関東大震災での朝鮮人による暴虐の詳細資料 - 歴史記憶の迷路を辿る ブログ・アーカイヴ

投稿日時:2014-06-19(14:19) | カテゴリー : 韓国・朝鮮

まずこの報道から。

(朝鮮日報日本語版) 「今の日本の嫌韓は91年前と似ている」  ←朝鮮日報日本語版

韓国や韓国人をばかにして侮辱する「嫌韓本」が幅を利かせる日本で、関東大震災時の朝鮮人虐殺の実態を記録した『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』が異例のベストセラーとなっている。

著者・加藤直樹氏(47)は15日、本紙インタビューで「嫌韓デモや出版物によって助長される差別と偏見の危険性を知らせるため、関東大震災の朝鮮人虐殺を伝える本を書いた」と語った。フリーランスの編集者をしている加藤氏はほぼ毎週、嫌韓デモの現場を訪れて反対運動を繰り広げている。



先に書いておきますが、「ジェノサイド」などという言葉は的外れもいいところ。
それでも日本人による朝鮮人殺害が多数起こったのは事実と思われます。
しかし! これは完全に防御防衛のためであり、一番の元は朝鮮人による各所多数の暴虐が始まりです。

朝鮮人と共産主義者による暴動はテロであり、その後の日本人自警のための犯罪を含めると一種の戦闘状態にあったのではないかと思える。

朝鮮人によって多数の略奪殺害が起こり、警察や軍は取り締まろうとしたが拘置所も燃え崩壊、被害甚大な中で取締ることも出来なかった。
それに加えて当局は「併合したのだから朝鮮人差別があってはならない」と検挙を控えたり一旦捕えた者を解放したりもした。
朝鮮人は単に掠奪が目的も多数だったが、武器を持っていたのには(当時でいう)社会主義者共産主義革命を狙う勢力からの煽りがあり、朝鮮人も掠奪暴行の先に大災害に乗じて首都占領、国家転覆までがあったと言われている。

その中で日本人は自ら守らねばと自警団を結成し、そこから民間人による朝鮮人取締りが始まる。
先に朝鮮人によって暴虐があったため、悪辣朝鮮人と無辜の朝鮮人の区別も付けず暴行に及んだ例があったのも事実のようだ。中には日本人でありながら勘違いされ被害にあった例もある。

自警団が警戒を強める中で、ヤクザ者が流言飛語を発信し始め、「不遜朝鮮人がやってくる」と恐れた住民の多数が町から逃げ出した所を掠奪していたというのまである。

まとめると

朝鮮人多数の個別犯罪、共産主義革命狙い、両者による暴虐

警察機能の停滞

日本人自警団結成
朝鮮人を警戒、過ぎたものは朝鮮人への暴行殺害

当局が朝鮮人を保護


こんな所ではないかと思われます。

以下、デジタルライブラリーより新字体に変えて引用します。
出版元の「霊肉統一団」とは何者なのかググっても出てこず不明で、何かの宗教団体と思われますが、内容については嘘があるとは考えられず、朝鮮人についても「日本人と朝鮮人、互いに心入れ替えて仲良くならねば」的な結論になっています。
今回引用するのは朝鮮人による暴虐の詳細ですが、この後に「日本人による朝鮮人への暴虐」も書かれています。
(それについてはまた次回)
1924年発行ということは関東大震災が1923年9月1日だからその翌年。
リアルタイムでの生々しい記録と言える。

 
デジタルライブラリー内 元資料

( )内注釈は私が付けました。
(本書に書かれた以下の事件は新聞報道されたのを纏めたものであり、「逃走」とあるものの氏名が判明しているのは後に検挙されたと思われる)
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ああ人間 表紙

「吁(ああ)人間」
桑原真瑞 著
大正13年(1924年)
霊肉統一団 出版

(不逞団の暴行顛末報道が解禁になったのは10月20日)
10月1日午後6時頃、本書中之郷付近で、鮮人・鄭きえい(テイキエイ・さんずいに熙+瑩)なるもの罹災者から衣類道具を掠奪し、それを運搬中取り押さえられ。

同日午後8時過ぎ、氏名不詳の鮮人1名、日本橋北鞘町一石橋際(ぎわ)大谷倉庫へ放火して逃走。

同日午後11時過ぎ、本所柳島電車終点で、鮮人・金孫順(キンソンジュン)なるもの、通行の婦人に暴行を加えんとして果たさず、バスケットを強奪し、一時亀戸署に監禁されたが、同署類焼のため解放され行方不明。

