(前半、戦後の朝鮮人同士の虐殺事件についてですが、後半は日本に大いにかかわって来るので、長文面倒な方はどうぞ読み飛ばしながら後半を見て下さい)
追記で: 「はなみずきさん」が重要情報を提供して下さっています、後半をお読みください
画像の神社、何か様子が変だと思いませんか。
真新しい感じはするけれど一種異様な雰囲気・・
韓国に現存する唯一の日本式神社、小鹿島更生園神社(全羅南道)です。
カイカイ反応通信 へのリンク
最近、日本の政治家らによる過去の歴史や慰安婦関連の妄言が相次いでいるが、全羅南道の小鹿島に国内で唯一の原型を維持した日本の神社(下写真)が登録文化財に指定され残っているという事実が発覚し、存続させるべきかどうかをめぐる議論が起きている。
神社は礼拝に使用される拜殿と身体が安置された本殿の2棟で構成されている。当時、朝鮮総督府によって全国各地から強制的に連行されたハンセン病患者への参拝を強要していた。文化財庁は「日帝の蛮行を記憶するためのもの」と言って社殿に加え、ハンセン病患者を監禁して管理した旧小鹿島更生園事務本館、講堂などを登録文化財に指定した。
しかし、最近になって日本の政治家の妄言が続き、神社の保存について否定的な気運が高まってきている。特に、2008年に5000万ウォンの予算をかけて神社の建物の改装工事が行われた事実が知られ、11日には某ポータルサイトにて、神社の撤去のための署名運動が起き、22日現在で約700人が参加している。ネット上では、悲劇の歴史も後世に教訓として残さなければならず保存しなければならないという主張や、神社は単純な施設ではなく、日本の精神的な意味が込められており、歴史の清算と一緒に撤去しなければならないという主張が対立している。
おかしく感じて席を立たず座っていた患者たちに韓国人職員がぶつぶつ言いながら話し始めた。「お前たちに園長があわてて言っていたのは、静かにしていろということだ。お前たちはまだ知らないと思うが、韓国は解放されたというニュースがラジオで放送された。今、外の社会では人々は街頭に出てマンセー(万歳)と叫んで喜んでいるのに皆さんたちだけが何も知らずに夢の中にいるのだ。」
この話を聞いた患者たちはワアーと喚声をあげ、走り出て行った。またたく間に全病舎に知れ渡り、両親兄弟に会いに行かねばと荷物をまとめる者がいるやら、奴らの神詞堂を打ち壊し手に手に斧やハンマー、つるはし等を持って押しかける群集もあった。一方、歓喜に歌い踊るものもいた。また、部落の掲示板にはどこから知り得たのか、だれが書いたのか分からないが民族独立家の金九や李承晩など名前などが貼り出され黒山の人だかりになっていた。
いつの間にか,荷物をまとめて出てくる患者は各部落ごとに漁船を取り出して群がり脱出をして行った。
刑務所ではすでに乱闘状態で罪囚者が看守の着物を剥ぎ取り殴打して、日本人所長はぶるぶる震え、どうすることもできずにいた。金と朴は所長を捕まえ責めたてていた。「このやろうお前も服を脱げ」日本人は頭をうなだれ,しきりに助けてくれと哀願した。懐からお金を出し差し出していた。助けてくれる事に感謝した様子で、着物を脱ぎパンツ一つで山道を職員地帯へ消えていった。その他の看守たちも必死の思いで生命だけは永らえて逃げ出した。
興奮状態の金と朴は刑務所から着物と靴を持ち出して着用するや,日本刀まで振り回し凱旋将軍のごとく病舎地帯をねり歩いた。
このように何日かの間、理性を忘れた群衆で騒然として混乱した。このような渦中についに殺傷事件がおきてしまった。
8月20日、その日も病舎地帯は殺伐とした空気が流れていた。東生里担当の看護手朴珍格が患者一人と口喧嘩になってしまった。険悪な状況のなかであったが職員地帯に知らせず、朴珍格はそのまま職務をとっていた。彼は前から患者たちに不遜な態度で接していた。「今はどんな時だ!日本時代と違うぞ!」不遜な態度に激怒した患者たちが朴を袋だたきにしてしまい、彼はそのまま命をなくしてしまったのである。
病舎地帯と同様に職員地帯も騒乱のるつぼと化していた。西亀園長をはじめ日本人幹部たちはいち早く職務を撤収するや、残された韓国人職員間に壮烈な指導権争いが起きていた。
雰囲気は無条件に我々によい形成であるとの李宗揆の連絡を受けた六部落の患者たちは手にこん棒やくわを持って治療本館に集まってきた。歩ける者すべてが出て来て大示威行動となって職員地帯へ押しかけて行った。巡視本部(現指導所本部)では患者の動態をうかがっていた。過日の虐待にたいする患者の復暴動が起きるのではないかと警戒していた矢先、殺気だった大衆の怒号が押し寄せ迫ってきたのである。緊急に職員本部に連絡が入り,鎮圧のための空砲が撃ち放たれた。
