戦発動の日い開催されたインドシナ共産党の幹部会議が、当面の主敵を日本とする方針を決めたことである。その線による宣伝活動を強化したさい、飢餓の責任を押しつける固定観念が形成されることになった。
第二に、ホー政権との戦争に敗れたフランスはインドシナから後退したが、賠償や補償にはいっさい応じなかった。そのかわりベトナム戦争では、北とアメリカの仲介に動く。北としては飢餓責任よりも、西側との交渉にフランスを利用する戦略を採用した。
第三に、サンフランシスコ講和会議にフランスの後押しで参加した南ベトナムが「勝者」の特権をフルに生かし、対日賠償の足掛かりを固めたことである。
1959年にまとまった賠償交渉で、餓死者は約30万人と主張する日本側へ、南は100万という数字を持ちだし、20億ドルを要求したが、数の論議は棚上げして最終的に日本が3900万ドル支払うことで決着した。このときの国会の論議で、野党は南の正当性に疑問を附し、賠償は南北統一後に払うべきだとして反対する。日本軍による被害を受けたのは主に北で、南は「鶏三羽」にすぎないというセリフも飛びだした。
北も南が200万人を100万人に切り下げたことを非難し、対日請求権の留保を声明する。
75年に統一ベトナムが誕生、日本との国交回復が実現すると、賠償はすんでいるという立場の日本政府は、経済協力方式で埋め合わせることで合意にこぎつけた。
その後もベトナムは折にふれ200万餓死をちらつかせながら、ODA援助の増額を獲得することに成功した。
なにしろ日本共産党や日本ベトナム協会など、ベトナム側の言い分を代弁して世論形成に努めている分子が少なくないし、自虐的なトーンで書く教科書があるくらいだから、ベトナムにとってこれほど楽な相手はあるまい。



[1954] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)10時04分26秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

3月に政治権力の所在がフランスから日本(とバオダイ政権)へ移行したことが責任論を混迷させた。行政の責任者が早めに情報を収集して手を打てば、何らかの手段でコメを南部から運びこむか、植民地当局のストックを放出するのはさほどの難事だったとは思えない。
三月に権力を掌握した日本軍は、急いで対策を講じたが、フランス時代の情報を読み解き、流通機構の機微を把握する時間的余裕がなかった。対策が最善というより応急の間に合わせで終わったとしても、やむをえまい。
古田もそのあたりを洞察したのか、飢餓を「支配者の〈無関心〉が生み出した悲劇と評す。
彼は「日本側の関係者の間では、飢饉の悲劇の原因はフランスの過酷な支配」だとしつつも、「この戦争を引き起こしたのは日本である以上、日本に主要な責任があることは否定できない」と結論づけることに私は参政できない。日本は「主要な責任」ではなく「一部の責任」ないし「わずかな責任」を負う必要がないと考えられるからである。
沖縄戦の住民集団自決事件において軍命令があったか否かで激しい論争が起きた。軍命の具体的証拠が見つからぬと、論争の焦点は強制とか関与へ移っていき、さらには日本軍の存在自体が問題にされた。
ベトナム飢餓に対する責任論も、同じような経過をたどうろうとしているのを私は危惧している。



[1953] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)09時29分13秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

