★「一風斎」様提供の資料です。
(一風斎さま、有難うございます!)
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これは「アンブロークン」のルイス・ザンペリーニと同じ大森収容所に居た元捕虜のハリー・ベリー氏 Harry Berryによる、収容所内での音楽会パンフレットです。
捕虜達の音楽会 ← ベリー氏親族と思われる人がアップしているページ
1943年 クリスマスでのコンサート (米側資料ではプロパガンダ用のもの、と説明されている・・)
1944年クリスマス会で (これもまた米側資料ではフェイクであると・・)
ルイス・ブッシュ著「おかわいそうに」にもクリスマス慰労会・音楽会について触れられている。
「おかわいそうに」
英本国のランカシア連隊のマックノートン大尉は、朝鮮の収容所から、軍楽隊の一部を引き連れて入所して来た。そこで、早速そのバンドマスターを中心に捕虜の音楽隊が編成された。
彼らの持ちこんだ楽器は、たしか、トランペット、ホルン、トロンボーン、コントラバスが各一挺ずつと、マンドリン、アコーディオン、ドラム、その他雑音を出す楽器類が幾組かあったと記憶する。
鈴木大佐が、妻と立派な息子たちを連れて到着したので、いよいよクリスマス大慰安会は開幕となった。私は司会者の役をふりあてられ、青い上衣にカンカン帽といういでたちで舞台に立った。
慰安会は大成功だった。プログラムは、アメリカのギャング劇、黒人に扮して歌う民謡、ホノルル生まれのヘンショーがリードするクルーナーの合唱、数々のナンセンス劇、その他盛り沢山で、爆笑の連続だった。ギャング劇には、ルチャという捕虜が、シカゴの大親分カポネに扮して喝采を浴びた。
この頃(1944年春)収容所長の鈴木大佐が転任して、不愉快きわまる人物が後釜にすわった。大佐はもっと軍人らしい職務についたので喜んでいたに違いない。いつも公正な人だったが、何しろ三十ヶ所の収容所を管下にもっていたので、その一つ一つに注意して目を通すわけには行かなかったのだろう。戦後、管下の収容所での残虐行為の責任を問われて、戦争裁判にかけられた。私は深甚な同情を寄せていたし、嘗ての仲間の多くも同じ気持であったと思う。気の毒にも、巣鴨の刑務所で病を得て亡くなられた。