米軍資料 「南京攻略戦」「上海事変」  - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2015-06-28(19:14) | カテゴリー : 支那事変 資料

 以下の米軍文書はテキスト化されていますが文字化け・不明が多いので、少しづつ書き出して日本語訳も付けようと思っております。
 

●「南京城攻略」は 1937年12月13日 
  南京攻略戦 wiki 
 

(画像はクリックで拡大)
 

Asiatic Fleet. Weekly Intelligence Summaries. 1938, January-April
 
96ページ (日本軍部隊が入城する前の中国軍・兵の様子)
louasiatic127096  南京 支那兵 米軍文書

The accounts of the capture of Nanking are far from Chinese defending general is said to have fled the city without even informing his staff.
南京防衛軍将軍が部下にさえ知らせず遁走したと言われているため、南京が攻略された時の将軍からの報告は得られていない。

The Chinese soldiers left on their own, looted and destroyed some of the city property and according to one account shot down many civilians and donned their clothing in order to escape.
残された中国兵は、掠奪したり市内の財を破壊した。
また報告に拠れば、多数の市民を銃殺し、逃走するために、殺した市民の衣服を身に付けた。

  
(初め訳文で「中国軍将校」としてたのですが「将軍」と修正しました。この時の中国軍将軍は唐正智であり、12月12日に遁走。
取り急ぎの翻訳なので随時直していきます。)


183ページ (12月10日 南京城内・城壁・揚子江河畔の様子)
asiatic fleet p183 南京 中国兵パニック

General Tang asked our assistance in arranging the truce with the Japanese and Mr. Sperling agreed to take a flag and message but it was already too late.
He (Tang) fled that evening and as soon as the news got out disorganization became general.

There was panic as they made for the gate, Hsiakwan and the River.
The road for miles was stream with equipment they cast away- rifles, ammunition, belts, unifom, oars, trucks, everything in the way of army impediments.
彼らが城門、下関(区)、河(揚子江)に向かった時にはパニックとなった。
道には何マイルにも渡り彼らが投げ捨てていった備品が連なっていた。ライフル、弾薬、ベルト、軍服、オール、トラック、邪魔になる軍装品は何でも捨てられていた。

Trucks and cars jammed were overturned, caught fire; at the gate more cars jammed and were burned- a terrible holocast- and the dead lay feet deep.
渋滞したトラックと車はひっくり返され、燃え上がった。
門の所ではより多数の車がひっくり返り燃えており、酷い丸焼け状態であった。
死者の数は足元を埋めるほどだった。

The gate blocked, terror-mad soldiers scaled the walls and let themsefves down on the other side with the ropes,puttees and belts tied together,clothing torn to strips.
Many fell and were Killed.
門は閉鎖されており、恐怖に狂わんばかりの兵士らは、
ロープ、ゲートル、ベルトなどを結びあわせたり、洋服を引き裂いて紐状にして使い、壁をよじ登り向こう側に降りた。
多数が落ちて死んだ。

But at the river was perhaps the most appalling scene of all.
A fleet of junks was there.
It was totally inadequate for the horde that was now in a frenzy to cross to the north side.
The over crowded junks capsized; they sank; thousands drowned.
河の様子は、おそらく最も悲惨であった。そこにはジャンク(中国式木造帆船)船団がいたが、逃走の群衆が北の河畔に渡るには数が全く足りなかった。過積載のジャンクは転覆し沈没、数千人が溺死した。

Other thousands tried to make rafts of the lumber on the river front, only to suffer the same fate.
Other thousands must have succeeded in getting away,but many of those were probably bombed by Japanese planes a day or two later.
また別の数千人は河岸で材木から筏を作ろうとしたが、(転覆で溺れた者達と)同じ結果に陥るだけだった。
残りの数千人は無事逃げ果せたと思われるが、おそらく、その中の多くは1日か二日の内に日本軍機に爆撃されたであろう。









●第二次上海事変 1937年 8月13日  
第二次上海事変


Asiatic Fleet. Some phases of the Sino-Japanese conflict (July to December 1937) 


20ページ (8月14日朝 中国軍機による租界爆撃 パレス・ホテルなど被害と難民の様子) 
支那事変 上海 難民Some Phases of the Sino-Japanese Conflict (July to December, 1937)


21ページ (8月14日 中国軍機による、繰り返される上海租界空爆 )
1第二次上海事変 アメリカ文書 
 

23ページ ( 「中国の責任」との記述 )
第二次上海事変 米軍文書 2 ダグラス機


24ページ (8月30日 「中国機による誤爆」)
1937.8.30 中国機による空爆


空爆された上海租界の被害写真 
閲覧注意 でお願いします)

チベット通りとモンティニー大通り交差点
第二次上海事変  チベット通りとモンティニー大通り交差点 中国軍爆撃
 
 
第二次上海事変 中国軍爆撃

大世界娯楽センターの被害。難民避難所になっていたここでは1,012人が死亡し、1,007人が負傷。
スクリーンショット (49)



戦闘休止中の日本兵にお茶を注ぐ中国人女性 
chinese_woman_pouring_tea_for_japan_2110272362.jpg

 



●(おまけで)支那事変ではなく1927年 国共内戦
The USA’s decades long warfare against China
「米中間の数十年に渡る戦争」 
 
支那事変以前、1927年蒋介石に拠る北伐・共産党員・市民の虐殺について書かれています。
これらの被害者数が「南京虐殺」として数えられ、殺戮画像もそれとして使われているケースもあるのではないか、
また蒋介石軍の非道行為は欧米で知られていない・忘れられている様子もあり、何から何までが「日本軍の犯罪」「南京虐殺」とされてしまう危惧がある。
その意味から国共内戦の資料も今後あげてみようと思っています。





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