「東京捕虜収容所の英兵記録」 その6-DV伍長や初詣に連れられていった捕虜の話 - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2013-09-25(15:09) | カテゴリー : 「アンブロークン」関係

「おかわいそうに 東京捕虜収容所の英兵記録」(その6)にまでなってしまいました。


おかわいそうに―東京捕虜収容所の英兵記録 (1956年)おかわいそうに―東京捕虜収容所の英兵記録 (1956年)
(1956)
ルイス・ブッシュ

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日本へ送られた英軍将校ルイス・ブッシュは一旦新潟へ送られた後すぐにまた東京・大森捕虜収容所へ移送される。
ブッシュ一人に護衛兵が15人ほど付いてさながら大名行列。
上野駅についてブッシュがトイレに行きたいというと兵隊達は場所が分からずかつて住み慣れたブッシュが教えると「敵の捕虜に教えられようとは!」と大笑い。
「懐かしい銀座と帝国ホテルの前を通ってくれませんか」と言うと二つ返事でその通りにしてくれる。
「捕虜連行」のイメージとはあまりに違い過ぎる、と感じるのは私だけではないと思う。

大森収容所では英国、アメリカ、オランダなどの連合軍の将校兵隊たちが収容されていた。
将校以外は外部作業に駆り出されるが、「荷抜き」の出来る作業に出るものは「上手い汁を吸っていた」。
材木や石炭荷積みに回された者は不運だったと言う。
荷抜きやる中に巧妙な人がいて、砂糖、チーズ、葡萄酒、缶詰、イチゴやケーキまでクスねてくる。
東南アジア駐留のドイツ大使向けの三菱倉庫が管理していたもの。
ヒットラー憎しでがんがんクスねているのが面白い。
荷抜きが特に追及されることが無かったのは不思議ではある。

普段の食糧はやはり不足しており(日本全体での不足)スープに海草、大根、大根の葉、ゴボウ、コンニャクが入っていたりする。
西洋人捕虜はこの食材を不気味がって嫌っていたという。

そりゃそうだろうな。今ならさしずめ「ダイエットに最適の注目の日本食!」だろうけど。

所内では米兵と英兵で政治論議をやったりするのだが、米兵は「日本が負けたらアメリカ式の共和政で大統領を持つだろう」、英兵は「英国式立憲君主制に基づいた天皇制が日本には一番いい」「天皇には戦争責任は無い」というのが面白い。

ブッシュが収容されて数か月経った頃「今までどちらかといえば楽しかった収容所は、一変して地獄の様相を呈し始めた」。
ブラウンとあだ名された凶暴な伍長が配属されてきてからの様子は確かに酷い。
何の理由もなく下駄で殴打したり、蹴り上げたり、ブッシュは特に睨まれ便所の汲み取り係をやらされたり、リンチめいた目にも遭う。
リンチの後の夜中また呼び出され「ブラウン」の事務所に行くと、ブラウンはいきなり泣き出しブッシュを抱擁し「自分が悪かった、これからはいじめる事はしない」と泣きじゃくりながら謝り、ビールとシガレットを差し出す。
が、その後もヒステリー暴力は止むことは無かった。


これは明らかに病的なDV男です(家庭ではないけれど、閉ざされた空間内の意味で)。精神病んでいるか人格に障害がある。
こんな奴を捕虜監視になど、こういう所は日本軍の非であり手落ちであると言われても仕方がない。
病的であるから前線から外されたかも知れないが、軍務全てから外すべきだった。

食糧難であっても監視兵が真っ当な普通の日本人であれば、収容所生活も「楽しい」と思えていたのだ。
環境が変わらなくても一人キ印がいたら地獄になってしまう。
日本に限ったことでなく、こんな病的人間はどこにでもいる。現在も戦闘状態にある国々はこういう処にこそ神経を配らねばならないと思う。


こういう中でも英国の軍楽隊が楽器付きで収容され音楽会が開かれジャズレコードがかけられたり、所内で密造酒が作られたり、赤十字差し入れがあったりで「ブラウン」さえ居なければそこそこ安楽に暮らせただろうにと思わせられた。

