「なぜ加害を語るのか」(撫順での思想改造) - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2013-09-09(01:39) | カテゴリー : 撫順戦犯管理所・洗脳

先日の続きを。

なぜ加害を語るのか 中国帰還者連絡会の戦後史 (岩波ブックレット)なぜ加害を語るのか 中国帰還者連絡会の戦後史 (岩波ブックレット)
(2005/08/05)
熊谷 伸一郎

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「なぜ加害を語るのか」 熊谷伸一郎 (先日の記事)

「撫順戦犯管理所」に抑留されていた元軍人兵士や満州国官僚らが帰国した1956年、その直後に「洗脳」について取り上げたのは何と朝日新聞・天声人語だった。
(一部引用)「英語でブレーンウォッシングと言い、中国で作られた言葉。{戦犯}たちはやはり洗脳の洗礼を受けたのではないかと思わせられる。社会から隔離されて朝から晩まで繰り返し{学習}させられたら、大概の人間は同じ鋳型にはめこまれるだろう。」と。
それが70年代になると本多勝一に与して大々的に「日本軍の悪行」を宣伝し始めるのだから、朝日は常に過去の自分を(意図的に)忘れていく。


「三光」(殺しつくす、奪いつくす、焼き尽くす)なる中国語の言葉そのままの帰還者証言集が出されたのは1957年。
中国八路軍の非道作戦をそのまま日本軍のものとして転嫁、すり替えた言葉「三光」が出てきたのはここが発端か。
この冊子を企画したのは光文社社長・神吉晴夫だ。
ところが増刷しようかと言うときに神吉は拒否したという。著者は右翼からの妨害があったと書くが、実際は神吉自身が事の真相に気付いたのではないだろうか。


60年代中国で文化大革命が起こり、その間は中帰連は毛沢東擁護派と批判派(こちらは日本共産党が付く)に分裂し、活動も鈍っていた。
この本には書かれていないが、70年代前半に本多勝一が中帰連への聞き取りや中国への取材で「中国への旅」「天皇の軍隊」を書き、それが国内広く知られる切っ掛けとなったようだ。

本書では具体的な人物名を出し、帰国後の活動や証言を紹介している。
なかでも藤田茂・陸軍中将は撫順抑留の初め、なぜ自分らが戦犯なのか、毛沢東に合わせろ、と主張したり典型的な日本軍人だったそうだ。撫順に移送される前のシベリアでの5年間の抑留の間にも「思想改造」に嵌らなかった事を意味する。
ところが、瀋陽での軍事法廷で「被害者」であるという老婆の怒り憎しみに接して反省の様子を見せ始めたという。
そこからは改心したリーダーとなってしまった。
他にも心優しくはあるが憲兵としてスパイ摘発などに優秀だった人も同じ。
このように意志が強固な人ほど一旦嵌められるとあとは転がるように改造のトップに立ってしまう傾向があるようだ。

毛沢東らは1930年頃には既に捕虜に巧妙な洗脳を施す事をやっており、終戦前後には日本人の弱点まで見抜き、洗脳手法はより洗練されていった。
捕虜にした林航空隊に対して初めは酷い環境に置き拷問もしていたようだが、それで意志を曲げる者はいない。
ところが寛容に出ればその途端日本兵が懐柔するのを見抜いたのだ。
日本人は寛大さを示したり、(自演であっても)恩情をかけるフリをすれば一発だ、とほくそ笑んだ事だろう。
命を奪おうとしても拷問にかけても強固な意志が揺らぐことのない軍人が、怪我の手当てをしてやるだけで懐柔するのだから。

「地獄に落としてから仏を見せる」が洗脳の基本となった。
日本人は恩義に弱いというのも利用されている。
これはスターリンでさえ見抜けなかったことだ。実際長年のシベリア抑留でも赤化洗脳を受けたフリをしていただけと言う人は多い。
ところが中国抑留者の多数がまんまと嵌ってしまっているのだ。しかも生涯に渡って続き、覚める事は殆ど無い。


それといくら意志の固い人であっても本能的な心理反応を利用されては抵抗できるものでもない。
ストックホルム症候群のようなものに陥ってしまったことも考えられる。


ところで撫順管理所において職員=教師でもあり世話係でもあり通訳でもある中国人は、殆どが朝鮮族だったらしい。
日本語教育を受けた経験がある上に、朝鮮人の性向を見抜いてのことだろうか、周恩来がそこまで考えて管理しようとしていたのはさすがと言えばさすが。

朝鮮人職員の方は日本人の、元は偉い軍人や官僚の命運が我が手のうちに委ねられるというので、さぞ満足だったんだろう。
帰国者と朝鮮人職員らとの交流はお互いが老齢死去するまで続く。「永遠の友」として日中を行き来し交流していた。
ぞっとする光景だ。

中帰連は洗脳改造を受けた撫順戦犯管理所に1988年、自分らの金とカンパ1500万円注ぎ込み「謝罪碑」を建てた。
「私たちの凶手に倒れた中国愛国烈士・平和人民の霊を弔い、同時に過ちを再び犯さない決意」を表明する証として。

平和人民だって? 彼らは帰還直後から中国人がいかに人道的で平和を愛する人民であるかと強調していたが、帰国した1956年はちょうど人民解放軍がチベット東部より侵攻し始めた頃だ。
当時は知らなかったとは言え、現在に至るまでチベットの実情を知ろうとしなかったのか、知っても覚めることなど叶わなかったのか・・。

中帰連の会員も老齢となり生涯本来の精神を取り戻すこともなく逝く人が殆どなのだが、死に際して意識朦朧としながら「よく頑張った!」とはっきり口にした人がいるという。
去り際の言葉を解釈など出来るものではないが、本来の軍人精神を最後の瞬間に取り戻して部下を労っているか、自らを労ったかと私は思いたい。
そうでないと生涯を中国共産党プロパガンダの毒牙に侵されたまま逝くというのは酷過ぎる。


撫順での思想改造と中帰連を検証した本↓もまた後日再度取り上げようと思います。

「天皇の軍隊」を改造せよ: 毛沢東の隠された息子たち「天皇の軍隊」を改造せよ: 毛沢東の隠された息子たち
(2012/02/08)
高尾 栄司

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