通州事件・日本人虐殺の現地視察記録ーー残された犬の話 - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ
国立国会図書館デジタルライブラリーより見つけた文書。
「戦線を訪ねて国民に愬ふ(訴える)」
昭和12年 (1937年)
陸軍省政務次官 加藤久米四郎・著
東京朝野新聞出版
通州事件直後シナに入り現場を視察した陸軍省政務次官・加藤久米四郎の記録文。
通州事件 wiki
通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国(中華民国)の通州において、中国人部隊(冀東防共自治政府保安隊)による日本人への襲撃が行われ、日本人居留民および日本軍部隊・特務機関が襲われて、日本人らが大量虐殺された事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害された。殺害方法も猟奇的なものが多かったとされる[1]。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。
1937年前後の勢力図
「国民に訴ふ」とあるくらいなので日本国民に向けての報告だが、事件があまりに凄惨で、その様子の描写については僅かしか書かれていない。
けれどその周辺や生き残った人達の様子が生々しく書かれていて興味深い。
事件後に残された犬の話が興味深く、この事件を象徴しているような気がするので引用してみます。
( )内は私がつけた注釈。
近代デジタルライブラリーへのリンク
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(通州事件の後の様子)
通州の城内には、支那人らしい支那人はいなかったのであります。平素は約3万5千人内外人口のあります通州で、冀東政権(冀東防共自治政府・きとうぼうきょうじちせいふ・1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導により成立した)の所在地で相当な都であったのでありますが、あの事変以来、支那人は約千五百、二千足らずの者しかいないと言っておりました。どっかへ逃げて行ったと見る。
まず第一に特務機関の建物の方に進みました。特務機関と申しますれば、御承知の通り、細木大佐があそこに居り、相当の人が居ったのであります。この人々が全部戦死を致しまして一人も居りませぬ。
行ったら案内する人もないはずであります。皆戦死したのでありますからーーー
それで左右の建物を見まするというと、砲弾の跡と迫撃砲の跡で、そういして焼かれた後で、行っている者は日本人も支那人も居りませぬ。
で我々は、細木大佐がどの辺に居たのだろうかと言うことで、ずっと探したが分からぬ。仕方がないから部隊長の所へ行って色々聞こうじゃないかと言うので、廻り廻って特務機関を出て来たのであります。
ところが我々の話を聞いたせいでありましょうか、奥の方から一匹犬が飛び出して来たのであります。
ラジオでも私は天津から放送を致しました。(あとでこの犬の件をラジオで話したということか)セパードと秋田犬の混ぜたような犬でありました。
あまり良い犬ではありませんでした。左の股に貫通銃創を負うていたのであります。
我々の所へ、耳を垂れ、尾を振り、そうして頬を付けて寄って来たのであります。
私は別に何も気が付かなかったのでありますから何だろうと思っていました処が、ほかの事を聞きたい調べたいと思っていたので、犬のことが余り気が付かなかったのであります。支那人が一人いまして、我々を案内しようという同情の押し売りでしょう。どいつもこいつも悪魔のように見えましたのでありますが、犬に向かってあちらへ行けと言ったら、その犬がうおーと言って支那人に喰らい付こうとした。で、支那人には喰らい付くし、我々には寄り付くしと思いながらも、我々が大きなバスに乗りました。
ところがそのバスが横に揺れて転びそうな乗合自動車のバスでありましたけれども、それに犬も乗ってきて私の側を離れないのであります。どんなに追っても降りないのであります。
私は妙なことだと思いながらも、そこの部隊の本部へ帰りまして、所要の挨拶を済ませて部隊長と別れようと門まで部隊長と来た時に、犬が待っている。
でありますから、恐らくこれは特務機関長が飼っておった犬じゃないだろうかと言って、頭をちょっと撫でましたところが、喜んで尾を振っている。
お手を出せと言うと手を出す。これは日本人が飼っておったのだと私が気が付いたのであります。