こんな最中、治療本館の二階では石四鶴が声を張り上げ煽動に余念がなかった。「玉のない空砲だから心配せず、前へ推し進め」この激励に力を得た示威群集は一層気勢を上げて銃の音を気にせず突進して行った。
実弾はついに発射され、いちばん前にいた三人が血をあびて倒れた。「実弾だ、弾があたり死んだ」前から誰からともなく声があがり、驚いた群集はちりじりに逃げ出した。8月20日の事であった。
出て行くや、待機していた武装職員と鹿洞から応援にきた武装治安隊によっていきなり縛られ、その場で銃殺されてしまった。前もって用意されていた海辺の窪みに処理されてしまった。
事前に作成された名簿により、職員たちにより患者指導級の人が各部落から引き出されては銃殺された。最後は窪みに薪を積み火をつけ、その上に生きた人を放り込んだ、まことに阿鼻叫喚の生き地獄であった。死ねず苦痛を訴える悲鳴、生火葬を受けながらも泰然と座り自己の霊魂を神に祈る患者幹部の姿もあった。周辺では同患が仏となり、死にいくのを見て精神異常になる者もでた。生きても悲惨の極みであった。動乱を鎮圧するとの口実のもと、事実は反対分子の粛清の手段として無慈悲な虐殺を敢行した呉順在などの行為は天人共怒する過ちである。武器の前に無力な患者に対してもう少し寛容でなければなかったし、銃殺しなければならない事情があったとしても最小限にかぎらなければならないことであった。
虐殺がここで終わりを告げたのではない。解放直前に園で購入しておいた大豆を積載しに桟橋方面に行った作業助手たちと人夫たちを海上で出迎え銃殺してしまった。多島海海峡が血で赤く染まり大豆だけが船艙にころがった。
恐ろしい殺戮旋風が園内を吹きまくった。この海上殺戮で朴順岩、李聖基、趙敏吾、全昌述、除永達等5名は九死に一生を得て生き残り日が暮れるのを利用して海へ飛び込んだ。
職員患者間の流血衝突の契機を作った張本人の石四鶴と患者の李宗揆はデモが失敗した日、身辺の危険を感じ真っ先に高興方面へ逃げた。一時は殺戮を免れたが結局は所在が明らかになり捕まり石四鶴だけは命は救われ、患者李宗揆は園生の見るなかで火葬されたとのことである。
虐殺された総数84名。李宗揆の死を最後に職員患者間の敵対行為を中止しようという和解が生じ、二度とあってはならない虐殺の修羅場は幕を下ろした。
1945年9月21日、アメリカ軍政庁から発令を受けた新しい園長が赴任して来た。
一番最初の記事によると、
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衆 - 本会議 - 55号 昭和23年06月04日
議長(松岡駒吉君) 救癩施設に関する緊急質問を許可いたします。榊原亨君。
〔榊原亨君登壇〕
榊原亨君
さらに問題となりますのは朝鮮人患者のことであります。
現在朝鮮人癩患者は、一療養所に約四、五百名くらい收容せられておるのでございまするが、
戰前朝鮮の小鹿島にありました約六千名の癩病患者は、終戰と同時に日本人職員が引揚げたのを機会に、全部これが脱出をはかりまして、この脱出いたしました六千名の癩患者の大部分は、あらゆる手段を講じて、日本に向け多数密航してきたのであります。
その一例を申しますると、
兵庫縣の尼崎市におけるがごときものでありまして、これら朝鮮人患者は、日本において一團を組織いたしまして、不良なる日本人または朝鮮人と共謀いたしまして、いろいろ凶惡なる犯罪を犯しつつあるのであります。
そして、彼らの一部が万一警察に捕われましても、前に申し上げた通り、何ら処罰を受けることなく、そのまま癩療養所に再び收容され、 彼らはますます増長いたしまして、療養所内の秩序を乱し、勝手氣ままな生活をした後、折を見て再び三たび脱出するという順序を繰返しておるのでございまして、療養所は、この種犯罪者の安全なる温床となつておるのであります。
これらの点につきましても何らか緊急の処置を講じなければ、單に一般社会への癩病の傳染の危險があるばかりでなしに、社会の安寧秩序の上から申しましても、実に重大なる事態に至ることを憂うるものであります。
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戦後このような事があったのですね。
6千人もの癩(らい)病(ハンセン氏病)患者が日本に密入国してきたんですね。
更に一団を組んで日本で凶悪犯罪を犯し、病気を盾に療養所に逃げ込むという卑怯な手口。
当時の日本の管理者は相当に頭を悩ませて苦労されたと思います。
感染病ですから恐ろしい限りです。
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