シロナガスクジラは海獣類(海産哺乳類)のみならず、これまで地球上に生息した動物の中では最大の体長を持ち(植物の中にはもっと大きな物はあるが)、平均して25m程度にまで成長する(亜種のピグミー・シロナガスでは20m程度)が過去に捕獲された例では30mを越える個体もあったという。 「シロナガス」と言うものの、鈴木その子のように白いわけではなく、青と灰色の中間のような色に薄い斑点状の模様が散らばっている。 ヒゲクジラ亜目のナガスクジラ科に属するが、体の背中側が黒くて腹が白っぽいというナガスクジラ科の他の種と違って、腹部の側も白くない。 多くの人にとって本物を見る機会はないだろうが、東京・上野の国立科学博物館の敷地には専門家の助言のもとに作られた、実物大の模型がある。 なお、肉質はピンク色で脂がのっているというが、IWCが禁漁にしたのが1960年代半ばであるから、極めて残念ながら食べた事はない。
同じヒゲ鯨でも脂肪が豊富で太ったセミクジラなどとは違い、スマートで泳ぐ速度が速く、死ぬと短時間で沈んでしまうシロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラなどは、昔の捕鯨技術ではなかなか捕獲が難しい種であり、本格的に捕られ始めたのは、ノルウェーのスヴェン・フォイン(Svend Foyn)が、ロープの付いた銛を高速の船に載せた捕鯨砲から撃つ方法を導入した19世紀後半以降である。
南氷洋における捕獲開始前のシロナガスクジラ資源量は20万頭程度と推定されている。 余談だが、今世紀初めに南氷洋がいかに鯨が多い海であったかという逸話を記しておこう。 1912年に日本人として初めて南極探検を行なった白瀬中尉の記録である。
「ロス海に突入して一つの湾に船を寄せようとすると、まるで算盤の玉を並べた様に大きな丘が海中一面にある。 調べてみると皆鯨だから驚いた。 隊員の中には、この鯨の大群の中をどうして通り抜けることが出来るだろうかと心配した者さえあった。 構わずどんどん進んでいくと、流石に鯨も船には恐れたのか、通り路だけは開けてくれたので、やっと安心したが、一時はどうなるだろうかと少々不安に思った。 これが即ち鯨湾である。」
(板橋守邦著「南氷洋捕鯨史」、1987年、中公新書 842)
南氷洋のシロナガスクジラはほとんどオキアミだけを食べるという極端な偏食である。 同じ南氷洋でもミンククジラやナガスクジラなどはオキアミ以外にもカイアシ類などの他の動物プランクトンや小魚も状況に応じて食べるのとは違っている。 これは、オキアミにありつけなくなると、やがて集団の繁殖にも支障をきたす事態になる事を暗示しているが、事実、南氷洋でシロナガスクジラが減ったためにミンククジラやカニクイアザラシなどが大量の余剰オキアミを得て増える一方、それが長年捕獲が禁止されたシロナガスの回復を阻害しているという、何人かの科学者による説と整合する。 このシロナガスクジラの空白を埋めるように、それまで高緯度海域ではあまり見かけなかったイワシクジラも索餌域が南下してきたといわれている。
さて南氷洋における今世紀前半の 捕獲統計 を見ると、すさまじい量の鯨が捕獲されている。 シロナガスクジラでいえば、1930/31漁期には3万頭にせまる頭数が捕られ、その後も1930年代半ばには毎シーズン1万5千頭以上も捕獲されていて、現代どころか捕鯨問題が世間の注目を浴び出した1970年代初頭の資源管理でも考えられない量である。 1930年代終りに捕鯨操業を管理するための国際捕鯨協定は作られたが、捕獲枠などは設定していなく、また間もなく第2次大戦に突入して南氷洋での捕鯨は2シーズン中断した。