細木大佐が飼っておったのだろう。日本人の飼っていた犬だから、支那人の言葉は分からない。
それではと言うので、可哀想になって何とか日本へ連れて行けまいかと相談したが、それはどうも無理でしょう。こんな犬を連れて行っても仕方が無いでしょうと言うのでしたが、それでも可哀想だと言うので、兵隊さんに頼んで残飯を食わしておき給えと言って私は置いて来たのであります。
私は直ぐに生存者の居る所に参ったのであります。そこには親のない子供、あるいはお婆さんだけ残っているの、あるいは娘さんだけと言うような風に気の毒な者であります。私はそこで話をしたのであります。慰めあるいは激励をし、慰問品をあげ、そうして挨拶をしたのであります。
その最後に犬の話をいたしまして、犬のような動物、畜生でも一飯の恩と言うことを知っている。我々日本人の話を聞いて近寄って来、日本人の身体の匂いを聞き分けている。しかるに、この鬼畜に等しい通州の支那人は、犬以下だ、畜生以下だと私は申したのであります。それを思えばあの犬が不憫でならない、そういうことを申しましたら、公会堂に居った罹災民達は皆その犬の話で貰い泣きしたのであります。
余程残虐なことが身に沁みておったせいでありましょうが、感傷的になっておったのでありましょうか、貰い泣きしておりました。
(通州事件の様子)(3千人以上の支那兵に対して僅か32,3人の者を以って防御していた)
(日本軍)守備隊の庭の前に広場がありますが、そこに寄って来る者を、守備隊の屋根の上から狙い撃ちをして殺したのが約70人いるという事を申しておりましたが、こちらにも相当の負傷者があり戦死者もあり殆ど守備隊というものが無くなってしまったのだ。
その守備隊の者が、本当の戦争をしている間に今度は女、子供、武装をしておらぬ日本人、朝鮮人をピストルで殺したのが真相であります。
なぜそんな事をするかと言うと、この間原因があるのであります。
支那は日本に対して、どうしても共産党を植え付けて、そうして日本を倒さなければならぬというので、フイフイ教(=イスラム教)、その教師を使嗾(しそう・悪事をそそのかすこと)し、及びユダヤ人を使嗾して、共産党を植え付けてやろうと言うところから、それらが先頭となり、北京大学や南海大学あたりの学生が先達となって、日本人を殺せとやっておったのであります。
それに(シナ側の)保安隊の一部分が内輪もめをいたしまして、そうしてそれらも煽(おだ)てて、その煽て方も徹底いたしております。デマの飛ばし方も極端であります。
どういうことかと言うと、今日本は負けているのだ。第一天津も、もう日本租界には支那の中央軍が居るのだ。北平にも日本軍はおりやしない。
通州なぞも今やっつけてしまわなければいかぬと言うので宣伝を致しまして、デマと飛ばして、流言飛語をやったのがその原因であります。
支那はそのようにして天津と北平と通州の三か所に於いて、そういう不良学生や藍衣社(らんいしゃ・蒋介石直属の国民政府の情報・工作機関、ヤクザ者が多かった)や便衣隊の者共が来てピストルでやったのであります。
戦をしている兵隊や保安隊の者共ばかりやったのではありませぬ。女子供の殺し方は、これは私は実に申し上げられませぬー
子供をさかさまにして、頭を叩きつけて殺したのが多いのであります。そうして女に対しては、鼻に針を入れて、牛を引っ張るようにして引っ張って歩いたのであります。
そうして女は凌辱を受け、辱しめを受けております。(略)(虐殺についてはこれのみしか書かれていない。この文章は政務官として国民に伝えるものなので残虐な描写は控えたものと思われる。)
そういう事ばかりやっているかの支那の連中は、なんと我々が正義人道を唱えてもこれはさっぱり分からぬ。だから今度の戦でも余程しっかり褌をしめてかからぬと言うと支那にやられる。
支那は外交にかけては世界一であります。個人としても商取引に於いても、あるいは車に乗る駆け引きでも世界一であります。(略)
駆け引き、口先で嘘八百を並べるということは支那の国民性だ。これは直らないのも道理だと思った。
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引用ここまで
反日を吹き込んでイスラム教徒やユダヤ教徒まで巻き込む、デマ宣伝に対外プロパガンダ、内輪もめ・・・今と何も変わっていない。
どうぞ引用、コピペなどして広めて下さい。
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