聖書 詩篇第23篇 と 映画「我が谷は緑なりき」 - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2013-04-17(15:13) | カテゴリー : 古い映画


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映画「我が谷は緑なりき」 1941年 監督ジョン・フォード

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ストーリーはamazonより
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舞台は19世紀末の英ウェールズ地方。貧しいながらも平和な日々を過ごしたいた炭鉱夫モーガン一家。しかし経営者が賃下げを断行したことから、家族はやがてバラバラになり、次々と不運に観舞われていく。とめどもない悲惨なドラマを、モーガン家の末っ子ヒュー(ロディ・マクドウォール)が回想。
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昔気質の頑固親父さんがいて、息子達がいて、ちょっと反抗的な子もいて、ストーリーは悲惨な面があるが全体として「古き良き時代」な印象を受ける。
1世紀昔の庶民の家族関係や実生活は日本も英国もそう違いは無いように思えた。
信仰がどんなであっても、社会情勢・世相が導く庶民の姿はこの時代既に東西違わなくなっていただけなんだろうか。

映画の中心となるのは事ある毎に親父さんが朗読する旧約聖書の言葉。

重要な場面での聖書、あるいは朗読となると訳は文語体でなければ、と思っているので↑上記の文語訳から抜き出してみる。

(文語訳は旧約の場合、明治期に英文から翻訳され現在は「主」とするところを「エホバ」としている。この点だけはエホバとするとそぐわない(誤訳とする人もいる)ので「主」と替えさせてもらいます)


詩篇 第23篇
ダビデのうた
主はわが牧者なり。われ乏しきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ いこひの水濱にともなひたまふ
主はわが霊魂(たましひ)をいかし名のゆゑをもて我をたヾしき路にみちびき給ふ
たとひわれ死のかげの谷を歩むとも 禍害(わざわひ)をおそれじ
なんぢ我とともに在せばなり
なんぢのしもと(鞭)なんぢの杖われを慰む
なんぢわが仇のまへに我がためにえん(食事)をまうけ わが首にあぶらをそゝぎたまふ
わが酒杯はあふるゝなり
わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれにそひきたらん
我はとこしへに主の宮にすまん



イザヤ書 第55章
汝らは喜びて出てきたり平穏かにみちびかれゆくべし山と丘とは声をはなちて前にうたひ
野にある樹はみな手をうたん
松樹はいばらにかはりてはえもちのきは棘にかはりてはゆべし
此は主のほまれとなり又とこしへの徴となりて絶ゆることなからん


「死の陰の谷を歩むとも」の対比が「我が谷は緑」であり、モノクロに煙った炭鉱町も信仰によって緑の野とするのだ、という心意気なのか。
村を出て行く息子への餞としてのイザヤ第55章も若い人の将来への希望へ繋げていく。

J.フォード監督は炭鉱町の苦悩をも叙情豊かに描いている訳だが、一方でこの映画と同時期に「戦場カメラマン」ならぬ野戦撮影班を作りドキュメントを製作したのですね。
太平洋での日米海戦の映像の多くがフォードが関わっているらしい。

「我が谷は~」と海戦がどうも一致しないが、映画が秀作なのには変わりない。






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