諸要因のなかで筆者が注目しているのは投機を軸とする流通問題である。
ハノイの日本文化会館主事だった小牧近江は「凶作や日本軍の存在は口実で、現地人の一部とフランス人の闇商人が組んでコメの買占めをやったことが大きな原因と見てとっていた」と書いている。
コメの流通構造が麻痺したことには、二つの側面があった。ひとつは生産農家―モミ採集人(華僑)―仲買人(華僑)―ショロンのモミ商人(華僑)―輸出業者をつらねる平時の流通ルートが、フランス政庁の強制買い上げ(供出制)と配給制によって崩れたことである。とくに華僑の介在を排除したのが影響した。統制経済の失敗と評してよい。
1943年後半から激化した米軍機の爆撃はさして大規模ではなかったが、ハノイ-サイゴン縦貫鉄道(1740㎞)の鉄橋(自動車道の兼用が多い)を狙って破壊する戦術をとった。日仏とも橋の修復はあきらめ、折り返し運転に頼ったため人員の移動には困らなかったが、物資の輸送はほとんど停止してしまう。
中大型船の沿岸航路も44年末以後は不能となったので、北部は否応なしに自活体制へ追い込まれてしまったのであるが、フランスの植民地官僚たちは、臨機応変の策を打ち出す機敏さに欠けていた。フランスから行政権を継承した日本軍とバオダイ=キム政権が45年夏に入るころようやく、華僑にジャンクや牛車によるコメ輸送を委ねたが、遅すぎた感がある。
このように見てくると、責任の所在がおのずから明らかになってくる。



[1952] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月18日(月)08時51分7秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

ベトナム側が以外に重視するのが「ジュート等への転作」問題である。ボー・グエン・ザップ将軍は、1994年の朝日新聞へのインタビューで、「日本軍は農民にモミの代わりに、黄麻(ジュート)などを植えさせた」ので、「45年には200万人の餓死者がでた」と強調している。69年に彼が書いた回顧録でも同じ趣旨を書いた。
早乙女勝元のヒアリングでも、日本軍の手先が「収穫直前のトウモロコシを引き抜かせ、ジュートの植付けを強制した」話が出てくるのを受けて、ジュートの植付面積が42年レベルだったらトウモロコシかサツマ芋が育ち飢餓を緩和しただろうと書いている。
しかし古田はハイフォンに近いフォオントン村の調査から、正反対に近い見解を表明した。
この転作はコメ袋の材料として使うジュートの輸入先だったインドとの貿易が大戦の勅発で途絶したため、日仏間の協議で始まったプロジェクトで、日本から大南公司、台南製麻など八社の農業指導員が派遣された。その一人だった台南の河合某は、米作よりは有利な現金収入になるので農民も喜んで応じたのであり、飢餓との因果関係はないと主張する。
古田は、コメ袋を作るジュート工場のあったフォオントン村は、副業収入を得て飢饉の被害は相対的に少なく、村民にプラスイメージを残していると結論した。
どうやらジュート転作問題は、飢餓との関係は少ないと判断してよさそうだ。



[1951] Re: 200万人

投稿者: 波浪規定 投稿日:2022年 7月17日(日)19時55分53秒 p2481144-ipngn10001sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp 

仏印政庁は1940年から日本軍の駐屯経費を分担することになり、累計は45年3月までに計7.2億ピアストル(7.3億円)に達した(終戦後に日本が償還)。戦後のベトナム政府は日本軍の経費を賄うために政庁の課す税負担が高くなり、庶民生活を圧迫したと主張している。
また、1942年から政庁が日本の供出制に似たコメ(モミ)の強制買付制度や都市生活者へのコメ配給制を実施して民生を圧迫した責任も日本にあるという言い分も見かけるが、それは戦時中からフランスが不人気な政策を日本の強要によると宣伝した後遺症かもしれない。
日本の関与が仏印経済を攪乱する要素だったのはたしかだが、飢餓の直接的原因となるコメの不足と結びつける根拠は乏しい。北部に進駐した日本軍は多めに数えても2万5千人ばかりだから、一人一日定量コメ五合で計算しても、一年で6844トンにすぎない。
そもそもコメ減産の引き金となった異常気象や凶作の実態が、今なお判然としていない。タオ教授らのサンプル調査も、このあたりを究明していない。
1944―45年にかけての正確な気象データは不明である。44年春は日照りがつづき、10月、11月は台風と洪水、年末から45年4月までは凍死者が続出するほど寒気がきびしく、6月から大洪水だったとの情報があるが、これらの要因と結びつくコメの減収規模には確たる数字が得られない。



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