秩父宮殿下の義弟にあたる日本赤十字の徳川義知氏の視察の際に惨状を訴え、ブッシュは移管されることになる。
あのブラウンも収容所から居なくなった。
(終戦後どうなってであろう、捕虜間に殺害計画まで出ていた人だから戦犯指名は免れなかったと想像する)
横浜桜木町の洋館に移されベッド付部屋も与えられ、日本人知人との面会や海軍病院通いまで格段の好待遇となる。
ここに収容されている軍人らは監視付き以外は殆ど普通の生活で、時に東京見物にも行けたりする。
ブッシュも銀座へ出かけ丸善で本を見たり喫茶店に行ったり。
戦況厳しくなった東京の様子を「あの活気に溢れた愛すべき雑踏の街々はうらぶれ果て、魂を抜かれた痴呆のような姿になっていた」と書いている。

昭和20年年明け、監視の兵曹らが初詣に行きたいが監視から離れる訳にいかないので、一緒に行こうと誘う。
ブッシュともう一人の英人学者はさすがに参拝はしなかったが下で待っていて、お守りを買ってもらう。
学者は「大きなお守り」(破魔矢のことか)まで貰い電車の中で意味の分からない物を持たされ憮然としていた。

これは兵曹の好意からなので許してあげて欲しいですね。

昭和20年5月から7月、横浜大空襲、東京大空襲に遭い「大量殺戮と破壊と飢餓にさらされ」日本はこれ以上持ちこたえられないであろうことは歴然としていたと書いている。
そして8月15日、監視の兵曹が「日本は降伏しました。これからは自分らがあなた方の捕虜であります」と言う。この兵曹はこの上無く親切で思いやりがあり、軍人として任務を疎かにすることも無かったという。
他の水兵らのことも「私たちの生活を幾分でも楽なものにしようと骨を折ってくれた、収容所分室の人々に再会して心からお礼を申し述べたい」と書く。

前述の頭のおかしい看視兵その他一部の兵士だけがおかしいというのが分かる。
どんな集団でもそうだが千人に一人、万人に一人でもそういうのが居たら、とんでもない害悪になるということか。

大森収容所へ戻ると撃墜されたB29乗員が大勢入っており、落下傘降下したとたん一般市民から殴られた飛行士が多かった。
「我々としては与えられた任務を遂行しただけだが、彼らからすれば殴りたくなるのが人情でしょう」と恨んでいる様子も無かったという。

米軍上陸までの間、米艦載機が収容所に何トンもの物資を投下していく。
沖に米巡洋艦が姿を現し上陸艇を見た捕虜たちは待ちきれず次々に海に飛び込んでいく。
この辺りはまるで映画の場面みたいです。
上陸した側の米将校が自動小銃を構え「虐待したやつはどいつだ」と言うと、「みな親切で良いひとばかりだ」と急いで説明しなければならなかった。

9月2日、ミズーリ号艦上での調印式を望見したブッシュはこう書いている。

何者であるにせよ弱者が屈服させられるのを見るのは辛い事である。重光氏は戦争の支持者であった事はない。鈴木首相や他の指導者も然りである。彼らの手によってこそ、この戦争は終了に導かれた。



ブッシュ自身に拠るあとがきより。(昭和31年夏)

心の美しい日本人はいくらでも居たのに、今日彼らについての事跡は何も語られていない。
忌まわしい憲兵や「ブラウン」「ケダモノ」の蛮行の陰に消されてしまっていたからだ。
本書の大きな部分は、こうした心の美しい日本の人々についての記事なのだ。
悪夢のような時期にこそ結ばれた、強固な友情の物語である。

今日世界はケダモノを許してやらねばならない。こうした人物は世界のどの国にもいるからである。
我々人類は所詮一つの世界に住んでいるのだ。ある程度お互いに依存し合わないでは生存していけないのだ。この事は国家間にも当てはまる。



著者ブッシュは全編に渡って、民間日本人、一般兵士や将校、政府首脳、天皇はもちろん、どれもに罪があるわけでなく、軍部首脳に責任ありとしている。つまりGHQの対日本政策そのままです。
いくら日本通とは言え、これは仕方ないか。
というより本書自体がGHQ政策の一環としてブッシュがその役を担って書いたかも知れない。


益々日本人丸ごと鬼畜のように言う中国や韓国(本来敵であったことなど無いのに)があまりにエゲツナイので、アメリカを初め連合軍側の戦後政策が緩く寛容に見えてくるが、この辺は常に自覚しておく必要があります。
それとブッシュが英国人であることは、真珠湾攻撃のわだかまりが無い分、アメリカ人とはどこか違っているようにも思える。


ということで長々書いてきた本書紹介は終わりです。
当時序文とあとがきのまま再版して欲しいものです。

(一部勘違いがあったので訂正しました)






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