同日同刻2回に渡り、鮮人・姜金山(キョウキンサン)ほか30名の一団、本書柳島元町呉服商、中里奥三方(なかさとおくさんかた)に押し入り、店員に暴行を加え呉服類を強奪、姜は亀戸署に拘禁されたが類焼のため解放。

同日午後6時から11時にわたり、氏名不詳の鮮人15,6名、本所押上町新町裏を、同所、榎木豊吉が夜警中怪しい鮮人団を認めるや鮮人は棍棒で豊吉の額を殴り逃走した、それを群衆が捕え、亀戸小学校で手当中、更に逃走。(「手当て」とは取り押さえている状態のことと思われる)

2日午後9時、府下吾嬬(あづま)町京成電車踏切で、崔先卜(サイセンボク)、金実経(キンジッケイ)の両鮮人が付近警戒中の在郷軍人にピストルを発射して逃走。

同日午後11時、吾嬬町にて鮮人・林松致(リンショウチ)なるもの、伊藤染工場屋根に上り、六連発のピストルで群衆に連射して逃走。

同日同刻、鮮人30名ばかりの一団、府下小松川橋と小橋の堤上に縄を張り、通行中の重砲兵7連隊第一中隊長代理、高橋克己中尉の自働自転車を阻止して危害を加えんとした。

同日同夜、吾嬬町にて、1名の鮮人が銘酒屋の仲居に暴行を加える。

同夜8時頃、荒川放水路木田町修理中のトロ内(深い溝のこと)で、呉海模(ゴカイボ)なるもの、ダイナマイト11個その他を所持しいるを逮捕。

同日、卞奉道(ベンホウドウ)、卞之泳(ベンシエイ)からダイナマイト2個を貰い、南千住字(あざ)千住南の鉄道線路に持ち出したる者あるを捕える。

同夜12時、1名の鮮人が府下瑞江村江戸川橋、橋脚を鉄棒で破壊中、騎兵第15連隊の阪本軍曹らが射殺した。

3日早朝、内地人が1鮮人を誰何(すいか)したところ、ピストルで射殺した上、更に通行中の職人の後頭部を傷つけて逃走。

同日朝6時、警官2名に追われ両国橋西袂に来た1鮮人を、近衛歩兵1連隊、浦谷二等卒が捕えんとしたところ、抵抗した上、爆弾を取り出したので射殺。

同日朝9時、日本服を着た自称・李王源(リオウゲン)なるもの、毒薬亜砒酸を携え、本所菊川町付近の唯一の飲料水である消火栓付近を彷徨中、群衆に捕えられ食塩だと強弁し、そんなら自分で試してみよと、それを飲まされてたちまち悶死。

同日午後1時頃、爆弾入りのバスケットを持った鮮人4名、南葛飾郡水元村内を通行中、青年団に取り押さえられたが逃走。

1日夜から3日にわたり、自称、金(キン)某ほか4名は月島に入込み、警戒中の民衆にピストルを放ちあるいは刀棍棒などで襲撃し、うち4名は取り押さえられたが、そのうち1名は1日夜、深川東森下町の汁粉屋に放火した悪漢、また金(キン)某は2日午後9時、月島2号地渡邊倉庫に放火し2棟を焼いた悪漢である。

この他特に残酷を極めたのは、2日夜10時、南葛飾郡木田町四ツ木荒川放水路提上で、鮮人4名が、避難中の16,7才の娘に暴行を加えた上、殺害して荒川に放棄したということ。なお程ヶ谷山中へ逃げ込んだ鮮人10余名は、5日午後3時頃、40歳前後の『吉田』と刻印ある金指輪をはめた商人風の男を殺害した上、6日夕、帷子川で洗濯している程ヶ谷町、田中まさ(37)に暴行を加えた上、長女ますら(7)と共に帷子川へ突き落したことである。


さすがは不逞鮮人、その残忍ぶりはちょうど露国(ロシア)のパルチザンに似て、より以上酷いやり方、支那の馬賊などの遠く及ばざる悪逆ぶりと言わねばならぬ。
安政以来の大地震で、更に大火災の最中で、幾十万の人間が逃げ惑っておるその最中の出来事であるだけ、群衆の激昂は頂上に達し、不逞鮮人、いな鮮人さえ見れば悪魔のよう、鬼畜のよう、また猛獣のよう見なされたは、実に是非もない次第であった。


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引用ここまで

この具体的地名と姓名入りの情報は信じていいと思う。
しかもここに書かれてあるのは東京、横浜など広大な被災地全体のほんの一部。
韓国政府も日本国内の反日勢力もジェノサイドなどと騒いでいるが、上記朝鮮人の暴虐を完全にスルーしている。

どうぞこの内容を拡散して下さい。








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