「731部隊人体実験」とされる写真、実際は清国時代の肺ペスト犠牲者 - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2018-05-18(09:58) | カテゴリー : 日本への濡れ衣・冤罪・写真資料

戦前日本軍がやったものとされて、凄惨な画像が世界中に拡散しているが、
殆どは中国・朝鮮・ロシアでの全く別の事件や紛争のものです。

 (凄惨画像あり、閲覧注意) 


「731部隊による生体実験の跡」とされる写真。
スクリーンショット (1650)
"1910s Plague victims in Manchuria-Qing dynasty" Not of 'War crimes of Unit 731'.

実際には1910-1911年、清朝末期の満州に拡がった肺ペストの犠牲者。
 ↓証拠となる当時のアルバム (17ページ目)
 ロシア語の疫病関係アルバム

スクリーンショット (81)

日本とロシア帝国はペスト対策を実施。清朝政府は1911年、奉天で国際ペスト会議(奉天国際鼠疫会議)を開き、日露に限らずアメリカ合衆国やメキシコ、英・独・仏・伊・蘭・墺など数多くの外国代表をその会議に招くことで日露両国の影響力の低減をはかった。これは、帝国主義のもと、感染症とその対策が政治問題化した好例である。

 


Manchurian plague, 1910-11
IAIN MEIKLEJOHN
In the autumn of 1910, the press in China began to report that a rare and deadly pneumonic plague had reached Harbin in the extreme Northeast of China, then known as Manchuria. Though confined largely to China’s Northeastern provinces, cases were reported sporadically throughout the empire, in Tianjin, Beijing and along the Beijing-Hankou railway line stretching down into central China, reflecting the scale of the epidemic. It is difficult to attain precise statistics about the death toll of the plague; however reports suggest that between 50,000 and 60,000 people died, with an unprecedented mortality rate of 100 per cent.

1910年秋、中国(清国)の報道機関は、希で致命的な肺ペストが満洲としても知られるシナ東北部ハルビンに到来したと報告し始めた。 大部分は中国北東部の州に限定されていたが、天津、北京、中国中部に広がる北京 - 漢江線に沿って散発的に症例が報告された。 疫病の死亡者数について正確な統計を得ることは困難だが、5万〜6万人の人々が死亡、死亡率は100%で前例のないものであると報告書では示唆されている。


    詳細(英文)









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