第2次大戦が終りかかる1944年、7ヵ国が会議を開いて捕獲枠を戦前の捕獲実績の2/3程度に当たる16000BWUに抑える取り決めを交し、1946年に新たに作られた国際捕鯨取締条約のもとでIWCが捕鯨を管理するようになってからもこのレベルの捕獲は続くが、当時はまだ、国際的な鯨の資源調査が行なわれていない時代であり、また、各国の科学者が自国の操業海域のデータをもとに、シロナガスなどの資源の減少を警告しても、南氷洋全域でデータをまとめた研究がないなど、業界の利益優先の風潮を覆すには説得力が欠け、さらに捕獲枠は鯨種ごとではなく BWU制 で決められている時代であった。 また、例えば10万頭いる鯨の集団から仮に3000頭捕獲するにしても、この集団における年齢構成が違えば捕獲の影響は全く違うが(たとえば年寄が多くて若い鯨が少ない集団と、その逆の構成の集団では、捕獲がその後の繁殖に与える影響は異なる)、ヒゲ鯨の年齢査定法をイギリスのパーヴェス(P.E. Purves)が見いだしたのは1955年になってからと遅い。 当時と今では鯨の資源量の解析手法やデータの質と量、鯨に対する需要、管理手法など何もかも違うのであるが、こうした昔と今の違いなど無視して、商業捕鯨を再開すると当時のような乱獲が再び始まると宣伝しているのが内外の反捕鯨団体である。
さて、表題の「3人委員会」であるが、このように、科学委員会が業界を説得しきれずに、過剰と確信される捕獲枠が設定され続ける状況を打開するために、資源統計や解析に明るい外部の科学者に委託して、各国の長年のデータをまとめて解析して捕獲枠への助言を行なうために、1960年のIWC年次会議においてその設置が決められた。 任命されたのはFAO(国連食糧農業機関)のホルト(Sidney J. Holt), ワシントン大学のチャップマン(Douglas G. Chapman)、ニュージーランド水産局のアレン(Kay Radway Allen)であり、遅くとも1964年7月末までには彼らの結果に従った捕獲枠を設定する事になっていた。 1963年には任期の1年延長に伴って英国水産研究所のガランド(John A. Gulland)も加わって4人委員会になり、1964年に彼らの任期が終わった後の数年間はFAOが資源評価の作業を引き継いだ。
3人委員会の解析の結果は1963年6月の第15回年次会議に報告された。 シロナガスクジラとザトウクジラは資源の回復に50年以上見込まれるためただちに捕獲を禁止するよう勧告され、またナガスクジラは年間の捕獲量を7000頭以下に減らす事が勧告された。 各国のデータを総合して当時の最先端の手法で分析した勧告がようやく出たわけである。 なお、資源評価の継続やこれまでIWC内部でも検討されたBWU制の廃止も勧告されたが、後者が実現したのは70年代に入ってからである。 さっそくザトウクジラとシロナガスクジラは1963/64シーズンから捕獲禁止になり(ただし、捕獲歴史の浅い亜種のピグミー・シロナガスは1963/64には捕獲が認められた)、総捕獲枠は前年の15,000BWUから10,000BWUへと削減された。 南氷洋のシロナガスクジラはついに安息の時を得たというわけである(なお、北大西洋のシロナガスクジラはすでに戦前から保護されており、北太平洋では1966年から保護された)。
翌年の1964年の会議は4人委員会の結果に従った捕獲枠を設定する期限であった。 前シーズンの捕獲量を考慮に入れて4人委員会が出した勧告はナガスクジラは4000頭、まだ情報の少ないイワシクジラについては2400から8000の間という範囲内での低めの数字が推奨された。 会議では合意がまとまらず、結局会議後に捕鯨国が自主的に8000BWUに決めて落ち着いたが、鯨種別の捕獲枠ではないために実際の操業では捕鯨各国によるナガスクジラの総捕獲は7000頭以上に達した。 これがBWU制の怖い点である。 もっとも、以後BWU捕獲枠は年々コンスタントに削減され、60年代後半には安全を見込んでナガスクジラとイワシクジラの推定持続生産量の合計よりも低めの捕獲枠を設定するなど、遅まきながら削減傾向は定着していった。 第2次大戦後に14,500BWUから16,000BWUの間で変動していた捕獲枠は、1971/72シーズンには2,300BWUまでに削減され、これを最後にBWU捕獲枠制度は廃止され、鯨種ごとに捕獲枠が設定されるようになった。
