平穏な南京市内  - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2018-06-23(02:13) | カテゴリー : 日本への濡れ衣・冤罪・写真資料



2017年9月 産経ニュースより 
 南京事件1カ月後の姿を写した写真

 写真を撮ったのは、満州電信電話の技術者だった杉山友勝さん(昭和62年、81歳で死去)。メモによれば、13年元旦から関東軍の指示で上海・南京地区の通信施設の防空設備視察のために同僚3人と出張。南京へは陥落(12年12月13日)から1カ月弱の13年1月7~10日に訪れている。
 写真は、中国・国民党軍が南京退却時に残していった放送スタジオ「中央党部内演奏所」や北極閣(気象天文台)の地下に置かれていた「軍通信司令部」など放送・通信施設を中心に撮影。また、欧米人が国際委員会を組織し南京市民が避難した安全区(難民区)内や同地区以外の城内、城外の街や市民の様子を写したものなど数十枚に及ぶ。



記事にある遠景写真の方、
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黄色〇で囲んだ部分が他の南京写真と一致。
↓アサヒグラフに掲載された、「北極閣」からの撮影(赤丸部分が上の写真と同じ)。
期日は1938年1月11日となっている。

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     (クリックで拡大して下さい)
こちらの写真は1938年アサヒグラフに掲載されたもの。
その解説部分→ IMG_1911 - コピー (2)

地図で見ると 6W_0xVXg - コピー (2) - コピー
「北極閣」は南京城壁内の北東辺りにある。

産経ニュースで報道された写真も、当時のアサヒグラフ報道写真も撮影はほぼ同じ場所、同じ時期と思われる。
産経の方は『満州電信電話の技術者だった杉山友勝さんはーー13年1月7~10日に訪れている』とある。

※いわゆる「南京虐殺」とされている事案は、中国側の主張では12月13日攻略以降、翌1938年2月中旬頃まで続いたとされている。
(東京裁判の検察側最終論告には、「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は26万ないし30万」と)
南京攻略にあたった中支那方面軍ー上海派遣軍・第10軍含むーが解体され、新たに中支派遣軍が編成されたのが1938年2月14日、その再編によって「非道行為は一応止んだ」としているためだ。
同時に中国人も欧米第三者国人の往来も可能になった。(英国とドイツの大使館職員は1月10日既に戻っている)

つまりこれら写真にある1月10日前後というのは「南京虐殺」最中とされている時期。



ところでこのドーム状のものは何かと言うと、南京城壁内・中央大学(現・東南大学)講堂のドーム屋根。
この地域を戦前、撮影した人がいる。
先日書いたエントリー  ヘッダ・モリソン写真
モリソン女史が1944年に撮影した中央大学遠景。 312100035154fa4084e5_2018062301353064b.jpg
 中央辺りに6角形か8角形くらいのドーム屋根が見えている。



こういう写真群が「南京事件・虐殺」の有無に関係するかは分からない。
中国側は南京城内でもあちこちで多数の「虐殺」があったと主張しているが、この種の写真どれを見ても街並みが崩壊しているようにも見えないし、(広大な地域ではあっても)死体累々という様子は感じ取れない。





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