支那事変、というより実質的には満州事変後から中国国民党・蒋介石政権は「日本軍の残虐なること」を自国内だけでなく欧米にまで宣伝しまくってきた。
妻である宋美齢はアメリカに渡り社交界の華となっていたが、その一族はアメリカで反日プロパガンダを吹聴して回っていた。
実際には蒋介石軍ー国民党軍は自国民民衆に対して暴虐の限りを尽くしていた。
共産軍=八路軍も国民軍を上回る残虐行為を1920年代からやっている。
現在、そのどれもこれもを中国は「日本軍の悪行」と主張し、「2000万人を虐殺した」などまで言っている。
その周辺の記録資料を前後脈絡なく、これまた備忘録代わりに並べておきます。
中国国民党軍
●以前書いた記事。日本人記者4名が襲われた成都事件に絡んで蒋介石の動きが書かれている。
「支那恐るべし」 成都事件
「南京政権(蒋介石政権)は満洲、上海両事変をもって、この政策を具体化のチャンスとした。(略)
南京政権の支那統一に(抗日は)利用価値は充分である。
蒋介石はこの情勢によって排日政策の強化に自信を得たのである。
満州事変が起こるや彼は『日本の暴虐、日本の恐るべきこと』を宣伝した。」
黄土高原の外れに位置する山西省陶寺村。
かつて ここで栄えた巨大集落。
それが異常な状態の大量の人骨を残しこつ然と 姿を消したのです。
バラバラの状態で放り出された骨。
一体 何が起きたのか。
謎を解く鍵は 豚や牛の骨と共にごみ捨て場から見つかった1体の女性の遺骨でした。
歯のすり減り具合や骨の栄養状態から見て身分の高い女性である事が分かりました。
彼女は 首を切られた上下腹部に 牛の角を差し込まれて殺害されていました。
亡くなる前にひどく痛めつけられています。恐らく 支配されていた集団が反乱を起こしたのでしょう。
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1900年代初めから1949年中華人民共和国誕生までの(後半ではチベット侵攻や60年代文化大革命も)各軍閥勢力・結社・農民らによる虐殺、銃殺、重税、(意図的な)飢饉、対策取らずの洪水被害、村落焼き払い、アヘン蔓延、ソ連介入による蜂起、人肉食まで、ありとあらゆる非道行為が詳細に書かれてある。
8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者
日中戦争において中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。
中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている
中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した[27]。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた
日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。
日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった
中国国民党は当初から「黄河決壊事件は日本軍が引き起こしたものである」との発表を行っていた。6月11日午前、中国国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。6月13日には全土の各メディアが「日本軍の暴挙」として喧伝した。
各国メディアはこの発表に対しては慎重な姿勢を示した。また、日本側も中国側の発表を否定するコメントを出した