こうした時期、すなわち1970年代初頭にアメリカのニクソン政権が捕鯨に関する管轄を商務省から大統領府に移し、当時の代表的な反捕鯨団体プロジェクト・ヨナなど連携して反捕鯨政策を大々的に開始し、別の機会に述べようと思うが、1972年の国連人間環境会議において「IWCのもとで商業捕鯨の10年間のモラトリアムを実施するように求める」決議を通らせたものの、直後に開催されたIWCの年次会議ではアメリカのチャップマンが議長を務める科学委員会において、鯨種ごとの資源状態が違うにもかかわらずすべての鯨種の捕鯨モラトリアムを実施する事は科学的に必要性なし、として全会一致で退けられ、総会でも否決された。
余談になるが、この1972年のIWCでの敗北の後、アメリカ政府はIWCへ送り込む科学者を大幅に入れ替えるなど、いかにもニクソン政権らしい行動に出た。 また、ホルトのように反捕鯨団体に取り込まれた科学者も出てきて、科学委員会の様相も変る。 かつての3人委員会のメンバーは反捕鯨派に変貌した上に(4人目のガランドだけは別で、例えば後年FAOのオブザーバーとして1982年のモラトリアム採択に際しても、それを批判する声明を出している)、反捕鯨団体の資金援助を受けたり縁の深い科学者が続々と科学委員会に登場する。 よく目にする名前は、 Jutine G. Cooke (IUCN)、 John R. Beddington (イギリス)、 William K. de la Mare (オーストラリア)、 J.G. van Beek (オランダ)、 K. Lankester (オランダ)、 Elisabeth Slooten(ニュージーランド)、 C.S. Baker(ニュージーランド) といった面々である。 すでに最近のIWCには登場していない顔触れもあるが、逆にここには載っていない名前もまだまだある。 彼らの特徴は、自分でデータを収集して科学的な真実を追求するというよりは、もっぱら捕鯨国側の科学者が出したデータを基にいかに反捕鯨に有利な結論や仮説に導いたり、捕鯨国側の科学者の見解にケチをつけるかという、政治的動機で動いている点にあるといえる。 比較的近年では、日本が北太平洋でミンククジラの調査捕鯨を開始するキッカケになった系統群分類の仮説などが、そのほんの一例である。
科学委員会のレポートを読んでいて「大多数のメンバーの見解では○○××だが、何人かのメンバーは××△△であると主張した」というような記述があって、その「××△△」がいかにも反捕鯨側に都合の良いような場合は、この「何人か」というのが、これらの面々であると見て大体間違いない。 そして、科学委員会内部では少数であった彼らの意見が、英語圏のメディアによって大多数の見解のように宣伝されたり、それらに沿った措置が本会議では反捕鯨国の数的優位によって採決されるというのが、70年代半ば以降の捕鯨問題における一つのパターンである。 例えば、手もとにあるイギリスのガーディアン紙の記事(1989年1月31日付)には、南氷洋のミンククジラの資源量について「(捕鯨開始前の)半分に減ったと推定されている」とあるが、科学委員会がこのような見解で合意したためしはない。 それどころか、全会一致の合意ではないものの、シロナガス鯨の激減による餌の余剰によってミンククジラは増加したというのが大方の見方であり、従って捕獲が本格的に開始した1970年代初頭の資源量は初期資源量とは見なせないために、 MSY(最大持続生産量) の代わりに毎年の加入量の推定を基に捕獲枠を決めていたはずである。 また、この記事には日本での鯨肉の消費について「大部分は60歳以上の人間によって特別な機会に食べられている」とあるが、「大部分」の消費がこのような「特別な機会」に限られたものなら、全国の鯨料理店はとっくに店じまいを余儀なくされていたであろう。
大御所のホルトは、かつてミンククジラを資源が大幅に減少した保護資源に分類すべく、2万頭説を提唱して逆に科学委員会で失笑を買ったが、グリーンピース・イタリアの設立に関わったり、イタリアがIWCに加盟する前年の1997年のIWC総会ではイタリア人ではない彼がイタリア代表団の「通訳」として本会議に参加するなど、もはや活動分野は科学者としてのそれから遊離しているようだが、まだまだ後継者には不足していないようである。
(2000年11月18日 記)
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